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歌坂|牛込中央通り(360°カメラ)

文学と神楽坂

 牛込中央通り(昔の火之番町)の中ほどから北へ行く坂を(うた)と呼びます。

 なぜこの坂を「歌坂」になったのでしょうか? 2つの説があります。1つは、石川梯二の『東京の坂道』や横関英一の『江戸の坂 東京の坂』に書いてあるもので、古くは船河原は大きな池で、歌坂はその他の岸に臨む坂であり、歌坂は突端・出崎の意味のアイヌ語ウタに由来したというものです。
 石川梯二の『東京の坂道』(人物往来社、昭和46年)では

 歌坂(うたざか) 雅楽うた坂とも書いた。砂土原町三丁目と市谷田町二丁目の境を北東に上る坂で「府内備考」に「歌坂 火の番横町の坂なり。」とあり、江戸時代、今の市谷田町二、三丁目へんを俗に火の番町といい、定火消の組屋敷があった。坂下外濠ぞいを船河原といったことは「紫の一本」に「今の船川原町といふは、共頃は河原にて船をあげ置し故とぞ。今思ふに尾張黄門光友卿の市ヶ谷の御屋敷のうしろにはちかきまで大きな池にて水に遊ぶ輩、死する事かりし。昔は此池へ今の船河原こそありつらめ。」とあり、歌坂はその岸にのぞむ坂であったわけだ。
 だから王子のウトウ坂(大坂)が、その坂下を岸町とよぶのと、同じ地形的状況からこの歌坂も古くはアイヌ語のウタ(ウトウと同義で突端とか出崎という意味)からきているという説が信憑性をもってくる。目黒区にはうたい坂という坂があるが、これも地形的に共通するところがあり、ウトウ、ウタ、ウタイは同じ地形から起った古い坂名と思える。

 二つ目は新宿歴史博物館『新修 新宿区町名誌』に書いてあります。江戸時代初期に酒井雅楽頭(うたのかみ)屋敷があったためです(「明暦江戸大絵図」)。

 標柱は

   歌坂(うたさか)
雅楽(うた)坂ともいう。江戸時代初期、この坂道の東側には酒井雅楽頭(後の姫路酒井家)の屋敷があった(「新添江戸之図」)。坂名は雅楽頭(うたのかみ)にちなんで名付けられたのであろう。

 なんとなく由来は雅楽頭だというほうがよさそうに感じます。


歌坂 歴史 江戸時代
歌坂 現在

歌坂 写真
歌坂 写真1