月別アーカイブ: 2015年10月

盛り場文壇盛衰記|川崎備寛

文学と神楽坂

川崎備寛氏が書いた「盛り場文壇盛衰記」(小説新潮。1957年、11巻9号)です。「山の手の銀座」は関東大震災から2、3年の間、神楽坂を指して使いました。神楽坂が「山の手の銀座」になった始まりと終わりとを書いています。

 たしか漱石の「坊つちやん」の中に、毘沙門さまの縁日に金魚を釣る話がでていたとおもうが、後半ぼくが神樂坂に下宿するようになつた頃でも毘沙門天の縁日は神樂坂の風物詩として残つていて、その日になるとあちらの横町、こちらの路地から、藝者たちが着飾つた姿でお詣りに来たものである。その毘沙門天と花柳街とを中心とした商店街、それが盛り場としての神樂坂だつたのだが、山ノ手ローカル・カラーというのであろうか、何となく「近代」とは縁遠い一郭を成している感じで、表通りはもちろんのこと、横町にはいってもどことなく明治時代からの匂いが漂つているようであつた。銀座のような派手な色彩や、刺戟的な空氣はどこにも見られなかつた。

と一歩遅れた神楽坂の光景が出てきます。神楽坂が「山の手の銀座」になるのは、まだまだ先のことです。
坊っちゃん。夏目漱石の小説。 1906年『ホトトギス』に発表。歯切れのよい文体とわかりやすい筋立て。現在でも多くの読者がいます。
縁日。神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
風物詩。その季節の感じをよく表しているもの
藝者。宴席に招かれ、歌や踊りで客をもてなす者
花柳界。芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
盛り場。人が寄り集まるにぎやかな場所。繁華街
山ノ手。市街地のうち高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西のこと。四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりです。
ローカル・カラー。その地方に特有の言語・人情・風習・自然など。地方色。郷土色
一郭。同じものがまとまっている地域

毘沙門 善国(ぜんこく)()は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の()沙門(しゃもん)(てん)は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
 ところが、少し大袈裟だがこの街に突如として新しい文化的な空気が(誇張的にいえば)押し寄せるという事件がおこつた。それは大正十二年の関東大震災だつた。銀座が焼けたので、いわゆる文化人がどつとこの街に集まつて來たからである。文壇的にいえば震災前までは、神樂坂の住人といえばわずかに袋町都館という下宿に宇野浩二氏がおり、赤城神社の裏に三上於莵吉氏が長谷川時雨さんと一戸をもつているほかは、神樂館という下宿に廣津和郎氏や片岡鐡兵氏などがいた程度だつたが、震災を契機に、それまでは銀座を唯一の散歩または憩いの場所としていた常連は一時に神樂坂へ河岸を替えることになつたのだ。しかし何といつても銀座に比べると神樂坂は地域が狭い。だから表通りを散歩していると、きつと誰か彼かに出会う。立話しているとそこへまた誰かが來合わせて一緒にお茶でものむか一杯やろうということになる。そんなことはしよつちゆうあつた。郊外に住んでいるものも、午後から夕方にかけて足がしぜんと神樂坂に向くといつた工合で、言って見れば神樂坂はにわかに銀座の文化をすっかり奪つたかたちだつたのだ。

つまり「山の手の銀座」はここででてくるのです。「山の手の銀座」は関東大震災の直後に生まれたのですが、繁栄の中心地は2~3年後には新宿になっていきます。
関東大震災。大正12年(1923)9月1日午前11時58分に、相模(さがみ)湾を震源として発生した大地震により、関東一円に被害を及ぼした災害。
銀座。東京都中央区の地名。京橋の南から新橋の北に至る中央通りの東西に沿う地域で、日本を代表する繁華街
文化人。文化的教養を身につけている人
行き止まりで通り抜けできない町。昔はそうだが、今では通り抜けできる。
みやこかん。宇野浩二氏が大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「都館」から撤去し、上野桜木町に家を、本郷区菊坂町に仕事場を設けました。いつ「神楽館」から「都館」に変わったのは不明です。関東大震災になったときに宇野浩二氏はこの辺りにはいませんでした。
赤城神社。新宿区赤城元町にある神社。上野国赤城山の赤城神社の分霊を早稲田弦巻町の森中に勧請、寛正元年(1461)牛込へ遷座。「赤城大明神」として総鎮守。昭和二十年四月の大空襲により焼失。
神樂館。昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
河岸。川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。転じて飲食や遊びをする場所<

三上於莵吉 『新宿区ゆかりの人物データベース』では、大正8年に赤城下町4。大正8年~大正10年は矢来町3山里21号。大正12年は中町24。昭和2年~昭和6年3月は市谷左内町31です。下の図では一番上の赤い図は赤城下町4、左の巨大な赤い場所は矢来町3番地字山里、一番下の赤が中町24です。

赤城下町

もっと話を聞きたい。残念ながらこれ以上は神楽坂は出てきません。話は宇野浩二氏になっていきます。ここであとは簡単に。

 ぼくは震災前は鎌倉に住んでいたが、その頃でも一週間に一度や二度は上京していた。葛西善藏氏は建長寺にいたので、葛西氏に誘われて上京したり、自分の用事で上京したりした。葛西氏の上京はたいてい原稿ができたときか、または前借の用事のことだつたようだ。そういう上京のあるとき、葛西氏が用事をすました後、宇野浩二氏を訪問しようというので、ぼくがついて行つたことがある。それは前に書いた袋町の都館である。宇野氏はその頃すでに處女作「藏の中」以後「苦の世界」など一連の作品で文壇的に押しも押されもせぬ流行作家になつていたので、畏敬に似た氣持をもつて訪ねたのは言うまでもなかつた。行つて見ると、ありふれた古い安普請の下宿で、宇野氏の部屋は二階の隅つこにあつたが、六疉の典型的な下宿の一室であるに過ぎず、これが一代の流行作家の住居であるかと一種の感慨に打たれたことであつた。しかもその部屋には机もなく、たしか座蒲團もなくて、ただ壁の隅つこに一梃の三味線が立てかけてあるだけであつた。葛西氏はそれでもなんら奇異の念ももたないらしく暫らくのあいだ二人でポソポソと話をしていたが、傍で聞いていたとこでは、何でもその日は宇野氏の新夫人が長野縣から到着する日だとかで、新夫人というのは宇野氏の小説に夢子という名前で出ている諏訪の人だということを、後で葛西氏から聞いたが、そのとき見た一梃の三味線が、いまでもはっきりとぼくの印象に残つている。

建長寺。鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。葛西氏は大正8年から4年間塔頭宝珠院の庫裏の一室に寄宿し、『おせい』などの代表作を書きました。
安普請。あまり金をかけずに家を建てること。そうして建てた上等でない家。
新夫人。大正9(1920)年、芸者である小竹(村田キヌ)が下諏訪から押しかけてきて宇野浩二氏と結婚しました。
夢子。大正8(1919)年、上諏訪で知り合った田舎芸者の原とみを指しています。無口で小さい声で唄を歌い、幽霊のようにすっと帰っていきました。夢子と新夫人とは違った人です。

後は省略し、最後の結末を書いておきます。

 いずれにしても、すべては遠い昔の想い出として今に残る。『不同調』の廢刊と前後して、廣津氏の藝術社も解散していたが、廣津氏は武者小路全集の負債だけを背負つて間もなく大森に移つて行つた。もうその頃は佐佐木茂索氏もふさ子さんとの結婚生活にはいって矢来から上野の音樂學校の裏のあたりに新居を構えていたし、都館のぬしのように思われていた宇野浩二氏も、とうの昔に神樂坂から足を洗って上野櫻木町の家に引越してしまつていた。有り觸れた言葉でいえば「一人去り、二人去り」したのである。こうして神樂坂は再び、明治以来の神樂坂にかえつたのであつたが、それが今回の戦災で跡方も無くなろうとは、その當時誰が豫想し得たであろうか。

 先日ほくは久しぶりに神樂坂をとおつてみたが、田原屋は僅かに街の果物やとして残り、足袋の「みのや」、下駄の「助六」、「龜井鮓」、おしるこの「紀の善」、尾澤藥局、またぼくたちがよく原稿用紙を買った相馬屋山田屋など懷しい老舗が、今もなお神樂坂の土地にしがみついて、飽くまで「現代」のケバケバしい騷音に抵抗しているのを見たのである。

(了)

不同調。大正14年7月に創刊。新潮社系の文学雑誌で、「文藝春秋」に対抗しました。中村武羅夫、尾崎士郎、岡田三郎、間宮茂輔、青野季吉、嘉村磯多、井伏鱒二らが参加。嘉村の出世作『業苦』や、間宮の『坂の上』などが掲載。昭和4年終刊。
藝術社。1923年(大正12年)32歳。広津和郎氏は上村益郎らと出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版。しかし極端に凝った造本で採算が合わなくなり、また上村益郎は使い込みをして大穴を開け、出版は失敗。借金を抱えましたが、円本ブームの波に乗り、無事返済。
武者小路実篤全集は第1-12巻 (1923年、大正十二年)で、箱入天金革装、装丁は岸田劉生、刊行の奥付には「非売品」で予約会員制出版でした。
戦災。戦争による災害。第2次世界大戦の後です。

田原屋など

昔からの店舗が出ています。一応その地図です。赤い場所です。クリックすると大きくなりますが、あまり大きくはなりません。右からは山田屋、紀の善、亀井(すし)、助六、尾沢薬局、田原屋、相馬屋、みのやです。地図は都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和27年)です。

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文学と神楽坂

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東京妓情(1)|神楽坂

文学と神楽坂

酔多道士氏が書いた『東京妓情』(明治19年、1886年)です。変体仮名がところどころに出てきます。たとえば「()ni-4」は「()に」の変体仮名です。このころは字体もいろいろなものがありました。

東京妓情

『東京妓情』の表紙と神楽坂芸者の絵

00[大まかな訳]

○神楽坂 牛込門の外にある
○神楽町 ○肴町で歌をうたう芸妓を神楽坂では芸者という。
○歴史
○頭の中で考えたちょっとばかり仏教の方法
太鼓をたたき、鈴を振り、祝詞を朗々と発する神楽坂芸者は殺風景な歌妓ではない。そう、神楽坂芸者はちゃんとあった。でも昔からあったというわけでない。明治維新以降、大きな邸宅を開放し、今では市街となったが、関西の血気盛んな男子は、股間に猿田彦のような逸物を配し、女性はいないのかなと、あちらこちら散歩する。こんなカモがいると、詐欺師のほうは『天の宇須女』と似ている女性をおとりに使う。そして、楊弓店と似ている風俗営業の店もたくさんあった。でも、天照大神と同じことをするだけだ。耳をそばだてて聞くようなものでは恐れながらありません。
○神楽坂

肴町(さかなちやう)歌妓(かぎ)神楽坂(かぐら)芸者(げいしや)()
○歴史
仮設 法妙
太鼓(たいこ)(たゝ)(すゞ)()祝詞(のっと)(らう)する 神楽(かぐら)(ざか)() 殺風景(さつふうけい)歌妓(かぎ)あらんや (しかう)して(これ)あり ()(もと)より()(ところ)にあらず 一新(いつしん)以後(いご)旗下(きか)(てい)(ひら)いて 市街(しがい)となせしより関西(くわんさい)健児(けんじ)股間(こかん)猿田彦(さるたひこ)(めん)(はさ)み (そゝ)()(ある)しを(もつ)て (これ)(あみ)せんとて (あめ)宇須女(うずめ)(ごと)()(ゑじ)とし開設(かいせつ)したる楊弓店(やうきゆうてん)変成(へんせい)(かゝ)はる。そのこと神明(しんめい)  と一轍(いつてつ)(いづ)るを(もつ)て (べつ)()ッの御耳(おんみゝ)()()()かしむべき(こと)なしと(おそれ)()みのみ(まう)
肴町 神楽坂5丁目のこと
歌妓 酒宴で歌をうたう芸妓
仮設 現実とは別に、頭の中で考えること
しゃく。尺貫法の容積の単位。わずか。少量
法妙 仏教で正しい道。優れた方法
祝詞 のりと 祭祀にあたって神前で称える詞章。祝いの言葉。祝辞。しゅくし
朗す 声がはっきりとしていて、よく通る
豈に あに あとに推量を表す語を伴って、反語表現を作る。
殺風景 おもしろみがなく、興ざめすること
あらんや 「んや」で反語。あるはずない
而して しこうして そうして
一新 いっしん。すっかり新しくすること。ここでは明治維新のこと
旗下 きか。大将の旗印のもと
健児 けんじ。血気盛んな男子
猿田彦 http://waclub.web.fc2.com/koraku-g-5.htmlさるたひこ。高天原から神様が降りてくる(天孫降臨)とき、天狗様(猿田彦)は道案内をした。猿田彦の面は鼻の高い面で、股間に置いてあると、まあ、意味はわかるでしょう。写真は
http://waclub.web.fc2.com/koraku-g-5.html
行吟 こうぎん。散歩して詩を口ずさむこと
網す 魚・鳥などを捕らえるために網をかける。クモが網を張る
宇須女 うずめ 天照大神が、天岩屋にお隠れになった時、宇須女は怒りを静めるため、天岩屋戸の前で舞を踊りました。
えさ 動物を飼育する食物。人をだましたり、誘ったりするために提供される金品や利益
楊弓店 ようきゅうてん ヤウキユウテン 料金を取って楊弓で遊ばせた店。人の多く集まる寺社付近にはたくさんの矢場という楊弓店が設けられ,手軽な娯楽として庶民に広がっっていきました。矢取り女を置いて、ひそかに媚びを売る風俗営業の店も多かったようです。
変成 へんせい 形が変わってでき上がること
神明 しんめい  祭神としての天照大神
一轍 いってつ 一筋の車のわだち。車のわだちを一つにすること。転じて,同じであること
八ッの御耳 ヤツのおんみみ 八御耳 「ヤツ」は天元の8神「ト・ホ・カ・ミ・ヱ・ヒ・タ・メ」のこと 天元の差使からの告げを聞く耳。祓いの祝詞「天地一切清浄祓(てんちいっさいしょうじょうはらい)」に出ています。
畏み フリガナでは「おそれに」と書いていますが、本当は「かしこみ」と読むのが正しいでしょう。恐れ多いと思う
曰す もうす。申す。「言う」の謙譲語です

次に

文学と神楽坂

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東京妓情(2)|神楽坂

文学と神楽坂

001[大まかな訳]

○風俗
東京は広い。関東道を通って120kmの大きさだ。東京を2つに分割し、下町と山ノ手に分ける。その気だても風俗も少々違い、同様に芸者も違っている。 ここの芸者の客筋は、陸軍武人、あるいは官僚の使用人、書生など田舎者が多く、競い合うこともやっていない。ただ首をおしろいで白く塗り、お尻を軽く、客はべろべろになれば、芸者としてはもう十分だ。音曲などの芸能についてカッポレや民謡ができれば客も大喜びで、1円も祝儀をもらえる。芸能がうまいというのは、ここでは聞いたことはない。でも神楽坂に芸者がなくなれば、山ノ手に歌う芸者がいなくなったといいたい。思うに時折、みめかたちがいいのもいるからだ。
神楽坂辺リノ芸者ハイイ声ヲダス。牛込御門ノ外カラ来タ客ハ(ヨダレ)ヲ流ス。道ヲ休メルト山園デハ豊カナ産物ハ少ナイ。野生ノ鶯ハ自分デ春ノ美シイ姿ヲホメタタエテイル。
風俗(ふうぞく)

 洛陽(らくやう)(ひろ)関東道(くわんとうみち)にして三十() その洛陽(らくやう) 城前(じやうぜん)下町(したまち)(とな)へ その(うしろ)(やま)()といふ (しか)して意気(いき)風俗(ふうぞく)(やゝ)(こと)なり ()()けるも(また)(しか)り 本地(ほんち)芸者(げいしや)陸軍(りくゞン)武人(ぶじん) (あるい)鯰公(ねんこう)執事(しつじ) 書生等(しよせいとう)田舎漢(いなかもの)(おほ)きに()(ゆゑ)に 意気地(いきぢ)立引(たてひ)(なら)いなく (たゞ)その(くび)(しろ)くし その(しり)(かる)くし (きやく)をして沈湎(ちんめん)(どろ)(ごと)くならしむるの(じゆつ)あれば ()(やく)()むを(もつ)て 技芸(ぎげい)(ごと)きはペコシヤカと 猾惚(かっぽれ)甚句(じんく)(さう)すれば 客意(きやくい)(たつ)じ 円助祝儀(しうぎ)頂戴(てうざい)(いた)(ゆゑ)に ()ちを()()らんとするものは (かつ)見聞(けんもん)せざるなり (しか)れども ()神楽坂(かぐらざか)芸者(げいしや)なくんば ()断然(だんぜん)山の()に 歌妓(かぎ)なしと()はんのみ (けだ)()りに姿色(ししよく)()るべきもの()づればな里

神楽坂ノ辺妓弄シ。牛籠門外客涎ヲ流ス。道ヲ休メテ山園物華薄シト。野鶯亦自ラ春頌ス
洛陽 後漢は、前漢(西漢)の都である長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽を「東京」と呼びました。
関東道 律令制下では、「関東道」は、相模国、武蔵国、常陸国、下総国、上総国、安房国と6国がらできていました。現在の南関東です。関東
三十里 近世では一里は36町(3.6~4.2㎞)。明治24年に一里は3.9272727…㎞と定めて、30里は約117㎞。大体、東京駅から日光までです。相模国の最西端から常陸国の最東端まで約30里だったのでしょう。
城前 皇居の前
意気 事をやりとげようとする積極的な気持ち。
やや。すこし。いくらか。
本地 ほんち この土地。当地
鯰公 明治の元勲の多くは侍といっても、足軽なみの出。劣等意識の裏返しか髭をたくわえ鯰公といわれました
執事 屋敷における最高位の使用人
意気地 事をやりとげようとする気力
立引き ある目的のために競い合うこと
習い 学ぶこと。学んだこ
沈湎 チンメン 酒色にふけってすさんだ生活を送ること
じゅつ わざ。技能
技芸 ぎげい 美術・工芸などの技術
猾惚 俗曲の曲名「カッポレ カッポレ」  幕末から明治にかけて流行した俗謡と滑稽な踊り
甚句 じんく 民謡の一群。参加者が順番に唄い踊る形式。
客意 客の意向
円助 エンスケ 1円のこと。明治・大正期、花柳界での隠語
頂戴 ちょうだい チヤウダイ もらうこと
断然 態度のきっぱりとしているさま
姿色 美しい容貌
な里 なり
のど
弄シ いじる〔いぢる〕
物華 中国の言葉で「物華天宝、人傑地霊」とは「豊かな産物は天の恵みであり、優れた人間はその土地の霊気が育む」という意味。(はい、東京理科大学からとりました http://www.sut.ac.jp/info/publish/gakuhou/178/1_5.php)
けん 優美なこと。美しいこと
頌ス しょう 人の徳や物の美などをほめたたえること
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恋あやめ|邦枝完二

文学と神楽坂



邦枝完二 邦枝完二氏が書いた『恋あやめ』(1953年)の1章「神楽坂」です。『恋あやめ』は主に泉鏡花と尾崎紅葉がでてくる小説で、ここは55頁にあたり、明治29年ごろを書いています。

 邦枝氏は小説家で、慶応義塾予科に入学、永井荷風に師事し、『三田文学』の編集に従事。1917年(大正6)、時事新報入社。文芸部長に就任、帝劇文芸部に移り、脚本を執筆。23年以後、作家専業。江戸情緒豊かに官能美を描出。生年は明治25年12月28日。没年は昭和31年8月2日で、63歳。

 ここは毘沙門横町に在る芸者屋相模家の二階の一間。今しも太っちょのおてるが、質屋の三孫から受け出して来た衣裳を、手早やに着た一二三、おちょこの二人が、求友亭の座敷へ出て行ったあとに、小ゑんはただ一人、鏡台の前に坐ったまま、黙って考え込んで居た。
 ついこの間まで、坂下了願寺山門があったという土地だけに、神楽坂の花街は、これときまった古い歴史なんぞあるわけがなく、蔦永楽松葉家、相模家と、大小合せて八軒の家に、芸者の数は大妓が十八人、小妓が五人という。これがいったん、茶屋から口がかかったとなると、大妓は三味線、小妓は太鼓を、自ら提げて乗込むのであるから、下町の連中にいわせれば、すし屋やそば屋で三味線を弾く芸者なんざ、可笑しくってと、相手にされなかったのも無理ではなかった。
毘沙門横町 「毘沙門横丁」は5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱東京UFJ銀行の間にある小さな路地。「毘沙門横丁」も「おびしゃ様の横丁」もついこの間まで呼んでいた名前です。これ以上簡単なものはありません。
相模家 神楽坂3丁目8番地。地図は明治28年の地図です。この赤い地図のうち、相模家はどこかなのですが、これ以上はわかりません。明治28年
三孫 場所はここ。『まちの手帳』第3号の水野正雄氏の『新宿・神楽坂暮らし80年』で質屋「三孫」は「さんまご」と読むようです。
三猿

都市製図社製の「火災保険特殊地図」( 昭和12年)

求友亭 きゅうゆうてい。通寺町(今は神楽坂6丁目)75番地にあった料亭で、現在のファミリーマートと亀十ビルの間の路地を入って右側にありました。なお、求友亭の前の横町は「川喜田屋横丁」と呼びました。
小ゑん 紅葉には神楽坂の芸者で毘沙門横丁の芸妓置屋相模屋村上ヨネの養女、小ゑんという愛人がいました。
坂下 神楽坂下のことです。神楽坂1丁目から部分的に2丁目にあたる場所。『江戸砂子』には「行元寺-往古は大寺にて惣門は牛込御門の内、かくら坂は中門の内にて、左右に南天の並木ありし俗に南天でらと云しと也」と書いてあります。「かくら坂は中門の内」と「坂下に山門があった」とは同じものではありませんが、「昔は坂下に寺の中門があった」とすることも考えられます。行元寺は巨大な寺だったのです。
了願寺
明治28年、東京実測図

明治28年、東京実測図

小説なので「りょうがんじ」。実際は行元(きょうがん)()、正確には「牛頭山千手院行元寺」。天台宗東叡山に属するお寺。肴町(現在は神楽坂5丁目)にありました。明治40年(1907年)の区画整理で品川区西大崎(現・品川西五反田4-9-1)に移転。現在の大久保通りができたのも、この年。ただし、大きな移転で、引っ越しは二~三年前から行われていました。
山門 寺院は本来山に建てられ山号を付けて呼びました。平地でも山門といったのです。
蔦永楽 つたえいらく。神楽坂3丁目2番地。橙色のどこかですが、正確なものはなく、これ以上は不明です。地図は大正11年の「東京市牛込区」大正11年東京市牛込区
松葉家 神楽坂3丁目6番地。上の青色のどこかですが、正確なものはなくわかりません。
大妓 だいぎ。一人前の芸妓のこと
小妓 しょうぎ。年が若く、まだ一人前でない芸妓。半玉(はんぎょく)雛妓(すうぎ)
茶屋 ちゃや。この場合は待合(まちあい)茶屋(ぢゃや)。花街における貸席業。客と芸者に席を貸して酒食を供する店。
すし屋や… これからすると、初めのころはほとんど全員がアルバイト感覚だったのでしょう。

文学と神楽坂

手帳|同時代の作家たち

文学と神楽坂

広津和郎氏が書いた『同時代の作家たち』(岩波書店)の「手帳」(昭和25年)です。

が小説を書いて文壇に出るようになったのは大正六年であるが、たしかその翌年の初夏の頃であったと思うが、或日新潮社をたずねると、当時の同社社長の佐藤義亮(ぎりょう)氏との間に近松秋江の話が出、氏の口から秋江の逸話を幾つか聞かされた。秋江はなかなかあれで自分の肉体美が自慢で、丁度神楽坂毘沙門前の本多横丁の角に、後にヤマモトという珈琲を飲ませる店になったが、昔そこに汁粉屋があり、その汁粉屋のおかみさんがちょっとイキな女だったので秋江はそれに興味を持ち、自分の肉体美をそのおかみさんに見せたくなり、その家の裏側に風呂屋があったので、秋江は赤城神社の境内の下宿屋からわざわざそこまで風呂に入りに行き、しかも風呂に入る前にその汁粉屋に寄って、そこでおかみさんの前で浴衣に著更(きが)えて自分の肉体美をおかみさんに見せようとしたというのである。
広津和郎広津和郎。ひろつ かずお。生まれは1891年(明治24年)12月5日。没年は1968年(昭和43年)9月21日。文芸評論家、小説家、翻訳家です。
新潮社 新潮社文芸書を初めとした大手出版社。1896年に新聲社として創立
本多横丁 「神楽坂最大の横丁」で、飲食店をなど50軒以上の店舗があります。この名前は、江戸中期から明治の初期まで、この通りの東側全域が本多家の屋敷であり、 「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたことに由来します。
ヤマモト 本多横丁戦前『ここは牛込、神楽坂』第5号の「戦前の本多横丁」にでていた松永もうこ氏の絵です。サトウハチローとドーナツについてはここに
風呂屋 この近くの風呂屋は「第2大門湯」だけです。青で書いてあります。下の山本コーヒーの想像図は赤で書いています。現在の大門湯は理科大の森戸記念館の一部になりました。なお地図は都市製図社製の『火災保険特殊地図』( 昭和12年)です。大門湯
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。
下宿屋 清風亭1この矢印は昔の「清風亭」の場所で、赤丸で囲んだ清風亭とは違っています。近松秋江は赤い矢印のここに住んでいました。
それから秋江はまた非常に著物(きもの)が好きで、季節季節には新しく著物を作るが、貧乏なので直ぐそれを質屋に持って行ってしまう。それで次にその季節が来たらその著物を出して著れば好いのに、そうはしないでまた新たに著物を作る、しかし直ぐまたそれも質屋にはこんでしまう、そんな風にして質屋に預けた著物がいっぱい溜ってしまったが、虫干頃になると秋江は質屋の番頭がどんな虫干の仕方をするかとそれが信用が出来ずに、自分で質屋に出かけて行き、自分で質屋の蔵の中に細引を引きまわして自分の質物を懸けつらね、その下にそれも彼が入質した蒲団を敷いてその上に横たわり、自分の著物を頭上に眺めながら悠々と昼寝をして来るというのである。……そんな話を義亮氏の口から聞きながら、私は通寺町の路地の洋食屋で、秋江が芸妓に電話をかけて、「この間は散財した、あれだけあれば米琉が出来るんだのに」といっていた例の電話を思い出した。あの時にはあれがやりきれなく厭味に感じられたが、しかしこんな話を聞きながら今になって思い出すと、いかにも秋江の秋江らしさとして頬笑まれて来るのである。そしてその時佐藤義亮氏から聞いた話を、「これは面白い。これは小説になる。しかし自分に向く材料ではない。多分これは宇野浩二なら書けるだろう」と考えたものであった。

 宇野はその時はまだ文壇に出ていなかったが、私は彼にその話をして、「君なら書けるだろう」というと、「うん、僕なら書ける」と彼は答えた。それから一、二ヶ月後に宇野は実際にそれを小説に書いた。それが宇野の文壇的処女作となった「蔵の中」であるが、その事については私は以前「蔵の中物語」という文章に詳しく書いた事がある。
著物 着物のこと。この時代には「著物」と書いたんですね。
質屋 品物を担保(質草)として預かり、代わって品物の価値にみあう金銭を融資する商売
虫干 日光に当て,風を通して湿りけやかび,虫の害を防ぐこと。日本で6~7月のつゆ明けの天気のよい日に行います。
番頭 商店などの使用人の長。主人に代わり店の一切のことを取りしきる者
細引 ほそびき。麻などをより合わせてつくった細目の縄。
通寺町 現在は神楽坂6丁目のこと
洋食屋 上から下に神楽坂を下って左側にある洋食屋はわかりません。
米琉 よねりゅう。米琉(つむぎ)、正確には米沢(よねざわ)琉球(りゅうきゅう)(がすり)(つむぎ)。山形県米沢地方で生産される紬織物。米沢紬の中で、琉球絣に似た柄のもの
蔵の中物語 これは同じ本『同時代の作家たち』で「『蔵の中』物語――宇野浩二の処女作」という1章になって出ています。

文学と神楽坂

牛込神楽坂之図

牛込神楽坂之図

牛込神楽坂之図

絵師は歌川広重。広重東都坂尽の一枚である『牛込神楽坂之図』が描かれています。天保11年(1840年)頃の作品。左側には武家屋敷、右側には町屋が並んでいます。『牛込神楽坂之図』のは2丁目に近く、神楽坂3丁目にあります。図の上でクリックすれば大きくなります。

文学と神楽坂

日本歓楽郷案内(1/5)

文学と神楽坂

酒井潔氏の『日本歓楽郷案内』(昭和6年、竹酔書房)の一部です。氏は大正末期から昭和初期にかけてのエログロナンセンス文化の火付け役でした。

寂びれ行く神樂坂
 神樂坂と云へば、新宿が今日の地位を得るまではダンゼン山之手第一の繁華な街であつた。あの急な坂道を挟んで、新舊とりどりの老舗がいかにも和洋折衷といふ感を抱かしめる。夜になると自動車の通行も止められ、老人も子供も安心して散策する。
 坂を上り切ると毘沙門天があり、その後ろ側には神樂坂の落ち着いた花街(いろまち)の灯が流れてゐる。
 この土地は昔から多くの文士と因緣淺からぬものあつて、尾崎紅葉以來、實にいろんな作家が艶聞を流したので有名である。
 それに、晝でも夜でも艷つぽい藝妓の姿が眼にとまり、壽司屋へ入つてゐる藝妓、シューマイを買つて歸る半玉半衿の柄を品定めしてゐる年増――さう云つた工合に、喰ひしんぼうと、出歩きしたがる藝妓の多いことだけは一見してその内幕が見透かされる。
 だから藝妓と稱するものゝうちにも、ずゐぶんいかがはしいのがあつて
「なにかお前の得意なものを一つやれよ。」と云へば
妾し何も出來ないわよ!色氣だけの御目見得よ!」
などと酒々として澄してゐる。
 それかあらぬか、晝間湯歸りの妓など、顏色は何となく蒼味を帶びて、芳ばしからぬ病狀持と見なされる向の多いのも情けない。

新旧とりどり。新しいものと古いものがひとつひとつ違っていること。まちまち
和洋折衷。日本風と西洋風の様式を、程よく取り混ぜること。
花街。いろまち。かがい。はなまち。遊女屋や芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。
因縁浅からぬ。普通ではない深い間柄のこと
艶聞。異性と関係があるといううわさ
艷っぽい。つやっぽい。色気がある。なまめかしい
半玉。はんぎょく。玉代(ぎょくだい)が芸者の半額の、まだ一人前でない芸者。
喰ひしんぼうと、出歩きしたがる藝妓。本来ならば芸妓は客をもてなす女性です。しかし神楽坂の芸妓は食事と外出のほうが重要だと書かれてしまいました。
内幕。外からは見えない内輪の事情。内情。内実。
いかがわしい。物事の内容、人の正体などが、あやしげで信用できない。下品でよくない。風紀上よくない
御目見得。おめみえ。御目見、御目見得。新たに人の前に姿を現すこと。つまり「色気だけが売り物なのよ」
酒々。しゃあしゃあ。厚かましくて、恥を恥とも思わないで平気でいる様子
それかあらぬか。はたしてそうか、それともそうでないのか。本当はわからないけれど。
芳ばしからぬ。いい話ではない。当時一番問題なのは結核でした。

毘沙門天 毘沙門天善国(ぜんこく)()は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の()沙門(しゃもん)(てん)は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
芸妓 芸妓げいぎ。舞踊や音曲、鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性。右の写真は昭和30年ごろの神楽坂です。普通の女性と芸妓の女性が混ざっています。
半衿 半襟はんえり。装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢(じゅばん)などの(えり)の上に縫いつけた替え襟。
妾し わたし。あたし。昭和初期に女性では「私」ではなく「妾」の字が使われていました。

結構、昔(昭和6年)の神楽坂は叩かれています。

文学と神楽坂

日本歓楽郷案内(2/5)

文学と神楽坂

 おまけに、多くの待合が他所に比べていやに勘定高いといふ悪評などもあつて、蕩兒らしい蕩兒はこの街の空気はいやだといふ。

 然し、待合側に云はせれば、勘定のことをキチキチ催促する代りに、ほか樣よりずつと勉強してゐるといふのである。

 金解禁以来、この街にも不景気風は風速二十メートル以上に吹きまくつて、お銚子二本、料理四品、藝妓付五圓などと、例の特遊とかいう奴を新聞の案内欄などに廣告して器量を下げたが、特遊七圓萬事解決などいふ變挺な廣告を出してお灸を据えられたのがあつて以来、流石に気恥しくなったものか止めてしまった。それでも、郊外の藝妓みたいに、カフェーやソバ屋にまで行かないのがせめてもの取柄である。

 薄ぎたないカフエーに出張して、陳腐な恰好の女給と一緒に

スツチヨイ、スツチヨイ、スツチヨイナ」

と手を叩いてゐるのを見ると、そゞろに物の哀れを催してくる。

 人通りの多い割に昨今の神樂坂は潑溂たる色彩がない。洋食と果物では山手随一と折紙をつけられてゐる田原屋にも、往時の頻繁な客脚はなくなつたし、一時は銀座のカフエーを悠々と端睨してゐたカフエー・オザワなども、何となく時代に取り殘されたものゝやうな感じがする。それは、強ちこの二三の店に限らず、神樂坂という街そのものゝ感じがさうだから止むを得ない。
勘定高い 金銭の計算が細かくて損得に敏感。打算的
蕩児 トウジ。正業を忘れて、酒色にふける者。放蕩むすこ。遊蕩児。蕩子
キチキチ 正確に規則正しく物事をする。きちんきちん。
勉強 ここでは「商人が商品を値引きして安く売ること」
金解禁 昭和五年(1930)年、浜口内閣は金本位制に復帰し、金解禁を行いました。ところが、株価や物価は下落し、中小企業は次々と倒産、不況はますます深刻化しました。
風速二十メートル 小枝が折れる。風に向かっては歩けない。人家にわずかの損害がおこる。煙突が倒れ、瓦がはがれる。
5円 五円は現在なら幾らなのか。高くて1930年(昭和5年)で5万円
http://www.ytv.co.jp/blog/announcers/michiura/2012/08/post-1274.html
低くて1931年(昭和6年)の5円は1万8000円
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1135424291
せいぜい2-3万ではないでしょうか。
特遊 特別の遊楽。特に遊び楽しむこと
器量 その人の才徳に対して世間が与える評価。面目
特遊七円 7円は現在の2万5000円~7万円。藝妓付で5円ですから、プラス2円は「枕金」です。同じく神楽坂で、昭和5年の「1夜の歓をかわす枕金は5円から10円」といわれていました。つまり、神楽坂の芸者と比べても相当安いのでしょう。
變挺 ヘンテコ。奇妙。変な様子
陳腐 古くさいこと。ありふれていて、つまらないこと
スッチョイ スッチョイ、スッチョイ、スッチョイナ。会津磐梯山のはやし言葉。唄の合間、一節ごとに「スッチョイ、スッチョイ、スッチョイナ」とお囃子がはいる。
そぞろに なんとなく 何とはなしに
潑溂 はつらつ。溌剌・潑剌・溌溂・潑溂 きびきびとして元気のよい。生き生きとしている。
田原屋 現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」。昔は「田原屋」。1階が高級フルーツ店、2階がレストランでした。
客脚 客が店に入ること
端睨 たんげい。推測すること。おしはかること。 推し測る。ここでは単純に「見ていた」ぐらいではないのでしょうか。
カフエー・オザワ 現在は「cafe Veloce ベローチェ」に。昔は「カフエー・オザワ」で、一階は女給がいるカフェ、二階は食堂。

文学と神楽坂

日本歓楽郷案内(3/5)

文学と神楽坂

 獨りこの街で肩で風を切つて歩いてゐるのは、早稲田法政の學生たちである。

 撞球場でも、マージヤン・クラブでも、いたる所で學生が幅を利かしてゐる。

 肴町の角にある紅谷(ベニヤ)のコーヒーと云べば、トロリとしたクリームを浮べて抒情派の詩人や女學生の巣窟のやうになつてゐたが、詩人なんてものがすつかり俗悪化した今日では、詩人のお顔拜見と出かける文学少女も尠くなつたやうだ。それよりも、絵葉書屋の前でスポーツマンのプロマイドでも見る方がいゝらしい。

 只、一坪の土間と、一貫の屋臺店に頑張つて凌々たる氣骨を見せてゐる神樂おでんの爺さんだけが昔も今も變らず繁昌してゐる。陪審裁判の陪審に選ばれたといつて「區役所は得手勝手だ」と怒鳴り時間が五分間早いと云つて煮ゑたおでんも喰はして呉れぬ變り者の爺、時代の後端を歩む彼の氣慨こそ神樂坂唯一の名物であらう。

肩で風を切る。肩をそびやかして、得意そうに歩く
早稲田。1882(明治15)年、早稲田に「東京専門学校」が発足。1902年9月2日付で「早稲田大学」と改称撞球場。
法政。1880(明治13)年東京駿河台に発足。1921(大正10)年 麹町区富士見町4丁目(現在の市ケ谷キャンパス) に校舎を新築し移転。
どうきゅうじょう。ビリヤード場
幅を利かす。はばをきかせる。勢力をふるう。
抒情派。作者の感情や情緒を表現したもの
巣窟。居住する場所。すみか
俗悪化。低級で下品なこと
屋台店。屋根のある台を設け、やきとりやおでんなど簡単な飲食物を供する大衆的な店
凌々。リョウリョウ。澄みきっているさま
気骨。自分の信念を守って、どんな障害にも屈服しない強い意気
得手勝手。他人に構わず自分の都合ばかりを考えて、わがまま放題にする様子
後端。こうたん。うしろのはし
氣慨。きがい。困難にくじけない強い意志・気性

絵葉書屋 私製絵葉書は1900年(明治33年)から。風景や美人絵葉書などあらゆる絵葉書がでてきて、1905年(明治38年)には日露戦争に勝った絵葉書が大ブーム。全国に絵葉書専門店が次々と開店し庶民に浸透しました。手彩色絵葉書、木版デザイン、透かし絵葉書、夜光塗料絵葉書、子供向け絵葉書などなど。
プロマイド プロマイドとは、俳優やアイドルなどのスターの写真を販売目的で撮影したもの。ちなみにブロマイドは本来、印画紙を指す言葉。これはプロマイドと書いてあります。
神楽おでん

『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」では

岡崎 寺内の入口には、「かぐらおでん」もあってね。
河合 「かぐらおでん」は、すごくおいしかったから、お鍋持って買いに行きましたよ。

と出ています。場所は左図では『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」。右図では昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」からの「古老の記憶による関東大震災前の形」。上下ちょうど180°方角が変わっています。

神楽おでん1

陪審裁判 刑事事件で市民から選ばれた12人の陪審員が有罪・無罪を裁判官に答申する仕組み。1928年から15年間実施、対象は484件。陪審員は30歳以上で一定額以上の納税をし、読み書きができる男性。無罪率は約17%。1943年、戦争時に陪審法は停止された

文学と神楽坂

日本歓楽郷案内(4/5)

文学と神楽坂

それと、うまい物では川鐵の鳥料理と小鉢もので、白木屋横町江戸源、こゝの女将のキビキビした傳法肌と、お酌をして呉れるお幸ちやんの美貌。その愛くるしい黠に於てダンゼン牛込一の小町嬢である。嘘だと思へば敬愛する先輩齊藤昌三 氏に訊いて頂きたい。
「お幸ちやんは幾つだい。」といふと、
妾し、妾し十九よ!」
これは一昨年の會話である。
「お幸ちやんは幾つになつたのだい!」
「あたし、あたし十九になつたのよ!」
これは今年の會話である。
もし、來年になって、誰かゞ彼女の年を訊ねても
「妾し、妾しは今年十九になったのよ!」
とかう答へるであらう。
彼女が、いつ、誰と結婚するかに就て、まるで自分のことのやらに氣にしてゐる人間が、上は五十四歳の爺さんから、下は二十代のニキビ青年に至るまで、無慮百人を算すといふから、一應は見てをいてもいゝ代物であらう。
小鉢 こばち。小形の鉢。そのような器に盛られた料理。
白木屋横町 神楽坂仲通りのこと
江戸源 安井笛二氏の『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』では「白木屋横町――小食傷(せうしよくしやう)新道(しんみち)の観があって、おでん小皿盛りの「(はな)()」カフェー「東京亭」野球(やきう)おでんを看板(かんばん)の「グランド」縄のれん式の()料理(れうり)「江戸源」牛鳥鍋類の「笑鬼(しうき)」等が軒をつらねてゐます。」
伝法 でんぼう、でんぽう。勇み肌、いなせなこと。多く女がいきがって、男のような言動をすることをいう
小町 小野(おのの)小町(こまち)のこと。転じて美人。
齊藤昌三 斎藤昌三氏。大正・昭和期の書物研究家、編集者、随筆家、装丁家、発禁本研究では「書痴」。茅ケ崎市立図書館の初代館長
妾し わたし。あたし。昭和初期に女性では「私」ではなく「妾」の字が使われていました。
一昨年 おととし。2年前
無慮 むりょ。おおよそ。ざっと
算す かぞえる。計算する。ある数に達する。
代物 しろもの。物や人。低く評価したり,卑しみや皮肉を込めていうことが多い。

文学と神楽坂