月別アーカイブ: 2016年9月

紅白毒饅頭|尾崎紅葉

文学と神楽坂

 明治24年、尾崎紅葉氏は読売新聞に『紅白毒饅頭』の連載を始めます。ここでは架空の玉蓮教会の縁日の様子ですが、毘沙門の縁日がもとになっていると言われています。昔の光景ですが、昔の名前で今の品物を売っていることも多いのでした。たとえば「竹甘露」は水羊羹と同じものでした。
 架空の玉蓮教会は実際は神道大成教に属する新宗教の蓮門(れんもん)教だといわれています。コレラや伝染病が毎年のように流行するなか、驚異的に発展し、明治23年、信徒数は公称90万人。翌年尾崎紅葉の「紅白毒饅頭」などの批判を受け、大成教は教祖の資格を剥奪し活動を制限。30年以降、教団は分裂し消滅しました。

今日(けふ)月毎(つきなみ)祭日(さいじつ)とかや。玉蓮(ぎよくれん)教会(けうくわい)(もん)左右(さいう)には、主待客待(しゆまちきやくまち)腕車(くるま)整々(せいせい)(ながえ)(なら)べ、信心(しんじん)老若男女(らうにやくなんによ)(たもと)(つら)ねて絡繹(しきりに)参詣(さんけい)す。
往来(おうらい)両側(りやうかは)(いち)()床廛(とこみせ)色々品々(いろいろしなじな)、われらよりは子供衆(こどもしゆ)御存(ごぞん)じ、太白飴(たいはくあめ)煎豆(いりまめ)かるめら文字焼(もんじやき)椎実(しゐのみ)炙栗(いりぐり)(かき)蜜柑(みかん)丹波(たんば)鬼灯(ほゝづき)海鬼灯(うみほゝづき)智恵(ちゑ)()智恵(ちゑ)(いた)化物(ばけもの)蝋燭(らふそく)酒中花(しゆちうくわ)福袋(ふくぶくろ)硝子筆(がらすふで)紙製(かみの)女郎人形(あねさま)おツペけ人形(にんぎやう)薄荷油(はくかゆ)薄荷糖(はくかたう)皮肉桂(かはにくけい)竹甘露(たけかんろ)干杏子(ほしあんず)今川焼(いまがはやき)まるまる(やき)煮染(にこみ)田楽(でんがく)浪華鮨(なにはずし)大見切(おほみきり)半直段(はんねだん)蟇囗(がまぐち)洋紙製小函(やうしのこばこ)、おためし五(りん)蜜柑湯(みかんたう)(くし)(かんざし)飾髪具(あたまかけ)楊枝(やうじ)歯磨(はみがき)(はし)箸函(はしばこ)老女(ばば)常磐津(ときはづ)盲人(めくら)(こと)玩具(おもちや)絵双紙(ゑざうし)銀流(ぎんなが)早継粉(はやつぎのこ)手品(てじな)種本(たねほん)見世物小屋(みせものごや)女軽業力持(をんなかるわざちからもち)切支丹(きりしたん)首切(くびきり)猿芝居(さるしばゐ)覗機関(のぞきからくり)手無(てな)(をんな)日光山(につくわうざん)雷獣(らいじう)大坂(おほさか)仁和賀(にわか)天狗(てんぐ)(ほね)(かしま)しく()()(はや)(たて)て、大道(だいだう)雑閙(にぎわい)此神(このかみ)繁昌(はんじやく)()るべし。

腕車。わんしゃ。人力車。客を乗せて車夫が引く二輪車。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/

轅。ながえ。馬車・牛車などの前方に長く突き出ている2本の棒。

絡繹。本来は「らくえき」で人馬などが次々に続いて絶えない様子。

床廛。とこみせ。床店。廛は店と同じ。商品を並べるだけの寝泊まりしない簡単な店。移動できる小さな店。屋台

太白飴。タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴。

煎豆。豆・米・あられなどを炒って砂糖をまぶした菓子

かるめら。赤砂糖と水を煮立て重曹を加えてかきまぜ、膨らませた軽石状の菓子

植物のほおづき

植物ほおづき

文字焼。もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。

椎実。椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。

炙栗。熱した小石の中に入れ加熱した栗。甘栗に近い。

丹波鬼灯。植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。
海ほおづき

海鬼灯。うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。

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http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

智恵の板。正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。

化物蝋燭。影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの

化物蝋燭 http://o-bakemono.tumblr.com/post/72387607092/yajifun-geikai-yoha-matsudaira-naritami–藝海餘波。

硝子筆。ガラス製のペン

酒中花。ヤマブキの茎の髄などで、花・鳥などの小さな形を作り、杯や杯洗などに浮かべると、開くようにしたもの

女郎人形。女郎は本来は「じょうろ」と読み、遊女、おいらん。あるいは単なる女性のこと。女性の形をした人形でしょうか。%e3%82%aa%e3%83%83%e3%83%9a%e3%82%b1%e3%83%9a%e3%83%bc%e7%af%80

おツペけ人形。明治20年代、川上音二郎氏はオッペケペー節を書生芝居の幕間に歌いました。自由民権運動の歌で、格好は鉢巻、陣羽織、軍扇でした。同じ格好をした人形でしょうか。

薄荷油。ハッカ油。主成分はメントール。薬用,香料などに広く使う

薄荷糖。ハッカの香味を加えた砂糖菓子

皮肉桂。ニッキ(ニッケイ、シナモンなど)の樹皮を乾燥したもの。独特の香りと辛味がある。
竹甘露

竹甘露。青竹に流し込んだ水羊羹。

干杏子。ほしあんず。程よい酸味と甘さがある干した果実

今川焼。小麦粉を主体とした生地に餡を入れて焼き型で焼成した和菓子。

http://ameblo.jp/hagurotetsu/entry-10922158071.html

まるまる焼http://ameblo.jp/hagurotetsu/entry-10922158071.html

まるまる焼。ミニお好み焼き。鉄板にリング状の型を置き、生地を流し込み、魚肉ソーセージが入ってる

田楽。豆腐、サトイモ、こんにゃくなどに串をさし、調理味噌、木の芽などをつけて焼いた料理。

浪華鮨。なにわずし。おおさかずし。大阪を中心に関西で作られるすしの総称。押しずし・太巻きずし・蒸しずしなどがある。

大見切。格外の価格で売ること。大売り出し。

蜜柑湯。温州みかんの皮を入浴剤として使用する風呂。

老女の常磐津。盲人の琴。常磐津は三味線音楽の流派。三味線を奏でる老女もいたし、琴を奏でる盲人もいたのでしょう。

絵双紙。江戸時代に作った女性や子供向きの絵入りの小説。

銀流し。水銀に砥粉(とのこ)を混ぜ,銅などにすりつけて銀色にしたもの

早継粉。継粉とは粉を水などでこねるとき、粉末のまま固まった部分のこと。早継粉はママコをつくらない方法でしょうか。

切支丹の首切。晒し首があるといって見せたのでしょうか。もちろん嘘の晒し首ですが
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覗機関。のぞき穴のある箱で風景や絵などが何枚も仕掛けられていて、 口上(こうじょう)(説明)の人の話に合わせて、立体的で写実的な絵が入れ替わる見世物

雷獣。日本の妖怪。雷とともに天から降りてくきて、落雷のあとに爪跡を残す、想像の動物。

仁和賀。素人が宴席や街頭で即興に演じたこっけいな寸劇

天狗の骨。たぶん動物の骨。谷崎潤一郎氏の随筆「天狗の骨」はイルカだったらしい

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私の東京地図|佐多稲子⑤

文学と神楽坂

佐多稲子氏の『私の東京地図』の「曲り角」には牛込駅が出ています。

 このときから二十年の月日が流れている。それなのに、飯田橋から九段下へ出る電車に乗ってそこを通り過ぎるとき、私はときおりふいと九段の方を見上げることがある。飯田橋から九段へ出る電車通りはいつも埃をかぶったようにくすんでいて見栄えのしない道だ。魚屋だの八百屋だのの毎日の商い屋に混って、わが家で何かの企業をしているといったようなのが目につく。神田の方へ道の岐れた二股の突っ先の角には自動車の修理をするあけっぴろげな工場があって、円タクの町に流れていたころはよく、ガラスのみじんにひび破れた車などが修理場へ持ち込んであった。片側は九段上なので、そばやの角などから石畳の狭い坂が上へ登っている。家と家との間から高台の石垣ののぞいているところもある。かつての昔、私の生活が結びついていたのは、この辺りなのだと思う。何だか遠い悪夢でも思い出したように、半ば信じられない。この辺りの土地のことを自分の利害で、区劃整理があるらしい、飯田橋の駅が中央線の起点になるらしいなどという夫の話に私も相手になっていた。飯田橋の駅が大きくなれば、あのへんの地価はずっと上るのだという。そのころ飯田橋の駅は貨物駅で、電車の客は牛込見附寄りにあった牛込駅で乗り降りしていた。その飯田橋駅の長々とした歩廊は味気ないが、桜の花の散る濠の前にあった牛込駅は愛らしく、ハイカラな玩具の停車場のようなおもむきだった。駅の隣は貸ボート屋だなんて。今だからこそ私はこんなことをいっている。飯田橋駅が中央線の始発駅になるというとき、九段下のあたりまで旅館ができたり、大きな商店のたち並ぶのを頭に描いてみたのであった。

このとき。大正13年(1924)頃です。また『私の東京地図』は昭和24年(1949年)に出ています。

飯田橋 市電の飯田橋停留場です。下の図で。
九段下 下の図で。市電で飯田橋から目白通りを通って九段下に行くときに目に入ってきた情景です。

飯田橋と市電

飯田橋と市電。明治40年の地図。人文社「古地図・現代図で歩く明治大正東京散歩」。2003年

電車 もちろん、JRではなく、市電(都電)です。
見栄えのしない道 飯田町1丁目の写真です。この写真を撮った日時は不明ですが、この路線の都電は昭和43年に廃止されていますので、それ以前に撮った写真でしょう。

飯田町1丁目(東京都交通局『わが街 わが都電』アドクリエーツ社、平成3年)飯田町1丁目 二股 明治40年の地図にはありませんが、下の昭和6年の地図でははっきり2股になっています。
九段上 下の地図を。
私の生活 佐多稲子氏の住所は麹町区飯田町6丁目24番地でした。上の赤い場所です。

昭和6年の飯田町

昭和6年の飯田町

区画整理 宅地などの区画を整形して新たに道路や公園を造る事業。
中央線の起点 明治27年(1894年)に新宿から牛込駅まで、28年には飯田町駅までが開通。37年に御茶ノ水駅が完成。昭和3年(1928年)、飯田橋駅が完成し、牛込駅は廃駅、飯田町駅は本線の駅は廃駅に、代わりに南側の貨物駅だけが残りました。1999年(平成11年)、この駅も廃止。
貨物駅 明治28年、現在大和ハウス東京ビルとなっている場所に飯田町駅が開通。昭和3年、飯田橋駅が発足、飯田町駅は電車線の駅から外れ、南側の貨物駅に。
牛込駅 明治27年から昭和3年まで(1894~1928年)、牛込駅がありました。

貸ボート屋 平成8年、水上レストラン「カナルカフェ」が開業しました。それよりも昔、西村和夫氏は『雑学神楽坂』のなかで

 牛込停車場のホームは牛込橋の下、市谷寄りにあった。駅舎は現在の駅舎の反対側早稲田通りの下にあった。乗客は神楽坂下から水上レストランのわきを通って駅舎に入り、濠を渡ってホームへ出た。昭和の初めまで使われていた駅舎は、牛込橋の下、メガネドラッグの後ろで、現在はJRの用地として空地になっている。
 駅舎前には桜が植えられていて、東京の夜桜の名所として知られ、桜の満開の時期は、わざわざ路面電車でやってくる夜桜の見物人が出た。牛込停車場の乗降客は桜のトンネルをくぐるようにしてホームに出た。
 ここに水上公園が出来て、ボートが浮かべられたのは震災後間もない頃だった。若い男女がパラソルをかざして語り合う絶好の場所になり、休日には親子連れが集まる憩いの場になっていた。大戦後、外堀通りには東京オリンピックを前に市電が廃止された後、桜が植えられた。

また加能作次郎氏は『大東京繁昌記』のなかの「早稲田神楽坂」「牛込見附」で

 あの濠の上に貸ボートが浮ぶようになったのは、(ごく)近年のことで確か震災前一、二年頃からのことのように記憶する。あすこを埋め立てて市の公園にするとかいう(うわさ)も幾度か聞いたが、そのままお流れになって今のような私設の水上公園(?)になったものらしい。

 おそらく『大東京繁昌記』は昭和2年に発行し、一方、『雑学神楽坂』は平成22年に発行し、筆者の西村和夫氏は昭和3年生まれなので、「震災前一、二年頃から」と考えた方がいいのでしょう。大正10年前後です。実際には大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができたそうです。

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私の東京地図|佐多稲子④

文学と神楽坂

 牛込見附の方へ降りかけの、助六という下駄屋で、姉妹が買物をしているのを見たことがある。お師匠さんが鼻緒を手にとっては、自分よりも背の高い君子に顔を仰向けてそれを見せ、また番頭に何か言い言いしている。君子はさすがに若い番頭の前なので、身体つきを甘ったれた風に(たな)にもたせかけていた。姉の背が(こぶ)を背負って自分よりも低いことなど意に介していない。不具の姉は、傍若無人に妹を甘えさせ、何かの喜びを感じている。

 坂の中途には、神楽坂倶楽部(くらぶ)などという貸席もあった。そのすぐ上てに、牛込会館という、あとでは白木屋が店を出した洋風の大きな建物があったが、ここで水谷八重子が翻訳劇をやったのもその頃である。「殴られる彼奴」の道化師には汐見洋(しおみよう)が、眼も埋まるほどまっ白に塗って、鼻の先と頬をまっ赤に紅で染めてピエロの服をきていた。八重子は獅子(しし)つかいの、傲慢(ごうまん)な娘に、そして東屋(あずまや)三郎座頭(ざがしら)で、派手な(しま)の服に長靴か何か履いていた。
 喫茶店の山本では、ドウナツが安くてうまい。今まで下町ばかりに住んでいた私は、山本で一杯のコーヒーをのむことに、幾分の文化の雰囲気を感じた。芳子は相変らずどこか冷めたく、上っつらな冗談ばかり言っている。屋敷町から神楽坂へ出るひっそりした坂道で朝毎に()う男が、喜劇俳優のバスター・キートンに似ているなどと言って、その男が曲り角から現われるのを見つけると、
「おッ、バスター・キートン!」
 と囁いて、言った自分はつんと澄ましている。
 その春、見合いをして決まった縁談に、私か(かた)づいていったのはこの杵屋与志次の家の、間借りの部屋からであった。次の年の正月に、私が夫の家を出て行方を知らせなかった時、この家へも搜索人が廻った。

姉妹。姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性、妹は君子さん。
お師匠さん。姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性
君子。妹の君子さん
貸席。料金を取って時間決めで貸す座敷やそれをする家。
芳子。丸善で同僚で、同じ杵屋与志次の家に間借りをしている女性。
バスター・キートン。Buster Keaton。生年は1896年。没年は1966年。無声映画の米国の人気俳優。
杵屋与志次。長唄三味線のお師匠さん。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
次の年の正月。大正13(1924)年末、佐多稲子氏は家出し、正月あけに帰りました。

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三角堂と買取り店

文学と神楽坂

ゴールドフォンテン神楽坂上店のシロクマの買取り屋でしたが、現在は「みんなの買い取りプラザ」になりました。場所はここ%e8%b2%b7%e5%8f%96%e5%ba%97

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京しました。

馬場さん それから「三角堂」ってちっぽけな眼鏡屋さんがありましたね。夜になると三角堂の黄色い看板が出ててね。
相川さん その前はおもちゃ屋だったんですよ。私が聞いた話によると、蕎麦屋のセイちゃん。
馬場さん 蕎麦屋の神田セイタロウさん?
相川さん 三角堂のところでやっていたんです。私は知りませんよ。そういう話がある。うちのおふくろが言っていましたよ。それから、三角堂の隣が「機山閣」という本屋さん。そこへ十銭ストアができた。
山下さん 「高島屋」が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいっちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。
相川さん 飯田商事というのが高島屋をやっていた。
馬場さん 一時期、高島屋と論争してね。「丸高ストア」と名乗ったときも記憶がある。高島屋さんというのも飯田さんの系統だから。なんかあったんだと思う。

5丁目12など

大正時代の神楽坂通り。菊岡三味線、機山閣、三角堂、ほていやが見えます

震災前 震災後 1930ごろ 1952 1955 1980 1996 現在
洋服・都築 菊岡三味線   菱屋 五十番
機山閣 十銭ストア 山岡書店 雑貨 明治牛乳 Fance タグドーナツ  買い取り
玩具店 三角堂 (不明)   関口商店 セイジョー
松菜屋塩物店・食品 ナトリ パチンコ 割烹・うなぎ大和田  
神楽坂せんべい 岡沢菓子店 楽器 レコード リード  (西川)

東京俳優学校と牛込高等演芸館

藤澤浅二郎と東京俳優学校
神楽坂通りから光照寺に行く地蔵坂の右手の袋町3番地には、かつて、江戸時代から続く、牛込で第一と言われた寄席があった。夏目漱石が通い中流以上の耳の肥えたお客が集まったという「和良店亭」である。明治41年、新派の俳優、藤澤浅二郎は、この場所に、日本で初めての俳優養成所(後に私立東京俳優学校と改称)を開設した。この頃はまだ、江戸時代の慣習が色濃く、歌舞伎役者の地縁や血縁にある人だけが、芝居を行っていた。けれども文学の多様化により従来の型にはまらない、新しい表現のできる俳優が必要とされていた。

「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌
(「和良店亭」の席亭である竹本)小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。(中略)

洋風二階建ての「牛込高等演芸館」
(佐藤氏は)明治37~8年にはアメリカに遊学し、帰国後の39年暮れ、洋風二階建ての本格的な舞台を備えた「牛込高等演芸館」を新築した。地下に食堂を作り「セラ」という洋食屋を設け、翌年1月には盛大な開館式を行った。今でこそ、食堂の設置は常識だが、まだ、芝居といえば「お茶屋」を通して、という時代だったので人々の目には奇異に写ったという。 藤澤のこころざしを知った佐藤は、演芸館を破格の条件で提供することを申し出た。

東京俳優学校の開設
当初は、(藤澤氏は)西五軒町34番地の宏文学院跡での開校を考えていたが、舞台がないのが懸案だった。佐藤の厚意で、牛込高等演芸館の寄席の時間外を借り切る事になり、準備は順調に進められた。舞台は、間口4間奥行き3間ほどで、広い客席、桟敷付き2階とそれに続く大広間が2部屋。電話も自由に使わせて、舞台裏手奥に中2階の教室も新築してくれた。毎月の家賃は36円だった。生徒の終業年数は3カ年で、入学金5円、月謝は3円である。俳優養成所としてスタートしたが、明治43年3月に「私立東京俳優学校」に改称し、東京市の認可を得た。

入学前後の様子
生徒募集の反響は、予想以上に大きく、入学希望者は250名に上った。志願者は、湯島の藤澤邸で面談を受け、11月4日、選抜された35名に対して入学試験が行われた。午前中に学科:倫理、国学、英語又はドイツ語、午後は、実科:表情、しぐさ、台詞廻し、舞台度胸、役どころ、礼儀作法などが、当代一流の先生が並ぶ中で行われた。最終合格者は23名であった。
授業は11月11日から始まり、28日には客席を使って開所式が行われた。顧問の巌谷小波、新派の大御所や劇壇、文壇、劇評家達がずらりと並び、帝劇、有楽座、本郷座の幹部や、牛込区長、神楽坂警察署長も出席した。

授業の内容と生徒達
毎日、一日7時間、びっしりと行われた。学科は午前中で、倫理学、脚本解説、芸術概論、心理学(衣装や扮装の心理)音楽の心理、日本風俗史、有職故事、日本歴史(講師は前澤誠助:松井須磨子の二番目の夫)英語、フランス語。午後は実科で、藤澤による劇術、日本舞踊と扮装術(市川高麗蔵が、ロンドンから取り寄せたクラークソンの化粧箱を持って来て、英語まじりで化粧やヒゲのつけ方などを教えた)長唄(吉住小三郎)声楽(北村季晴、初子)清元(八木満寿女)義太夫(竹本小住)洋画(北蓮蔵)日本画であった。(中略)

赤字、そして閉校
生徒が30人程度で、月100円にも満たない収入では、家賃と講師陣の車代、事務費を出す事など、とうてい不可能だった。藤澤は、不足を補うために活動写真に出演して毎月100円を学校に入れた。当時、活動写真に出る事は「泥の上で芝居をする」として、舞台俳優からいやがられ、一度活動写真に出た者は再び舞台に立つ事は許されなかったが、藤澤だけは同情をもって許された。映画だけでは足りないので、舞台や巡業に休む間も無くなり、学校に顔を出す機会も減っていった。(中略)。
第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった。

同号で高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では

この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。

一方、同じく同号で、作家山下武は

牛込館の前身、牛込高等演芸館では藤沢浅二郎の俳優学校が設けられ、創作試演会が上演されたそうだ

西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

藁店わらだなに江戸期からだな亭という漱石も通った寄席があった。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを独力で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設し、ここの舞台に立つことは俳優を目指す者のあこがれになり、多くの俳優を育てた

と書いています。ただし「独力で高等演芸館に改装」したのは寄席「高等演芸館・和良店」の佐藤康之助氏でした。藁店(明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館)

野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。

藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五〇年九月30日発行の『週日朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。

紅谷研究家の谷口典子氏は「かぐらむら」平成25年4・5月第67号で

高等演芸館は、地域に大きな文化交流の場をもたらせたものの、個人で維持運営するには負担が大き過ぎた。藤沢の俳優養成所も経費がかさみ、莫大な負債を抱えて閉校に追い込まれる。高等演芸館は再度改築され、大正三年六月、人々の憧れの的、帝国劇場を参考に豪華な映画館「牛込館」に姿を変えた。しかし、映画もまだ充分な質量のフィルムが確保出来る時代ではなかった。2年後、廉之助は、日活に自宅を含む土地建物をすべて売却すると興行の世界から姿を消した。

牛込館の場所

文学と神楽坂

「牛込館」の場所はどこにあったのでしょうか。

牛込館

ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会で

糸山 石鐵さんの前には映画館があったんですよ
小林 ええ、牛込館ですね
吉野 洋画専門でね
牛込館と都館支店

左は昭和12年の牛込館と都館支店。右は現在で、別の施設になっている

現在の地図と昔の地図を加えると、リバティハウスと神楽坂センタービル2つを加えて「牛込館」になるのでしょう。なお、牛込館の南側の(みやこ)館は明治、大正、昭和初期の下宿で、たくさんの名前だけは聞いたことがある文士が住んでいました。都館は別の場所で行います。

「牛込館」について、細かくは夢をつむぐ牛込館で扱います。

私の東京地図|佐多稲子③

文学と神楽坂

佐多稲子氏の『私の東京地図』の③です。関東大震災の後の大正12年から嫁いでいく大正13年までの1年間を牛込区(現在の新宿区)で生活しています。氏は19歳でした。差別用語や放送禁止用語になる言葉もありますが、原文を尊重します。

 納戸町の静かな横町がやがて、表どおりの、北町から新見附に通じているへ出ようとするちょっと手前に、表どおりの商店の家並みが横町のそこまで曲り入ってしまったという風に一軒の魚屋がある。その真向いに、ぺしゃんと坐り込んだような軒の低い家があった。小さな子ともにおさらいをつける三味線(しゃみせん)の音がその家から聞えている。
 よいはアまアち、そしてエ、恨みてあかつきの、と、唄の言葉の意味は知らずに、幼い声が張り上げている。
「はい、もう一度、にくまアれエぐちの、あれ、なくわいな」
 そう言うお師匠さんの声も優しい女の声である。
「はい、御苦労さま、とてもお上手にお出来になりましたわ。また、あしたね」
 おじぎをして立ってゆくおかっぱの子を、わざわざ送り出してゆくお師匠さんは、束髪に結った色の白い、そしてその声と同じように優しい細おもての人である。足もとのさばき方はこきざみにいそいそとしているけれど、銘仙の羽織が、ゆきもだらりと長くて、襟もとがすくんで見えるのは、その人がせむしだからであった。
 裏の縁側でつぎものなどをしているお師匠さんのお母さんが、自分も立って来る。
「まあほんとうに、どんどんお上手になることねえ。あした、またいらっしゃいね」
 せむしのお師匠さんは母親に並ぶとその肩の下になる。娘の仕事を自分もいっしょに大事がる思いで、おっ母さんは、小さい弟子にお愛想を言っている。
「さ、お待たせしました」
 稽古台の前へもどって来るとお師匠さんは稽古本をひろげて、
「では、昨日のところをおさらいいたしましょう」
 と、三味線を膝にとる。三味線の棹の先きが、背の曲がったお師匠さんの肩よりずっと斜め上にのびて、お師匠さんの首がいよいよ襟元へはまったように見える。
月もくらまのウ
 と(ばち)を強く三味線の(いと)に当てて弾きはじめると、お師匠さんの表情がやや()つくなる。女学生のお弟子の幼い撥の音と二重になって暫く、それが続く。(中略)
 神楽坂の花柳界につづいた屋敷町と、大きな酒屋や薬屋などのある北町の表どおりとの間につぶされるように挟まって目にもつかぬ家、稽古三味線の音で辛うじて杵屋与志次の看板に気づく。内弟子から名取りになって、ようやくここに独り立ちしているせむしの師匠は、母親と、十七歳になる妹との三人暮らしであった。妹は母親似の、年齢よりは大柄な、色白のぼってりした娘で、その頃、日本一の建物だと地震前から噂の高かった丸の内ビルディングの地下室の、花月食堂の給仕をしていた。

納戸町。北町。新見附。北町~新見附地図を参照。
道。現在は牛込中央通りです。
唄の言葉。三味線の歌(絃歌)『明けの鐘(宵は待ち)』の一節です。「宵は待ち そして恨みて 暁の 別れの鶏と 皆人の 憎まれ口な あれ鳴くわいな 聞かせともなき 耳に手を 鐘は上野か浅草か」と続きます。
お師匠。女性で杵屋与志次師匠。
束髪。そくはつ。髪をひとまとめにして束ねる結髪。明治時代以後、流行した婦人の洋髪の一つ。
銘仙。めいせん。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物。
縞。しま。2種以上の色糸を使う、縦か横の筋かその織物。
ゆき。裄丈。ゆきたけ。衿の中心から袖口までの長さ。
丈。たけ。長さ。%e3%82%86%e3%81%8d%e4%b8%88
すくんで。体をちぢめ小さくなる。
せむし。背中の一部が円く突出した状態。
月もくらまのウ。三味線の『鞍馬山』の一節です。「月もくらま(鞍馬)の影うとく 木の葉おどしの小夜あらし」と続きます。
撥。ばち。琵琶・三味線などの弦をはじいて鳴らすへら状の道具。
絃。琴・三味線などの楽器の糸。
杵屋与志次。三味線の師匠で女性。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
花月食堂。実際にあったようです。

神楽坂の 花柳界 %e7%b4%8d%e6%88%b8%e7%94%ba納戸町でも神楽坂に近い場所というと、中町や南町に接する場所でしょう。酒屋としては升本酒店があり、この酒店は明治30年3月から現在まで続く老舗です。この当時も同じ納戸町に店を構えていました。また萱沼薬局も納戸町に構えています。おそらくこの2店舗の間を通って南町に行く通りがあり、杵屋与志次の家はその辺り(青の輪)にあったのでしょうか。

私の東京地図|佐多稲子①

文学と神楽坂

佐多稲子氏の『私の東京地図』の「坂」(新日本文学会、1949年)を読んでいきます。

       坂

戦災風景

戦災風景 牛込榎町から神楽坂方面。堀潔 作

 敗戦の東京の町で、私の見た限り、牛込神楽坂のあたりほど昔日のおもかげを消してしまったところはない。ここに営まれた生活の余映さえとどめず、ゆるやかに丘をなした地形がすっかり丸出しにされて、文字どおり東京の土の地肌を見せている。高台という言葉は、人がここに住み始めて、平地の町との対照で言われたというふうにすでにその言葉が人の営みをにおわせているが、今、丸出しになった地形は、そういう人の気を含まない、ただ大地の上での大きな丘である。このあたりの地形はこんなにはっきりと、近い過去に誰が見ただろうか。丘の姿というものは、人間が土地を見つけてそこに住み始めた、もっとも初期の、人と大地との結びつく時を連想させる。それほど、矢来下から登ってゆく高台一帯のむき出された地肌は、それ自身の起伏を太陽にさらしていた。
 肴町の停留所のあとは、都内電車の線路を通して辛うじてその場所を残しているが、この線路を突っ切って、幅狭いが一本、弧を描いて通っているのは、もの悲しくはろばろとしていた。視野は、牛込見附まではとどかない。丘の起伏にそって道は山のむこうに消えている。丘の面積の上で見ると、なんという、小さな弱々しい、愛らしい道であろう。丘の上を一本通っている道がこんなふうに弱々しく愛らしいということも、この丘をいよいよ古めかしく見せるらしい。道の両側は特有の赤ちゃけた焼跡にまだバラックの建物らしいものも見えず、道だけがひっそりとしている。神楽坂という賑やかな名さえついていたということを、忘れてしまうほど。

余映。よえい。日が沈んだり、灯火が消えたりしたあとに残った輝き。余光。残光。
矢来下。ここでは交差点「牛込天神町」の下(北側)を「矢来下」と呼んでいます。
停留所。都電(市電)が発着する駅。
都内電車。路面電車、都電(市電)のこと。
道。神楽坂通りです。
はろばろ。遥遥。遠く隔たっている。
牛込見附。江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。牛込見附も江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。肴町から牛込見附を見ても途中に上り坂があるので見えないといっているのでしょう。

牛込停留場と停車場

停留場と停車場、簡単には駅。でもこの2つ、どう違うの。

停留場は路面電車、市電、都電

現在も市電や都電などが停車し客が乗降する場所は停留所です。(場ではなく所に変わっていますが)。簡単に言えば、バス停です。

停車場は鉄道(省鉄、国鉄、JR線など)

こちらは停車場。簡単に言えば、駅。しかし、昔は停留所と停車場、この2つを正確に言わないと分からなかったのです。

ちなみに見附は

なお、見附とは江戸城の外郭に構築された城門のこと。牛込見附も江戸城の城門の1つで、この名称は城門に番所を置き、門を出入りする者を見張ったことに由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。

しかし、この牛込見附という言葉は、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)も指し、さらにこの一帯も牛込見附と呼びました。大正時代や昭和初期には「牛込見附」は飯田駅に近い所にあった「城門」ではなく、神楽坂通りと外堀通りの4つ角で、市電(都電)の「牛込見附」停留所の周辺辺りを「牛込見附」と呼んだほうが多かったと思います。

鉄道

昔の「牛込駅」。線路が変に曲がっていますが、駅があったため

山下漆器店

文学と神楽坂

 昭和22年から神楽坂で漆器や和家具を売ってきた店です。場所はここ

山下漆器店

 「かぐらむら」87号(平成28年8・9月)にNPO法人粋なまちづくり倶楽部理事長(山下漆器店二男)山下馨氏が「大久保通り拡幅と山下漆器店レクイエム(鎮魂歌)」として書いています。

 神楽坂5丁目の老舗、多くの顧客に愛されてきた山下漆器店が大久保通り拡幅事業によって近々閉店する。
 この店は開業70年の老舗であり、最近では、ちょいちよいテレビや雑誌に取り上げられる神楽坂の人気店の一つである。特に話題は、大正14年生まれの91歳店主兼看板おばあちゃん、山下弘子のしゃんとした立ち振る舞いで見せる元気ぶりである。(中略)
 ところが、そんな折、突然戦後70年間話題にも出てこなかった都市計画道路大久保通り拡幅事業が決定。拡幅事業エリア内にある山下漆器店は、隣接商店ともども閉店する運命となったのだ。(中略)
 本来、道路づくりはまちづくりと一体的に計画されるべきものである。域内交通とは異なり、通過交通動線としての大久保通りは、コミュニティを壊し、地域を分断し、商店街にダメージを与えるという宿命を持っている。従って、この拡幅計画には、地域へのマイナス面を極力小さくすべき慎重さが必要とされるべきなのだ。
 無駄な都市計画道路計画が全国各地で廃止されている時代にあって、多くの都民の人生を台無しにする事業を進めようとするならば、都知事、行政マンを含めすべての為政者は、よく心してことに当たるべきである。さもなければ、弘子のこころを納得させ、失われる大きな大切なものに対しての償いは出来ない。

と書いています。神楽坂は沢山の都市計画の末に今の神楽坂になりました。しかし、この拡幅計画自体に限定すれば、はるか昔からあったものだと思います。(この計画はあると私も知っていました)。それにしても、黙祷を捧げます。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京してきました。
 
馬場さん それでいよいよ山下さんのところへくるわけだ。
相川さん それで山下さんのところは「伊藤洋品店」ってのがあって、そのあと昭和の代になってからキクヒデさんの兄さんが(店を)出した。いま京都の方にいるのは弟さんでね。兄さんは子どもがないんで京都に帰っちゃった。それで弟さんにキクヒデってのを譲った。中河清一さん(注)と仲がよくってね。いまは弟さんが何年かに一度は中河さんを呼ぶそうですよ。こっちの天利さんの方はもう借りられない、ダメらしいって見切りつけて、神田の小川町へ「キクヒデ刃物店」を出したんですよ。
(注)元中河電気店の店主。現在「ゑーもん」の所で営業していた。
馬場さん 神田小川町に行ったがもうなかった。
相川さん そうですか。一度行ったけどね、その後、見ないからいなくなったかな。ところが霊友会に凝っちゃって、もうみんな差し上げちゃってね。娘さんをひとり亡くしたんですよ。それで、中河さんの亡くなったおじいちゃんが「よせとは言わないけど、ほどほどにしとけよ」って言ったんだから。
山下さん 四、五日あとにキクヒデさんが天利さんへやってきて「また貸してくれ」って言ってたって、私が神楽坂へきたあとにそんな話を聞きましたよ。