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チッチと子|石田衣良

文学と神楽坂

 石田衣良石田衣良(いら)氏が平成21年(2009年)に書いた本『チッチと子』です。主人公は作家で、神楽坂のマンションに住んでいます。最初は「オール秋冬」の編集者と話が始まります。ちなみに「オール讀売」は文藝春秋が発行する月刊小説誌です。
 氏は広告会社をへて、コピーライターに。生年は昭和35年3月28日。成蹊大卒。平成15年、東京月島を舞台に家庭内暴力や援助交際の中学生をえがいた短編集「4TEEN フォーティーン」で直木賞を受賞しています。

「お疲れさまでした。お原稿、いただきました」
 さすがに若い米山も声がやつれていた。
「またぎりぎりになっちゃった。ごめんなさい」
 耕平は恐るおそる質問した。
「また、ぽくがラストだったのかな」
 米山が(せき)払いをして、耕平は跳びあがりそうになった。迷惑をかけたあとの編集者は怖い。
「いえ、まだ吉原(あかね)さんがはいってないんです。青田さんと吉原さんがいっしょの月は、ほんとにカンベンしてほしいんですけどね」
「そうだよねえ」
「なんですか、他人事みたいに。原稿はあとでゆっくりと拝読させてもらいます。ゲラがでるのはお昼すぎになりますから、今日中におもどしください。どうもお疲れさまでございました」
 最後の挨拶(あいさつ)だけは、歴史ある出版社らしくていねいだった。編集者にはまだまだこのあと入稿作業があるのだ。たいへんな仕事である。普通の作家なら書きあがったとたんにベッドに倒れこめばいい。このまま眠れたら、どんなに楽だろうか。
 耕平は書斎の壁の時計を見あげた。もうすぐ朝の六時になる。窓の外、マンションの十二階のバルコニーのむこうに、おもちゃのような神楽坂の街が広がっていた。空は夜明けまえの透きとおった明るい紺色だ。
(また徹夜してしまった)

 耕平のマンションは神楽坂の住宅街にある。昼間からいつもふらふらしているので、なるべく近所を歩くときでも、きちんとジャケットを着るように心がけていた。もちろん作家という仕事柄、ある程度の人目も気にしなければならなかった。ごく少数とはいえ、いつファンだという人間に出会うかわからない。
 もう四シーズン目になるネイビーのカシミアジャケット(一週問悩んで買ったもの)にダメージ加工のされていないプレーンなジーンズとタートルネックのセーターをあわせた。セーターはあざやかなウルトラマリンだ。これなら休日の会社員に見えなくもないだろう。さて、ランチはどの店でたべようか。和食だけでなく、イタリアン、フレンチ、チャイニーズとおいしいけれど、財布にやさしい店がそろっているのが、この街の成熟したところである。(略)
 耕平がむかったのは神楽坂の坂したにある喫茶店だった。ログキャビン風の重厚な造りで、ギャラリーを兼ねているのか、二階には美術品が飾られている。その日は針金細工の立体作品だった。いつも空いているので、編集者との打ちあわせによくつかうカフェである。
 耕平のむかいに座るのは、英俊館の第二文芸部に籍をおく編集者、岡本静江だった。多くの出販社では第一文芸部が純文学で、第二文芸部がエンターテインメントの小説を担当している。作家の分類はどの賞をとり、どの文芸誌でデビューしたかで、自動的に振り分けられているようだった。

 主人公の住処はマンションの12階にあり、住宅街にあります。これはおそらく神楽坂6丁目や白銀町などを指すのでしょう。また、確かに神楽坂のレストランはほかの場所と比べて安いものが多いと思います。ただし、最近の店では正々堂々とほかの東京と同じ値をつけることもありますが、借料がない人なら昔と同じ値段で店を開くことができます。

 坂下にある喫茶店というのは、本が出た時にはなくなっていましたが、「巴有吾有(パウワウ)」以外にあり得ません。場所はここ。木造の山小屋風で、2階はギャラリー、しかし、2006年にはなくなり、代わって理科大の巨大な「ポルタ神楽坂」の一部になりました。

かつての巴有吾有。今はなくなりました。

  でも、この本では神楽坂はあくまでも背景のひとつなのです。さっと終わってしまう。この本では一回も神楽坂独自の話はなく、昔の逸話なども触れないのです。「神楽坂」の言葉は多い、でもそれだけでした。

石版東京圖繪|永井龍男

文学と神楽坂

永井 龍男 永井龍男氏の『石版東京圖繪』のある章「バラック」です。関東大震災で下町はやられましたが、神楽坂はほとんど無傷でした。

 氏は小説家で鎌倉文学館の館長でした。生年は明治37(1904)年5月20日。没年は平成2(1990)年10月12日。大正7年、一ツ橋高小卒。大正9年、文芸誌「サンエス」に「活版屋の話」が当選。昭和2年、文芸春秋社入社。14年「文芸春秋」編集長、20年退社。戦後は創作が中心で、昭和24年、「朝霧」で横光利一賞受賞。格調高い文章で知られる短編の名手といわれました。

 関東大震災の被害は、東京の下町にはなはだしく、そのほとんどの地域を(かい)(じん)と化した。下町気質(かたぎ)とか、下町風と呼ばれた風俗も、この時以来東京から消滅した。(略)
「仕事をするにも、この焼けっ原じゃあ」
「だから、おれ達の天下がくる。細かい話は、今夜ゆっくりだ。おれのいま居るところは、牛込の軍隊仲間の家だ。なあに、見渡す限り焼けっ原のようだが、神楽坂を上ってみろ。昔のまんま東京が残ってる。なんなら池の端あたりまで歩いてみるか」(略)
「いいか、下町はみんな焼けちまって、牛込麻布と、山の手は大した景気だ」(略)
 卯之吉が云った通り、飯田橋を一つ渡って神楽坂にかかると、昔のままの東京があった。
灰燼 灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと
下町気質 人情深くて、祭りと喧嘩好き。何かと世話を焼きたがる。兄貴肌か姉御肌。
池の端 辞書では「池之端」は東京都台東区の地名で、「池の端」は一般に池がある端。「池之端」を指すのでしょう。
牛込麻布 下町は壊滅的な被害を受けましたが、牛込と港区麻布十番周辺は被害も少なかったようです。
 商店は軒並み落着いて商売をしていたし、浴衣(ゆかた)で町を歩いている女達も、どこということはないが、「ああ、東京へかえってきた」と思わせる、(あか)抜けした風俗であった。(略)
「神楽坂の待合なんぞも、表向きは遠慮しているが、裏にまわると、結構陽気に商売をはじめている。立ちおくれは禁物だ」(略)
 神楽坂には、日本橋で焼けた三越松屋、銀座の村松資生堂、さてはカフエー・プランタンなどが、出店を開くような繁昌振りで、東京一の盛り場にのし上った。
 夜店が両側に軒を連ね、人の出盛りには肩をぶつけんばかりの賑やかさで、その中を座敷着(おんな)が、横丁から横丁へ人をかきわけながら抜けて通る。
 毘沙(びしや)門さまあたりが中心になるが、その石の鳥居の手前を入って真直(まつす)ぐ、待合や小料理屋の前を過ぎると、急に闇が濃くなる。

垢抜け 容姿、性格などが洗練され、素人っぽさや野暮臭さがなくなる
立ちおくれ 着手する時機を失うこと
座敷着 芸者や芸人などが客の座敷に出るときに着る着物
 酒席で、音曲・歌舞などをもって客をもてなす女。芸妓。芸者
手前 毘沙門横丁でしょう。
待合 客と芸妓の遊興などのための席を貸して酒食を供する店

女坂|円地文子

文学と神楽坂

円地文子

 昭和32年1月、円地文子氏は「女坂」を「別冊小説新潮」に発表しました。さらに、昭和24年から1連の物語を「女坂」の章に加えて「角川小説新書」の1つとして発表します。ここでも神楽坂は「お神楽芸者などと安く扱われる山ノ手の二、三流地」、つまり依然ぱっとしない場所でした。
 氏は小説家、劇作家。生年は明治38年(1905年)10月2日。没年は昭和61年(1986年)11月14日。国語学者上田万年かずとし(あるいは、まんねん)の二女。戯曲から小説に転じ、女の業や怨念を官能美の中に描写。源氏物語の現代語訳にも尽力。「ひもじい月日」「女坂」など。

 神楽坂の坂上で、友禅の長い雛妓追羽根を突いている。それを傍に立って見ている(ねえ)さん芸者はまだ昼間だというのに変り色の御座敷着(つま)をとって鹿の子絞り長襦袢をこれ見よがしにのぞかせていた。ここらの芸者にしては、着物も帯も品がよく、殊に手に下げている吉右衛門の「石切梶原」の大羽子板は、薬研堀(やげんぼり)の市でも二十円よりは値切れまいと思う上物である。三、四年続いたヨーロッパの大戦争のお蔭で、軍需品や船会社の株は驚くばかり騰貴(とうき)した。有名な船成金が大阪の 芸者の()裾模様にダイヤの大粒をちりばめた噂さえあって花柳界は戦争景気でどこも繁盛(はんじよう)している。お神楽芸者などと安く扱われる山ノ手の二、三流地でもこの程度の(こしら)をするのだから一流どころでは猶更だろう。倫は恰好よく(びん)の張った芸者の横顔を眺めて歩き過ぎながら、もうこの二十年ほど近づきなしに過した昔の新橋の芸者達の顔をあれこれ思い浮べた。夫の行友が警視庁の高級官吏だった時代には官宅で宴会をすると云えば新橋の芸者が酌人に招ばれて来た。その中には何人か行友の馴染もあって、そんな女達が待合の女将(おかみ)や女中頭と一緒に堅気な縞物に玩具のような小綺麗な手土産を下げて、昼間機嫌ききに来ることもよくあった。今からみれば思いきって赤い色を嫌う地味な年増づくりだった けれどもあの芸者たちは大方二十歳をちょっと越えたぐらいの若さだったであろう。

友禅 染め物の1手法。糊置(のりお)き防染法。特色は人物・花鳥などの華麗な絵模様。本来はすべて手描(てが)き。明治以降型紙を用いた型友禅ができ、量産に
 たもと。和服のそでの下の袋状の所
雛妓 すうぎ。一人前でない芸妓。半玉(はんぎょく)
追羽根 おいばね。二人以上で交互に一つの羽根を羽子板で落とさないようにつく正月の遊び。
姐さん芸者 先輩を呼んでいう語
変り色 かわりいろ。普通とは違った珍しい色
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
 長着の(すそ)の左右両端の部分。裾の左右両端が褄(褄先、つまさき)。そこから(えり)までが立褄。

鹿の子絞り かのこしぼり。布を小さくつまんでくくった絞り染め。鹿の背の白いまだらに似ている
長襦袢 和服の間着(あい)ぎで、長着と同じ長さの襦袢
http://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/f83a62462cfb7355382301d0b56f5423
 すそ。衣服の下の(へり)
吉右衛門 歌舞伎俳優。屋号は播磨屋。東京生まれ
石切梶原 いしきりかじわら。人形浄瑠璃の時代物「三浦(みうらの)大助(おおすけ)紅梅(こうばい)(たづな)」(長谷川千四ら作。1730年初演)三段目切の通称。梶原景時(かげとき)が石の手洗い鉢を切って名刀の切れ味を示す所。下図は石切梶原の羽子板です。もちろん吉右衛門が登場します。

http://mimosa24.exblog.jp/19024370/
薬研堀 江戸時代、現在の東京都中央区東日本橋両国にあった堀の名。江戸中期に埋め立てられました。不動堂があり、また付近は芸者や中条流の医師が多く居住しました
大戦争 第一次世界大戦です。大正3年(1914年)から大正7年(1918年)まで行いました。
騰貴 物価や相場があがること
 出どころ。出身地・出身校など
裾模様 すそもよう。着物の裾につけた模様。その模様をつけた衣服
お神楽芸者 御神楽芸者。おかぐらげいしゃ。牛込区神楽町に住む芸妓のこと
二、三流地 酔多道士戯著「東京妓情」の「巻の上」(明治16年)で花柳地24ヶ所を1等地より5等地までに分けていました。下図を見てください。1等地は両国橋の柳橋、銀座通の新橋。2等地は銀座の数寄屋橋、人形町の葭町(よしちょう)。3等地は鳥森、日本橋、芳原、芝神明、講武所、湯島天神。4等地は深川仲町、日本橋本石町、神楽坂。5等地は新富町、猿若町、向島、浅草広小路、糀町、本所松井町、蒟弱島、西ノ久保、三田、赤坂、根津でした。昔は4等地だったんですね。「全国花街めぐ里」(昭和4年)では二等地になっていますが、赤坂は一等地になっています。
東京妓情 拵え 準備。用意。支度(したく)
 ビン。耳ぎわの髪。頭髪の左右側面の部分
酌人 しゃくにん。宴席で酒の酌をする人
馴染 同じ遊女のもとに通いなれること。その人。客にも遊女にもいう
縞物 縞織物(しまおりもの)に同じ。縞模様を織り出した織物
機嫌きき 安否やようすを聞く
年増づくり 年増は娘盛りを過ぎた女性。年増づくりはそのよそおい、身なり、化粧


文豪の素顔|森鴎外(1)

文学と神楽坂

 長田幹彦氏が1953年の66歳の際に書かれた『文豪の素顔』です。氏は1887年3月1日に生まれ、没年は1964年5月6日なので、これは21歳に起きたことです。この日、森鴎外氏、上田敏氏、夏目漱石氏が一か所に集まったのです。これはその時の話です。

 森鴎外
 今夜の青楊会の会合は午後六時の開宴である。今は丁度三時だ。まだ彼これ三時間間があるわけである。はその間に何んとかして兄秀雄と二人分の会費を算段してこなくてはならないのである。二人で十円あれば、悠々と会へ出られるのだが、打つてもみしやいでも僕のガマロには五十銭玉がたつたひとつしか残つてゐない。まことにお寒い昨今である。兄秀雄は昨夜七時すぎに吉井勇と落合つて家を飛び出してしまつたきり、例によって膿んだでもなけりやつぶれたでもない。きつと又あのまま神楽坂の小待合へでも溺没してしまつたのであらう。きつと会がはじまる頃に、白粉くさくなつて、ひよろりと現はれるに相違ない。

森鴎外

森鴎外

森鴎外 明治・大正期の小説家、評論家。軍医総監。医学博士・文学博士。本名は(もり)林太郎(りんたろう)。生年は1862年2月17日(文久2年1月19日)。没年は1922年(大正11年)7月9日。明治41年に行った上野精養軒の会合は46歳になっていました。
青楊会 せいようかい。森鴎外氏が作った送別会などの、文学者の宴会です。「鷗外日記」によれば明治41年(1908年)「四月十八日(土) 夜上野の青楊會に往く。夏目金之助等来会す」と書いています。また、これは3回目の青楊会でした。4月25日の上田敏宛の手紙では「君を送りまつりし會より生れし青楊會の三度目に又々夏目君などと出逢い候」と書いています。

長田幹雄

長田幹雄

 長田幹雄。ながたひでお。小説家。東京の生まれ。生年1887年3月1日、没年は1964年5月6日。秀雄の弟。「明星」「スバル」に参加。小説「(みお)」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名。この日は21歳でした。

長田秀雄

長田秀雄

秀雄 長田秀雄。ながたひでお。詩人・劇作家。生年は1885年(明治18年)5月13日。没年は1949年(昭和24年)5月5日。東京の生まれ。明治大学で学ぶ。幹彦の兄。「明星」「スバル」に参加。新劇運動に加わり、史劇で新分野を開きました。この時は23歳。
みしやい 「みしゃぐ」でしょうか。押しつぶす。ひしゃぐ

吉井勇

吉井勇

吉井勇 よしいいさむ。歌人・劇作家。生年は1886年(明治19年)10月8日。没年は1960年(昭和35年)11月19日。東京の生まれ。早稲田大学中退。耽美派の拠点となる「パンの会」を結成。歌集は「酒ほがひ」「祇園歌集」「人間経」、戯曲は「午後三時」「俳諧亭句楽の死」など。22歳。
膿んだ ()む。化膿(かのう)すること
溺没 できぼつ。おぼれて沈むか、死ぬこと

 何よりも困つたのは、僕が虎の子のやうに愛蔵してゐた、あの「ゾラ全集」と「ゴンクール全集」をまんまと持ち出されてしまつたことである。兄貴のこの頃の御乱行は実さい眼にあまるものがあつた。悪友勇と一しよになると、手あたり次第に何んでもかでも持ち出してしまふ。一昨日なぞは親父の外套をきていつてしまつたので、親父は患家へ回診に出かけることも何も出来ず診察室でぷんぷん代診たちに当りちらしてゐた。真正直な温良な、実にいい親父であるだけに、僕はすつかり義憤を発して、もし深夜に兄貴が酔つぱらつて帰つてきたら今夜こそとたんにひつぱたいてやらうと思つて手ぐすねひいて待つてゐた。僕はボートできたへた腕なので、腕力では誰れにもまけない自信があつた。
 秀雄はたうとうその晩も帰つて来ず、昨日の正午頃、親父の外套は質にぶちこんだらしくふらりと帰つてきて、そのまま飯もくはずに二階へあがつて夜着をひつかぶつて寝てしまつた。実さい呆れ返つて、口がきけない。
 夕方になると、勇が叉現はれて、僕がちよつと出た留守に、二人でくだんの全集をひつかつぎ出したものに相違ない。四ケ月も五ケ月も学資の残余をこつこつためて、やつと買つた全集であるだけに、まんまとシテやられた口惜しさ! さすがの僕も腹をすゑかねた。弟のものはおれもの、おれのものはおれのもの式な、兄貴のわがままな横暴さが骨髄に徹して僕はどうしてくれようかと、全く切歯扼腕したのであつた。一たい兄貴のやうなぐうたらな土性骨のない人間はその時分でも珍らしかった。親父ももう此頃では、持余して、毎日心の中では血の涙をのんでゐるらしかった。
虎の子 虎は自分の子をかわいがって育てる。それと同じで、大切に持ち続けて手放さない。
ゾラ Émile Zola。フランスの小説家。生年は1840.4.2。没年は1902.9.29。「実験小説論」を著し、自然主義文学の方法を唱道。
ゴンクール Edmond & Jules Huot de Goncourt。フランスの兄弟の小説家。自然主義の小説を合作。また、日本の浮世絵の研究・紹介にも努めました。
代診 担当の医師に代わって診察すること
切歯扼腕 せっしやくわん。歯ぎしりをし腕を強く握り締めること。残念や怒ったりすること
土性骨 どしょうぼね。性質・性根を強めて、ののしっていう語
 さうかといって、今夜の会費だけは何んとかしてこしらへておいてやらないと、僕までが皆の前で恥ぢをかかなくちやならない。今夜は珍らしく森鴎外、上田敏夏目漱石の三先生がみえるといふので、われわれ文学青年にとつては、又とないかき入れの会合であつた。
 僕は万策つきて、たつた一枚しかないオーバーで金をこしらへるより外に手段はなかつた。幸ひ行きつけの質屋が、本郷にあるので、電車でそこへいつて、店先でオーバーをぬいで、やつと五円紙幣を二枚うけとつた。もう四月も十日過ぎ、桜の花もぽつぽつ咲きそろふ頃なので、薄地の背広一枚でもさうたいして寒くなかった。

上田敏

上田敏

夏目漱石

夏目漱石

上田敏 うえだ びん、文学者、評論家、翻訳家。生年は1874年(明治7年)10月30日。多くの外国語に通じて名訳を残しました。明治38年、訳詩集「海潮音」を刊行。明治41年、欧州へ留学し、帰国後、京都帝大教授に。没年は1916年(大正5年)7月9日。死亡は41歳でした。この日は34歳でした。
夏目漱石 なつめ そうせき。小説家、評論家、英文学者。生年は1867年2月9日(慶応3年1月5日)。没年は1916年(大正5年)12月9日。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を教え「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になりました。41歳。

 僕はその足で白山の御殿町にゐる木下杢太郎が一番鵬外先生に親 近してもゐたし、信用も一番あつたので、木下杢太郎のところへ廻つた。といふのは杢太郎が先生のお宅へ誘ひにあがつて、ごいつよに会場である上野の精養軒へお連れするのではないかと思つたからであった。もしかさうだつたらかねがねから近づきがたい先生にたつたひと言でも話しかけてみたいと、柄にもない念願をおこしたからであった。
 その時分の一しよのグループであった北原白秋、木下杢太郎、吉井勇の面々の間で、僕は年も二つや三つ下だし、それよりも第一秀 雄の舎弟とあっては一向に頭角を現はすわけにいかない。皆さうさうたる売り出しの詩人達であるから僕のやうな才の薄い散文家は、いつも卑屈な立場に立たされた。上眼づかひをしながら心にもないおベンチャラをいつてゐるしか手がない。だから秘蔵の書籍なんか遊蕩費がはりに持ち出されても実さいは、先輩や兄貴を張り倒すわけにもいかない退け目があつたわけである。お前はまだ処女膜が破けてゐねえんだなぞと人前でボロクソにいはれて、三下奴でへこへこしながらくッついて歩いてゐる情なさといったら全くなかった。一度なぞは勇が幹さん、その時計をかせッと叫んで僕の袴の紐へ手をかけて、何んともいへぬ貧ランな殺気をみせた。つまり僕の時計で金をこさへてもうひと晩吉原へいかうといふのである。僕はこれが文学のうへの先輩でなければ、むろん地面へ叩きつけてやつたに相違ない。僕だつて反面は狭量な一徹者であつたから、酔つてフラフラしてゐる勇ぐらゐひッぱたくのはへいちやらであつた。
 しかし彼の「酒ほがひ」にある一連の名歌を思ふと、碌すつぽなものもかけない自らを省みて何としても彼の頭へ鉄拳を加へるなんていふ勇気は、いつの間にかへなへなと消し飛んでしまふのである。しかし心の中ではいつも今にみやがれッと絶叫して虎視たんたんとしてゐたのは事実である。全くあの時分の吉井勇は名詮自称、無頼漢であり、智能人にすぐれてゐるくせに、手のつけられぬ洛陽の酒徒であった。秀雄、勇の徒は自分で質屋で金をこさへてくると、こっそり一人遊びをやるし、他人が金をもつてゐると弟だらうが先輩だらうが卜コトンまでタカつて素裸にしてしまふ。古風な蕩児らしいエゴイズムと残忍さをつぶさに身につけてゐた。

御殿町御殿町 白山御殿町。町の大部分は白山御殿の跡です。左手に東京大学付属の小石川植物園があります。

木下杢太郎

木下杢太郎

北原白秋

北原白秋

木下杢太郎 きのした もくたろう。詩人、劇作家。後に東京大学医学部皮膚科教授。生年は1885年(明治18年)8月1日。没年は1945年(昭和20年)10月15日。本名は太田正雄。23歳。
精養軒 明治期の上野精養軒せいようけん。東京都台東区上野恩賜公園内にある最も古い西洋料理の店。図は明治期の上野精養軒
北原白秋 きたはら はくしゅう。詩人、童謡作家、歌人。生年は1885年(明治18年)1月25日。没年は1942年(昭和17年)11月2日。23歳。
三下奴 さんしたやっこ。博打(ばくち)打ちの仲間で下っ端の者。
貧ラン どんらん。貪婪。とんらん。ひどく欲が深いこと
一徹者 いってつもの。思いこんだことはあくまで押し通す人
酒ほがひ さかほがひ。吉井勇の歌集。 1910年刊。718首を収録した第1歌集。青春の挫折感から酒と愛欲に耽溺した境地をうたったものが多く祇園を舞台とした歌が特に有名。「ほかう」は望む結果が得られるようなことばを唱えて神に祈ること。後世には濁って「ほがう」の形になりました。
虎視たんたん 虎視眈眈。こしたんたん。虎が鋭い目つきで獲物をねらっている様子。転じて、じっと機会をねらっているさま
名詮 みょうせん。仏語。名がそのものの性質を表していること
洛陽 後漢は、前漢(西漢)の都である長安から東の洛陽に遷都したため、洛陽を「東京」と呼びました。洛陽に京都という意味もありますが、吉井勇氏は東京生まれなので、この場合は洛陽は東京でしょう。
蕩児 とうじ。正業を忘れて、酒色にふける者

文豪の素顔|森鴎外(5)

文学と神楽坂

 あとから考へると、もうあの時分から鷗外先生は、『ヰタ・セクスアリス』の下ごしらへにかかつてをられたのである。あのお作は僕が後年「スバル」の編集をやつてゐる時によせられたものだが、鉛筆で走りがきした、無雑作な草稿であつた。一読びつくり仰天して、なんぼ鷗外先生のものでも、これがどうして発禁にならずにゐようかと早速大あはてにあはてて、相棒の江波文三君のところへすッ飛んでいつた。
 江波君はその時分、本郷弓町の素人下宿にゐて、あの肥つた夫人と同棲したばかりのところであつた。あの通りの変人であつたからその生活振りもずいぶん脱線したものであつた。本立と本立との間の薄暗い谷間へ七りんをすへて、何かじいじいやつてゐる。みると古ぽけたフライパンへ四五日来のボロボロな冷飯を山もりに入れて、へットをぶちこんで、それへ又カレー粉をまぶして、焼飯にいりあげてゐるのである。まアこれをたべてからゆつくり話をしよう、幹さんもくへよといふので、ふちのかけたお椀にこてこてつけてくれる。中に何かソーセージのくさいのや、ぐにやぐにやした椎茸のやうなものが入つてゐるのが、どうにも気味がわるかつた。
 江波はそれをうまさうにかッ込みながら、わきの本立のうへへ、『ヰタ・セクスアリス』の草稿をひろげて、体ごとのめり込んだやうな格好で読み耽つてゐる。真黄色な飯粒がボロボロこぼれるのも忘れて夢中である。
 やがて読み了ると、大きな鼻の穴をふくらかして、感に堪へないやうに、
「鷗外先生はこれから二三十年後になつて価値を認められる大作家だね。こりや発禁をくらうやうな誨淫の書じやむろんないよ。平出さんにすすめてむりに出させようじやないか。」
最新大東京案内図 昭和17年(1942年)

最新大東京案内図 昭和17年(1942年)

ヰタ・セクスアリス イタ・セクスアリス。題名はラテン語のvita sexualisで、性生活の意味。森鴎外の小説で、明治42年(1909)に発表。幼年期から青年期に至る性欲を自叙形式で描いて、発禁に。
江波文三< 江南文三。えなみぶんぞう。明治から昭和時代前期の詩人、歌人。生年は明治20年12月26日。東京帝大に入学した明治43年から石川啄木のあとをうけて「スバル」の発行・編集人となり、同誌の全盛期をつくりました。詩歌、小説などを発表。卒業後千葉や東京などの中学でおしえ、没年は昭和21年2月8日。60歳。
本郷弓町 春日通りに添い、地下鉄「本郷3丁目」のそば
七りん しちりん。七輪。七厘。土製のこんろ。ものを煮るのに炭の価が七厘ですむといわれていました。
へット ドイツ語ヘット(Fett)とは牛の脂を精製した食用油脂で、牛脂とも
誨淫 カイイン。みだらなことを教えること

 校正の出たときにも僕はどうも何んだか不吉な予感があつた。それでもみんなが相談した結果、たうとう発行したが、案の定、配本してから二十七八日目に発禁のうき目をみた。しかしその時分にはもう殆んど売り切れてゐて、全国の小売屋で押収されたのは大した部数ではなかつた。
 その次に先生にお眼にかかつたら、平気なお顔で、近いうちにあの続篇をかくといつてをられた。その不敵な文学精神には、僕たちもすつかり圧倒されてしまつた。それから『阿部一族』までの道はずゐぶん長かつたがやはり江波がいつたやうに、死後三十年も五十年も経つてから初めて光芒を放つお作もずゐぶんあるのぢやないか。僕は夏目漱石先生なんか、鷗外先生にくらべたら太陽の前の月ほどにも買つてゐないのである。昔から僕はさうであつた。
 北原白秋は、鷗外先生の『即興詩人』を四十何回とかよんだといふ。僕なんかにしても確実に三十回は反読してゐる。こんな老年になつても、 心寂しい晩なぞにはあの死せる白鳥の浮べるがごときヴェニスの情景に恍惚とするのである。
 僕が北海道の荒凍たる山野を放浪して歩いてゐる間、つねに幻影のごとくに胸中にほうふつしたのは、あの『即興詩人』と、そして泉鏡花先生の『照葉狂言』である。それが僕に『零落』『みお』あの一連の旅役者ものをかかしてくれたモチーフになつたのである。その恩義は今だに忘れてゐない。
 それに、あの『埋木』のゲザも、西欧文学が僕に与へてくれた、忘れ得ぬ性格のひとつである。函館の裏町で、僕はブリュッセルのあの貧民窟のたそがれ時を、いつも心に描いた。ブリュッセルと同じやうにカトリック修道院の鐘の音が雪催いの空からいんいんと落ちてきた。

阿部一族 森鷗外の短編小説。大正2年(1913年)、『中央公論』で発表。阿部一族が上意討ちで全滅した事件を中心に殉死をとりあげて書いています。
光芒 こうぼう。尾を引くように見える光のすじ。ひとすじの光
即興詩人 デンマークの童話作家として知られるハンス・クリスチャン・アンデルセンの出世作となった最初の長編小説。森鴎外がドイツ語版から約10年の年月をかけて翻訳し、単行本初版は、明治35年(1902年)に春陽堂から出ました。
ほうふつ 髣髴。彷彿。ありありと想像すること。ぼんやりしていること。
照葉狂言 泉鏡花の小説。明治29年(1896)発表。孤児の美少年(みつぎ)が姉と慕うお雪や照葉狂言師匠小親(こちか)に寄せる清純な愛を叙情的に描いています。
みお 澪、水脈、水尾。浅い湖や遠浅の海岸の水底に、水の流れによってできる溝。河川の流れ込む所にできやすく、小型船が航行できる水路となる。船の通ったあとにできる跡。航跡。長田幹彦氏の『澪』は明治45年に出版しました。
モチーフ 仏語のmotif。創作の動機となった主要な思想や題材
埋木 うもれぎ。ドイツの女流作家オシップ・シュピンの「一人の天才の物語」を森鴎外が訳出。音楽家ゲザが、高名のピアニスト、ステルニイの知遇を得て、バイオリニストとして成功し、続いて作曲も始めますが、ステルニイの奸計にかかって挫折します。
ゲザ その主人公がゲザ・フアン・ザイレンです。
雪催い ユキモヨイ。今にも雪の降りそうな空模様。雪模様

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(7)

文学と神楽坂

 きちんと二十分お邪魔をして、それから千駄木の裏坂を根津権現の方へおりていつた。もう夕暮れで、あの崖下の町はすつかりたそがれかかつてゐる。豆腐屋のラッパがあつちでも、こつちでも聞えて、吹く風も寒々としてゐる。
 とある横丁の角を曲ると、そこに二階建ての、こぢんまりした下宿屋がある。ずらりと並んだ二階障子に赤黄い灯がともつて、樹影からすけてみえる崖上の灯影の重なりをみてゐると、旅にゐるやうな情趣と哀愁が限りなく湧いてくる。
「ねえ、杢さん。あすこにみえてゐるあの灯が鷗外先生のお書斎ぢやないですか。」と、いふと、杢さんは脊丈のびをして、
「さうだ。あれメートルの書斎だ。わりに近くみえるね。」
「僕、この下宿へ移つて来ようかしら。」といふよりも早く、もう僕の決断はたちどころに極つていきなり入口の硝子戸をあけて入ると、髪の毛のふさふさしたおかみさんか応対に出てくる。二階の四畳半が賄つきで、月十一円五十銭だといふ。幸ひ千朶山房の真下に窓があいてゐる部屋なので、私は一も二もなくその場で契約をきめてしまつた。玄関の土間へつッたつて待つてゐた杢さんの大学生姿が、きつとおかみさんの信用をかつたのであらう。僕一人だつたら、或は断わられたかもしれなかつた。何にしろもう十二月にかからうといふのに、寸のつまつた一枚、よれよれになつた繩のやうなボロ兵児帯といふ僕のかつかうは、決して、見よい風態ではなかつた。三寸以上もある長髪を蓬々とちぢらして頬骨のつッぱつた血色のよくない顔に、鉄ぶちの眼鏡をかけてゐようといふのであるから、どうみたつてヤクザな文学青年か、雑誌ゴロ以上にはふめなかつた。
千朶山房と根津神社

千朶山房(赤い矢印)と根津神社(緑)

根津権現 ネズゴンゲン。根津神社。東京都文京区根津にある神社。地図では緑色で描いてあります。
賄つき 賄い付き。まかないつき。下宿・寮などで、食事も付いていること
千朶山房 せんださんぼう。森鴎外氏は1年2か月ほど暮らし、地名である千駄木に由来して「千朶山房」と呼びました。また夏目漱石もここに居を構え、このときは「猫の家」と言われています。この家屋は愛知県犬山市にある「明治村」に移築、公開されています
 あわせ。裏地のある和服。10月から5月までの間に着るもの
<b兵児帯> へこおび。男子、子供用の帯。並幅の布を胴に2、3重に回し、うしろで結ぶ。
蓬々 ほうほう。髪やひげがのびて乱れているさま
ゴロ 「ごろつき」の略。あちこちをうろついて他人の弱みにつけこんで嫌がらせをする悪者のこと
ふむ 前もって見当をつける。見積もりや値ぶみなどをする

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(8)

文学と神楽坂


 その晩、杢さんは久しぶりだからといつて永代橋畔の都川といふ鳥屋へ連れていつて、ふんだんに飲ましてくれた。盃の間にも鷗外先生がああいつてくれたのだから、北原や吉井とは、別な方面から先生の支持をつけるやうにしたらどうだと親切にアドバイスしてくれる。君はいつも自分でミソッカスだといつて、好んで卑屈な態度に出るからいかんのだ、詩なんかつくれなくたつて、何も文学の道は外にいくらだつてある。
 僕は心の中で涙をおさへて、
「ねえ、杢さん、さつきも鴎外先生がいつとられたが、兄貴の『司祭と猫』つていふものは、ほんとにそんなにいい詩なんですか。どうか本当のことをいつて下さい。」僕はせめてそれで自分に自信をつけたかつた。
 杢さんはカツカツと舌を嗚らして、
「いい詩だつたよ。多分に性的な皮肉が歌はれていて、けんらんなものだつた。白秋もおれは震駭したといつてたな。しかし秀さんらしからぬ、光沢のありすぎる詩だつたよ。」
「兄貴はなんていつてゐるんですか。ほめると、何か反撥しますか。」
「うむ、おれはデーメルを捨てゝもう一度ヴェルレーヌからやり直すといつてるんだ。『司祭と猫』みたいなものを今後、いくつもかくと興奮してゐたな。」

都川都川 京橋区(現在の中央区)の隅田川の川縁、永代橋に近くにあった料理屋。この図は東京紅團(東京紅団)の『パンの会を歩く』 http://www.tokyo-kurenaidan.com/pan_02.htm からとりました。
ミソッカス みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
震駭 しんがい。驚いて、ふるえあがること
デーメル リヒャルト・フェードル・レオポルト・デーメル。Richard Fedor Leopold Dehmel。ドイツの詩人。1863年11月18日~1920年2月8日
ヴェルレーヌ ポール・マリー・ヴェルレーヌ(Paul Marie Verlaine)(1844年3月30日 – 1896年1月8日)は、フランスの詩人。日本語訳では上田敏による「秋の日のヰ゛オロンのためいきの……」が有名

 すると、あのノートの中にはまだ『民族の果樹園』や『黒と金の饗宴』『夜の円舞曲』なんていふのが、七つも八つも残つてゐるから、それが兄貴の署名で一つ一つ些細な原稿料に化けるかもしれない。それとも、もう僕が北海道から帰つてきたから、これでやめるかな。
 さう僕は秀雄と杢さんの友情を思ふと、それから先のことは何んにもいへなかつた。まつたくいふに忍びなかつたのである。それほどに杢さんは清潔な芸術家であつたし、立派な人格であつた。
 すぐ下の隅田川では、曳船の小蒸汽船がしつきりなしに含み声なスクリューの音を水にこもらせてどんどん溯上してゐる。月がゆらゆらほの白く砕けてゐるところをみると、丁度今上げ潮らしい。川口の方では模糊とした月光の果てに、大島通いの東京丸がぼつッぼつッと汽笛を吹嗚してゐる。もうぢき出航するのであらう。
 その汽笛の音を聞いてゐると、僕の眼には宝蘭港の月夜や、吹雪の小樽港が今みるやうにまざまざと浮んでくる。空きッ腹に、幾度かうした、うら寂しい汽笛の音を聞き送つたことか。
 考へれば佗びしい二ヶ年にあまる旅路ではあつた。僕は涙がボロボロ溢れて、とめどがなかつた。

『民族…』の3編 残念ながらこの名前を使って小説になっているものはありません。
曳船 ひきふね。水路に浮かべた船を水路沿いの陸路から牽引すること。 曳舟(ひきふね)は東京都墨田区東向島の地名
溯上 流れをさかのぼっていくこと
川口 川口市。かわぐちし。埼玉県南東部の荒川北岸にある人口約57万人の市
宝蘭港 宝蘭港はありません。室蘭港ではないのでしょうか。むろらんこう。北海道室蘭市にある港湾です
小樽港 北海道小樽市にある港湾

小樽

 その晩、僕は本田といふ品川の友だちのところへ帰るにしては、とても酔ひすぎてゐたので、杢さんと一しよに、さつき契約をきめたばかりのあの根津の下宿屋へいつて、むりやりに泊めてもらつた。夜具がないので、おかみさんに頼んで、近辺の貸布団屋からやつとひと組コスメチック臭い木綿夜具を借りてもらつた。もう午前の一時すぎであつた。おかみさんはいやな顔もせず、親切に世話を焼いてくれた。
 あとから聞いて、さすがの僕もひと縮みになつてしまつたか、それは村松梢凰氏の伯母さんだつたのださうである。
 それを聞いたのは、彼れこれ二十年もたつてからであるが、いろいろ御迷惑をかけた昔日のことを思ふと、何ともかとも慚愧にたへない思ひである。
 翌朝、味噌汁の煮える匂ひで眼を覚ましてみると、案外落着いたいい部屋である。手拭から歯みがきまで一々買つてもらつて、近所の銭湯へいつて、湯だけは浴びてきたが、何分にも綻びの切れた、銘仙の袷が、垢でピカピカひかつてゐて、どうにも見すぼらしくつて、気がひけてならない。早速親父の家へいつて、ひと先づ机や行李や本の類を人力車にのせて運んできた。親父は、古い瀬戸ものの火鉢をひとつくれて、今度はしつかりやれと愛情をこめて激励してくれた。親父は兄貴よりも、僕にむろん全幅の信頼をかけてゐたのである。
 すつかり家具のおきどころをきめてから、その下宿ではじめての夕飯をくつた。塗膳には牛肉のすき焼きなんかがついてゐて、その時分にしてはとても扱ひのいい賄いであつた。一本つけてもらつて時間をかけてゆつくり飲んだ。こんな穴ぼこみたやうなところであるから、杢さんさへ黙つてゐてくれれば、誰れにもかぎつけられることはあるまい。秀雄や吉井勇なぞから全く隔絶して、僕は僕自身の道を歩こうと、深くふかく決心をきめた。
 北窓をあけると、すぐ真上は鴎外先生のお書斎の窓である。
 先生は午前の二時までも三時までも仕事をなさるらしく、いつみても黄色い灯が窓のカーテンにほのめいてゐる。それが消えるまで、僕は決して寝なかつた。僕はそこで出世作といはれる『零落』を、中央公論にかかしてもらつてやつと大正文壇に華々しくデビューしたのである。
 こないだ僕のところの近辺の娘さんが小堀杏奴女史のところへ伺つたら、僕がそこの下宿の窓から汚いドテラを着て、よく顏を出してゐたのを、子供心に覚えてゐるといはれたさうである。申す迄もなく、杏奴女史は鴎外先生の令嬢である。
 その時分おいくつ位だつたかしらないか、あのお宅におかつぱ頭の可愛らしいお嬢さんがゐられたとは想像も出来ない。それほどに先生の千朶山房は粛殺とした、冷厳な印象を僕に与へてゐる。それが先生の持つてをられた雰囲気そのものであつた。

コスメチック 化粧品・頭髪用化粧品の総称
村松梢凰 むらまつ しょうふう。小説家。1889年(明治22年)9月21日~1961年(昭和36年)2月13日。
慚愧 ざんき。自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること
銘仙 めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物
零落 れいらく。落ちぶれること。大正元年、長田幹彦氏は旅役者の生活を描いた『澪』『零落』で作家としてデビューしました。
小堀杏奴 こぼり あんぬ。森鴎外と志げの次女。随筆家。生年は1909年(明治42年)5月27日。没年は1998年(平成10年)4月2日。
粛殺 しゅくさつ。厳しい秋気が草木を枯らすこと

文豪の素顔|森鴎外

文豪の素顔|森鴎外(2)

文学と神楽坂

 その間にあつて、杢太郎ばかりは、いはゆる朱に染まない、純真な学徒であり、芸術家であつた。僕のやうな三下奴が心ひそかに敬慕もし、頼りにするのは当然の話であつた。
 杢太郎の家へいくと、彼はもうきちんと大学の制服にきかへてゐて、にやにやしながら「今君の親父の家へ電話かけたら、秀さんは昨夜つから帰らんといふぢやないか。吉井と一しよなら、どうせ悪所だな。あのディオ二ソスにも困つたもんだよ。はゝゝゝ。」と真四角な口をあけて、歯並のそろつた歯を出して大きく笑ふ。意志的な、英知の表情である。
 僕がソラやゴンクールが消えた話をすると「そいつは愉快だなア、彼らにはソラやゴンクールは、およそ猫に小判だからね。仕様がないな。幹さん、そば杖で大損害だつたね。しかし秀さんも勇も、何んにも読まずに、徒らにヴィナスバッカスばかり追つかけてるのはつまらんな、今にアルチザン以上のものにはなれんぞ。」と、いつになく、生真面目な顔になる。一たい杢さんの顔の皮膚は血行が不安定で、笑ふとみずみずしい赤色を呈してくるが、渋面つくると、毛細管が皺にそうて収縮するかして、黄色い太い線を残すのが特徴であつた。
 僕は今更ら秀雄や勇の愚痴をいふのも馬鹿くさいので、鷗外先生の方へ話をもつていくと、杢さんは例のくせの鼻をクンクン鳴らして、

悪所 悪いところ。花街でしょう。
ディオ二ソス Dionysos。ギリシャ神話で、酒の神。バッカス。
猫に小判 貴重なものを与えても、本人にはその値うちがわからないことのたとえ
そば杖 喧嘩のそば(づえ)。他人の喧嘩のとばっちりをうけること。
ヴィナス ビーナス。Venus。ローマ神話の愛と美の女神。
バッカス Bacchus。ローマ神話のワインの神。ディオ二ソスの異名バッコスがラテン語化してバックス、英語化してバッカス。
アルチザン artisan。技術的には熟練し精妙な腕を発揮しながらも芸術的感動に乏しい作品を作る人々を批判的にいう言葉。

「いや、千駄木町のメートルはね、陸軍省から、真直に精養軒へいくといつてたよ。だから、もし幹さんがいくんなら、精養軒へずつと一しよにいかうか。」と、すつかり当てがはずれたことになつてしまふ。
 僕は杢さんと一しよに歩くだけでもむろん楽しいので、二人肩を並べて、戸外へ出た。杢さんはとてもよく歩く人で、白山の停車場へきても、電車に乗らうとはいはない。追分の方へどんどん歩いていく。どうやら向岡へ出て、上野までぽくぽく歩いていくつもりらしい。
 僕も何んにもいはずに、歩いていつた。
 杢さんはしきりに鼻をクンクンやる。さういふ時には、至極御機嫌なのである。
「ねえ、幹さん、君一昨日蒲原さんのところをベズーフしたさうだね、君はよくいくんだね。」
「え、僕、とつても、有明先生が好きになつちやつたんですよ。あのビンズル尊者はお顔をみてるだけでも、深遠で、神聖で、頭がさがりますね。」
「僕らはもつと、有明を勉強しなくちやいかんな。上田敏や白秋のけんらんもいいが、技巧ばかりで内容は稀薄だね。」
「さういふ感じがしますね。」

メートル フランス語maîtreから。先生。親方。長。この場合は森鴎外です。
白山、追分、向岡 白山は現在の「白山上」、追分町は「本郷追分」、向岡は当時の「向ケ丘弥生町」で、これは現在の「弥生町」の方が現在の「向丘」よりもいいと思います。ここを通って精養軒に行くわけです。

精養軒

最新大東京案内図 昭和17年(1942年)から

Kambara_Ariake蒲原 蒲原(かんばら)有明(ありあけ)。詩人。東京生れ。生年は1875年(明治8年)3月15日。没年は1952年(昭和27年)2月3日。複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人で、薄田泣菫と併称し、北原白秋、三木露風たちに影響を与えました。
ベズーフ ドイツ語でBesuch(ベズーフ)は「訪問」「訪問する」
ビンズル 賓頭盧(ビンズル)。釈迦の弟子。十六羅漢の第一
白秋 北原白秋のこと。

「何か面白い話あつたの。」
「例によつて、アーサー・シモンズでもちきりで、とても僕、興奮しちやつた。一たい先輩つてものは、やけにわれわれに布教したがるもんですけど、有明先生ばかりは御自分の傾向にあふやうなことばかりひとりでしづかにアーサイドしてゐて、ちつとも教化しませんね。いやならそッぽむいてろつて調子で、妙に相手を突き放してゐる態度が僕、立派だと思ふんです。青年にちつとも媚びませんからね。」
「君は散文的なみかたをするから、リアルをみるんだね。」
「今度の『河岸蔵』の詩なんか、まるで印象派の画だな。魂に黒点を印しますよ。僕はね正直のところ、北原君や吉井君のあの朗々すべき声調つていふかな、ああいふのは才気だけの問題であつて、もうぢき飽きられやしないかと思ふんですがね。」
「いや、さうでもないよ。あれはあえかな青春といふものにつながつてるからね。人間が不朽のリリシズムを謳歌する以上、やはりあの浪曼主義は、亡びないね。はゝゝゝ。但しちと甘いがね。」と、杢さんはいたずららしくちよいと舌の先を出す。
 池の端へ出ると、東照宮五重塔がぼやッと夕靄にとけて、縮緬皺の無数によつた不忍池には、立ちおくれた真鴨が暖かさうに浮んでゐる。ぬくたい夕風がほこりッぽく顔を撫でてくる。
「どつだい、池の水が白く光つてゐるところへ蓮の枯れた幹がによきによき突つたつてゐる効果はちょいとオツじやないか。日本の風景にだつてなかなかいいニュアンスがあるんだよ。なにも、パリまで出かけなくたつていいさ。」と、自嘲の調子でいつたかと思ふと、藪から捧に、「ああ、こんな風が吹くと長崎へいきたくなるな。あの支那寺ドラが聞きたくなるよ。はゝゝゝゝ。」
と、板ッ片をぶッつけるやうに笑ひだして、急に大股にとつとと歩きだす。これは杢さんの一流のくせであり、発想法であつた。

アーサー・シモンズ Arthur William Symons。英国のデカダン詩人。生年は1865年2月28日。没年は1945年1月22日。「デカダン詩人」は長田幹雄氏自身の『青春時代』解説による評価で、「デカダン」は退廃的なという意味です。
アーサイド あまりいい英語やフランス語はありません。arsideはあればいいのですが、ありません。asideは英語もフランス語もわきへ、かたわらに、離れて
リアル real 。真実の
河岸蔵 かしぐら。河岸に建っている倉庫
黒点 太陽の光球面に出現する黒い斑点
北原 北原白秋。詳しくはここに
 ぎん。声を出して詩や歌を歌うか作ること
あえか か弱く、頼りない。きゃしゃで弱々しい
リリシズム lyricism。叙情詩的な趣や味わい
浪曼主義 Romanticism。ロマン主義。主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパや諸地域で起こった運動。感受性や主観に重きをおいた運動。恋愛を賛美し、民族意識を高揚し、中世への憧憬があります。その反動として写実主義・自然主義などを出てきました。
東照宮 上野東照宮(とうしょうぐう)。東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧正式名称も東照宮。他の東照宮との区別のために上野東照宮と名前を付けています。
五重塔 元々は上野東照宮の五重塔でしたが明治の神仏分離によって寛永寺の帰属となり、戦後は東京都が管理。現在、上野動物園の中にあります。
夕靄 ゆうもや。夕方に立ちこめるもや
縮緬皺 ちりめんじわ。縮緬のように一面に細かく寄ったしわ。支那寺
不忍池 上野公園南西部にある池。台地の谷間に入り込んだかつての海が潟湖として残りました
ぬくたい (ぬく)い。ぬくとい。あたたかい。
藪から捧 藪から棒。やぶからぼう。予期せぬことが唐突に起こること。また、出し抜けに物事を行うことのたとえ。
支那寺 長崎市鍛冶屋(かじや)町にある黄檗(おうばく)崇福寺(そうふくじ)のこと。聖寿(しょうじゅ)山と号し、俗に福州寺(ふくしゅうでら)あるいは支那寺(しなでら)とよばれます
ドラ 銅鑼。中国の楽器。
dora_zildjianッ片 「いたっぺん」と読むのでしょうか。板の切れ端。

文豪の素顔|森鴎外

文豪の素顔|森鴎外(6)

文学と神楽坂

 僕は二年間の旅をおわつて、又風のごとくにへうへうと東京へ帰つてきた。明治四十四年の秋である。親父の家へ帰り度くても何だか敷居が高くて、帰りにくい。とにかく僕は、早稲田大学で相当真剣に勉強をしてゐて、決して学生として恥ずべき行為はしてゐなかつたにも拘らず、父がたうとう最後の手段として兄貴にの勘当をくはした。僕も実はそのそば杖をくつて、勘当の同伴を命じられたわけである。それといふのも僕の母親が秀雄を糞ッ可愛がり可愛がつてゐたので、親父への面当てに僕も追ひ出してしまへといふことになつたのである。こんな不条理な、封建的なことが平気で親子の間で行はれた時代が、日本にもごく最近まであつたのである。
 僕は窒息しさうな汚濁の雰囲気を離脱してたつた一人で北海道へ渡つてしまつた。二年間の放浪でずゐぶん苦労もしたので、人生の甘くないこともしみじみ感じとつてゐた。もう二度とふた度ああいつた詩人のグループなんかへ帰つていく気はしない。多愛のない芸術至上主義なんてものか、阿呆ッくさくみえてたまらなかつた。
 何にしろ長い間、東京を留守にしたのであるから、再び生活の根拠をきづきあけるのにひと骨折りをしなければならなかつた。当分の間は、収入の道が全くないのであるから、やむを得ず、友人の家をごろごろして歩くより外に暮らしやうがない。
 さういふ場合詩人たちは全然頼りにならなかつた。酒を飲むときには莫逆の友になるが、いざ生活のことになると、実さい酷薄をきはめたものであつた。尤も自分自身が既に無能力者で、手も足も出なかつたからであらう。いつの世にもさうだが、詩人の生活なんていふものは、溝川に消えてゆくあぶくのやうな頼りないものである。
 そこにまた美しさがあるのかもしれない。
 僕はある日杢さんを訪ねていつた。いつも変らなかつたのは、杢さんひとりである。
「やあ、よく帰つてきたね。たびたびおたよりありがたう。今度はほんとにいい経験をしたな。はゝゝゝゝ。」と、心から温情を示してくれる。
 さしづめ兄貴のゐどころが分らないので、それを聞くと、
「秀さんかね。秀さんは相変らず、あの浜町の桶屋の二階にくすぶつてるよ。一昨日もちよつと永代橋附近をスケッチして歩いたんでその帰りに寄つたがね。あすこは相変らす、梁山泊だな。今にあの天井裏のサロンもやがて壊滅するね。秀さんには、生活能力なんてものは全くないんだからな。」
「吉井君は。」
「吉井は下谷あたりに隠れてるらしいね。この頃ちつともパンの会も出て来ないがね。」といつて杢さんはぶきつちよな手つきで煙草に火をつけながら、「とにかく北海道のくさい匂ひのぬけないうちに、何かいいものをかくんだな。幹さん、今がチャンスだよ。」

へうへう 「へうへう」と書いて「ひょうひょう」と読みます。漢字では「飄飄」。足元がふらついているさま。また、目的もなくふらふらと行くさま。
たうとう 「たうとう」と書いて「とうとう」と読みます。物事が最終的にそうなるさま。ついに。結局
 「おさ」でも「ちょう」でも。多くの人の上に立ち、統率する人。
面当て つらあて。快く思わない人の面前で、わざと、あてこすりを言ったり意地悪をしたりすること。また、その言動。あてつけ
汚濁 よごれること。にごること。
多愛のない 他愛無い。たあいのない。しっかりした考えがない。また、幼くて思慮分別がない
芸術至上主義 芸術のための芸術を主張し、芸術の社会的・道徳的効用を否定する思潮
莫逆 ばくげき。 心に逆らうこと()しの意で、非常に親しい間柄。ばくぎゃく。
酷薄 こくはく。残酷で薄情なこと。
溝川 どぶがわ、どぶかわ。雨水・汚水などが流れる小さな川。どぶのように汚い川
浜町 日本橋浜町。下図を参照
永代橋 隅田川に架かる橋。中央区新川と江東区永代とを結ぶ。
梁山泊 りょうざんぱく。豪傑や野心家の集まる場所
下谷 したや。東京都台東区の町名。地図では赤くて長い場所
 ニシン。鰊とも。全長約30センチ。北太平洋に広く分布し、沖合を回遊。春季、産卵のために接岸する。卵は数の子です。

橋名前

「さういつてもらうとほんとにうれしいんですが、……実はひとつかいたものがあるんで「スバル」の編集へ届けてあるんですがね。」
 杢さんは思ひ出したやうに、
「あ、それかね。平出君は推せんしてゐるが吉井が反対なんで、のせられないんださうだね。もつともあの連中は、散文は分らないからね。」
 僕はそんな消息は全く初耳なのである。とにかく僕のかいたものが、編集で一応問題にはなつてゐるのだなと思ふと、胸が熱くなつてきた。
 杢さんはしばらくすると、とにかく久振りだから何処かへ出ようといふ。例の小型のスケッチ・ブックをポケットヘ押し込んで、大学の制帽を眼深かにかぷつて、自分が先に格子戸を出る。
 追分のところまで来かかると、杢さんはふつと立ち止つて、
「ねえ、幹さん、ちよつと千駄木町のメートルのところへ伺候してみようぢやないか。」といつて「今日は日曜だからむろん家にをられるだらう。」
 僕は願つたり、叶つたりである。鴎外先生にお眼にかかれやうなんていふことは、北海道以来考へたこともなかつた。最近のお作を拝見すると、何んだかあまりにも底光りがしてゐて、全くこわれわれ青年には近づき難かつた。
 千駄木町のお宅へいつてみると何のこともない、先生は無雑作に御自分で玄関へ出てみえて、
「やあ、木下君、今日は生憎仕事をやり出したんでね、長くは逢つてゐられないが、まあ二十分位ならいいだらう。」と、笑つて奥へ入つていかれる。
 すぐ下に崖地のみえる八畳で先生と対座した時には僕はもういくらか気持が落ちついてゐた。うつかりしたことをしゃべつて、軽蔑されては大変だと思ふせいか、つい言葉も淀みがちである。両肩はしきりにこつてくる。喉は乾いてくる。
 先生は夜来のお仕事で疲労してゐられるとみえ、お顔色も冴えないし、眼も濁つてゐた。はじめは杢さんと、何か独逸語で、医学上の話をしてをられたが、やがて僕の方をむいて、煙草の火をみながら、
「長田君、君は長田フイスとでも呼ぶべきだね。ジュマフイスのフイスだ」と、かうかふやうに笑つて、「昨日、平出君がきてね。今度君は大変にいいものを「スバル」にかいたやうだね。どういふもんだ。いづれ北海道の材料なんだらう。」
 僕はどもりながら、煙草をもつ手をふるはして、
室蘭でみてきた事実なんです。」
「なるほどね。噴火湾の夜景が実によくかけてゐるといつて、平出君が激賞しとつたよ。君は詩をやめて、小説をかくんだな。」

平出修スバル 「明星」の後進の詩歌雑誌。平出修が経営。同人平野万里、石川啄木、吉井勇が交互に編集。スバルは森鴎外の命名。
平出 平出(ひらいで)(しゅう)。評論家、小説家、歌人、弁護士。浪漫主義系の文学者。生年は1878年(明治11年)4月3日。没年は1914年(大正3年)3月17日。明治法律学校卒業。「明星」の同人として活躍し,その廃刊後は石川啄木や吉井勇らと「スバル」を刊行。一方で神田神保町に法律事務所を開業するリベラルな弁護士でもあり、幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめた。
消息 動静。様子。状態
眼深か めぶか。目が隠れるほど、帽子などを深くかぶるさま。
千駄木町 千駄木町。東京都文京区の町名。ここに森鴎外が住んでいました。住所は本郷ほんごう駒込こまごめせん町57番地。現在は文京区向丘2丁目20番7号です。下図を。猫の家
伺候 しこう。目上の人のご機嫌伺いをすること
底光り そこびかり。うわべだけの飾った輝きではなく,その物の本質に根ざした光
> フイス アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils)。フランスの劇作家、小説家。小さな世界をしっとりと描くのが作風。高級娼婦(クルチザンヌ (英語版))マリー・デュプレシと出会い、1848年2月、24歳の時に思い出を小説『椿姫』として書き上げて出版し、これが代表作です。
室蘭 北海道南西部の市。内浦湾(噴火湾)に突き出す絵鞆(えとも)岬と地球岬がある
噴火湾 内浦湾。うちうらわん。北海道渡島(おしま)半島東側にあるほぼ円形の湾。実際は噴火ではないと考えられる。

噴火湾

 杢さんは自分のことのやうによろこんで、
「僕も常にそれをいつとるんです。われわれとはテムペラメントのうへでも、幹さんは既に異端者なんだから。はゝゝゝゝゝ。ゾラと懸命にとッ組んでゐるのはいいことですよ。」
「ゾラヘ入つていくのか。フローベルは何を読んだ。」
「『ボバリー』と『感情教育』と『セント・アントアヌの誘惑』です。」
「フランス語でよんどるのかね。」
「とんでもない。むろん英訳です。」
「ふむ。君は早稲田だつたね。」
「は、英文科です。」
坪内君のシェークスピアの講義は面白いといふぢやないか。」
「は、声色入りで、寄席へいくより面白いです。」と、答へて、私は苦いお茶をいただきながら、
「いつでしたか『マクベス』をやつとられてあんまり歌舞伎調の台詞が神に入りすぎたんで、学生たちがうつかりわッと拍手喝釆をしたんです。ところが先生は激怒されて、それつきり講義はふいになつてしまひまして。」
 鴎外先生はさも可笑しさうに、大笑されて
「はゝゝゝゝ。面白いね。僕はシェークスピアのやうなクラシックでもやはり現代語で訳した方がいいんぢやないかと思ふんだ。それで何かい、君はもう早稲田を出たのかね。」
「いいえ、これから論文を出して、むりにも卒業させてもらはうと思つてゐるんです。」

テムペラメント temperament。気質、気性。character は特に道徳的・倫理的な面における個人の性質。personality は対人関係において行動・思考・感情の基礎となる身体的・精神的・感情的特徴。individuality は際立った個人特有の性質。temperament は性格の基礎をなす主として感情的な性質
ゾラ エミール・フランソワ・ゾラ。Émile François Zola。フランスの小説家。生年は1840年4月2日。没年は1902年9月29日。自然主義文学の方法を唱道。その実践として「居酒屋」「ナナ」「大地」などの作品を含む「ルーゴン‐マッカール叢書」20巻を発表しました。
フローベル ギュスターヴ・フローベール。Gustave Flaubert。フランスの小説家。生年は1821年12月12日。没年は1880年5月8日。ルーアンの外科医の息子として生まれ、てんかんの発作を起こしたことを機に文学に専念。1857年、4年半の執筆を経て『ボヴァリー夫人』を発表、ロマンティックな想念に囚われた医師の若妻が、姦通の果てに現実に敗れて破滅に至る様を怜悧な文章で描き、文学上の写実主義を確立した。
ボバリー ボヴァリー夫人 。田舎の平凡な結婚生活に倦んだ若い女主人公エマ・ボヴァリーが、不倫と借金の末に追い詰められ自殺するまでを描いた作品で、作者の代表作。1856年10月から12月にかけて文芸誌『パリ評論』に掲載、1857年に風紀紊乱の罪で起訴されるも無罪判決を勝ち取り、同年レヴィ書房より出版されるやベストセラーに
感情教育 19世紀も半ば、2月革命に沸く動乱のパリを舞台に多感な青年フレデリックの精神史を描く。小説に描かれた最も美しい女性像の一人といわれるアルヌー夫人への主人公の思慕を縦糸に、官能的な恋、打算的な恋、様々な人間像や事件が交錯。
セント・アントアヌの誘惑 聖アントワヌの誘惑。フローベールが30年の歳月をかけて完成した夢幻劇的小説。紀元4世紀頃、テバイス山上にて隠者アントワヌは、一夜の間に精神的生理的抑圧によって見たさまざまな幻影に誘惑されながら、十字架の許を離れず、生命の原理を見出して歓喜する。
坪内 坪内逍遥。つぼうち しょうよう。小説家、評論家、翻訳家、劇作家。生年は1859年6月22日(安政6年5月22日)。没年は1935年(昭和10年)2月28日。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』とシェイクスピア全集の翻訳
シェークスピア ウィリアム・シェイクスピア。William Shakespeare。イングランドの劇作家、詩人。洗礼日は1564年4月26日。没年は1616年4月23日(グレゴリオ暦5月3日)。「ハムレット」、「マクベス」、「オセロ」、「リア王」、「ロミオとジュリエット」、「ヴェニスの商人」、「夏の夜の夢」、「ジュリアス・シーザー」など多くの傑作を残しました
マクベス 荒筋は11世紀スコットランドの勇敢な武将マクベスは魔女の暗示にかかり王ダンカンを殺し悪夢の世界へ引きずり込まれていくというもの。

「北海道にをつた間、休んでをつたのかい。」
「さうです。」
「論文は何をかく。」
「思ひ切つてスカンヂナビアの文学をやつてみようと思つてゐます。」
イプセンか、ストリンドベリーかい。」
「いいえ、僕はビヨルンソンです。」
 先生はさも意外さうに、
「ビヨルンソンとは不思議なものを掘り出してきたね。何を読んだの。」
「『マンサナ大尉』や『母の手』『ソルバッケン』」
 先生は煙草の吸殻をぽいと放つて、
「まあ、とにかく勉強することだね。小説は四十過ぎてからかいて丁度いいんだから、あせる必要はない。君の兄さんが此間何かにかいとつかね。『司祭と猫』といふ詩さ。あれはいいものだつたね。」
 杢さんは傍から口を入れて、
「ありやいい詩でしたね。秀雄にしちや珍らしく色感のすぐれたもんでしたね。」
「まるで白秋そつくりだつたね。」
 僕はぎよッとしてしまつたのである。兄貴はあの『司祭と猫』まで自分のものにかきかへて世間へ出してゐるのかと思ふと、僕は腹がたつよりも、兄貴の生活の窮迫さが眼にみえるやうで、脊筋がひやッこくなつてきた。『司祭と猫』はわづか二枚ほどの散文詩で、僕はノートの隅へかきつけて机の抽出しへ放り込んでおいたのである。道理でそのノートは、今度かへつてきて調べてみると、いつの間にか紛失してしまつてゐた。僕が北海道へいつてゐた間ぢゆう、僕の机と木箱は親父の家へ頂かつてもらつてゐたのである。その机の抽出しから持出したものらしい。

スカンヂナビア スカンジナビア(Scandinavia)。ヨーロッパ北部の半島。西をノルウェー、東をスウェーデンが占めます
イプセン ヘンリック・イプセン。Henrik Johan Ibsen。ノルウェーの劇作家、詩人、舞台監督。生年は1828年3月20日。没年は1906年5月23日。近代演劇の創始者であり、「近代演劇の父」。シェイクスピア以後、世界でもっとも盛んに上演されている劇作家る。代表作には『ブラン』『ペール・ギュント』『人形の家』『野鴨』『ロスメルスホルム』『ヘッダ・ガーブレル』など。
ストリンドベリー ユーアン・オーグスト・ストリンドバーリィ。Johan August Strindberg。スウェーデンの作家。生年は1849年1月22日。没年は1912年5月14日。
ビヨルンソン ビョルンスティエルネ・ビョルンソン。Bjørnstjerne Bjørnson。ノルウェーの作家。生年は1832年12月8日。没年は1910年4月26日。1903年にノーベル文学賞を受賞。
意外 実は鴎外が訳したものもあるのです。これから22年ほど先の1913年、「新一幕物 人力以上」です。
マンサナ大尉 原語ではKaptejn Mansana。英語訳はCaptain Mansana。日本語訳はなさそうです
母の手 不明です。
ソルバッケン Wikipediaの訳書では「アルネ シンネエヴェ・ソルバッケン 手套」。原語ではSynnøve Solbakken。農夫の物語
司祭と猫 本当にあったのでしょうか。ほとんどの詩集には出ていません。不思議です。

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(3)

文学と神楽坂

 精養軒へあがると、玄関のホールのダイバンのところには、もうちやあんと秀雄と勇が一足先にやつてきて、ビールなんか飲んでゐる。秀雄の方は宿酔とみえ顔も何も土気色をしてゐたが、フラフフラたつてきて、杢さんと挨拶をかはしたあとで、駄々ッ子のやうに、「杢さん、ちよつと。」と、眼顔で合図をする。
 杢さんは秀雄と一しよに奥廊下の入口まで入つていつたが、頭をかきながら帰つてきて「あひにく、僕は余分なラルジャンをもつとらんのだよ。」と、赤い顔をしてゐる。
 ははア、こりや二人とも杢さんに会費をタカるつもりだなと気づくと、僕は恥かしくなつて、耳たぶが熱くなつてきた。
 早速帳場へいつて、僕は秀雄と自分のと二人分払つた。たしか三円だつたから六円払つたと思ふ。と、秀雄はそれをみてゐて、
「おい、幹さん、吉井のも払はなけやダメぢやないか。」と、口を尖らかして、そんなことは当りまへだといふやうにカサにかかつていふ。
 僕は忌々しいとは思つたが、年少の人のよさでいはれるとほり潔よく払つた。あと一円しか殘らない。外套をころして、人の分まで払はせられるとは、全く情けなかつた。そのオーバーも今入れたんぢや、今年の十二月まではむろん出せッこないのはわかつてゐる。

ダイバン ダイバンには大盤、台盤、台板などがあるようです。大盤は食物や水などを入れるための大きな器。台盤は、食卓の一種で、食物を盛った(さら)をのせる台のこと、台板は物や人をのせる板のこと。
土気色 つちけいろ。土のような色。生気を失った人の顔色
ラルジャン l’argent。銀貨のこと
たかる (たか)る。人に金品をせびる
かさにかかる 嵩にかかる 威圧的な態度でのぞむ
ころす 質屋の担保(質草)に入れる

 そこへあまり脊丈のたかくないひとりの軍人が、かちやかちや剣鞘をつきならしながら颯爽と入つてきた。鷗外先生であつた。声望隆々たる陸軍軍医局長であるから、昭和時代ならむろんピカピカした四万台の自動車で、威風堂々あたりを払つて御入来といふところであらう。しかし明治四十何年かのことであるから、電車でさへも珍らしい時代であつた。先生は山下の広小路まで市電でみえて、あれから人力車に乗られたんぢやないかと思ふ。上田敏先生も、夏目漱石先生も辻待ちの人力車であつた。鷗外先生はまつ先に杢さんをみつけて、片頬でにつこり笑つて、無雑作に会釈をされる。頭も軍人風のイガ栗ではなくうすい髮毛を分けてゐられるので、何んだかちつとも軍服がイタにつかない感じである。ただ少し右の肩がいかつてゐるのが、いかにもきかぬ気らしいヒョウ悍さをみせてゐる。その時分、雑誌ゴロか、暴力団か何かが、陸軍省の玄関先で先生に失礼なことをいひかけて、突き倒されたとか、殴られたとかいふデマが盛んにとんでゐた。とにかく日露戦争からずつとつなかつてゐる初期軍国主義的気分が社会にほうはくしてゐる時代であつた。
 杢さんは例の真赤な顔でいんぎんに挨拶をしたが、吉井勇はにやにやするばかりで、たちもしなかつた。それでゐて気嫌をとるでもなく、お愛想をするでもなく、にいッと唯笑うだけのそのかねあひが、実に勇の名演技中の名演技であつた。やはり伯爵の御曹子だけの貰祿はあつて、誰れでも勇のこの表情にはころりとまゐらせられたものである。薩摩人らしいおほらかな怜悧さである。
 鴎外先生もこつちへ歩いてみえて、
「吉井君、昨日與謝野君から手紙をもらつたよ。」と、笑ひながら煙草に火をつけられる。
 勇はコップをもつたまま、例のコツで、
「さうでしたか。僕もこの頃は御無沙汰してゐるんです。」
と、極めて素朴な青年らしさをみせる。
「與謝野君は晶子さんが歌集を出すさうだから、何かかいてくれといふんだが。」
「さうですか。何かかいてやつて下さい。お願ひします。」
「しかし僕は、今ひどく忙かしいんでね。もし君逢つたら、うまく断つといてくれないかね。」
 さういひながら鴎外先生は杢さんと二人で、食堂の控室の方へ入つていつてしまはれた。僕はていねいにお辞儀をしたが、一顧にも値しなかつたらしく、むろん黙殺である。
 寂しかつた。急にウイスキーががぶ飲みしたくなつた。

剣鞘 けんしょう。剣の刀身の部分を納めておく筒
颯爽 さっそう。姿や態度・行動がきりっとして、見る人にさわやかな印象を与える
四万台 4万円台と書き換える以外にいい方法はなさそうです。
辻待ち つじまち。人力車などが道ばたで客を待つこと
板につく 経験を積んで、動作や態度が地位・職業などにしっくり合う
きかぬ気 人に負けたり、人の言うなりになったりすることを激しく嫌う性質
ヒョウ悍 剽悍。ひょうかん。すばやい上に、荒々しく強いこと
雑誌ゴロ ゴロは「ごろつき」の略。無職・住所不定で人の弱点につけいる、ならずもの<
ほうはく 磅礴。広がり満ちること。満ちふさがること
怜悧 れいり。賢いこと。利口なこと
與謝野 与謝野寛晶子与謝野鉄幹。詩人・歌人。本名は(ひろし)。生年は1873年(明治6年)2月26日。没年は1935年(昭和10年)3月26日。新詩社を創立し、「明星」を創刊。妻晶子とともに明治浪漫主義に新時代を開きました。
晶子 与謝野晶子。よさの あきこ。歌人、作家、思想家。生年は1878年(明治11年)12月7日。没年は1942年(昭和17年)5月29日。
一顧 いっこ。ちょっと振り返って見ること。ちょっと心にとめてみること

文豪の素顔|森鴎外

文学と神楽坂

文豪の素顔|森鴎外(9)

文学と神楽坂


 もうひとつかきそえておきたいのは例のパンの会のことである。パンの会は僕らの青春の旗みたいなものである。野田宇太郎君の好著「パンの会」の記述は、まことにきれいごとでけつかうだが、やはりあらゆる芸術運動がさうであつたやうに内部的には感情の疎隔や嫉妬反ぜいがあつた。木下杢太郎君や石井柏亭君のやうなユニークな存在がなかつたらあんなけんらんとした足跡を大正芸術史に残したかどうか疑がはしい。
 今思ひ出してもパンの会の帰りが凄まじかつた。みんな泥酔して深夜の街頭を放浪して歩く。女郎屋へでもいかなけりや興奮の捨て場所がない。吉井勇君はその晩洲崎の遊廓へいきたがつて、味噌ッかすのぼくに金を出せとおどかす。たつた十三銭しか残つてゐなかつたので正直にそつくり出すと吉井君は忽ち例の無頼漢と化していきなりぼくの手をひつぱたいた。
 僕もさうさう卑屈になつてはゐられないのでやにはに彼を路上へ突き倒して下駄でぶンなぐつた。杢太郎君がとんできてひき分けてくれる。
 いつの間にか別れ別れになつて、僕は北原白秋君と二人ッきりになつてしまつた。白秋は腰がぬけちまつてやたらところぶ。ころびながら「空に真紅な雲の色」を胴間声で歌つては、おい幹彦ッ、おれを家までおぶつて帰れッといばりくさる。僕は唯々だくだく路傍にあつた荷車へ彼をのせて懸命に引つぱつていつた。白秋家は神楽坂下なのでいくら若い臂力でもそこまで曳いていけるものぢやない。途中でほッたらかして遁げようとすると白秋はおいおい泣きだして、幹彦お前はいい奴だ、おれを捨てるなとかじりついてきて生温い舌でぺロペロなめる。
 僕も胸がいつぱいになつてやつと人力車を一台さがしてそれへ乗せて帰してやつた。街燈の光で彼の財布をしらべてみると、なんと彼は三円なにがしか隠しもつていやがるのである。車代を先払ひしてあとは僕がねこババきめてやつた。

反ぜい はんぜい。反噬。動物が恩を忘れて、飼い主にかみつくこと。転じて、恩ある人に背きはむかうこと。恩をあだで返すこと
石井柏亭 いしい はくてい。版画家、洋画家、美術評論家。生年は1882年(明治15年)3月28日。没年は1958年(昭和33年)12月29日
けんらん 絢爛。華やかで美しい。詩歌や文章の表現が、豊富な語彙や凝った言い回しなどで美的に飾られていて、華麗な印象を与える様子。
洲崎 すさき。東京都江東区東陽一丁目の旧町名
味噌ッかす みそっかす。味噌っ滓。子供の遊びなどで、一人前に扱ってもらえない子供。
空に真紅… 白秋の「邪宗門」のなかにある詩です。玻璃は「はり」と読み、ガラスのことで、ガラス製の器に酒を注いだ事を意味します。またこの詩はパンの会の会歌にもなっています。

 「空に真赤な」
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
玻璃(はり)真赤(まつか)(さけ)(いろ)。
なんでこの()(かな)しかろ。
(そら)真赤(まつか)(くも)のいろ。
   明治四一年五月作

胴間声 どうまごえ。調子はずれの太く濁った下品な声。
唯々だくだく 唯唯諾諾。いいだくだく。 何事にもはいはいと従うさま。他人の言いなりになるさま
神楽坂下 神楽坂1丁目の全てと2丁目の部分。白秋はここに
臂力 ひりょく。うでの力

 僕だつて行きどころがないのだ。そこへあひにく阪本紅蓮洞が幽霊のやうに横町から現はれてきた。酔ひがさめてみると吉原の女郎屋の二階で寝てゐた。夜が明けてゐる。その時分吉井君たちと女郎屋へ泊ると紅蓮洞と版画家の伊上凡骨がいつも勘定の代りに居残りをさせられる。その朝はあの老残の紅蓮洞が可哀想になつて僕自身が始末屋へさがつた。始末屋といふのは札つきのコロンボがやつてゐる車宿のことである。勘定不足の客には入墨をしたあんちやんがダニのやうにくッついてくる。
 僕は本郷の質屋へいつて身ぐるみぬいで八円こしらへた。学生のくせに親父の洋服屋をだまかしてこしらへさせた自慢の背広を店先でぬいで、前に入れてあつた袷に着かへ革のバンドをしめてやつと家へ帰つた。
 その晩雷門前のヨカ楼で飲んでゐると高村光太郎君と市川猿之助君に逢つた。べろんべろんに酔つてまた吉原である。金が足りないのでワリ床といふやつである。びとつの部屋を古屏風で仕切つて寝るのである。夜が明けるまでカンカンガクガクの芸術論をたたかはしてゐるので、女郎たちが怒つて、女同士で寝てしまつた。やはり今のやうにさかんにパリを謳歌する時代だつたが、象徴派や後期印象派の論議ばかりでキンゼイ報告のやうなえげつない話はしなかつた、みづみづしかつたわけである。高村君はパリにゐた間この黄色い皮膚と高い頬骨が恥かしくて町が歩けなかつたなぞといつて、エクゾティシズ厶をかきたてた。
 僕は背広をなくしたので早稲田大学の制服をきてゐた。あの変テコな角帽が制定されたころで、あれを文学科で真先にかぷりだしたのは猿之助君と長谷川時雨の弟の虎太郎君と僕と三人であつた。

 酒と女では実に難行苦行したものである、谷崎潤一郎君が文化勲章をもらひ、吉井君が芸術院会員、高村君は高名な彫刻家、みんなずゐぷん年季を入れて古さびてしまつたもんである。
 今では名前も顔も忘れ果てたあの時分の一夜泊りの安女郎たちがもし生きてゐたらキラ星のごときお歴々の壮観にさぞかしおッ魂消ることであらう。
 それにしてもあの清純そのものであつた杢太郎君の姿が最前列にみえないのは何んとしてもさびしい。生きてゐたら第二の鷗外としてもてはやされたであらうのに。

伊上凡骨 神田の木版師。中沢、三宅氏等の水彩画を版画にし、ぼかしに長じていました。
始末屋 遊里で遊興費の不足した客を引き受け勘定を取り立てる商売
ゴロンボ ごろつき、ならずもの
車宿 くるまやど。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
ヨカ楼 高村光太郎氏が書いた「ヒウザン会とパンの会」によれば

パンの会の会場で最も頻繁に使用されたのは、当時、小伝馬町の裏にあった三州屋と言う西洋料理屋で、その他、永代橋の「都川」、(よろい)(ばし)(わき)の「鴻の巣」、雷門の「よか楼」などにもよく集ったものである

また、野田宇太郎氏の「日本耽美派文學の誕生」で「よか楼」は

 雷門前竝本通りにあつた三階建の塔のやうなレストラン

でした。細かくは東京紅團の「パンの会 -2-」で。
高村光太郎 高村光太郎たかむらこうたろう。詩人・彫刻家。1883年(明治16年)3月13日 – 1956年(昭和31年)4月2日。欧米に留学。ロダンに傾倒。帰国後、「パンの会」に加わり、「スバル」に詩を発表。岸田劉生らとフュウザン会を結成。詩集「道程」「智恵子抄」「典型」、翻訳「ロダンの言葉」、彫刻に「手」など
市川猿之助 いちかわえんのすけ。2世の歌舞伎役者。1888年(明治21年)5月10日 – 1963年(昭和38年)6月12日)。劇団春秋座を結成。多くの新舞踊・新歌舞伎を上演
ワリ床 割床。ワリドコ。何人もの人が屏風などで一室を仕切って寝ること。女郎屋で廻し部屋もふさがつている時、一つの部屋を屏風で仕切つて客を入れること
エクゾティシズ厶 exoticism。現在は「エキゾチシズム」のほうがよさそうです。異国趣味、異国情緒。異国の文物に憧れを抱く心境

文豪の素顔|森鴎外

文豪の素顔|森鴎外(4)

文学と神楽坂

 さて食堂でどんなことかあつたか、さすがに今では一々記憶してゐないが、秀雄は二度立つてきて、底光りのする眼でおどかすやうに、
「おい、幹さん。金もつてないか。」と、酒くさい口でしつこくこだはつた。それからすぐ斜向ふで、上田先生が、自分の煙草の煙にむせながら、ルノアールの話をしてをられたのを、はつきり覚えてゐる。あの角刈りの頭を横にふつて、煙草のやにで黒くなつた歯を出してあッはッはッはッとあけッぱなしに笑はれる顔を思ひ出すと、今でもとてもなつかしい。上田先生はなかなかの男前であつた。
 夏目先生は、一番むッつりであつた。面白くなささうな白ばッくれた顔をして腕ぐみばかりしてをられた。『猫』のクシヤミ先生が鼻毛をぬいてゐるかつかうそつくりである。
 鷗外先生はお酒をあがると、つやつやしたお顔になつた。細い鬚をふるはして、感慨深さうに何かしきりに杢さんに話してをられる。
 ひよいとした拍子に、「センズリ」といふ言葉が、かなり高調子にはつきりと先生のお口から洩れたので、一座の人たちはぎよッとしたらしかつた。さうした露骨な下品な表現は、その時分の文壇では許されなかつたものである。あんまり唐突であり、しかも先生は笑ひもせずに話してをられるので、若いわれわれが聞き耳をたてたのはむりもあるまい。
 だんだん伺つてゐると、やつと話の経緯がわかつてきた。何んのきつかけからか性的事実の話題がもちあがつて、先生はつまりキンゼイ報告のやうなものを、平気でしやべつてをられるのであつた。或ひは軍医学上の観点から兵営に於ける兵士たちの性生活に関する()()()()を傾けてをられるらしくも思はれた。何にしろさながら試験管中の現象について語るごとくに、いかにも平静に、しかも科学的に、露骨な固有名詞を用いて滔々と諭じてをられるので、私たちはうつかり笑ふことも出来ない。みんな息をつめて、厳粛な顔をして傾聴してゐた。
 その中で今でも覚えてゐるのは、某師範学校の女子部の寄宿舎における夜中の自瀆行為の描写であつた。若い女教員の卵たちが性慾の悩みにたへかねて、いろんな不自然な行為をするのが、私たちの好奇心を極度にそそつた。深夜突如、非常呼集をやつて、女学生たちのベットを一々視察してみたら、実に意外な性器具を発見した。なかでも一番傑作だつたのは、宵のうちに校外から焼芋をかつてきて、さんざ食ひ散らかしたあげく、そのあまりをつぶして、克明にコンドームヘつめ、それを体温で温めて用いてゐたといふ実例である。
 夏目先生もその話の時はくすくす笑つてをられた。腕組が一層堅つくるしくなつた。
「どうも、手数のかかつた、浅間しいことをやるもんだなあ。」と、感嘆してをられたが、それは数の少い発言の中の一番出色のものであつた。その晩は夏目先生の、胆汁質な、対抗意識みたいなものばかり、僕はみせつけられた。

ルノアール ピエール・オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)。フランスの印象派の画家。生年は1841年2月25日。没年は1919年12月3日。
白ばッくれた しらばくれる。知っていて知らないさまを装う。しらばっくれる
センズリ 千摺り。 男性の自慰。手淫。
キンゼイ報告 米国の動物学者キンゼイ(A.C.Kinsey)が全米の男女を対象に行った性行動に関する調査の報告書。1948年に男性編、53年に女性編を発表。Sexual Behavior in the Human Male。キンゼイ報告はまだこの時代では発表されていないので、「ようなもの」なのです。
うんちく 蘊蓄。薀蓄。蓄えた深い学問や知識。
滔々 とうとう。次から次へとよどみなく話すさま
師範学校 旧制の小学校教員養成機関
自瀆 自慰。マスターベーション
堅苦しい かたくるしい。気楽なところがなくて窮屈
胆汁質 ヒポクラテスの体液説に基づく気質の4分類の一。激情的で怒りっぽく攻撃的な気質。胆液質。

 上田先生は知らん顔で、誰れかと巴里のオペラの話をしてをられた。先生のとこまでは聞えなかつたらしい。
 誰れだつたか、へうきんな調子で、
「ねえ、先生。僕がきいたところでは、電燈のグローブなんかも用ゐるさうですね。」
 鷗外先生は尢もらしく鬚をひねるかつかうをしながら、
「いや、それは何処でもやるらしいね。敬天堂病院の医員にきくと、一遍腟内で破裂して早速手術をしたんだが、手術が不成功に終つてたうとう死んだといふ実例もあるさうだよ。」
「いよいよもつて、浅間しき限りですね。」
「腟内で粉々に破裂したんぢや処置なしだよ。危いことをやるもんさ。」
 それから性病の話になつて、モウパッサン脳梅毒の話にまで発展していつた。勇はしかめッ面をして、わざと大向うめあてに、
「われわれも慎しむべきだなア。」なんて、場あたりめかしいことをのめのめといつて、わあッと皆を笑はせる。
 と鴎外先生は、
「ほんとに気をつけないといかんよ。吉井君なんざその方にかけちや猛者中の猛者だからなあ。長田秀雄君の『歓楽の鬼』のテーマもそれだからな。」
 秀雄は盃をふくみながらジロリと僕の方を睨んだ。
 小山内薫氏が自由劇場で演出した兄貴のあの有名な『歓楽の鬼』は、今だから白状するけれど、あれは実は僕がかいたものなのである。僕は一生懸命に苦心をして、脳梅毒の末期の患者を主題として、『暗い血の谿谷』といふひと幕ものの習作をかいてゐた。僕がそれを朗読して聞かせると、兄貴ドラマツルギーとしては成つてゐないなぞと、酔つぱらつてさんざんコキ下ろしたくせに、いつの間にかその原稿が僕の机の抽出からふつと姿を消してしまつた。
 兄貴の『歓楽の鬼』は、三田文学に掲載されたものである。兄貴は度はづれの怠けものなので、折角三田文学から執筆を頼まれてゐながら、どうしても締切に間に合はない。そこで苦しまぎれに僕の『暗い血の谿谷』を『歓楽の鬼』と改題して、僕に断りもしないで「三田文学」へ送つたわけである。むろん自己流にだいぶ手は入れてあつたが、台詞なんか、利きぜりふは僕のほとんどそのままそつくり使つてゐた。しかしさすがに兄貴だけあつて、幕切れなんかあの通り、実にうまく改作してあつた。
 後年小山内薫氏が僕のことを罵倒して秀さんは『歓楽の鬼』をかいてすぐれた芸術的純粋さを示したが、幹さんは依然としてセンチメンタルメロドラマチストだと面と向つて僕を批難したのには、まことに恐入つた。それ以来僕は批評家といふものを心から信じることか出来なくなつたのである。
 それからも秀雄は僕のものでしばしば原稿料をかせいだ。第二次世界大戦の初まる頃まで兄弟義絶して、十数年間遂にお互に仲直りをしなかつたのも、兄貴のあまりにも放埒な破廉恥な所業が原因をなしてゐるのである。兄貴は自分の債務のためにしばしば僕の家へまで執達吏をよこした。僕は肉親を超えた芸術家として兄貴の背徳行為を今でもいいことだとは思つてゐない。
 だから故久米正雄氏が、「新潮」にかかれた『文壇会合史』なるものをよんだ時には、ひそかに哄笑するより外はなかつた。世の中には裏の裏までみぬく人はないものである。僕は久米氏に「不徳のいたすところ」などとまるで筋遠ひなことをいはれても、いささかも俯仰天地恥ぢない。通俗作家が不道徳で純文芸の作家はみんな清節の士のやうにいつたあの時分のヘナチョコなヒロイズムほどあべこべに文壇を毒したものはあるまい。『会合史』は僕に関する限り相当出鱈目なものであることを、数々の資料によつて実証することが出来る。

巴里 パリ。フランス共和国の首都。パリ盆地の中心にあり、セーヌ川が貫流。川中島のシテ島を中心に同心円状に発展。
グローブ globe。電灯の光をやわらかく広く散らすための、ガラスなどで作った球状の覆い。
モーパッサン アンリ・ルネ・アルベール・ギ・ド・モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant)。フランスの自然主義の作家、劇作家、詩人。生年は1850年8月5日。没年は1893年7月6日。先天性と後天性梅毒があったと考えています。
脳梅毒 梅毒第三期に主として神経系がおかされた状態。
歓楽の鬼 明治43年、長田秀雄はイプセンの影響を受けて戯曲「歓楽の鬼」を発表、 翌年小山内薫の自由劇場で上演、新進劇作家として注目されました。「歓楽の鬼」の主人公は洋行したパリで性病になりますが、この時代では脳梅毒などが大きな原因でした。
自由劇場 2世市川左団次と小山内薫が主宰。 1909年11月イプセン作の『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を有楽座で2日間試演。10年間に9回の公演と試演を断続的に行い、日本の新興脚本や新興演劇術のために一つの道を開いた。
ドラマツルギー 戯曲の創作や構成についての技法。作劇法。戯曲作法。演劇に関する理論・法則・批評などの総称。演劇論。
抽出 ひきだし。引き出し、引出し、抽き出し、抽斗。たんす・机などの物をしまっておく抜き差しできる箱。
三田文学 文芸雑誌。 1910年5月創刊。森鴎外、上田敏の斡旋で新帰朝の永井荷風を慶應義塾大学教授に迎え、同大学文科の発展を期して創刊された。
利きぜりふ 普通の会話の中に、金言や格言のようなセリフを入れること
センチメンタル 感じやすく涙もろい。感傷的
メロドラマチスト メロドラマとは音楽の伴奏が入る娯楽的な大衆演劇から、今日では、通俗的、感傷的な演劇、映画、テレビドラマなど。メロドラマチストはその作者、演者など
債務 借金を返すべき義務。
執達吏 執行官の旧称。国の代理人として、強制執行の具体的作業を取り仕切る人
久米正雄 久米正雄小説家・劇作家。生年は1891年(明治24年)11月23日。没年は1952年(昭和27年)3月1日。第三、四次「新思潮」同人。のち感傷的作風の通俗小説に転じ流行作家となりました。
新潮 佐藤義亮が新潮社を興し、1904年、『新潮』は創刊。100年以上も続いています。
文壇会合史 『微苦笑随筆』という本の「文士會合史」を読んでいますが、この「文士會合史」では「不徳のいたすところ」と話す場面はありません。おなじ通俗作家とレッテルを張られた人同士、久米正雄氏が長田幹彦について話すときに、あまり悪意は感じられません。
哄笑 こうしょう。大口をあけて笑う。どっと大声で笑う。
俯仰天地… ふぎょうてんちにはじず。俯仰天地に愧じず。孟子の言葉で「かえりみて、自分の心や行動に少しもやましい点がない」

文豪の素顔|森鴎外

石畳|神楽坂|クランク坂上

文学と神楽坂

 この奥、先にはまた階段になっていて、「クランク坂」といいます。

寺内公園20160117

 この先は前に玄関がありますが、右手に曲がって「クランク坂上」につながります。下は以前のクランク坂です。

クランク

『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では

坂崎 非常に入り組んだ地形でね。階段があったり、坂があったりして。
井上 ふつうの人はまず入ってこない。
  カギ形に入り組んでいるから『クランク坂』。交差してないから卍坂とはいえないし。
坂崎 いいネーミングだなぁ。

 なお、クランク (crank、道路)とは「直角の狭いカーブが二つ交互に繋がっている道路のこと」(ウィキペディア)です。写真を4つ連続して載せておきます。結構いい場所です。またホテル「レトロのホテル」も出てきました。

石畳 クランク坂上
石畳 クランク坂上2
石畳 クランク坂上3
石畳 クランク坂上4


絹もすりん|森田たま

文学と神楽坂

森田たま 森田たま氏の『もめん随筆』(中央公論社、1936年、昭和11年)の「絹もすりん」です。
区内に在住した文学者たち』によれば、昭和13年頃~19年頃、矢来町41に住んでいました。しかし、20代でもここに住んでいたようです。1970年(75歳)、死亡しました。
 この随筆は、書きたいことだけを書くので、清純で、また綺麗です。

 十八の時初めて上京して、ふとした機会からのお稽古に通ふやうな事になつた。御縁があつて牛込の藤間勘次さんに教へて頂いたのであるが、踊などといふものは三つ四つの頃近所に若いお妾さんがゐて、退屈しのぎに私を借りていつては深川だの奴さんだのを教へてくれた事があるきりで、手の出しかた足の踏みかたてんで見当のつけやうもなく、つるつると滑つこい舞台の上を、ただ辷るまいといふ一心で浮腰に歩き廻つた。爪先立つていまにも転びさうな私の足許へぢつと眼をそそいでゐたお師匠さんは、やがて一緒にお茶を飲みなからさり気なく云はれるのである。
「おたまさん、あなたの足袋は幾なの」きかれても私は知らなかつた。
「家から送つてきたのをそのまま穿いてゐるんですけど、……」
「さう。道理で変だと思つた。その足袋はきつとあなたには大き過ぎるんですよ、一ぺん足袋屋へいつて寸法をはかつてお貰ひなさいよ。足袋だけはきつちりしたのを穿かなくつちやね。……」
 私はお師匠さんに教はつた通り早速通寺町美濃屋へ行つて寸法をはかつて貰つた。八文の足袋がきつちりと合つた。あらためて家から送つてよこしたのを調べると、こはぜに九文と刻んであつた。
 神楽坂の夜店に金魚売りや虫屋が幅をきかす頃になると、女の人の姿が眼に立つて美しくなり、散歩に出る人の数が急にふえてゆくやうに思はれた。人間洪水といつていいやうな凄まじい群集の間をくぐりぬけて、矢来のお師匠さんのところまで辿りつき、黒つぽい縞もすりん単衣からたたんだ手巾を出して顔を拭いてゐると、二階から降りて来たお師匠さんが私を見て「暑いでせう」と声をかけた。
「おくにでは今頃でもやつぱりさういふ風にもすりんを着てらつしやるの」
「ええ、……」と私はをひいて自分の衿を見るやうにした。
「夜のお稽古は浴衣でいいんですよ。……昼間だつてお稽古の時はねえ、汗になりますからねえ」
 夜の神楽坂を歩く女の人が急に美しく見え出したのは、くつきりと鮮やかな浴衣のせゐであつた事にやつと私は気づいたのである。

 おどり。音楽などに合わせて踊ること。
藤間勘次 森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生です。遠藤登喜子氏は『ここは牛込、神楽坂』第6号の「懐かしの神楽坂 心の故郷・神楽坂」を書き
 勘次師は、二代目藤間勘右衛門(後の勘翁)の門弟で、三代目勘右衛門、後の初代勘斎(松本幸四郎)は先代市川團十郎、松本白鴎、尾上松緑三兄弟の父君です。勘次師は、また作家の森田草平先生の奥さまで、花柳界のお弟子は全く取らず、名門の子女が多く、お嬢さま方がそのころ珍しかった自家用車に乗り、ばあやさんをお供にお稽古に来ておられました。
 藤間のお三方のご兄弟ももちろんこの頃は若く、踊りの手ほどきを勘次師にしていただくためよく来られました。私はまだ小学生で、時々お稽古場で豊(松緑)さんと顔が会うと、住まいが同じ渋谷だったので、お稽古の後、付人のみどりさんという若い男の子と三人で神楽坂をぶらぶら歩いて、よく履物の助六の下にあった白十字でアイスクリームなどをごちそうになったものです。

浮腰 腰が不安定な姿勢。へっぴり腰
 1文は2.4cmです。
通寺町 現在の神楽坂6丁目です。
美濃屋 戦前の美濃屋は神楽坂6丁目にあって、戦後は5丁目に移ってきました。中小企業情報の『商店街めぐり-神楽坂』では1955年の美濃屋は創業から60年経った店でした。これが正しいと、1895年ごろに創業したのでしょう。上記の遠藤登喜子氏は
 肴町の交差点を渡って少し行くと、コーヒーを挽いているお店があり、よい香りが漂っていました。その先が足袋の美濃屋さんで、戦前は肴町を越したところにあったのです。広いお店は畳が敷き詰められ、小さいダンスの引出しが横にずうっと並び、大旦那がお客の足型を取ったり、店員さんが小さい台の上で足袋を裏返して、木槌でトントンとたたく音が聞こえていました。私の踊りの足袋も長い間、美濃屋さんのお世話になりました。

明治40年の5~6丁目

『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」で岡崎弘氏と河合慶子氏が書いた「遊び場だった『寺内』」の一部

 残念ながら、正確な神楽坂6丁目の地図も美濃屋の地図もありません。ただし、「タビヤ」の地図はあります。「茶ヤ」が「コーヒーを挽いているお店」でしょうか。

八文 19.2cmです。
こはぜ 小鉤。鞐。布に縫い付けられた爪型の小さな留め具
矢来 神楽坂上の台地にあり、以前は若狭小浜藩主の酒井讃岐守の敷地でした。矢来の名前は、この敷地の周囲を竹矢来で囲んでいたためです。北部に東西線の神楽坂駅があり、また新潮社もあります。
師匠 夏目漱石の手紙を読むと、森田草平氏と藤間勘次女史は矢来町62番地に住んでいました。

矢来町62番地

大正11年、東京市牛込区の地図

縞もすりん モスリンは羊毛等で織った毛織物。(しま)モスリンは2種以上の色糸を使って織り出した縦縞や横縞のモスリン
単衣 ひとえ。裏地のない和服。6月から9月までで着用しました。
 たもと。和服の袖付けから下で袋のように垂れたところ
くに 森田たま氏の故郷は北海道でした
 おとがい。下あご。あご。
浴衣 ゆかた。木綿の浴衣地でつくられた単衣の長着。家庭での湯上がりのくつろぎ着や、夏祭り、縁日、盆踊り、夕涼みなど夏の衣服として着用します


漱石先生の書き潰し原稿|内田百閒

文学と神楽坂


内田百閒

内田百閒氏

 内田百閒(ひゃっけん)氏の「漱石山房の記」(昭和29年、角川文庫)です。
 氏は小説家、随筆家で、生年は明治22年5月29日。没年は昭和46年4月20日。東京帝大独文科卒。夏目漱石に私淑し、在学中から俳句や写生文を発表。代表作は『贋作吾輩は猫である』『阿房列車』など。法政大教授でした。

 漱石先生が朝日新聞に「道草」を連載せられた當時、木曜日の晩に漱石山房へ行つて見ると、板敷の書齋の絨氈の上に、こつち向きに据ゑてある先生の黒檀の机の脚の外側に何か少し書いた原稿用紙が積み重ねてあつて、それが毎週見る毎に次第に高くなる樣であつた。あれは何ですかと尋ねて見たら、書き潰しが溜まつたのだよと云はれた。
 漱石先生に消したり直したりして汚くなつた原稿用紙は新聞社へ渡されなかつた樣で、その度に紙を新らしくして、初めから書き直されたらしい。先生の專用せられた原稿用紙は橋口五葉氏の考案した木版を刷つたものであつて、縁の額には竜の模樣があつた。判は大きかつたけれど、半切であつたから、書き直しをされても大した事はなかつたと思はれる。
 しかしその書き潰しが段段高くなつて、七八寸もある様に見えて来ると、私にはそれが気になり出した。先生は一枚一枚破いてそこいらに散らかすよりは、さうしてきちんと重ねておいた方が始末がいいと云ふだけの事でさうして居られるに違ひないが、もつと溜まつて、邪魔になり出したら、どうするのであらうかと云ふ事が心配になつた。先生が捨ててしまはない内に買ひたいものだと考へて、同じく漱石山房へ出入してゐた岡田耕三君と、も一人だれだつたか忘れたが、私と三人でその書き潰しの原稿用紙を頂戴したいと云ふ事を、恐る恐る先生に申し出たところが、そんな物がいるなら持つて行つてもいいよと先生が云つたので、早速三人で分けた。(中略)
 さうして貰つて来た書き漬しの原稿用紙を私は大切にしまつておいたが、長い間にその内の幾枚かを二三の知友に割愛した。近年になつて郷里岡山の恩師木畑竹三郎先生にも二三葉を差上げたところが大変にお喜びになつて巻物にして保存したいから、その由来書を私に書けと命ぜられたので、右の次第を拙文に綴つたのである。

 で、「新宿区夏目漱石記念施設整備基金」を出すと必ず新宿区から貰える『道草』の草稿、つまり書き潰しです。道草

橋口五葉 はしぐちごよう。版画家。橋本雅邦に師事。独自の近代浮世絵版画を完成。夏目漱石・泉鏡花・永井荷風らの本も装丁。生年は明治13年12月21日。没年は大正10年2月24日。享年は満42歳。



[硝子戸]

神楽坂通り(3丁目南東部)

助六と龍公亭
 3丁目南側最東部の歴史です。赤い色で書きました。この図の左側は北西部の坂上で、見番横丁に入っていく横丁があります。さらに下に行くと北には「神楽坂仲通り」が見えます。反対側は一応「神楽坂仲坂」と名前をつけておきます。この赤い部分を大正元年から現在まで見ていきます。

1912

東京市区調査会『東京市及接続郡地籍地図』大正元年

 では、この上の地図を見ましょう。大正元年で、羽生写真館がありました。今ではこの写真館はなく、いつ消えたのかわかりません。ここに助六と龍公亭もあったはずです。飯田公子氏の本『神楽坂龍公亭物語り』によれば龍公亭は明治31年に創業し、助六は明治43年に創業したので、店舗はあるはずですが、この地図には書いていません。(地図は東京市区調査会『東京市及接続郡地籍台帳』と『東京市及接続郡地籍地図』大正元年から)

 次は大正7年です。地図は飯田公子氏の本『神楽坂龍公亭物語り』から取った「大正6年の神楽坂地図」です。このうち、左上に見られる越前屋から山本漬物屋までです。

 当然、羽生写真館はなくなっています。「あやめ寿司」はのちの龍公亭です。田原屋果物店は有名な5丁目の田原屋の弟がやっていました。あと、越前屋はなにをやっていたのでしょうか、わかりません。

 次は大正11年ごろの、関東大震災が始まる直前です。印屋はなくなりました。竹村アメヤは「菓子屋」になっています。山田レストランは「カフェー山田」に変わりました。あとは変わりません。(新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)から)

1927
 次は昭和5年頃です。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」からで、上半分が昭和5年頃です。下半分は1996年の地図です。一番左の越前屋は榎本文具店に変わっています。また「菓子屋」は天壽堂飴店になっています。カフェ山田は同じ場所で変化はなく、河合洋品屋は山本茶店に変わりました。あやめ寿司は龍公亭飯店に変わりました。しかし、経営陣は同じです。住吉メリンスも「呉服・住吉屋」と同じでしょう。山本漬物店は「山本骨董店」になりました。これも同じ山本になっているので、同じ経営陣なのでしょう。
 1930&1996 1937年(昭和12年)では最後の戦前の地図です。ビヤホールは「カフェ山田」でしょう。スシヤはあやめ寿司を指しています。その右手の無名の店は助六です。田原屋果物店が続き、「山本骨董店」ではなく「丸山薬局」になっています。(都市製図社の『火災保険特殊地図』昭和12年)

1937

 1952年(昭和27年)は戦後になります。榎本文具店は「金井敏雄」になり、飴店は岡田印章にかわりました。これは6番地です。一方、5番地では助六が左に、龍公亭は右に変わっています。また「田原屋」はなくなり、ヒデパーマにかわっています。4番地は山本薬局になっています。上の「丸山薬局」はやはり間違いで山本薬局のままの方が考えやすいと思います。(都市製図社の『火災保険特殊地図』昭和27年)
1952

 1960年頃、『神楽坂まちの手帖』第12号の「神楽坂30年代地図」です。左は「花菱」で、初めてのフランス料理がでてきました。岡田印章は岡田印房にかわりました。助六と龍公亭が続き、蘇家成に変わっています。ヒデ・パーマと山本でおしまいです。
1960年CCF20130523_00096

 同じ1960年の地図を出しておきます。すこしあとにでたのでしょうか、蘇家成は空き家になりました。(住宅地図は新宿区西部[1960]住宅協会から。国立国会図書館で調べています)1960年
 1962年は全く変わっていません。(住宅地図は新宿区西部[1962]住宅協会)
1962年
 下の1970年は国立図書館のコピーが悪く読めない場所もありますが、空想力を使って「西洋料理花菱」「岡田印房」「はきもの助六」「龍公亭飯店」「コーヒー5番」「ヒデ美容室」「山本薬局」と変わっているはずです。(住宅地図は国立国会図書館の「新宿区西部[1962]住宅協会 新宿区1970年度版 渋谷逸雄」から)
1970年
 1980年は「ハナビシ」「岡田印房」「助六 3F」「龍公亭」「五条ビル 5F」「ヒデ美容室」「山本薬局」です。(住宅地図は国立国会図書館の「新宿区1980年度版 日本住宅地図出版」)

1980
 1985年は下の地図で「(名前はわからず)」、「岡田印房」、「助六」、「龍公亭」、おそらく「五条ビル」の「B1コーヒーハウス」、「ヒデ美容室」、「山本薬局」です。(神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』(1985)から)
1985

 1990年は「神田印刷仮営業所」「岡田印房」「助六」「龍公亭飯店」「五条ビル」「ヒデ美容室」「山本薬局」です。「五条ビル」は大きくなって平面的にヒデ美容室のほぼ1.5ぐらいは大きくなっています。(住宅地図は国立国会図書館の「新宿区1990 ゼンリン」から)

1990

 1996年は上から4番目の地図と同じ地図です。上は昭和5年頃、下は1996年の地図です。「携帯電話専門店HIT SHOP」「岡田印房」「助六履物」「龍公亭飯店」「タゴール」「ヒデ美容室」「芳進堂3丁目店」があります。1930&1996

 2001年は「HITショップ神楽坂店」「岡田印房」「助六」「龍公亭飯店」「五条ビル」「ヒデ美容室」「神楽坂山本ビル」です。(住宅地図はGrand Map グランマップ Version 1.01という地図のプログラムから取りました)

2000

 2010年は「ルーシー飯田」「岡田印房」「助六」「龍公亭ビル」「神楽坂センタービル」「神楽坂山本ビル」で、ヒデ美容室がなくなり、五条ビルと合わせて「神楽坂センタービル」に変わりました。(住宅地図は「新宿区201010 ゼンリン」)

2010

 2015年は「ルーヒーローゼ」。次は名前を調べると「TheRoom」でした。「助六」「龍公亭」「神楽坂センタービル」「神楽坂山本ビル」に変わりました。「TheRoom」が一番新しく2013年10月にできました。これも縦たっだ文字を勝手に横に変えています(地図は神楽坂通り商店会編の『神楽坂マップ』)

2015

 ほとんどは大きなビルに代わっていますが、小さな店もあります。つまり、大企業やビルのオーナーと、小さな店舗です。本当は、小さな店舗も大企業並に変えたいと思っているのでしょうね。あるいは、顔が見える店舗と、顔を見せない企業とに分けることもできます。顔が見える店舗がある間は、みんなの街、庶民の町なのです。

大正7年越前屋印屋 竹村アヤメ山田レストランと河合洋品店あやめ寿司助六下駄屋田原屋果物店と住吉屋呉服山本漬物店
大正11年菓子屋カフエー山田と河合洋品店山本骨董店
昭和5年頃榎本文具店天壽堂飴店カフエー山田と山本茶店龍公亭山本薬局
昭和12年6ビヤホール日原屋
昭和27年金井敏雄岡田印房助六ヒデパーマ
昭和30年フランス花菱蘇家成
空室
1970年コーヒー
1985年
2010年ルーシー飯田神楽坂センタービル山本ビル

●花菱
 レストラン『花菱』は戦後に開業した店ですが、田原屋と同じく料亭さんにも仕出しで料理を提供していました。サラダやステーキやシチューがおいしかったのを覚えています。黒い小判型の漆塗りの弁当箱に入った洋食弁当は二段重ねになっていて、芸者さんたちに人気でした。お座敷でお客様と一統に食べたりしない芸者さんたちに、気の利いたお客様は、時に洋食弁当を取ってご馳走するのです。そうすると芸者さんたちはたいそうご機嫌になってサービスも倍増するというわけです。父の妹二人と、その夫たちもたまたま兄弟でしたが、その二夫婦で一緒にレストランをやっていたのです。神楽坂で人気のあった『花菱』も夫たちが病気になったことから昭和の終わりに幕を閉じてしまいました。

 私のアルバムの中の神楽坂。飯田公子。かぐらむら。76号。平成26年