月別アーカイブ: 2017年1月

青葡萄④|尾崎紅葉

一散(いつさん)寺町通(てらまちどほり)()て、馴染(なじみ)西洋食料店(せいやうしよくれうてん)()つた。
店口(みせぐち)突立(つゝた)つて、
葡萄酒(ぶだうしゆ)()るか。」  と(きは)めて大束(おほたば) に、(きは)めて慳貧(けんどん)に、(われ)ながら山の手のお客(、、、、、、)であつた。愛嬌者(あいけうもの)亭主(ぢき)(わらひ)(ふく)むで、
今日(けふ)葡萄酒(ぶだうしゆ)? お(めづら)しいぢやございませんか。」
毎々(まい/\)這麼(こんな)(こと)()られて(たま)るものかと(おも)つた。
「まだお(やす)いのもございますが、旦那(だんな)召上(めしあが)りますのなら。」
(みづか)精撰(せいせん)(しよう)する一瓶(いちびん)差出(さしだ)して、
旦那(だんな)多度(たんと)召上(めしあが)らないから(こま)ります。奥様(おくさま)御一所(ごいつしよ)召上(めしあが)つて、一週間(しうかん)に一(ぼん)ぐらゐは御空(おあ)(くだ)さいまし。」
(かれ)抵掌(ししやう)して(わら)つた。
自分(じぶん)(こゝ)()ては()仇口(あだくち)()く、(かれ)調子(てうし)(あは)せて、(しば/\)這麼(こんな)(こと)()ふ。それを(けつ)して無礼(ぶれい)とは(おも)はぬのであるが、今夜(こんや)ばかりは(ちと)ばかり愚弄(ぐろう)されたと(おも)つた。
洒落(しやれ)()ふのも、()はれるのも、自分(じぶん)(だい)所好(すき)である。けれども(いま)(その)余裕(よゆう)()かつたから、脇も附けず(、、、、、)にその(びん)引摑(ひつつか)むで、
「ぢや(これ)()つて()く。」
     (三)
これから(かへ)途上(みち/\)(かんが)へたのである。(かれ)のは虎列拉(コレラ)などゝ可忌(いまは)しい()()(もの)ではない、類似(るゐじ)でも、疑似(ぎじ)でもない。畢竟(つまり)腸胃(ちやうゐ)加答児(カタル)(やゝ)(はげし)いのである。一命(いちめい)(かゝ)るやうなことは万々(ばん/”\)()い、(しか)し、あのまゝ飲食(いんしよく)()えて、明日(あした)にもなり、時候(じこう)でも(わる)かつたらば、(あるひ)変症(へんしやう)せぬとも(かぎ)らぬ。(よし)変症(へんしやう)せぬまでも、衰弱(すゐじやく)()てゝ………(あゝ)それも(はか)れぬ。一髪(いつぱつ)()今夜(こんや)(うち)! (この)葡萄酒(ぶだうしゆ)如何(どう)(をさ)めて、(すこ)しでも持直(もちなほ)させたい。(この)葡萄酒(ぶだうしゆ)で、と(びん)取直(とりなほ)して両手(りやうて)()つと、(あらた)(ささ)へた手頭(てさき)(かん)じた硝子(がらす)(つめ)たさ! それが(ほとん)秋葉(しうえふ)(みやく)()(とき)のやうに(おぼ)えた。何故(なにゆゑ)とも()らず、自分(じぶん)慌忙(あわたゞ)しく(びん)()(ところ)()れて()た。(みやく)()くて、いとゞ(つめた)かつた!! それに(おどろ)いて駈出(かけだ)した。
[現代語訳]わき目もふらず寺町通りへ出て、馴染の西洋食料店に立ち寄った。
店口につっ立って、
「葡萄酒はあるか」と極めて大ざっばに、極めて無遠慮にいった。我ながら山の手のお客だった。愛嬌者の亭主は直接、笑いを含んで、
「今日は葡萄酒ですか? お珍しいじゃございませんか。」
いつもいつもこんなことがあると、たまらないと思った。
「まだお安いのもございますが、旦那が召上がりますのなら。」
と自ら精撰と称する一瓶をさし出して、
「旦那はたんと召し上がらないから困ります。奥様とごいつしよに召し上がって、一週間に一本ぐらいはおあけくださいまし。」
と彼は手をたたいて笑った。
 自分はここに来てはよく無駄話をして、彼も調子をあわせて、しばしばこんなことをいう。それを決して無礼とは思わないのだが、今夜ばかりはちょっと愚弄されたと思った。
 洒落をいうのも、言われるのも、自分は大の好きである。けれども今はその余裕がなかったから、なにもいわす、その瓶をひっつかんで、
「じゃこれを持って行く。」
     (三)
 これから帰る途中で考えたのである。彼のはコレラなどという、いまいましい名前がつくものではない。類似でも、疑似でもない。つまり胃腸炎のやや激しいのである。一命にかかるようなことは万に一もない、しかし、あのまま飲食が絶えて、明日にもなり、時候でも悪かったらば、あるいは変症しないとも限らない。よしや変症しないまでも、衰弱し、はては………ああこれもわからない。一髪の機会は今夜だけだ! この葡萄酒をどうか飲んで、すこしでも持ち直したい。この葡萄酒で、と瓶を取り直して両手に持つと、新らに支えた手先に感じたガラスの冷たさ! それがほとんど秋葉の脈を診た時のように感じた。なぜかはわからない。自分はあわただしく瓶の他の場所に触れてみた。脈はなく、とても冷たかった!! それに驚いて駆け出した。

一散 いっさん。逸散。わき目もふらず一生懸命に走ること。
寺町通 横寺町と通町町の両方。
店口 みせぐち。店の間口(まぐち)
大束 おおたば。細かいことにこだわらないさま。おおまか。おおざっぱ。
慳貧 物欲が深くて、物惜しみをする。
愛嬌者 あいきょうもの。滑稽さ・かわいらしさがあって、皆に好かれている人や動物。
精撰 特によいものだけをえらび出すこと。えりぬき。よりぬき。
抵掌 手をたたく。
仇口 あだぐち。あだくち。徒口。むだばなし。余計な言葉。
愚弄 ぐろう。人をばかにしてからかう。
脇も附けず 脇付(わきづけ)は「手紙で、あて名の左下に書き添え、敬意を表す語」。「(敬語などは)なにもなく」でしょうか。
コレラ コレラ菌の経口感染による急性消化器感染症。日本には文政五年(1822年)初めて侵入。死亡率が高いためコロリともいった。
カタル ドイツ語はKatarrh。英語はCatarrh。粘膜細胞に炎症が起きて、多量の粘液を分泌する状態。現在の病名は「炎」に。「腸胃カタル」は「胃腸炎」
万々 ばんばん。どうしても。まんいち。けっして。万に一つも。
変症 へんしょう。病気の状態が変わること。
よしや 縦や。たとえ。かりに。
計る 時間や程度を調べる。心の中で推定する。
一髪 ごくわずかのすき間。
いとど いよいよ。一層。ますます。 ただでさえ~なのにさらに。そうでなくてさえ。

青葡萄③|尾崎紅葉

文学と神楽坂

      (二)
自分(じぶん)(かど)()ると駈出(かけだ)した。寺町(でらまち)往来(わうらい)納涼(すゞみ)士女(ひと)()るやうで、撞着(つきあた)りさうでならぬから、()岩戸(いはと)(ちやう)()れて、一直線(いつちよくせん)(みち)(いそ)いだ、気圧(きあつ)(ひく)く、()すやうな暑熱(あつさ)銀砂子(ぎんすなご)ほど(ほし)はあるが、渠泥(どぶどろ)引攪旋(ひつかきまは)したやうな(そら)(くら)さに、西北(にしきた)雲間(くもま)から薄紫(うすむらさき)電光(いなづま)(しきり)(ひらめ)いては、道端(みちばた)の「ゆであづき」の赤行燈(あかあんどん)(あたり)()える。
一町(いつちやう)ばかりの砂礫道(じやりみち)蹂躪(ふみにぢ)つて、黒白(あやめ)()かぬ芥坂(ごみざか)駈上(かけあが)つた。大信寺(だいしんじ)横町(よこちやう)(やみ)(さぐ)つて、倉皇(そゝくさ)長屋門(ながやもん)(はい)ると、はや跫音(あしおと)聞着(きゝつ)けて、春葉(しゆんえう)(しよく)()つて玄関(げんくわん)()つてゐた。
(かれ)(かほ)()ると(ひと)しく
西木(にしき)如何(どう)した。」  と(たづ)ねると、
(おく)四畳半(よでふはん)。」  と案内(あんない)した。
玄関側(げんくわんわき)八畳(はちでふ)()にははや蚊帳(かや)()つてある。これは祖父母(そふぼ)寝所(ねどころ)である。(しか)両箇(ふたり)とも(つぎ)()(ひたひ)(あつ)て、憂愁(いうしう)満面(まんめん)(あふ)れてゐた。
開放(あけはな)した(えん)(さき)から(すゞ)しい(かぜ)蚊帳(かや)(そよ)いで、(まくら)(かよ)(むし)()(きこ)える。平生(いつも)(には)正面(しやうめん)百日紅(さるすべり)(えだ)燈籠(とうろう)()るのが、今夜(こんや)(やみ)で、葉越(はごし)(ほし)(かず)()えるばかり。台所(だいどころ)には三分心(さんぶしん)玻璃燈(ランプ)黯澹(あんたん)として、(をんな)どもの(さゝや)(こゑ)がする。(さい)乳児(ちのみ)とは午後(ひるすぎ)から生家(さと)へ行つて、留守(るす)であるから、家内(かない)森閑(しんかん)として()()えたやう。祖父母(そふぼ)自分(じぶん)()ると、這出(はいいづ)るやうに左右(さいう)から詰寄(つめよ)せて、西木(にしき)大変(たいへん)だよ。如何(どう)だらうねえ。と(ひど)(あわ)てゝゐた。自分(じぶん)()ちながら、
心配(しんぱい)することは()いよ。」
言捨(いひす)てゝ、(えん)折曲(をりまが)つて、正面(つきあたり)一間(ひとま)(とびら)()けた。
取片附(とりかたづ)いた四畳半(よでふはん)片隅(かたすみ)に、(ちや)染返(そめかへ)した木綿(もめん)更紗(さらさ)二布(ふたの)蒲団(ぶとん)()いて、(すそ)(はう)手織(ており)柳条(じま)木綿(もめん)掻巻(かいまき)(たく)して、(それ)細削(ほそこ)けた(すね)()せて、有松絞(ありまつしぼり)浴衣(ゆかた)兵児帯(へこおび)()いて、背面(うしろむき)(まくら)(はづ)しかけて、気怠(けたる)さうに秋葉(しうえう)(よこた)はつてゐた。
[現代語訳]自分は門をでると駆け出した。寺町の往来には納涼の男女がいるようで、突き当たるのが怖く、そこで岩戸町のほうに曲がって、あとは一直線に道を急いだ。気圧は低く、蒸むような暑さで、銀砂子ほど星はあり、どぶの泥をひっかきまわしたような天の黒さがあった。西北の雲間から薄紫色の稲妻がしきりにひらめき、道端にある「ゆであづき」の赤行燈のあたりで消えていった。
 一町ばかりの砂利道を踏みにじって、真っ暗な芥坂を駈け上がった。大信寺横町の闇を探り、そそくさと長屋門をはいると、はや足音を聞きつけて、春葉はロウソクをとって玄関に待っていた。 彼の顔を見ると同じことだが、
「西木はどうした。」
 と尋ねると、
「奥の四畳半に。」
と案内した。 玄関わきの八畳の間には蚊帳が速くも釣ってある。これは祖父母の寝所である。しかし二人とも次の間で額をあつめて、憂愁は満面にあふれていた。
 開放した縁側から涼しい風が蚊帳にそよいで、枕に通う虫の音も聞こえる。いつもは庭の正面で百日紅の枝に灯籠を釣るのだがが、今夜は闇で、葉を越えて星の数が見えるだけ。台所には三分心のランプが暗く、女性たちのささやく声がする。妻と乳児とは午後すぎから生家へ行き、留守である。家の内部は森閑として火は消えたよう。祖父母は自分を見ると、はいだしてきて、左右から詰め寄り、西木が大変だよ。どうだろうねえ。とひどく慌てていた。自分は立ちながら、
「心配することはないよ。」
と言い捨てて、縁側を曲がって突き当たりの一間の扉を開けた。
 取り片付いた四畳半の片隅に、茶色に染め返した木綿更紗の大きな蒲団を敷き、すその方に手織で柳条の木綿の夜着を着て、細くこけたすねをのせて、有松絞の浴衣に兵児帯を巻いて、背面には枕をはずしかけて、けだるく秋葉は横になっていた。

寺町 通寺町と横寺町の2つを指しています。どちらも涼み客が多くなっていたのでしょう。
織る いろいろなものを組み合わせ、一つのものを作り上げる。
撞着 どうちゃく。つきあたること。ぶつかること。
つと ある動作をすばやく、または、いきなりする。さっと。急に。不意に。
岩戸町 右図を。
銀砂子 ぎんすなご。銀箔(ぎんぱく)を粉にしたもの。絵画や蒔絵(まきえ)などで使う。
ゆであづき ゆであずき。あずきをゆでてうす甘く味つけしたもの。煮あずき。
一町 約109メートル。
黒白 あやめ。文目。模様。色合い。
辨かぬ あやめもわかず。文目も分かず。暗くて物の区別もつかない。
芥坂 ごみ坂。五味坂がありますが、おそらく右図の赤矢印で示す坂を指しているのでしょう。
大信寺 新宿区横寺町43番地にある浄土宗の大信寺。本尊は阿弥陀如来像。号は金剛山如来院。
横町 おそらく寺の南東部から北西部にかけて横町があったのでしょう。
倉皇 そうこう。蒼惶。落ち着かない。あわてる。「そそくさ」は、落ち着かず、せわしなく振る舞う。あわただしい。「そそくさと帰る」
長屋門 長屋を左右に備えた門で、伝統的な門形式の一つ。尾崎紅葉の借り家(右図)も非常に簡単な長屋門でした。
秉る とる。手に持つ。しっかり持つ。
斉しく ひとしく。二つ以上の物事の間に、性質や状況で同一性がある。よく似ている。
奥の四畳半に 以上は右図の家の場所でわかります。これはこの地図から書きました
鳩める あつまる。あつめる。鳩首(きゅうしゅ)は、鳩が首を寄せ集めるように、人々が集まり額を寄せ合って相談すること。
憂愁 うれえ悲しむこと。気分が晴れず沈むこと。
 和風建築で、部屋の外側につけた板張りの細長い床の部分。縁側。
百日紅 サルスベリ。ミソハギ科の落葉中高木。
燈籠 とうろう。灯籠。灯明を安置するための用具。
三分心 幅が1cm弱のランプの芯。
黯澹 暗澹。薄暗くはっきりしない。
 ひ。女の召使い。下女。はしため。
森閑 しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている。
染返す そめかえす。染め返す。色があせてきたものを、もとの色または別の色に染め直す。
木綿更紗 ポルトガル語のsaraçaから。木綿地に、人物・花・鳥獣などの模様を多色で染め出したもの。室町時代末にインドやジャワなどから南蛮船で運ばれて来て、日本でも生産したもの。
二布 ふたの。二幅。並幅の倍の幅。
手織 ており。手織り。動力を用いず手織り機などで布を織ること。
柳条 しま。縞。織物模様の一種。洋服地のストライプに当たる。筋とも。
掻巻 綿入れの夜着。
 ひだ。衣服の細い折り目。
細削ける 「こける」は動詞の連用形に付いて、その動作が盛んに長く続いて行われる意味を表す。「痩せこける」は「やせて肉が落ちる」「ひどくやせる」
有松絞 名古屋市緑区有松・鳴海付近で産する木綿の絞り染め。
兵児帯 和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。

青葡萄②|尾崎紅葉

文学と神楽坂

(うち)から使(つかひ)のある(ごと)に、(こゝ)から上下(うへした)応対(おうたい)するのは(れい)であるのに、今夜(こんや)(かぎ)つて、(かれ)一寸(ちよつと)()ふ。(すこぶる)不審(ふしん)()へなかつた。
不審(ふしん)()へなかつたのは、他聞(たぶん)(はゞか)やうな内密(ないみつ)用事(ようじ)のあるべきを(しん)ぜぬからである。(さう)()(こと)()い、とは(おも)ひながら、如何(いか)なる(こと)()つて()くかも(はか)られぬ(ひと)()である、もしや凶事(きやうじ)などではあるまいか、と不図(ふと)(かんが)へると、何彼(なにか)()しに慌忙(あわたゞ)しく階子(はしご)()りて、上框(あがりがまち)()て、(ふたゝ)び、(なん)だ、と(たづ)ねた。
(かれ)(ます/\)(こゝろ)()りげ気色(けしき)で、
少々(せう/\)申上(まをしあ)げたい(こと)が………。」
自分(じぶん)背後(うしろ)居並(ゐなら)此家(このや)(もの)()かせたくない(ふう)()える。此時(このとき)自分(じぶん)(むね)(あや)しく(とゞろ)いたのである。さて(かれ)入口(いりくち)の一(しつ)(みちび)いて、()たび、(なん)だ、と(たづ)ねた。
()けて()たのか、(かれ)(しきり)(はず)(いき)(した)から、
西木(にしき)(くん)容躰(ようだい)(よろし)くございませんから、早速(さつそく)(かへ)りくださいまし。」
()(こゑ)(ふる)へてゐる。
[現代語訳]家から使いがあるたびに、ここから上下で応対するのは普通だが、今夜に限り、彼は「ちょっと」といった。これはすこぶる不審にたえない。 不審にたえなかったのは、他聞をはばかるような内密の用事はあるとは信じてはいないし、そんなものはない、とは思うが、いかなることが降って湧わくかもわからない。これが人の世だ、もしや凶事などではないが、とふと考える。なんとなく、あわただしくなってきて、階段をおりて、上がりがまちにでて、また「なんだ」と訊ねた。
 彼はますます意味があるような気色で、
「少々申しあげたい事が………。」
と自分の背後にいるこの家の沢山の人には聞かせたくないようだ。このとき自分の胸はあやしくとどろいたのである。そこで彼を入口の一室に導き、三回目の「なんだ」と尋ねた。 駆けてきたのか、彼はしきりにはずむ息の下から、
「西木君の容体がよろしくごさいませんから、早速お帰りくださいまし」
と言う声は震えていた。

不審 疑わしく思うこと。
他聞を憚る たぶんをはばかる。他人に聞かれては困る。世間に知られるとさしさわりがある。
内密 表ざたにしないこと。ないしょ。内々。
何かなしに なんとなく。理由はわからないが。
上框 玄関や勝手口の段差部分に取り付ける化粧材。右図を。
心ありげ こころありげ。意味有りげ。いみありげ。何か特別な意味がありそうな様子。言葉に表さない含みがありそうな様子
 人を表す名詞に付いて、複数の人を尊敬や親愛の意を込めて言い表す。多くの人。
異しく あやしく。怪しく。妖しく。不気味な感じがする。神秘的な感じがする。
過む はずむ。弾む。勢む。呼吸が激しくなる。荒くなる。
西木 西木秋葉。実際は「小栗風葉」氏のこと。

西木(にしき)病気(びやうき)? (なん)だ、(なん)だ、(なん)だ?」
自分(じぶん)渠等(かれら)草稿(さうかう)()()()たぬ(ところ)(いた)ると、一抹(いちまつ)朱棒(しゆばう)(くら)はしながら(つね)絶叫(ぜつけう)する、(その)絶叫(ぜつけう)(もつ)(かれ)(ことば)(なん)じた。
西木(にしき)()ふは、(わが)門下(もんか)秋葉(しうえふ)である。(かれ)は二週間(しうかん)(まへ)から胃弱(ゐじやく)()むで、服薬(ふくやく)をしてゐるのであるが、(この)二三日は(しよく)(つか)へるとて、(かゆ)()つて、坐臥(ごろ/\)してゐたのではないか。今日(けふ)午後(ひるすぎ)まで異常(ゐじやう)()かつたものが、脚気(かつけ)衝心(しようしん)や、脳充血(なうじうけつ)のやうに、(ひと)呼立(よびた)てるほどの劇変(げきへん)のあらう道理(だうり)()い。
容躰(ようだい)()くない」、などゝは、文字(もんじ)(じやう)意義(いぎ)(おい)てこそ(かる)いが、実際(じつさい)は、「死に(ひん)」と()ふやうな場合(ばあひ)(もち)ゐられる、容易(ようい)ならざる(ことば)である。(だれ)大病(たいびやう)(すぐ)()い、といふ電報(でんぱう)(ぶん)は、(おほ)臨終(りんじう)(のち)(もち)ゐられる気安(きやすめ)文句(もんく)()ぎぬ。容躰(ようだい)()くないとは、九死(むづかしい)()ふのを(ひと)()らせる隠語(いんご)である。
自分(じぶん)()解釈(かいしやく)したから、(ゆめ)かと(おどろ)いた。
[現代語訳]「西木の病気? 何だ、何だ、何だ?」
 自分が誰かの草稿を見て意に満たない場所を発見すると、朱筆で打撃を与えつつ、常に絶叫する。同じ絶叫をもって彼の言葉を非難した。
 西木という奴は、つまり、わが門下の秋葉だが、二週間も前から、胃弱でやすみ、服薬をしていた。この二、三日は食がつかえるといい、おかゆを食べて、ごろごろしていたのではないか。今日の昼すぎまで異常のなかったものが、脚気衝心や、脳充血のように、人を呼立るほどの劇変のある道理はない。
「容体がよくない」などとは、文字上の意義こそ軽いが、実際は「死に瀕する」というような場合に用いる、容易ではない言葉だ。「これこれが大病すぐ来い」という電報の文は、多く臨終が終わってから用いられる気安めの文句に過すぎない。容体がよくないとは、難しいというのを人に知せる隠語である。
 自分はそう解釈したから、夢かと驚いた。

一抹 いちまつ。絵筆のひとなすり、ひとはけの意味から。ほんのわずか。かすか。ここでは一回の意味でしょう。
朱棒 朱筆。朱墨用の筆。朱墨の書き入れ。
吃わす くらわす。食らわす。他人に打撃を与える。「吃」は「どもる」「食べる」の意味。
絶叫 ぜっきょう。出せるかぎりの声を出して叫ぶこと。
痞える つかえる。胸がふさがったような感じになる。
坐臥 ざが。座臥。坐臥。すわることとねること。
脚気衝心 かっけしょうしん。脚気に伴う心筋障害。心臓肥大と脈拍数増加が著しく、急性心不全を起こすこともある。
脳充血 脳の血流量が増加した状態。精神的興奮、頭部の加熱、飲酒などが原因の動脈性充血と心臓病、肺気腫、激しい咳嗽などが原因の静脈性鬱血がある。
瀕す ひんす。瀕する。よくない事態がすぐ間近にせまっている。さしせまる。
九死 きゅうし。ほとんど死を避けがたい危険な場合。「九死に一生を得る」とは危ういところで奇跡的に助かる。
隠語 いんご。特定の社会・集団内でだけ通用する特殊な語。例えば「たたき」は強盗、「さつ」は警察など。

如何(どふ)したのだ?」
(われ)ながら震声(ふるひごゑ)(するど)問詰(とひつ)めた。
(かれ)四辺(あたり)(みまは)て、(きは)めて小声(こごゑ)に、
()(しや)(はじ)めました!」
()(しや)! 秋葉(しうえう)(すで)()せり、と()くも(おな)じやうに、(ひし)(むね)(こた)へたが、(たちま)猛然(まうねん)として、(たと)へば、()()ひたる武者(むしや)(ゆう)()したるやうに、
(よし)()け! 医者(いしや)は?」
四辺(あたり)(しの)(こゑ)ながら、(かれ)(みゝ)には破鐘(われがね)(ごと)(ひゞ)いたであらう。(かれ)(はし)りかけた()棯向(ねぢむ)けて、
(ケー)()(まゐ)りました。」
自分(じぶん)(うなづ)くのを()るより(はや)()むで()つた。(ひと)(おどろ)かすまい、と自分(じぶん)(ことさら)従容(しようよう)として(せき)(かへ)ると、
客来(きやくらい)かね。」  と(かく)一人(ひとり)(たづ)ねた。
親類(しんるゐ)のものが()たので、()かずはなるまい。」
何気(なにげ)()(こた)へて、取散(とりちら)してある煙管(パイプ)や、手巾(ハンカチーフ)懐中物(くわいちうもの)などを手早(てばや)(をさ)めた。
()たのは親類(しんるゐ)のものか。天下(てんか)に「()」を親類(しんるゐ)()(ひと)があらうか、口実(こうじつ)()らうに、親類(しんるゐ)とは(いま)はしいことを()つたものである。無心(むしん)ながらも親類(しんるゐ)()つたは、這箇(この)()」を歓迎(くわんげい)せねばならぬ非運(ひうん)(てう)ではあるまいか、と(おも)はれた。
自分(じぶん)綽々(しやく/\)として身支度(みじたく)をした(つもり)であつたが、有繋(さすが)(つね)ならぬ(ところ)()えたか、一座(いちざ)(もの)()はずに()(そば)て、自分(じぶん)(こゝろ)()まむとする気色(けしき)であつた。
就中(なかにも)(つね)から(するど)(イー)()(まなこ)烱〻(ぎろ/\)(きらめ)た。()へば(かなら)(こた)へると()(エチ)()(した)さへ(うご)かなかつた。渠等(かれら)(なに)()(うたが)つたに相違(さうゐ)ないのである。
[現代語訳]「どうしたのだ?」
と我ながら声は震えてるが、するどく問い詰めた。
 彼はあたりを見回して、極めて小声で、
「吐瀉を始めました!」
 吐瀉とは嘔吐と下痢だ! 秋葉は既に死亡した、と聞くのも同等で、ひしひしと胸にこたえた。だが、たちまち猛然として、まるで傷を負った武者が勇気をだしたように、
「よし、行け! 医者は?」
 あたりを忍ぶ声だったが、彼の耳には割れ鐘のごとく響いたであろう。彼は走りかけた身をねじむけて、
「K氏がまいりました。」
と自分でうなづくのを見るより速く飛んで行った。人を驚かすまい、と自分はことさらに落ち着いて席に帰ったが、
「客が来たのかね。」
と客の一人は訊ねた。
「親類のものがきたので、行かずはなるまい。」
と何気なく答えて、あちこちにあったパイプや、ハンカチーフ、懐中物などを手早く収めた。
 来たのは親類のものなどあるがない。「死」は親類の人ではない。口実である。しかし、親類とは忌まわしいことを言ったものである。気が利かないけれど、親類と言ったのは、この「死」を歓迎せねばならない非運のきざしではあるまいか、と思ったのだ。
 自分はゆとりはあって身支度をしたつもりだったが、さすがに常ならぬところが見えたのか、一座は物もいわずに目をそばめて、自分の心を読もうとする気色があった。
 なかでも常から鋭いE氏の眼はぎろぎろときらめいた。言えば必ず答えるというH氏の舌さえ動かなかつた。彼らは何となく疑ったに相違ないのである。

眗す 見回す・見廻す。まわりをぐるっと見る。
吐瀉 はいて、くだすこと。嘔吐と下痢。
犇と 外部からの働きかけが身や心に強く迫ったり感じたりする様子。 寒さがひしと身にこたえる。寂しさがひしと胸にせまる。
徹える 胸にこたえる。心に強く感じる。身にしみる。
破鐘 われがね。ひびの入った釣鐘。その音から、濁った太い大声。
K氏 加藤医師で、紅葉氏の学友でした。
従容 しょうよう。ゆったりと落ち着いているさま
綽々 しゃくしゃく。落ち着いてゆとりがあるさま。
側める そばめる。横へ向ける。横目で見る。
就中 なかんずく。その中でも。とりわけ。
烱烱 けいけい。炯炯。(目が)鋭く光る。
晃く きらめく。煌めく。光り輝く。きらきらする。

須磨子の一生|坂本紅蓮洞

文学と神楽坂

 秋田雨雀氏と仲木貞一氏の『恋の哀史 須磨子の一生』(日本評論社、大正8年)という本に坂本紅蓮洞氏が松井須磨子氏に対する追悼文を書いています。この文章を読むと紅蓮洞氏って普通で正常な人にしか見えません。

並び大名

坂本紅蓮洞

 松井(まつゐ)須磨子(すまこ)()は、なみなみならぬ()である。それだけ、(ひと)をして感動(かんどう)せしめたことも(だい)である。(しか)し、この感動(かんどう)といふもの、(あま)りに、よくその(ひと)()り、(あま)りに(ちか)く、その(ひと)(せつ)して()たものには、その當時(たうじ)にあつては、(たゞ)、あつけに()らるゝばかり、所謂(いはゆる)茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)(なに)も、それに(たい)して、いふことが出来(でき)ない。(わたし)は、(いま)、この境遇(きやうぐう)()る。(なに)()けない。もう、(すこ)しく時日(じじつ)でも經過(けいぐわ)したら、(あるひ)は、感想(かんさう)なり、(なん)なりか、いへもし、また、()けるかも()れない。(いま)(ところ)(なに)出来(でき)ない。須磨子(すまこ)女優(ぢよいう)であつただけ、芝居(しばゐ)のことを、(れい)()くが、この(しよ)(たい)しては、多勢(おほぜい)(ひと)が、それぞれ感想(かんさう)()くさうで、(わたし)も、それ()(ひと)(うち)(まじつ)(はたら)(やく)()られた以上(いじやう)、せめてのことに、申上(まをしあげ)ます(くらゐ)(かく)のところを(つと)めて、一言(ひとこと)二言(ふたこと)科白(セリフ)をいひたいのではあるが、(いま)もいつた(とほ)りのことで、トチるはおろかなこと、()うかすると舞臺(ぶたい)をも破壊(ぶちこわ)(かね)ない。そこは、遠慮(えんりよ)し、並大名(ならびだいみやう)の一(ゐん)として、(だま)つて舞臺(ぶたい)(うへ)に、(かを)(つら)ぬる(てい)(やく)(つと)める。新劇(しんげき)(ほう)では、かういふ(やく)のことを、タチンボウといふ。よく(ひと)は、芝居(しばゐ)のことを綜合(さうがふ)藝術(けいじゆつ)であるといふが、假令(たとへ)並大名(ならびだいみやう)にせよ、タチンボウにせよ、やはり、この(しよ)(おい)て、その一()分子(ぶんし)たるところの(やく)(つと)むるのである。(みづか)新劇(しんげき)彌次(やじ)將軍(しやうぐん)(もつ)(にん)じ、()から女優(ぢよいう)應援(おうゑん)(たい)長官(ちやうくわん)(もつ)(もく)せらるゝ英雄(えいゆう)(わたし)といへど、この場合(ばあひ)心緒(しんちよ)(みだ)れて(いと)(ごと)しどころか、茫然(ぼうぜん)自失(じしつ)せる(うえ)からは、かういふ舞臺(ぶたい)はこれより以上(いじよう)(やく)(つと)まらない。並大名(ならびだいみやう)のタチンボウたる端役(はやく)(あまん)じ、(かつ)、それが綜合(さうがふ)の一()分子(ぶんし)たるを(よろこ)び、こゝに、(みづか)ら、その()(しよ)するの光榮(くわうえい)(にな)ふのである。

並び大名 歌舞伎で、大名の扮装をして、ただ並んでいるだけの役や、扮した俳優。人数に加わっているだけで、あまり重要ではない人。
なみなみならぬ。非常に。
茫然自失 ぼうぜんじしつ。あっけにとられ、また、あきれはて、我を忘れてしまうこと。
時日 じじつ。日数。月日。あるいは、日数と時間。
 物事の仕方。流儀。決まり。規則。法則。
科白 演劇の舞台で俳優がいう言葉。
トチる 俳優が台詞や演技をまちがえる。とちめんぼうの「とち」を活用させたもの
 てい。種類。程度。中国で近世の口語に用いられた「…の」の意の助辞から出た語。現代中国語では「的」に相当する。
新劇 日本で明治以降に展開した新しい演劇ジャンル。以前の能・狂言、歌舞伎などの伝統演劇の「旧劇」に対する呼称。近代・現代演劇運動とほぼ同義に用いられる。
タチンボウ 長い時間ずっと立ちつづけている人。
心緒 しんしょ。思いのはし。心の動き。しんちょ。
紊る みだる。乱る。秩序を乱す。整っていた物をばらばらにする。

柴田宵曲|漱石覚え書

文学と神楽坂

 柴田宵曲(しょうきょく)は、大正-昭和時代の俳人で、昭和10年、俳誌「こだま」を主宰し、また俳句に関する随筆や考証物をまとめています。著作に「古句を観る」など。これは随筆をまとめた『漱石覚え書』のうち「神楽坂」の全てです。
 柴田氏の言によれば、「『漱石覚え書』は、古書通信誌の昭和24年10月号から37年12月号にかけて、『藻塩草』の題名のもとに書かれた随筆のうちから、抽出したものであったことは、その『はしがき』にも明らかにせられるごとくである。」したがって「神楽坂」は第二次世界大戦後で、間もない時期に書かれたものでしょう。

     神楽坂

 震災を免れたため、下町か復興するまでの間、特に繁華を示した神楽坂も、今度の戦火で全く亡びてしまった。両側の店の明るい灯影の中に夜店が立って、幅の狭い道をぞろぞろと人の往来するあの町も、何時になったら旧に復するか、今になって考えるといろいろ連想に上ることが多い。
 横寺町の先生と云われた紅葉の家は、神楽坂を上って肴町電車通を突切ってから、左へ曲ったあたりに在ったらしい。あの辺で育った友人などは、子供の時分に太弓場で弓を引く紅葉を見かけたことがあるそうである。紅葉中心の世界が神楽坂に及ぶのは当然であろう。
紅白毒饅頭」に出て来る縁日の描写は、毘沙門の縁日の夜に出かけて行って、ノートに書止めた材料を使ったのだという。御供についた泉鏡花が玄関番になって間も無い頃で、紅葉もまだ二十五歳の若い盛であった。
 鏡花の書いたものに神楽坂が現れるのは珍しくない。彼が半生を回顧すれば、はじめて文学の上に立脚地を与えられた横寺町時代の事が、何よりもなつかしく浮んで来る筈だからである。「春著」という随筆には、紅葉を中心とした当時の世界――未だ志を得ざる門下の士の生活が浮彫のように描かれている。その中に一人混っていた後藤宙外、この人の「明治文壇回顧録」の中にも神楽坂附近の消息に触れたものが屡々ある。
 漱石の小説は「三四郎」を最後として本郷から離れた観がある。これは早稲田南町に移った結果であるが、彼としては自分の生れた町の近くに帰ったわけであった。「それから」の中で深夜神楽坂にさしかゝって強い地震を感ずる一条は、彼自身の経験であることが日記によって証せられる。
 主人公の書生が「今夜は寅毘沙ですぜ」という寅毘沙なるものは紅葉が「紅白毒饅頭」に用いた毘沙門の縁日なので、常でも人通りの多い神楽坂が、この夜は一層のを呈するのである。
「早稲田派の忘年会や神楽坂」という子規の句は明治三十一年の作である。抱月宙外筑水梁川等が「早稲田文学」に筆陣を張った頃であろう。「藁店や寄席の帰りの冬の月 五城」という句の藁店は昔の寄席で、そのあとが後に牛込演芸館になった。この演芸館の事は「それから」の書生も口にしているが、今日ではちょっと説明のしようが無い。文学に現れたところによって、過去の歴史を辿る外はあるまいと思う。


横寺町 下図を。

横寺町

横寺町

肴町 現在は神楽坂5丁目です。
電車通 現在は大久保通り。
紅白毒饅頭 モデルは蓮門(れんもん)教。明治初期に成立した新宗教。神道大成教に属する。教祖は島村みつ。コレラや伝染病が毎年のように流行する時に、この教団は驚異的に発展し、明治23年の信徒数は公称90万人。翌年、尾崎紅葉の『読売新聞』「紅白毒饅頭」などの批判を受け、また既成宗教から「邪教」として集中的な攻撃を受け、明治末には急激に衰退し、教団も分裂し、第二次世界大戦時には消滅した。
明治文壇回顧録 後藤宙外氏が描く『明治文壇回顧録』は、昭和11年に岡倉書房から出版されたもので、尾崎紅葉氏や島村抱月氏の回想は特に生彩が高いといわれています。氏が初めて紅葉氏と会った場所は横寺町で、ここにその一端を載せます。

 明治三十年五月頃、「作家苦心談」の筆記のために、牛込横寺町の尾崎紅葉氏を訪うて、初めて面晤することを得たのである。私は明治二十年頃からの氏の作は大抵讀んで居り、才人であり、好男子であることも聞いて居りましたが、親しく其の人に接して話を聞いたのは、この時が初めてであつた。かねて想像したよりは、強健さうな體格で、身の長も尋常の人よりは高い方であり、態度も何となく男らしく、所謂キビ/\したサツパリとした男ぶりに見えた。文人によくある色の生ツちろい、 弱々とした優男ではなかつた。眼のぱツちりした明るい顔で、活氣にみちて居られた。これは後に門下の某君から聞いたことだが、徴兵檢査の際には砲兵科の甲種合格であつたと云ふことだ。これを以て青年時代の同氏の體格と健康との程度が察しられる。

屡々 しばしば。同じ事が何度も重なって行われる様子。たびたび。
早稲田南町 下図を。この場所は現在、漱石山房記念館に。

強い地震 夏目漱石作の「それから」「八の一」で強い地震が出てきます。

 神楽坂かぐらざかへかゝると、ひつそりとしたみちが左右の二階家にかいやはさまれて、細長ほそながまへふさいでゐた。中途迄のぼつてたら、それが急に鳴りした。代助はかぜむねに当る事と思つて、立ちまつてくらのきを見上げながら、屋根からそらをぐるりと見廻すうちに、忽ち一種の恐怖に襲はれた。と障子と硝子がらすおとが、見る/\はげしくなつて、あゝ地震だと気がいた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでゐた。其時代助は左右の二階さかうづむべく、双方から倒れてる様に感じた。すると、突然右側みぎかはくゞをがらりとけて、小供をいた一人ひとりの男が、地震だ/\、大きな地震だと云つてて来た。代助は其男の声を聞いて漸く安心した。
 うちいたら、婆さんも門野かどのも大いに地震の噂をした。けれども、代助は、二人ふたりとも自分程には感じなかつたらうと考へた。寐てから、又三千代の依頼をどう所置しやうかと思案して見た。然し分別をらす迄には至らなかつた。ちゝあにの近来の多忙は何事だらうと推して見た。結婚は愚図々々にして置かうと了簡をめた。さうしてねむりに入つた。

寅毘沙 「それから」の「八の六」に寅毘沙や演芸館が出てきます。

代助は書斎に閉じ籠こもって一日考えに沈んでいた。晩食の時、門野が、
「先生今日は一日御勉強ですな。どうです、些ちと御散歩になりませんか。今夜は寅毘沙(とらびしゃ)ですぜ演芸館支那人(ちゃん)の留学生が芝居を()ってます。どんな事を演る積りですか、行って御覧なすったらどうです。支那人てえ奴は、臆面(おくめん)がないから、何でも()る気だから呑気(のんき)なものだ。……」と一人で喋舌(しゃべ)った。

 しん。にぎわう。
五城 作は数藤五城氏でしょう。
説明のしようが無い 寄席や舞台が中心でした。また私立東京俳優学校もここで開校しています。この場所は牛込館になりました。



[硝子戸]

東京大空襲と神楽坂1

文学と神楽坂

 第二次世界大戦の東京大空襲で、神楽坂の被害は桃色の範囲で起こり、逆に白色には大きな被害はありませんでした。これは日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)です。神楽坂は焼け野原になり、焼けていない建物は三菱銀行と津久戸小学校だけでした。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

 さらに「新宿区地図集」(新宿区教育委員会、昭和54年)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(新宿区、平成4年)で、黄色や桃色は被害はあり、白色はなかった場所です。

新宿区地図集新宿区平和都市宣言5周年記念誌
「新宿区地図集」(左図)と「語りつぐ平和への願い-新宿区平和都市宣言5周年記念誌」(右図)

早乙女勝元『東京空襲写真集-アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録;決定版』東京大空襲・戦災資料センター。勉誠出版。2015年

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第7号の「街の宝もの」で高橋春人氏は、

『戦災の神楽坂を見る』(作品①)という絵は、昭和二十年八月二.十八日、終戦直後に復員してきたときに描いたもの。坂上右側の三角形の壁は、いまも坂の途中にある木村屋パン屋の跡で、左側の四角い建物は三菱銀行。右側の方にある黒い木は、本多横丁の裏手にあった銀杏いちょうで、これはその後生き返ったとか。

高橋春人「ほろびの街」PHPエディータ―ズ・クループ。2019年

『燃える牛込台地』(作品②)。これは昭和二十年の三月十日の空襲のとき、外濠の土手から向うが燃えるのを描いたものです。この夜、東京は大空襲を受けて、まず下町のほとんどがやられた。この付近も、靖国神社方面から富士見町、お濠を越えて市ヶ谷田町…という経路で被爆していったんです。私はそのとき富士見町にいて、最初は状況判断ができず、後で考えれば焼夷弾の落とされた弾帯の道筋にそって逃げていたんです。女房と一緒で、やっと靖国神社の裏手を通って新見附方面の土手公園に出てきたら、向いの牛込台地が燃えていてね。あのあたりの屋敷町には立木が多くて、火の手が梢から梢と、走るように燃え移っていくんです。
 明け方、戻ってみると、家は燃え落ちていて、自分の部屋にぎっしり積んであった本や資料がそのままの形でまだ炭火のように真っ赤に燃えていた。その後、警察病院の方まで歩いてきたら、顔が焼けただれた高射砲隊の兵隊たち(後楽園球場に陣地があった)が、トラックで病院に運びこまれてきて。大通りには消防車が焼けてころがっていて………。神楽坂の大通りには、有名な料亭の金蒔絵の食器などが山積みにされ「お好きな品をさしあげます」という立て札が立っていたけれど、持っていく人は誰もいなかった。私はその三日後に、吉祥寺の成蹊大学にあった陸軍第一航空軍司令部に応召、そこで終戦になって帰ってきたわけです。

 水野正雄氏は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「神楽坂を語る」で

(復員のため)二十二年四月に名古屋に上陸しました。上陸したら東京の空爆した場所の地図等が出ていて、神楽坂は全滅でした。名古屋から東海道線の夜行に乗って、当時六円のおにぎりを買いました。もらったお金は三百円。そのうち百五十円を名古屋出るときにもらいました。飯田橋の改札で復員切符を見せて渡そうと思ったら、鉄道員が「お家ありますか?」と聞くので、「多分ありません」と答えると、切符を持って行けばどこまでも行けるからと切符を返してくれました。六年経って帰ってきたが、もう何もない。毘沙門の隣の三菱銀行が半分傾いてあるだけで、他は何もありませんでした。この付近の人たちは道の両側に各自の防空壕を掘って暮らしていました。小さい防空壕がいっぱいあったんです。それから津久戸小学校が少し残っていました。あと建物は三菱銀行と津久戸小学校だけ残っていました。助六のおやじさんから閧いて後からわかったことだけど、外堀飯川堀の方が半分埋まっていて、そこに材木屋だとか神楽坂警察署を建てました。屋根だけが出ているような状態で神楽坂警察署ができていました。神楽坂警察は屋根が低くて、麹町方面から来た火事を逃れて助かっていました。戦後の商業地には闇屋が出てきていたが、警察が健在なので、みんな捕まっちゃって神楽坂の発展がかえって遅くなってしまったそうです。

 戦災は神楽坂警察署にはなかったようです。神楽河岸は残り、最初の図でも戦災はなかったようです。

 神楽坂出身の竹田真砂子氏は「綱子の夏」(小説新潮、1998年7月号、日本文藝家協会「現代の小説1998」徳間書店、1998)で

 一ヶ月後、ともかくも様子を見て来ると、秀樹を母親に頂け、リュックサックに、とうもろこしとトマトとひまわりの種をつめて、綱子は上京した。
 満員の汽車を乗り継ぎ、以前なら四時間たらずのところを、六時間かけて到着すると、神楽坂は一面、焼野原になっていた。
 坂の両側に軒を連ねていた商店も、瀟洒(しょうしゃ)(たたずま)いを見せていた料亭の、洗い出しの板塀もない。横丁も小路も瓦礫(がれき)に埋もれて方角さえ分らず、自分の家がどの辺に建っていたのか、見当もつかなかった。
 わずかに、焼け焦げたコンクリートの肌を哂して形を(とど)めている小学校と銀行の位置を確かめて、この辺と思う所に行ってみる。と、思いがけないことに、その一画には焼け木杭(ぼっくい)が何本か打ちこんであり、あり合わせの板きれに書き記した『一新松所有地』の札が立っていた。綱子は、ぼんやりと、その木札を眺め、重 いリュックサックを背負ったまま、しばらくそこに佇んでいた。
「あれぇ、お綱姐さんじゃありませんか」
 突然、後から声をかけられた。綱子が振向くと、顔見知りの男が立っていた。
「やだ、鶴さんじゃないの。まあ、あなた、生きててくれたのね」
 声が、どんどん元気になった。
 鶴さんは、花柳界の事務局である見番(けんばん)で働いていた男衆(おとこし)だった。女房子は疎開させたが、自分は見番の管理室に寝泊りしていて空襲にあい、九死に一生を得たのだという。
「よくぞご無事で」
 涙ぐむ綱子に、改めて鶴さんは頭をさげ、
「姐さんもご無事でなによりでした」
 大粒の涙をこぼした。

洗い出し アライダシ。板の表面をこすり、洗って木目(もくめ)を浮き出させたもの。
男衆 おとこしゅう。おとこしゅ。おとこし。男の人たち。男の奉公人。

東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代


 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンションに。


若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。
                        若宮会前会長 細川八郎

現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。馬場邸
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」

文壇昔ばなし③|谷崎潤一郎

文学と神楽坂

 谷崎潤一郎氏は耽美(たんび)派の作家でした。ここに出てくる作家の生まれた年は泉鏡花氏が明治6年、里見弴氏は明治11年、谷崎潤一郎氏は明治19年、芥川龍之介氏は明治25年でした。「文壇昔ばなし」は昭和34年、73歳で発表、『谷崎潤一郎全集』(中央公論社、昭和58年)第21巻に出ています。

             ○
京橋大根河岸あたりだつたと思ふ、鏡花のひいきにしてゐる鳥屋があつて、鏡花里見芥川、それにと四人で鳥鍋を突ツついたことがあつた。健啖で、物を食ふ速力が非常に速い私は、大勢で鍋を圍んだりする時、まだよく煮え切らないうちに傍から傍から喰べてしまふ癖があるのだが、衛生家で用心深い鏡花はそれと反封に、十分によく煮えたものでないと箸をつけない。従つて鏡花と私が鍋を圍むと、私が皆喰べてしまひ、鏡花は喰べる暇がない。たびたびその手を食はされた經驗を持つてゐる鏡花は、だから豫め警戒して、「君、これは僕が喰べるんだからそのつもりで」と、鍋の中に化切りを置くことにしてゐるのだが、私は話に身が入ると、ついうつかりと仕切りを越えて平げてしまふ。「あツ、君それは」と、鏡花が氣がついた時分にはもう遲い。その時の鏡花は何とも云へない困つた情ない顏をする。私は濟まなくもあるが、その顏つきが又をかしくて溜らないので、時にはわざと意地惡をして喰べてしまふこともあつた。その鳥屋でもさうであつたが、芥川は鏡花が抱き胡坐をしてゐるのに眼をつけて、「抱き胡坐をする江戸ツ兒なんてあるもんぢやないな」と云つてゐた。人も知る通り鏡花は金澤人だけれども、平素江戸ツ兒がつてゐた人である。鏡花の大作家であることについては、芥川も私も無諭異存はなかつたけれども、江戸ツ兒と云ふ感じには遠い人であることにも、二人とも異論はなかつた。

京橋 京橋区。現在は中央区。
大根河岸 京橋から紺屋橋にかけて以前の京橋川河岸。神田多町の青物市場と並び称せられる大きな青物市場があった。図を。

健啖 けんたん。好き嫌いなくよく食べること。食欲が旺盛なこと。
豫め あらかじめ。予め。物事の始まる前に、ある事をしておく。前もって。
 動詞に付いて、語勢や語調を整える。現代語では、改まったときや手紙文などで使われる場合が多い。
意地悪 いじわる。わざと人を困らせたり、つらく当たったりすること。
抱き胡坐 だきあぐら。全く分かりません。あぐらをして、だっこをしているのでしょうか。それとも、火鉢を抱いているのでしょうか。泉鏡花のあぐらの写真を出しておきます。
泉鏡花。あぐらの写真。江戸ツ兒 江戸っ子。江戸で生まれ江戸で育った人。父祖以来東京、特にその下町に住んでいる人。さっぱりとした気風や、歯切れがよいが、けんかっぱやいところなどが特徴。
がっている …がる。そのように思う。そのように感じる。「うれしがる」。そのように振る舞う。そのようなふりをする。ぶる。「強がる」「痛がる」
平素 ふだん。つね日ごろ。

松井須磨子-芸術座盛衰記|川村花菱

文学と神楽坂

 川村花菱氏の「松井須磨子ー芸術座盛衰記」(青蛙房、平成18年刊)は『随筆松井須磨子』(昭和43年刊)の新装版です。これは川村花菱氏が島村抱月氏と松井須磨子氏らと一緒になって芸術倶楽部で夜食を取る場面です。ここでも鶏料理店の川鉄が出ています。
 川村花菱氏は芸術座の脚本部員兼興行主事として活躍した人で、のちに新派の脚本、演出を担当し、若い俳優の育成に力を注ぎました。
 松井氏の発言、続いて島村氏の発言と思います。

「あら、皆さん、まだごはん前、私ァとっくに食べちゃったけど……」
「なにか、あったかいものはないかな」
「川村さん、あんたが好きなのよ、ねえ、そら、あの、親子……あれなら私もたべたいわ! あれ、どこの親子? 私、あんたが食べてるところ見て、一度たべたいなァと思ってたのよ! あれ、どこから取るの?」
 それは、近所の鳥屋の“川鉄”という家のもので、ほかの親子丼とちがった、まったく独特の味を持っているものだった。
「川鉄の親子ですよ」
「川鉄? じゃ、言うわ……先生あがる?」
「たべます]
「と、一ツ、ニツ、三ツ……私もたべるから四ツね……四ツ言うわ」
 須磨子は、袂をふらふらさせて駈けて行った。
 それ以来、私が芸術座へ行く毎に、必ずこの川鉄の親子が出た。おそらく芸術座で、行くたびに食事の出るのは、私ひとりだったと思う。いや、私のほかにもうひとりの客があった。それは、阪本()蓮洞(れんどう)という人で、紅蓮洞は島村先生に対して、
「おい、島村……」
と、呼びつけにした。
「ぐれさんが来た、親子を御馳走しなさい」
 先生は快くいつもそう言われた。島村先生に対して、「おい、島村」と呼びすてにするのは、紅蓮洞だけだと言ったが、芸術座の中に、
「おい、島村……」
と言った者がもうひとりある。それは、倶楽部に厄介になっていた役者だが、なにかのことで須磨子と争い、そのさばきが不当であるのに激昂して、先生の(へや)に飛び込んで、
「おい、島村……」
と言っただけで、その場で首になってしまった。

 坂本紅蓮洞氏の生まれた年は慶応2年9月で、島村抱月氏は明治4年1月10日です。西暦では1866年対1871年なので、坂本氏のほうが4歳半ほど年長です。坂本紅蓮洞氏はもともと数学者で、「数学の天才」と呼ばれていましたが、教師はうまくいかず、雑誌記者、その後、与謝野鉄幹が主催する新詩社に入り、文学者と交流。これで奇癖の逸話も多く、文壇の名物男として有名でした。新詩社は詩歌の団体で、与謝野鉄幹が1899年11月11日創立、翌年4月に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義運動の一大勢力でした。

織田一磨|武蔵野の記録

文学と神楽坂

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録:自然科学と芸術』(洸林堂書房、1944年)です。氏は版画家で、版画「神楽阪」(1917)でも有名です。ちなみにこの版画は「東京風景」20枚のなかの一枚です。

       一四 牛込神樂坂の夜景
 山の手の下町と呼ばれる牛込神樂坂は、成程牛込、小石川、麹町邊の山の手中に在って、獨り神樂坂のみはさながら下町のやうな情趣を湛えて、俗惡な山の手式田舍趣味に一味の下町的色彩を輝かせてゐる。殊に夜更の神樂坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいへば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は十一時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四邊に散亂した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都會生活は價値を失ふ。
 繁華の地は、深更に及ぶに連れて、宵の趣きは一變して自然と深更特殊の情景を備へてくる。この特色こそ都會生活の興味であつて、地方特有のカラーを示す時である。それが東京ならば未だ一部に殘された江戸生活の流露する時であり、大阪ならば浪花の趣味、京都ならば昔ながらの東山を背景として、都大路の有樣が繪のやうに浮び出す時であると思ふ。屋臺店のすし屋、燒鳥、おでん煮込、天ぷら、支那そば、牛飯等が主なもので、江戸の下町風をした遊人逹や勞働者、お店者湯歸りに、自由に娯樂的に飲食の慾望を充たす平易通俗な時間である。こゝに地方特有の最も通らしい食物と、平民の極めて自由な風俗とが展開される。國芳東都名所新吉原の錦繪に觀るやうな、傳坊肌の若者は大正の御世とは思はれない位の奮態で現はれ、電燈影暗き街を彷徨する。

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

織田一磨氏の『武蔵野の記録』「飯田河岸」から

牛込、小石川、麹町 代表的な山の手をあげると、麹町、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、本郷、小石川など。旧3区は山の手の代表的な地域を示しているのでしょう。
夜更 よふけ。深夜。
大戸 おおど。おおと。家の表口にある大きな戸。
散乱 さんらん。あたり一面にちらばること。散り乱れること。
五色 5種の色。特に、青・黄・赤・白・黒。多種多様。いろいろ。
下町情調 下町情調。慶應義塾大学経済学部研究プロジェクト論文で経済学部3年の矢野沙耶香氏の「下町風景に関する人類学的考察。現代東京における下町の意義」によれば、正の下町イメージは近所づきあいがあり、江戸っ子の人情があり、活気があり、温かく、人がやさしく、楽しそうで、がやがやしていて、店は個人が行い、誰でも受け入れてくれ、家の鍵は開いているなど。負のイメージとしては汚く古く、地震に弱く、下品で、中小企業ばかりで、倒産や不景気があり、学校が狭く、治安が悪く、浮浪者が多いなど。中立イメージでは路地があり、ごちゃごちゃしていて、代表的には浅草や、もんじゃ焼きなどだといいます。下町情調とは下町から感ずる情緒で、主に正のイメージです。
 おもかげ。面影。記憶によって心に思い浮かべる顔や姿。あるものを思い起こさせる顔つき・ようす。実際には存在しないのに見えるように思えるもの。まぼろし。幻影
流露 気持ちなどの内面が外にあらわれ出ること。
浪花 大阪市の古名。上町台地北部一帯の地域。
東山 ひがしやま。京都市の東を限る丘陵性の山地。
都大路 みやこおおじ。京都の大きな道を都大路といいます。堀川通り・御池通り・五条通りが3大大通り。
屋台 やたい。屋形のついた移動できる台。
牛飯 ぎゅうめし。牛丼。牛肉をネギなどと煮て、汁とともにどんぶり飯にかけたもの。
遊人 ゆうじん。一定の職業をもたず遊び暮らしている人。道楽者。
お店者 おたなもの。商家の奉公人。
湯歸り 風呂からの帰り。
東都名所 国芳は1831年頃から『東都名所』など風景画を手がけるようになり、1833年『東海道五十三次』で風景画家として声価を高めました。
傳坊肌 でんぽうはだ。伝法肌。威勢のよいのを好む気性。勇み肌。
舊態 きゅうたい。旧態。昔からの状態やありさま。
電燈 でんとう。電灯。電気エネルギーによって光を出す灯火。電気。

 卑賤な女逹も、白粉の香りを夜風に漾はせて、暗い露路の奥深く消え去る。斯かる有樣は如何なる地方と雖も白晝には決して見受られない深夜獨自の風俗であらう。我が神樂坂の深更も、その例にもれない。毘沙門の前には何臺かの屋臺飲食店がずらりと並ぶ。都ずし、燒鳥、天ぷら屋の店には、五六人の遊野郎の背中が見える。お神樂藝者の眞白な顏は、暗い街にも青白く浮ぶ。毘沙門の社殿は廢堂のやうに淋しい。何個かの軒燈小林清親の版畫か小倉柳村の版畫のやうに、明治初年の感じを強めてゐる。天ぷらの香りと、燒鳥の店に群集する野犬のむれとは、どうしても小倉柳村得意の畫趣である。夜景の版畫家として人は廣重を擧げるが、彼の夜景は晝間の景を暗くしただけのもので夜間特有の描寫にかけては、清親、柳村に及ぶ者は國芳一人あるのみだ。
 牛込區では、早稻田とか矢來とかいふ町も、夜は繁華だが、どうも洗練されてゐないので、俗趣味で困る。田舍くさいのと粹なところか無いので物足りない。この他にも穴八幡赤城神社築土八幡等の神社もあるが、祭禮の時より他にはあんまり人も集まらない。牛込らしい特色といふものはみられない。強ひて擧げれば關口の大瀧だが、小石川と牛込の境界にあるので、どちらのものか判然としない。江戸川の雪景や石切橋の柳なんぞも、寫生には絶好なところだが、名所といふほどのものでは無い。

卑賤 ひせん。地位・身分が低い。人としての品位が低い。
都ずし 江戸前鮨(寿司)は握り寿司を中心にした江戸郷土料理。古くは「江戸ずし」「東京ずし」とも。新鮮な魚介類を材料とした寿司職人が作る寿司。
遊野郎 ゆうやろう。酒色におぼれて、身持ちの悪い男。放蕩者。道楽者
お神樂藝者 おかぐらげいしゃ。牛込神楽坂に住む芸妓。
廃堂 廃墟と化した神仏を祭る建物。
軒燈 けんとう。家の軒先につけるあかり
画趣 がしゅ。絵の題材になるようなよい風景
早稲田矢来 地図を参照。
俗趣味 低俗な趣味。俗っぽいようす
穴八幡、赤城神社、築土八幡 地図を参照。

穴八幡、赤城神社、築土八幡

江戸川 神田川中流の呼称。ここでは文京区水道・関口の江戸川橋の辺り
石切橋 神田川に架かる橋の1つ。周辺に石工職人が多数住んだことによる名前。