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死者を嗤う|菊池寛

文学と神楽坂

 菊池寛は大正7年6月に小説「死者をわら」(中央文学)を発表しています。29歳でした。

 二、三日降り続いた秋雨が止んで、カラリと晴れ渡ったこころよい朝であった。
 江戸えどがわべりに住んでいる啓吉は、平常いつものように十時頃家を出て、ひがしけんちょうの停留場へ急いだ。彼は雨天の日が致命的フェータルに嫌であった。従って、こうした秋晴の朝は、今日のうちに何かよいことが自分を待っているような気がして、なんとなく心がときめくのを覚えるのであった。
 彼はすぐ江戸川に差しかかった。そして、ざくらばしという小さい橋を渡ろうとした時、ふと上流の方を見た。すると、石切橋いしきりばしと小桜橋との中間に、架せられているを中心として、そこに、常には見馴れない異常な情景が、展開されているのに気がついた。橋の上にも人が一杯である。堤防にも人が一杯である。そしてすべての群衆は、川中に行われつつある何事かを、一心に注視しているのであった。
 啓吉は、日常生活においては、興味中心の男である。彼はこの光景を見ると、すぐ足を転じて、群衆の方へ急いだのである。その群衆は、普通、路上に形作らるるものに比べては、かなり大きいものであった。しかも、それが岸にあっては堤防に、橋の上では欄杆らんかんへとギシギシと押しつめられている。そしてその数が、刻々に増加して行きつつあるのだ。
 群衆に近づいてみると、彼らは黙っているのではない。銘々に何かわめいているのである。
「そら! また見えた、橋桁はしげたに引っかかったよ」と欄杆に手を掛けて、自由に川中を俯瞰みおろし得る御用聴らしい小憎が、自分の形勝けいしょうの位置を誇るかのように、得意になって後方に押し掛けている群衆に報告している。
「なんですか」と啓吉は、自分の横に居合せた年増の女に聴いた。
土左衛門ですよ」と、その女はちょっと眉をしかめるようにして答えた。啓吉は、初めからその答を予期していたので、その答から、なんらの感動も受けなかった。水死人は社会的の現象としては、ごく有り触れたことである。新聞社にいる啓吉はよく、溺死人に関する通信が、反古ほご同様に一瞥を与えられると、すぐ屑籠に投ぜられるのを知っている。が実際死人が、自分と数間の、距離内にあるということは、まったく別な感情であった。その上啓吉は、かなり物見高い男である。彼もまた死人を見たいという、人間に特有な奇妙な、好奇心に囚われてしまった。
嗤う 相手を見下したように、笑う。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
東五軒町の停留場 路面電車の停留場です。現在はバス停留所(バス停)に代わりました。

東五軒町のバス停 Google

フェータル fatal。命にかかわる。破滅をもたらす
小桜橋石切橋 図を参照
 西江戸川橋です。

神田川の橋

欄杆 欄干。らんかん。橋や建物の縁側、廊下、階段などの側辺に縦横に材を渡して墜落を防ぐもの。
喚く わめく。叫く。怒ったり興奮したりして大声で叫ぶ。大声をあげて騒ぐ
橋桁 はしげた。川を横断する道路の橋脚の上に架け渡して橋板を支える材。
御用聴 ごようきき。御用聞き。商店などで、得意先の用事・注文などを聞いて回る人
形勝 地勢や風景などがすぐれていること、その様子や土地
土左衛門 どざえもん。溺死者の死体。江戸の力士成瀬川土左衛門の色白の肥満体に見立てて言ったもの。
眉を顰める まゆをひそめる。不快や不満などのために、眉のあたりにしわを寄せる。顔をしかめる。
反古 反故。書きそこなったりして不要になった紙。
一瞥 いちべつ。ちらっと見ること。流し目に一たび見ること
屑籠 くずかご。紙屑など、廃物を入れる籠。
数間 1間は1.818…メートル。数間は約7〜8メートル。

 と、啓吉のすぐ横にいる洋服を着た男と、啓吉の前に、川中を覗き込んでいる男とが、話している。
 すると突然、橋の上の群衆や、岸に近い群衆が、
「わあ!」と、大声を揚げた。
「ああとうとう、引っ掛けやがった」と所々で同じような声が起った。人夫が、先にかぎの付いた竿で、屍体の衣類をでも、引っ掛けたらしい。
「やあ! 女だ」とまた群衆は叫んだ。橋桁はしげたに、足溜あしだまりを得た人夫は、屍体を手際よく水上に持ち上げようとしているらしい。
 群衆は、自分たちの好奇心が、満足し得る域境に達したと見え、以前よりも、大声をたてながら騒いでいる。が、啓吉には、水面に上っている屍体は、まだ少しも見えなかった。
足溜 足を掛ける所。足がかり。

 すると、突然「パシャッ」と、水音がしたかと思うと、群衆は一時に「どっ」と大声をたてて笑った。啓吉は、最初その場所はずれの笑いの意味が、わがらなかった。いかに好奇心のみの、群衆とはいえ屍体の上るのを見て、笑うとはあまりに、残酷であった。が、その意味は周囲の群衆が発する言葉ですぐ判った。一度水面を離れかけた屍体が、鈎のずれたため、ふたたび水中に落ちたからであった。
「しっかりしろ! 馬鹿!」と、哄笑から静まった群衆は、また人夫にこうした激励の言葉を投げている。
 そのうちに、また人夫は屍体に、鈎を掛けることに、成功したらしい。群衆は、
「今度こそしっかりやれ」と、叫んでいる。啓吉は、また押しつまされるような、気持になった。彼は屍体が群集の見物から、一刻も早く、逃れることを、望んでいた。すると、また突然水音がしたかと思うと、以前にも倍したような、笑い声が起った。無論、屍体が、再び水面に落ちたのである。啓吉は、当局者の冷淡な、事務的な手配と、軽佻な群衆とのために、屍体が不当に、曝し物にされていることを思うと、前より一層の悲憤を感じた。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
倍する 倍になる。倍にする。大いにふえる。大いに増す。
軽佻 けいちょう。考えが浅く、調子にのって行動する様子

 三度目に屍体が、とうとう正確に鈎に掛ったらしい。
「そんな所で、引き揚げたって、仕様がないじゃないか、石段の方へ引いて行けよ」と、群衆の一人が叫んだ。これはいかにも時宜タイムリイな助言であった。人夫は屍体を竿にかけたまま、橋桁はしげたから石崖の方へ渡り、石段の方へ、水中の屍体を引いて来た。
 石段は啓吉から、一間と離れぬ所にあった。岸の上にいた巡査は、屍体を引き揚げる準備として、石段の近くにいた群衆を追い払った。そのために、啓吉の前にいた人々が払い除けられて啓吉は見物人として、絶好の位置を得たのである。
 気がつくと、人夫は屍体に、繩を掛けたらしく、その繩の一端をつかんで、屍体を引きずり上げている。啓吉はその屍体を一目見ると、悲痛な心持にならざるを得なかった。希臘ギリシャの彫刻で見た、ある姿態ポーゼのように、髪を後ざまに垂れ、白蠟のように白い手を、後へ真直にらしながら、石段を引きずり上げられる屍体は、確かに悲壮な見物であった。ことに啓吉は、その女が死後のたしなみとして、男用の股引を穿うがっているのを見た時に悲劇の第五幕目を見たような、深い感銘を受けずにはいなかった。それは明らかに覚悟の自殺であった。女の一生の悲劇の大団円カターストロフであった。啓吉は暗然として、滲む涙を押えながらおもてそむけてそこを去った。さすがに屍体をマザマザと見た見物人は、もう自分たちの好奇心を充分満たしたと見え、思い思いにその場を去りかかっていた。
 啓吉も、来合せた電車に乗った。が、その場面シーンは、なかなかに、啓吉の頭を去らなかった。啓吉は、こういう場合に、屍体収容の手配が、はなはだ不完全で、そのために人生における、最も不幸なる人々が、死後においても、なおさらし物の侮辱を受けることをいきどおらずにはおられなかった。それと同時に啓吉は死者を前にして哄笑する野卑な群衆に対する反感を感じた。
 そのうちフト啓吉は、今日見た場面を基礎として、短篇の小説を書こうかと思い付いた。それは橋の上の群衆が、死者を前にして、盛んに哄笑しているうちに、あまり多くの人々を載せていた橋は、その重みに堪えずして墜落し、今まで死者をわらっていた人たちの多くが、溺死をするという筋で、作者の群衆に対する道徳的批判を、そのうちに匂わせる積りであった。が、よく考えてみると、啓吉自身も、群衆が持っていたような、浮いた好奇心を、全然持っていなかったとは、いわれなかったのである。
時宜 じぎ。その時々に応じた。ちょうど良い頃合。適時。タイミング。
タイムリイ タイムリー。ちょうどよい折に行われる。時機を得ている
後ざま うしろざま。その人や物の、後ろのほう
白蠟 はくろう。白い蝋燭ろうそく。黄蝋を日光にさらして製した純白色の蝋。
穿う うがつ。穴を開ける。人情の機微や事の真相などを的確に指摘する。衣類やはきものを身につける。
カターストロフ  カタストロフ。ギリシア語のkatastrophēに由来。悲劇的結末。破局。
滲む にじむ。涙・血・汗などがうっすらと出る。
 おもて。顔。顔面。

芸術倶楽部跡と島村抱月終焉の地(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 平成28年に架け直した看板。所在地は区の説明では、9・10・11番地ですが、佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では9番地と書いてあります。歴史博物館に聞いた理由は「そう決めたから」ということ。う~ん。9、10番地を買って、一部を9番地に変えたのです。正しくは以下に掲載しました。

新宿区指定史跡

芸術げいじゅつ倶楽部くらぶあと島村しまむら抱月ほうげつしゅうえん
         所 在 地 新宿区横寺町9・10・11番地
         指定年月日 平成三年11月6日
 この地は、評論家・劇作家・演出家・小説家など、多彩な活動を行った島村抱月(1871~1918)が、女優松井須磨子とともに、近代演劇や文学・音楽・芙術の普及.発表、交流のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点「芸術倶楽部」の跡である.
 抱月は、幼名を瀧太郎といい、現在の島根県浜田市に生まれた。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学び、卒業後は母校の講師となり、イギリスやドイツに留学、帰国後は創作活動に入った。
 明治39年(1906)には、坪内つぼうち逍遙しょうようの文芸協会に参加し、西欧せいおう演劇えんげきの移植に努めたが、大正2年(1913)内紛ないふんから同協会を脱会し、芸術座を結成した。
 その拠点芸術倶楽部は、木造二階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 しかし、大正7年11月5日、スペイン風邪から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で急死した。享年47歳であった。傷心の須磨子は翌年1月5日、この倶楽部の道具部屋で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散となった。
 平成28年3月25日
新宿区教育委員会

スペイン風邪 現在はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)

島村抱月

島村抱月の終焉

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では

写真05-05-35-2で芸術倶楽部跡案内板が写真左端に見える。

 この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。

目白三平のあけくれ|中村武志


文学と神楽坂

 昭和32年(1957年)、中村武志氏が書いた「目白三平のあけくれ」です。昭和のゼロ年代から10年代にかけて神楽坂にどんな店舗があったのか、それを昭和30年代と比較しています。知らない店舗も多く出てきています。

    バナナの叩き売り

 神楽坂を登って行くと、左側の「田金」果実店のあたりに、「樽平」という飲屋があった。今では、新宿の「二幸」裏の横町や銀座の全線座の裏路地に支店を出しているが、当時は神楽坂だけであった。
 女気が全然なくて、ボーイさんがお銚子やお通しを運んで来た。酒もよく吟味してあって、お銚子一本十五銭であった。この実質的なのが一般に受けたのだろう。「樽平」は神楽坂で成功して、新宿へ支店を出したのだが、今では本家の神楽坂が駄目になって、新宿の方が繁昌しているわけだ。
 この「田金」果実店の並びに、「志満金」という蒲焼屋があるが、そのあたりに、当時は「ギンセン」という喫茶店があった。「ギンセン」では、二十五銭のカレーライスと、三十銭のハヤシライスを食べさせてくれた。味が非常によかったから、金のある時は、ここへいつも来たものだ。
 その頃、法政大学の食堂のカレーライスは、たしか十五銭だったと思う。安いことは安かったが、その代り、義理にもうまいとは云えなかった。

 昭和ゼロ年代の地図はひとつだけで、それは新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏が「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」で描いた昭和5年頃の地図なのです。下の地図では、この図から神楽坂下から上にかけて志満金などを中心に左側の商店だけを抜き出したものです。図の左側は昭和5年頃の商店、中央は平成8年12月の商店、右側は2017年の商店です。樽平、志満金、田金果実店はここに出てきます。

1930年頃1995年2017年
はりまや喫茶夏目写真館ポルテ神楽坂
白十字喫茶大升寿司
太田カバン神楽坂煎餅
今井モスリン店カフェ・ルトゥールY! mobile
樽平食堂ラーメン花の華天下一品
大島屋畳表田金果物店メガネスーパー
尾崎屋靴店オザキヤ靴オザキヤ
三好屋食品志満金 鰻志満金
増屋足袋店
海老屋水菓子店
八木下洋服田口屋生花田口屋生花

田金 果実店。右の図では左側の真ん中に。下の写真では青色の店舗。田金果実店はおそらく戦後に出てきた店舗で、2008年まではありましたが、2010年には終了しています。
樽平 山形の蔵元樽平酒造の直営店。昭和3年に神楽坂で開業。すぐに銀座に移転。新宿、銀座、上野、五反田にも出店。現在、神田だけですが、直営店があります。下の図では赤で囲んだ店。白木正光氏が編集した「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)には「左側にある瀟洒な構えの小店ですが、ここにはこうした類の酒店が尠いせいか、上戸党には大層な評判です。」と書いてあります。
二幸 1926年、「二幸食品店」が創業。現在は新宿アルタ。
全線座 映画館の1つ。1930年から早稲田全線座、銀座全線座、渋谷全線座等を運営。1938年(昭和13年)、京橋区銀座8丁目に洋館古城風の建物の「銀座全線座」を開業。
志満金 現在もある鰻屋。詳しくは志満金で。下の写真では黄色の店。

志満金前(昭和20年代後半)『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)

ギンセン 正しくは「銀扇堂」。菓子喫茶店。白木正光氏が編集した「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)には「坂の中腹左側。ベーカリー式の菓子、喫茶、カツレツ御飯(25銭)等婦人連にも好かれ(そう)な店です」。また、安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では「銀扇堂 坂の中腹左側。ベーカリー式な家で、比較的落付いた店です。喫茶の外にランチも出来コーヒーとケーキは此の店自慢のものです。場所柄粋な婦人連がよく出入りし、学生間にも却々好評です。高級の喫茶として、レコードにゆっくり落付ます。此所の洋菓子はなかなかうまい」。なお、「却々」は「なかなか」と読みます。

 せんだって、二十何年振りに、新装なった法政大学の建物を見せて貰った。五五年館の地下の立派な大食堂では、カレーライスが四十五円で、ハヤシライスが六十円だということであった。一度暇を見て、このカレーライスを賞味しようと思っている。
 右側の小間物店「さわ屋」は、昔から変りがないが、横町の丁度「さわ屋」の真裏に、「東京亭」という小さなカフェーがあって、友だちのH君が、そこの女給のいくよさんに可愛がられたようであった。いくよ姉さんは、間もなくパトロンを見つけて、横町の奥で「いくよ」という小料理屋を開いた。今はもう小料理屋の「いくよ」は影も形もなく、ましていくよ姉さんの消息なぞ知る由もない。
 また左側に移るのだが、山本薬局のあたりに、果実店の「田原屋」があった。喫茶部も経営していて、落ちついた感じのいい店であった。現在は、ずっと先の、毘沙門天善国寺の近くに、同名の小さな果実店があるが、これは弟さんが主人だということだ。

法政大学五五年館 千代田区富士見にある法政大学市ケ谷キャンパスの1つ。五五年館は赤丸。

さわ屋 以前はかんざし、櫛、かもじなどを扱う小間物店。現在は資生堂の一店舗として化粧品を販売。詳しくはさわやで。
東京亭 神楽坂仲通りにあった店舗。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では「白木屋横町 小食傷新道の観があって、おでん小皿盛りの「花の家」 カフェー「東京亭」 野球おでんを看板の「グランド」 縄のれん式の小料理「江戸源」 牛鳥鍋類の「笑鬼」等が軒をつらねています」と書いてあります。
いくよ 神楽坂仲通りにあった店舗。これ以上は不明。

昭和27年「火災保険特殊地図」から

山本薬局 神楽坂三丁目にありました。上の昭和27年の「火災保険特殊地図」では右端に近く、赤い店舗です。
田原屋 戦後、神楽坂中腹にあった果実店の田原屋はなくなりました。恐らくこの図で青の店舗です。

 坂を登り切った右側に「藤屋」という花屋がある。昔はこの店の前あたりで、毎晩のようにバナナの叩き売りをやっていた。戸板の上に、バナナを沢山並べて、大きな房には、はじめ七、八十銭の値段をつけ、買手がないと見ると、竹の棒で戸板を叩きながら、十銭刻みに値段を下げて行く。安いなと思うところで、お客が買ったと声をかけるのだ。
 安いバナナを買う時もあったが、慌てて声をかけたために、十銭くらい高く買わされたこともあった。とにかく、夜の神楽坂名物として、バナナの叩き売りは無くてはならないものであった。
 このバナナの叩き売りをやっていた人が、「藤屋」の前の、「ジョウトウ屋」という果実店の主人だそうだが、あの頃の毎晩の努力が実を結んだわけで、大変おめでたいことだと思っている。

藤屋 本多横丁の右角にあった店舗で、右図では左端の赤い店舗でした。以前は豊島理髪店で、昭和27年には「藤屋」に変わり、昭和35年ごろには、中華料理の「五十番」。平成28年(2016年)、五十番も本多横丁の右角から左角に移って、ここは新たに「北のプレミアムフード館 キタプレ」に。
ジョウトウ屋 確かにジョウトウ屋と書いています。「いや、ジヤウトーヤのほうが正しい」という議論はジョウトーヤで。図ではピンクの店舗。

柴田宵曲|漱石覚え書

文学と神楽坂

 柴田宵曲(しょうきょく)は、大正-昭和時代の俳人で、昭和10年、俳誌「こだま」を主宰し、また俳句に関する随筆や考証物をまとめています。著作に「古句を観る」など。これは随筆をまとめた『漱石覚え書』のうち「神楽坂」の全てです。
 柴田氏の言によれば、「『漱石覚え書』は、古書通信誌の昭和24年10月号から37年12月号にかけて、『藻塩草』の題名のもとに書かれた随筆のうちから、抽出したものであったことは、その『はしがき』にも明らかにせられるごとくである。」したがって「神楽坂」は第二次世界大戦後で、間もない時期に書かれたものでしょう。

     神楽坂

 震災を免れたため、下町か復興するまでの間、特に繁華を示した神楽坂も、今度の戦火で全く亡びてしまった。両側の店の明るい灯影の中に夜店が立って、幅の狭い道をぞろぞろと人の往来するあの町も、何時になったら旧に復するか、今になって考えるといろいろ連想に上ることが多い。
 横寺町の先生と云われた紅葉の家は、神楽坂を上って肴町電車通を突切ってから、左へ曲ったあたりに在ったらしい。あの辺で育った友人などは、子供の時分に太弓場で弓を引く紅葉を見かけたことがあるそうである。紅葉中心の世界が神楽坂に及ぶのは当然であろう。
紅白毒饅頭」に出て来る縁日の描写は、毘沙門の縁日の夜に出かけて行って、ノートに書止めた材料を使ったのだという。御供についた泉鏡花が玄関番になって間も無い頃で、紅葉もまだ二十五歳の若い盛であった。
 鏡花の書いたものに神楽坂が現れるのは珍しくない。彼が半生を回顧すれば、はじめて文学の上に立脚地を与えられた横寺町時代の事が、何よりもなつかしく浮んで来る筈だからである。「春著」という随筆には、紅葉を中心とした当時の世界――未だ志を得ざる門下の士の生活が浮彫のように描かれている。その中に一人混っていた後藤宙外、この人の「明治文壇回顧録」の中にも神楽坂附近の消息に触れたものが屡々ある。
 漱石の小説は「三四郎」を最後として本郷から離れた観がある。これは早稲田南町に移った結果であるが、彼としては自分の生れた町の近くに帰ったわけであった。「それから」の中で深夜神楽坂にさしかゝって強い地震を感ずる一条は、彼自身の経験であることが日記によって証せられる。
 主人公の書生が「今夜は寅毘沙ですぜ」という寅毘沙なるものは紅葉が「紅白毒饅頭」に用いた毘沙門の縁日なので、常でも人通りの多い神楽坂が、この夜は一層のを呈するのである。
「早稲田派の忘年会や神楽坂」という子規の句は明治三十一年の作である。抱月宙外筑水梁川等が「早稲田文学」に筆陣を張った頃であろう。「藁店や寄席の帰りの冬の月 五城」という句の藁店は昔の寄席で、そのあとが後に牛込演芸館になった。この演芸館の事は「それから」の書生も口にしているが、今日ではちょっと説明のしようが無い。文学に現れたところによって、過去の歴史を辿る外はあるまいと思う。


横寺町 下図を。

横寺町

横寺町

肴町 現在は神楽坂5丁目です。
電車通 現在は大久保通り。
紅白毒饅頭 モデルは蓮門(れんもん)教。明治初期に成立した新宗教。神道大成教に属する。教祖は島村みつ。コレラや伝染病が毎年のように流行する時に、この教団は驚異的に発展し、明治23年の信徒数は公称90万人。翌年、尾崎紅葉の『読売新聞』「紅白毒饅頭」などの批判を受け、また既成宗教から「邪教」として集中的な攻撃を受け、明治末には急激に衰退し、教団も分裂し、第二次世界大戦時には消滅した。
明治文壇回顧録 後藤宙外氏が描く『明治文壇回顧録』は、昭和11年に岡倉書房から出版されたもので、尾崎紅葉氏や島村抱月氏の回想は特に生彩が高いといわれています。氏が初めて紅葉氏と会った場所は横寺町で、ここにその一端を載せます。

 明治三十年五月頃、「作家苦心談」の筆記のために、牛込横寺町の尾崎紅葉氏を訪うて、初めて面晤することを得たのである。私は明治二十年頃からの氏の作は大抵讀んで居り、才人であり、好男子であることも聞いて居りましたが、親しく其の人に接して話を聞いたのは、この時が初めてであつた。かねて想像したよりは、強健さうな體格で、身の長も尋常の人よりは高い方であり、態度も何となく男らしく、所謂キビ/\したサツパリとした男ぶりに見えた。文人によくある色の生ツちろい、 弱々とした優男ではなかつた。眼のぱツちりした明るい顔で、活氣にみちて居られた。これは後に門下の某君から聞いたことだが、徴兵檢査の際には砲兵科の甲種合格であつたと云ふことだ。これを以て青年時代の同氏の體格と健康との程度が察しられる。

屡々 しばしば。同じ事が何度も重なって行われる様子。たびたび。
早稲田南町 下図を。この場所は現在、漱石山房記念館に。

強い地震 夏目漱石作の「それから」「八の一」で強い地震が出てきます。

 神楽坂かぐらざかへかゝると、ひつそりとしたみちが左右の二階家にかいやはさまれて、細長ほそながまへふさいでゐた。中途迄のぼつてたら、それが急に鳴りした。代助はかぜむねに当る事と思つて、立ちまつてくらのきを見上げながら、屋根からそらをぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。と障子と硝子がらすおとが、見る/\はげしくなつて、あゝ地震だと気がいた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでゐた。其時代助は左右の二階さかうづむべく、双方から倒れてる様に感じた。すると、突然右側みぎかはくゞをがらりとけて、小供をいた一人ひとりの男が、地震だ/\、大きな地震だと云つてて来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
 うちいたら、婆さんも門野かどのも大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人ふたりとも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置しやうかと思案して見た。然し分別をらす迄には至らなかつた。ちゝあにの近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡をめた。さうしてねむりに入つた。

寅毘沙 「それから」の「八の六」に寅毘沙や演芸館が出てきます。

代助は書斎に閉じ籠こもって一日考えに沈んでいた。晩食の時、門野が、
「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、些ちと御散歩になりませんか。今夜は寅毘沙(とらびしゃ)ですぜ演芸館支那人(ちゃん)の留学生が芝居を()ってます。どんな事を演る積りですか、行って御覧なすったらどうです。支那人てえ奴は、臆面(おくめん)がないから、何でも()る気だから呑気(のんき)なものだ。……」と一人で喋舌(しゃべ)った。

 しん。にぎわう。
五城 作は数藤五城氏でしょう。
説明のしようが無い 寄席や舞台が中心でした。また私立東京俳優学校もここで開校しています。この場所は牛込館になりました。



[硝子戸]

織田一磨|武蔵野の記録

文学と神楽坂

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録:自然科学と芸術』(洸林堂書房、1944年)です。氏は版画家で、版画「神楽阪」(1917)でも有名です。ちなみにこの版画は「東京風景」20枚のなかの一枚です。

       一四 牛込神樂坂の夜景
 山の手の下町と呼ばれる牛込神樂坂は、成程牛込、小石川、麹町邊の山の手中に在って、獨り神樂坂のみはさながら下町のやうな情趣を湛えて、俗惡な山の手式田舍趣味に一味の下町的色彩を輝かせてゐる。殊に夜更の神樂坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいへば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は十一時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四邊に散亂した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都會生活は價値を失ふ。
 繁華の地は、深更に及ぶに連れて、宵の趣きは一變して自然と深更特殊の情景を備へてくる。この特色こそ都會生活の興味であつて、地方特有のカラーを示す時である。それが東京ならば未だ一部に殘された江戸生活の流露する時であり、大阪ならば浪花の趣味、京都ならば昔ながらの東山を背景として、都大路の有樣が繪のやうに浮び出す時であると思ふ。屋臺店のすし屋、燒鳥、おでん煮込、天ぷら、支那そば、牛飯等が主なもので、江戸の下町風をした遊人逹や勞働者、お店者湯歸りに、自由に娯樂的に飲食の慾望を充たす平易通俗な時間である。こゝに地方特有の最も通らしい食物と、平民の極めて自由な風俗とが展開される。國芳東都名所新吉原の錦繪に觀るやうな、傳坊肌の若者は大正の御世とは思はれない位の奮態で現はれ、電燈影暗き街を彷徨する。

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

牛込、小石川、麹町 代表的な山の手をあげると、麹町、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、本郷、小石川など。旧3区は山の手の代表的な地域を示しているのでしょう。
夜更 よふけ。深夜。
大戸 おおど。おおと。家の表口にある大きな戸。
散乱 さんらん。あたり一面にちらばること。散り乱れること。
五色 5種の色。特に、青・黄・赤・白・黒。多種多様。いろいろ。
下町情調 下町情調。慶應義塾大学経済学部研究プロジェクト論文で経済学部3年の矢野沙耶香氏の「下町風景に関する人類学的考察。現代東京における下町の意義」によれば、正の下町イメージは近所づきあいがあり、江戸っ子の人情があり、活気があり、温かく、人がやさしく、楽しそうで、がやがやしていて、店は個人が行い、誰でも受け入れてくれ、家の鍵は開いているなど。負のイメージとしては汚く古く、地震に弱く、下品で、中小企業ばかりで、倒産や不景気があり、学校が狭く、治安が悪く、浮浪者が多いなど。中立イメージでは路地があり、ごちゃごちゃしていて、代表的には浅草や、もんじゃ焼きなどだといいます。下町情調とは下町から感ずる情緒で、主に正のイメージです。
 おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿。あるものを思い起こさせる顔つき・ようす。実際には存在しないのに見えるように思えるもの。まぼろし。幻影
流露 気持ちなどの内面が外にあらわれ出ること。
浪花 大阪市の古名。上町台地北部一帯の地域。
東山 ひがしやま。京都市の東を限る丘陵性の山地。
都大路 みやこおおじ。京都の大きな道を都大路といいます。堀川通り・御池通り・五条通りが3大大通り。
屋台 やたい。屋形のついた移動できる台。
牛飯 ぎゅうめし。牛丼。牛肉をネギなどと煮て、汁とともにどんぶり飯にかけたもの。
遊人 ゆうじん。一定の職業をもたず遊び暮らしている人。道楽者。
お店者 おたなもの。商家の奉公人。
湯歸り 風呂からの帰り。
東都名所 国芳は1831年頃から『東都名所』など風景画を手がけるようになり、1833年『東海道五十三次』で風景画家として声価を高めました。
傳坊肌 でんぽうはだ。伝法肌。威勢のよいのを好む気性。勇み肌。
舊態 きゅうたい。旧態。昔からの状態やありさま。
電燈 でんとう。電灯。電気エネルギーによって光を出す灯火。電気。

 卑賤な女逹も、白粉の香りを夜風に漾はせて、暗い露路の奥深く消え去る。斯かる有樣は如何なる地方と雖も白晝には決して見受られない深夜獨自の風俗であらう。我が神樂坂の深更も、その例にもれない。毘沙門の前には何臺かの屋臺飲食店がずらりと並ぶ。都ずし、燒鳥、天ぷら屋の店には、五六人の遊野郎の背中が見える。お神樂藝者の眞白な顏は、暗い街にも青白く浮ぶ。毘沙門の社殿は廢堂のやうに淋しい。何個かの軒燈小林清親の版畫か小倉柳村の版畫のやうに、明治初年の感じを強めてゐる。天ぷらの香りと、燒鳥の店に群集する野犬のむれとは、どうしても小倉柳村得意の畫趣である。夜景の版畫家として人は廣重を擧げるが、彼の夜景は晝間の景を暗くしただけのもので夜間特有の描寫にかけては、清親、柳村に及ぶ者は國芳一人あるのみだ。
 牛込區では、早稻田とか矢來とかいふ町も、夜は繁華だが、どうも洗練されてゐないので、俗趣味で困る。田舍くさいのと粹なところか無いので物足りない。この他にも穴八幡赤城神社築土八幡等の神社もあるが、祭禮の時より他にはあんまり人も集まらない。牛込らしい特色といふものはみられない。強ひて擧げれば關口の大瀧だが、小石川と牛込の境界にあるので、どちらのものか判然としない。江戸川の雪景や石切橋の柳なんぞも、寫生には絶好なところだが、名所といふほどのものでは無い。

卑賤 ひせん。地位・身分が低い。人としての品位が低い。
都ずし 江戸前鮨(寿司)は握り寿司を中心にした江戸郷土料理。古くは「江戸ずし」「東京ずし」とも。新鮮な魚介類を材料とした寿司職人が作る寿司。
遊野郎 ゆうやろう。酒色におぼれて、身持ちの悪い男。放蕩者。道楽者
お神樂藝者 おかぐらげいしゃ。牛込神楽坂に住む芸妓。
廃堂 廃墟と化した神仏を祭る建物。
軒燈 けんとう。家の軒先につけるあかり
画趣 がしゅ。絵の題材になるようなよい風景
早稲田矢来 地図を参照。
俗趣味 低俗な趣味。俗っぽいようす
穴八幡、赤城神社、築土八幡 地図を参照。

穴八幡、赤城神社、築土八幡

江戸川 神田川中流の呼称。ここでは文京区水道・関口の江戸川橋の辺り
石切橋 神田川に架かる橋の1つ。周辺に石工職人が多数住んだことによる名前。

神楽坂と江戸川|生田春月

文学と神楽坂

生田春月 生田(いくた)春月(しゅんげつ)氏の「神楽坂と江戸川」です。生田氏は詩人、小説家で、生年は明治25(1892)年3月12日。没年は昭和5(1930)年5月19日です。したがって、31歳の時に書いた随筆です。関東大震災の年に書いていますが、大震災は9月、この随筆は6月なので、事後ではなく事前に書いています。
 いかにもいい感じなのですが、9月になると銀座、浅草や上野は震災で潰れます。が、神楽坂は全く以前と同じく生活が続きます。しかし、それから二、三年後、銀座や新宿は以前にも増して新興、復興してくるのですが、神楽坂はまったく動きがありません。その結果、「活気がない」「黴臭い」「非近代的」などと言われてしまいます。

 私は牛込に住んでもうかれこれ十年以上になる。二三度引越しはしたが、それもやはりこの界限で、いつも神樂坂と江戸川と、兩方に同じ距離を保つた地點にゐるものだから、時々讀書や執筆に疲れて、氣がくさくさして來ると、そのどちらかへ散歩をする。(中略)
 だが、牛込も神樂坂の方に出ると、早稲田方面の新開地氣分は頓になくなつて、おちつきのある大きい店が綺麗に並んで活動寫眞とか、バアとか、レストオランとかが、夏の夜などは粧ひをこらして、いかにもすつきりとした明るい都會情調をただよはせてゐる。銀座などのやうに、あまり高踏的でもなく、浅草や上野のやうに俗つぽくもない。賑かで、しかもしつとりしてゐる。學生が多く、令嬢が多く、若い文士などが、夜更けに高聲で話しながら歩いてゐる。ふと氣がむいて、コオヒイなどのみに出かけると、そこらあたりでいい機嫌になつた小説家が、帽子をあみだにかぶり、ふらふらと歸つて來るのに出逢ふ時は、おのづからほほゑまれる。曾て小川未明氏が、牛込からはなれるのを惜まれたのは、この神樂坂の情調をあのやうに好んで、日々幾度も散歩されたからであらう。私もいつかは郊外に引越して、日當りのいい家に住みたいと思ふのだが、この神樂坂のそばから、いよいよ離れてしまふとなれば、私も多分また、どんなにこの町に別れがたたく思ふ亊であらう。
〔大正十二年六月〕


江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
新開地 新しく開けた市街地
粧ひ よそおい。外観・設備や身なりなどを美しく飾りととのえること。
高踏的 こうとうてき。世俗を離れて気高く身を保っているさま
あみだ 帽子などを前を上げて後ろを下に、斜めに傾けてかぶること

Café jokyû no uraomote

文学と神楽坂

 小松直人氏が書いたCafé jokyû no uraomote(二松堂、昭和6年、『カフェー女給の裏表』と読むのでしょう)の一部ですが、しかしこの本では神楽坂はここだけです。

淋しい神樂坂

 山の手銀座(ぎんざ)の名をほしいま丶にして、神樂坂(かぐらざか)大震災(だいしんさい)以前(いぜん)までは、山の手における代表的な(さか)()であっだ。それが、震災(しんさい)()、新宿の異常(ゐじやう)發展(はつてん)けおされて、すっかり盛り場しての盛名(せいめい)をおとしてしまつた。
 その證據(しやうこ)には、時代の寵兒(ちやうじ)たるカフエが、こゝにはきはめてまぼらにしか、存在(そんざい)しない。それも、カフエオザワをのぞけば、外のカフエはぐつと()ちて、場末(ばすゑ)のそれと大差(たいさ)がない。
 省線(しやうせん)飯田橋(いひだばし)(えき)で下車して、電車道をのりこえ坂をのぼつて行けば、左側(ひだりがは)ユリカ神養亭(しんやうてい)の兩カフエが並んでゐる。ユリカは神樂坂(かぐらざか)界隈(かいわい)切つてのハイカラなカフエで、女給(ぢよきふ)の數は十人を()え、サービスも先づ申し分がない。それに隣る神養亭(しんやうてい)は、レストラン()みて面白(おもしろ)くない。


山の手銀座 下町の銀座は銀座です。こう書くのは抵抗がありますが、しかし昔の銀座は典型的に下町でした。一方、山の手の銀座は神楽坂です。大震災ごろから言い始めたようですが、昭和4年ごろから新宿のほうが大きくなりました。
ほしいまま 思いのままに振る舞う。自分のしたいようにする。
大震災 関東大震災。1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒、マグニチュード7.9の地震です。震源は神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)。
けおとす ()(おと)す。すでにその地位にある者や競争相手をおしのける。
盛名 りっぱな評判。盛んな名声
寵児 世にもてはやされる人。人気者
カフエ カフェーの始まりは、明治44年、銀座に開業したカフェー・プランタンです。経営者は洋画家平岡権八郎と松山省三。パリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場としてスタート、本場のCafeの店員は男性ですが、ここでは女給。美人女給を揃えたカフェー・ライオンなどの店が増えましたが、まだ料理、コーヒー、酒が主です。
カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後で、翌年(1924年)、銀座に開業したカフェータイガーは女給の化粧が派手で、体をすり付けて話をする、といったサービスで人気がでます。昭和に入り、女給は単なる給仕(ウエイトレス)ではなく、ホステスとして働き、昭和8年(1933年)には風俗営業の特殊喫茶として警察の管轄下に置かれました。
この本も昭和6年に書かれていますので、かなりホステス的な女給も多かったのでしょう。
カフエオザワ 神楽坂4丁目でした。オザワについてはここで。場所はここ
場末 繁華街の中心部から離れた場所。また、都心からはずれた所
電車道 路面電車の軌道が敷設された道路。電車通り。ここでは外堀通り
ユリカ、神養亭 いずれも神楽坂2丁目にありました。現在は全て理科大の「ポルタ神楽坂」です。図の左は神楽坂上、右は神楽坂下になります。なお、ユリカについてはここで書いています。

ユリカと神養亭

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」を元に作っています

ハイカラ 西洋風で目新しくしゃれていること。英語のhigh collar(高い襟)から。もともとは高い襟をつけ、進歩主義・欧米主義を主張した若い政治家のこと。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性

 オザワは、相變(あひかは)わらずだが何と云ても、神樂坂(かぐらざか)のカフエのピカ一である。細長(ほそなが)い建物は時代向ではないが、一(しゆ)(かほ)りを持つてゐて落ちつけるのは流石(さすが)である。女給(ぢよきふ)は十四五人も居ようか、そのサービスは上品(じやうひん)で、大向ふをうならせる(やう)エロサービスではないが、店とビツタリしてゐて申し分がない。(つよ)刺戟(しげき)を求めようとする客は失望(しつぼう)するであらうが、しんみりとしたカフエ氣分(きぶん)(あじは)はうとする(きやく)は、この店に來てゴールドンスリツパーをなめるもよし、黒松白鷹(くろまつはくたか)の一本をかたむけてみるもよからう。

ゴールデンスリッパー

大向こう 舞台から見て正面の後方にある一幕見の立見席 転じて,一般の見物人
大向こうを唸らせる おおむこうをうならせる。芝居などで大向こうの観客を感嘆させる。一般の人々に大いに受ける
エロサービス エロはエロティック、30~31年(昭和5~6)を頂点とする退廃的風俗。昨今のポルノ風俗に比べればその露出度はたわいもないといわれています
ゴールデン・スリッパー Golden Slipper Cocktail。リキュールをベースとするカクテル。リキュールの女王といわれるイエロー・シャルトリューズ(薬草のリキュール)と金粉の入ったゴールド・ワッサーを使った豪華なカクテル。卵黄を用いた濃厚な味はナイト・キャップに最適。
黒松白鷹 本醸造の日本酒。甘・辛・酸のバランスのとれたなめらかな味わい

 肴町(さかなまち)停留所(ていりゆうじよ)の近くに、震災直後プランタン支店(してん)が出來て、牛込一帯に()んでいた、文士連や畫家達(ぐわかたち)が盛に出没(しつぼつ)したが、今ははかない、神樂坂(かぐらざか)カフエロマンスの一頁をかざつてゐるにすぎない。
カフエハクセンは、地域(ちゐき)の關係上文壇(ぶんだん)切つての酒豪(しゆごう)水守龜之助をはじめとして、一時盛に新潮社(しんちようしや)關係(かんけい)お歴々出没(しゆつぼつ)したが、今はもうここへ立寄(たちよ)る人も少ない。
 この(ほか)に、神樂坂(かぐらざか)一帯にはミナミ、コーセイケン、ホマレ亭、ヴランド、シロバラ、ヤマダ、ホーライケン(とう)のカフエがあるが、いづれもあまり立派(りつぱ)な店ではない。

肴町停留所 現在は都電のほとんどはなくなりました。これは都バスの停留所「牛込神楽坂」になりました。
プランタン 明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように店が変わりました。ここで詳しく。昔の岩戸町二十四番地、現在は岩戸町一番地です。
画家達 鏑木清方氏、竹久夢二氏、梶田半古氏、川合玉堂氏、小杉小二郎氏、鍋井克之氏など
カフエロマンス カフェで起きた恋。恋愛小説
カフエハクセン 場所はわかりません。矢来町、横寺町、神楽坂6丁目などでしょうか。
水守亀之助 明治19年(1886年)6月22日~昭和33年(1958年)12月15日。明治40年、田山花袋に入門。大正8年(1919年)中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏と言われました。
新潮社 しんちょうしゃ。出版社。文芸書の大手。
歴々 身分・地位などの高い人々。多く「お歴々」の形で用います。おえらがた
ミナミなど 場所はまずわかりません。ヴランドはどこだかわかりませんが、当時の3丁目の牛込会館の地下に「カフェーグランド」がありました。ここは現在「サークルKサンクス」です。また5丁目にも「グランドカフェ」がありました。現在は「手打ちそば山せみ」です。また「ヤマダ」は現在、3丁目のヤマダヤと同じ場所に「カフェ山田」がありました。

懐かしの神楽坂|小菅孝一郎

文学と神楽坂

 平成7年(1995年)『ここは牛込、神楽坂』第3号「懐かしの神楽坂」に小菅孝一郎氏が書いた「思い出の神楽坂」を取り上げます。小菅孝一郎氏は大正4年に生まれ、伊勢丹に入社、常務取締役、監査役、相談役を経て平成6年に退任した人です。「遠政」と「寿徳庵」はどこにあったのかという問題です。

 お袋に頼まれて、本多横丁の「遠政」へ紅白のはんぺんや、煮凝りを買いに行ったこともある。遠政の前の路地を入ったところに芸妓置屋があって、ここが家の家作だった。そこへ地代を取りに行かされて、生まれて初めて芸者屋の敷居をまたいだ時は、こちこちでろくに口もきけないほどだった。
 長じてからは、神楽坂の花柳界にもよく出入りするようになったが、その頃はまったく純真なものだった。

遠政 新宿区教育委員会が書いた『古老の記憶による関東大震災前の形』(神楽坂界隈の変遷、昭和45年)では「カマボコ・遠政」と出てきます(左図)。また『ここは牛込、神楽坂』第5号の「戦前の本多横丁」では「2間間口の大きく古風な店。煮こごりで有名だった」と書いています(右図)。なお、煮こごりとは煮魚などの煮汁が冷えて凝固したもの。
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 これから場所は、昭和12年の『火災保険特殊地図』(都市製図社、左図)では「遠政?」と書いておきました(左図)。現在は「おでん せつ」です(右図)。
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 戦後は鳥静商店のはすかいにありました。

住宅地図。1984年

住宅地図。1984年

はんぺん 半片、半平。 魚のすり身にヤマノイモなどを加えて 成形し、ゆでたもの。
煮凝り にこごり。魚などの煮汁が 冷えて固まったもの
路地 「前の路地」となっているので、ここでは「紅小路」でしょう
芸妓置屋 げいぎおきや。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。置屋
家作 かさく。人に貸して収入を得るため持っている家。貸し家。下の絵で、青で書いた(妓)のどれかなのでしょう
地代 じだい。他人の土地を借りた者がその地主に支払う借地料
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳界の巷(ちまた)

 坂下の、坂に向かって左側に「寿徳庵」という古くからの菓子屋があって、素甘とか茶通など、東京の昔ながらの菓子を売っていて、そこの女将さんが無愛想だったという印象もなぜか未だに忘れられない。
 いまの甘味の「紀の善」はもとは寿司屋で、その前に屋台を出していたのが、この雑誌の二号にもあった、熊公焼きである。これは要するにお好焼きのあんこ巻きなのだが、二、三人待たないことには買えなかった。焼きたてを紙に包んで急いで家に帰って食べると、まだほかほかとしていて何ともいえずおいしかった。
素甘 すあま。餅菓子の一種。蒸した粳(うるち)に白砂糖を入れて作った餅菓子
茶通 ちゃつう。砂糖と卵白とをすりまぜ、小麦粉と片栗粉を入れてこねた皮でゴマ入りのあんを包み、その上に茶の葉をつけて焼いた菓子

素甘(すあま)と茶通(ちゃつう)
すあま 茶通