月別アーカイブ: 2013年8月

末寺横丁

文学と神楽坂

末寺(すれでら)横丁にはいって、北を向きましょう。でも現在ではなく、江戸時代です。末寺横丁の右側の無色は武家です。左側は大名の酒井若狭守の下屋敷です。正面は大御番組(おおごばんぐみ)で、江戸城などの警備を担当しました。

末寺横丁 地図 江戸時代

今の地図ではこうなります。ここから交差点の「牛込天神町」まで南側は全部酒井若狭守屋敷でした。
末寺横丁(現在)

一水寮|横寺町

文学と神楽坂

 一水寮は民家の歴史的建造物で、登録有形文化財に登録されています。2003年、『神楽坂まちの手帖』創刊号の「鈴木喜一的路地裏魅力」でこの一水寮の持ち主だった鈴木喜一氏は

毎朝9時直前、ガラガラと自宅の勝手口の戸を引き、寝ぼけまなこで横寺の細い路地に出る。路地に出て正面に見えるのが、山田さん宅の庭の木々たちと下見板張りの二階屋。30歩進んで、この庭のもみじを間近に観察する。ここを左に折れると、知る人ぞ知るクランク状の細い路地、名づけて「鍵型もみじ路地」。僕はいつもストレッチがわりに、両手を思いきり二度、三度、広げながらここを通る。ちょうど両手を広げると、両サイドの家の壁にぶつかる程度の狭さ。実はこの「狭さ」が路地の面白さなのだ。例えば、角で人とすれちがうとき、ぶつかりそうになって、どちらからともなく「すっ、すっ、すみません」などと謝ったりしていてなんとなく微笑ましい。
 この狭い通りを抜けると斜向かいに見えるのが木蓮の家。僕はこの家のある通りを「もくれん通り」と勝手に呼んでいる。春先には白いぽわっとした花を咲かせ、一時、僕はうっとりする。このまちに住んでもうかれこれ27年。僕は「神楽坂らしさ」というのは、やはりこの迷路のような細い路地につきるな、と思う。

「もくれん通り」ではなく、明治時代は「末寺(すえでら)横丁」と読んでいたそうです。

一水寮と地図

 粋なまち倶楽部の『粋なまち 神楽坂の遺伝子』では

一水寮(国登録有形文化財、非公開)一水寮は新宿区横寺町に、高橋事務所の大工寮として昭和26(1951)年頃に建てられたものである。(中略)一水寮は、贅を凝らした建築ではないが昭和20(1945)年の空襲で壊滅的な被害を受けたこの一帯に、いち早く建てられ、復興の一翼を担ったものであり、現在となっては、数少ない貴重な現存する建物ということができるだろう。また、横寺(まち)の昭和20年代の建物が3軒並ぶ神楽坂の裏通り(通称・よこみち通り)の景観に大きく貢献しているということもできる。

 で一水寮の写真です。

一水寮と大八車一水寮と見えないけど正門
前のマンションも結構いい感じになっていると思っています。一水寮とマンション
駒坂 瓢箪坂 白銀公園 漱石と『硝子戸の中』 魚浅 新内横丁 矢来公園 矢来屋敷
神楽坂5丁目 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁
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相生坂|東五軒町

文学と神楽坂

(あい)(おい)(ざか)、別名は(つづみ)(ざか)は、白銀町から東五軒町と西五軒町へ下る坂で、2つあります。


相生坂


 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では、

相生坂(あいおいざか) 別名をつづみ坂という。白銀町から東五軒と西五軒町の間へ下る坂路で、「続江戸砂子」は「相生坂 小日向馬場のうへ五軒町の坂なり、二坂並びたるゆへの名なり。」とし、「新編江戸志」は「鼓坂、筑戸の方より小日向へ下る坂なり。二つありてつづみの如し。」としているが、「新撰東京名所図会」は「同町(西五軒町)の南と東五軒町の間を北へ下る坂あり、相生坂といふ。小日向の新坂と相対するが故なり。」とし、また「東京府志料」も「坂名は小日向の新坂と南北相対せるを以てかく唱ふといふ。」と記している。
 地理的にみればこの坂は江戸川をはさんで新坂の西方荒木坂に相対している坂で、新坂では位置がややずれている。したがって「続江戸砂子」が「二坂並びたるゆへの名なり」といっているのは、むしろ赤城神社をはさんで、その西わきを北に下る赤城坂を対称としていったものかとも思える。後考をまつ。

では横関英一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)ではどうなっているのでしょうか。

江戸時代から現代までの(あい)(おい)(ざか)を並へてみると、おおよそ、次の三つに分類することができる。
  A 坂路が途中でY字型に分れているもの
  B ニつの坂が平行しているもの
  C こつの坂が離れて合っているもの
 東京都内の相生坂は、今日ほとんど昔の形を残いていないほどに道路をいじっているものもあるので、多少苦しい形になってはいるか、それでも現代の坂路から、相生坂と呼ばれた当時の形を想像することはできる。(中略)
 同じ根もとからはえた松を相生の松というのであれば、相生坂もY字型のほうが原義に合うように思われる。『百草露』には、「播磨の国に高砂の松とてあるは、根はひとつにて、上はふたつにわかれて雌雄の双生也」とあって、これを相生の松と呼んでいる。これなら相生の松として申し分はない。それから日光の「相生の滝」であるが、これも二つの滝が並んで落ちて、一つの流れに落ち合って、末は一本の川となって厦れて行くかたちのもので、明らかにY字型に属している。これも理想的に相生である、ニつの平行した坂路や大小二つの坂のくっついたもの、向き合っている坂などに、相生坂という名称をつけたことのほうが、むしろ、おかしいくらいのものである。

標柱は

坂の由来について、2つの坂道が並んでいるから(『続江戸砂子』)、小日向の新坂と向かいあっているから(『御府内備考』)、などの説がある。

昔の標柱は

「続江戸砂子」によると、「相生坂、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。また「新撰江戸誌」では鼓坂とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。

東側の相生坂は
相生坂 東
西側の相生坂は
相生坂 西
駒坂 瓢箪坂 白銀公園 一水寮
神楽坂5丁目 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁
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成金横丁の店

文学と神楽坂

清閑院は結構味もよくて気に入っていましたが、あっという間に閉店しました。
 
千成はあんこうなべやすっぽんの鍋物。現在は外装工事中。
 
スタジオーネ フルッティフィカーレ(Stagione Fruttificare)はイタリアンレストラン。フルーツを使ってあじわったことのない料理を楽しむと書いてあります。平日ランチは1000円から、休日ランチは2200円から。
 
松ざきはお好み焼き。
は甘味処。田舎のおばあちゃんを思い出します。最低でも750円から。ただし、果物はものすごく入っています。
松ざきと花
 
松屋本店は吉野葛の店。
 
大〆はご存じ大阪寿司。創業は明治43(1910)年なので、もう100年も経っています。高くて高くて、2600円。量は少ない。観光客用の値段。
 
ジェラテリア テオブロマはジェラートの専門の店で、1種類で525円、2種類で630円。普通のコーヒーからも相当高い。遠くからここに来る場合はいいのでしょうか。大〆の名前につられて付いた価格なのかな。まあ、どこも高いからなあ。動物の顔は「かみくづ函」。くず入れでしょうね。
松屋と大〆
ラトゥーエル(la tourelle)は2階に。
 
ラトラス(L’atlas)は08年に開業。ラトゥーエルの人たちがここに。
ラトラスとフランス
スタジオーネ フルッティフィカーレと千成を除いて、どこもここは高い。成金横丁からでしょうか。
 

三年坂|津久戸町

文学と神楽坂

三年坂や三念坂というのはどこをさしているのでしょうか。
新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』では「(()()())町内南角に小坂があり、俗に字三念坂と呼ばれた(『町方書上』)。現在は俗に三念坂という(3年坂とも書く)。」
 
今の津久戸町の面積は非常に大きく、町内はどこかわかりません。では江戸時代ではどこなのでしょうか? 『新修 新宿区町名誌』で津久戸町の「町地は牛込津久戸前町と牛込西照院門前があった」と書いています。西照院を囲むように牛込津久戸前町の年貢町屋は3つあります。「町内南角に小坂があり」というので、3つのうち右下を指すのでしょう。
神楽坂津久戸町の地図 江戸時代 三年坂
つまり、現在では
神楽坂津久戸町の地図 現在 三年坂
現在は交差点「筑土八幡町」から三年坂に入り、それから本多横丁に行き、そのまま神楽坂通りとなって終わります。3年坂の語源については横関英一氏は『江戸の坂東京の坂』でこう書いています。

三年坂と呼ぶ江戸時代の坂が、旧東京市内に六ヵ所ばかりある。いずれも寺院、墓地のそば、または、そこからそれらが見えるところの坂である。
 三年坂はときどき三念坂とも書く。昔、この坂で転んだものは、三年のうちに死ぬというばからしい迷信があった。お寺の境内でころんだものは、すぐにその土を三度なめなければならない。もちろん土をなめるまねをすればよいのであるが、わたくしたちも子供のころ、叔母などによくやらされたものである。それをしないと三年の内に死ぬのだと、そのときいつもきかされたものだ。坂はころびやすい場所であるので、お寺のそぱの坂は、とくに人々によって用心された。こうした坂が三年坂と呼ばれたのである。三度土をなめるということは、二たび仏に安泰を念願することである。とにかく、三年坂という坂は、坂のそばに寺か墓地があって、四辺が静寂で、気味の悪いほど厳粛な場所の坂を言ったもののようである。古い静寂なお寺の境内で味わうものと同じような気持ちである。

このため、坂の標柱として、区は不吉な三年坂を黙殺して使っていないようです。

「ホテルゆたか」から本多横丁を背後に全体を見回すと、こうなります。
三年坂 津久戸町 ホテルゆたか
右側はお好み焼きの「広島っ子」、ビストロとワインバーのViande(ヴィアンド)、残りの大部分は熊谷組のビルです。左側はホテル、階段、つづいて酒蕎庵「まろうど」、珈琲専科の「珈瑠で(カルデ)」、 和食の「一邑(いちむら)」、炭火鳥焼の「金太郎」、ねぎの「葱屋みらくる」です。
新宿区津久戸町の三年坂から外に行く階段。
また途中にある階段を上ると新鮮な食材の和食「葉歩花(はぶか)(てい)」が見えてきます。また、その隣の一軒はいかにも立派な花街建築のようです。
三年坂はなにもなかったと思っていましたが、たくさん店は増えてきていました。

本多横丁 軽子坂
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文学と神楽坂

安養寺|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 安養(あんよう)寺は神楽坂上にあります。正式名称は医光山 長寿院 安養寺です。開基は慈覚大師円仁。明治時代とあまりかわっていません。

 天正19(1591)年、徳川家康が築城の際、安養寺は城内平河門口から田安門口に移り、天和3年 (1683)、牛込の現地に移転。場所はここ。

 左門に書いてあるのは「大聖歓喜天王 安養寺」。右門には「本尊薬師如来 天台宗」と書いています。

安養寺の正面

 ここで正面の建物は聖天堂で、大歓喜天王像(別名「神楽坂聖天」)と、江戸三十三観音の十一面観音菩薩が本地仏として祀られています。

 扁額は

歓喜天

 観音像は、観音堂左手の2階本堂に安置。

 薬師瑠璃光如来は大佛薬師如来や神楽坂大仏とも呼び、徳川家ゆかりの仏像です。

 昭和20年、大空襲で消失、大仏の顔、手、薬壺が奇跡的に残り、当時、日本一とされた京都の仏師が復元。
安養寺の2階

当寺本尊薬師如来は徳川家ゆかりの霊仏で、太平洋戦争の空襲にあわれながらも、そのご生命である御顔・薬壺・手首は無傷のまゝ残られました。これらをもとに復原申しあげ 人々の難病をはじめ心身の病いを癒し、やすらぎの生活にとお導き下さっています。
ご真言 おん・ころころ・せんだり
    まとうぎ・そわか
ご祈祷のお申込は寺務所へおいで下さい。

 2階に行くと祈祷料は金5千円だと書いてありました。

 聖天堂の前に祀られているのが宝生弁財天(銭洗い弁天)です。弁財天は水神であり、芸や財の神で、右手にある洗心宝生水の水でお金を洗います。洗心宝生水は宝珠を乗せた水盤で、水を満々と湛えています。子育地蔵尊と出世地蔵尊もあります。

安養寺の内側から外側
神楽坂5丁目 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 一水寮
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朝日坂|神楽坂公衆食堂

文学と神楽坂

神楽坂公衆食堂

 正蔵院を越えると、現在は「割烹 とよ田」ですが、昔は神楽坂公衆食堂でした。168席が入るので実際に大きな場所を使っていました。ここは西村和夫氏の『物理学校意外史』で
大正の始めは日本中に不景気の風が吹き荒れていていた。大正7年米騒動のあと東京市は[1919年(大正9年)に]貧民救済として横寺町に神楽坂公衆食堂を開設した。食堂では朝飯10銭、昼夜15銭、市民に支給し、この安値に1日、3000人のプロレタリアートと学生が集まった。神楽坂の色町と対照的に明暗を分けていた。

 うどんは種物15銭、普通10銭。牛乳1合7銭。ジャムバター付半斤8銭。コーヒー5銭、カレーライス15銭。大震災後、神楽坂公衆食堂はますます必要になりますが、 昭和12年頃から民間の食堂がふえると、市営の食堂は減ってきました。しかし、戦前の昭和20年、財団法人東京都食堂協会になり、戦災に出会うまで経営を続けていました。

横寺町2

朝日坂の名前 神楽坂5丁目 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 一水寮

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歌坂|牛込中央通り

牛込中央通り(昔の火之番町)の中ほどから北へ行く坂を(うた)と呼びます。場所はここ

なぜこの坂を「歌坂」になったのでしょうか? 2つの説があります。1つは、石川梯二の『東京の坂道』や横関英一の『江戸の坂 東京の坂』に書いてあるもので、古くは船河原は大きな池で、歌坂はその他の岸に臨む坂であり、歌坂は突端・出崎の意味のアイヌ語ウタに由来したというものです。
二つ目は新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』に書いてあります。江戸時代初期に酒井雅楽頭(うたのかみ)屋敷があったためです(「明暦江戸大絵図」)。
標柱は

雅楽(うた)坂ともいう。江戸時代初期、この坂道の東側には酒井雅楽頭(後の姫路酒井家)の屋敷があった(「新添江戸之図」)。坂名は雅楽頭(うたのかみ)にちなんで名付けられたのであろう。

なんとなく由来は雅楽頭だというほうがよさそうに感じます。横関英一の説ははっきりなるほどと頷くのは難しい。
歌坂 歴史 江戸時代
歌坂 現在

歌坂 写真
歌坂 写真1

鰻坂 逢坂 新坂
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朝日坂の名前|横寺町

文学と神楽坂

 神楽坂通りにはクリーニング屋のせいせん舎と食料品店のキムラヤがあり、ここを南西方面の上に進む坂があります。朝日坂といいます。明治時代でも同じく朝日坂でした。

朝日坂

朝日坂の名前
 どうして朝日坂という坂にしたのでしょうか。朝日はよく見えないし……新宿区教育委員会の昭和51年の『新宿区町名誌』によれば

特に泉蔵院境内にある北野神社が、俗に朝日天神といわれたので、その門前町は朝日町と呼ばれた。北野神社をどうして朝日天神と呼んだかは分からない。神楽坂6丁目46番地から南の横寺町に上る坂を朝日坂(旭坂)というが、これは朝日町から名づいたものである。

 『東京府志料』には

朝日坂 坂名は北野神社を里俗朝日天神と称するによれり

 つまり第一の説は、泉蔵院内の北野神社を朝日天神と呼んだから。泉蔵院は正藏院の隣にありました。しかし、説はまだ続きます。第4まで続いているのです。

 第二の説は、泉蔵院に慈覚大師作の朝日天満宮があったため。新宿歴史博物館の平成22年の『新修 新宿区町名誌』では

ここから横寺町に登る坂は朝日坂(あさひざか)と呼ばれる。これは泉蔵院に慈覚大師作とされる朝日天満宮があるため唱られた(町方書上)。

『町方書上』は

朝日坂与唱候、是者當泉蔵院ニ慈覚大師作之由朝日天満宮有之候、依之朝日坂与相唱候由

 ちなみにこの泉蔵院は廃寺になりました。
 標柱でも現在はこの第二の説が有利です。

『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、このあたりは牛込朝日町と呼ばれていた。(『東京府史料』)

 さて第三の説は、五条坂です。野口冨士夫の『私のなかの東京』で

すぐはじまるゆるい勾配の登り坂は横関英一と石川悌二の著者では朝日坂か旭坂でも、土地にふるくから住む人たちは五条坂とよんでいるらしい。紙の上の地図と実際の地面との相違の1例だろう。

 横寺町交友会今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(平成12年)で寺居秀敏氏は「寺の町横寺」を書き

朝日天神は五条の天神様と呼ばれたため、私の両親は五条坂と呼んでいましたので、私も五条坂と言っていました。

 第四の説では坂ではなく横丁です。「閻魔様の横丁」といったようです。『ここは牛込、神楽坂』第2号の「語らい広場」では

ちなみに6丁目のスーパーキムラヤ横の横丁は、「お閻魔様のヨコチョ」といっていました。

 同じく寺居秀敏氏では

私は子供の頃(正蔵院を)お閻魔様のお寺と呼んでいました。

 お閻魔(えんま)様というのは正蔵院、つまりエンマ堂のことです。正蔵院の脇本尊は合併した養善院の本尊「閻魔大王尊」でした。お閻魔様は戦災で焼失。その後府中の在家の方からお閻魔さまとお不動さまの寄進を受け、安置しました。
 以上、この4説、まあ、どれでも悪くないと思います。

神楽坂公衆食堂、飯塚酒場 芸術倶楽部 一水寮
神楽坂5丁目 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁