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自己中心明治文壇史|江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏は小説家で、硯友社同人であり、のちに大衆小説で有名になりました。1869年9月17日(明治2年8月12日)に生まれました。昭和2年(1927年、氏は満57歳)に書いた『自己中心明治文壇史』は貴重な文壇資料になっています。特に尾崎紅葉氏については愛情を持って書かれています。ちなみに氏の死亡は昭和9年11月3日、満65歳でした。

 片瀧浪宅銃獵紅葉の一行が滯在した其間に、愚妻が最も心配したのは、食事通の紅葉をして、迚も滿足せしめる事は出來ずとも、責めては閉口させぬ程度の献立を作らねばならぬ一事であつた。
 紅葉の丶丶丶生命は丶丶丶紅葉流丶丶丶の食物で丶丶丶丶なければ丶丶丶丶繋がれぬか丶丶丶丶丶と思は丶丶丶れる丶丶までに丶丶丶三度々々丶丶丶丶のお丶丶菜が丶丶ムツカシ丶丶丶丶かつた丶丶丶。何彼につけて食物の話が出て來るほどで、それが又江戸前に適はなければ承知しなかつた。(其癖、甚だそれは偏狹で、必ずしも大通の域には逹してゐなかつたが。)
 それで、前に來た時に然うであつたが、今度も亦土産として、醤油と味醂とを持つて來た。之は土産には相違ないのだが、實に片瀧の醤油と味醂とには滿足が出來ないので、滯在中は當然自分の食膳にも用ゐられるといふ寸法から、それ等を選定されたので、以て萬事察すべしだ。
 愚妻の最も心配したのは香の物で、他の物は田舎だから間に合はぬでも濟むが、漬物が不味では取りかへしがつかぬといふので、畑から抜き立の大根を工面して、急に大阪漬をこしらへた。それが紅葉に氣に入つて、
『漬物がウマク漬けられたら一人前だ。』
 有難く愚妻は及第したのであつた。
 或日、紅葉が風呂に入つてゐた。愚妻は其下を焚付けるべく火吹竹でフー/\釜の下を吹いてゐた。然るに薪が生なのと煙出しが不完全なのとで(愚妻は其前から眼病でもあり。)ホ口/\涙を零さずにはゐられなかつた。
 これを多感性の紅葉は、貧乏世帶の勞務の悲しさに泣いてゐるとでも見たらしかつた。
『苦しからうが辛抱するが好い。その間には阿母さんの感情も緩和するだらうし、又僕からも君の様子を能く話して上げようから……』と、いろ/\親切に云つて呉れたのであつた。
 一家の私事を書き過ぎたやうだけれど、紅葉といふ丶丶丶丶丶文豪が丶丶丶如何に丶丶丶俠骨丶丶丶然う丶丶して丶丶情に丶丶脆か丶丶つた丶丶かといふ丶丶丶丶、その一例として記したのだ。

 紅葉氏が短気な面もあり、一方、親切で、情け深い面もありました。

片瀧 片瀬江ノ島駅は小田急電鉄江ノ島線の駅。片瀬海岸は神奈川県藤沢市の町名。
浪宅 浪人の住んでいる家。浪人とは入学や就職ができない人、職を失ってきまった職のない人
銃猟 じゅうりょう。銃を使って行う狩猟。
迚も とても。あとに打消しの表現を伴ってどのようにしても実現しない気持ちを表す。どうしても。とうてい。
繋ぐ つなぐ。相手の気持ちなどが離れていかないようにする。
偏狭 へんきょう。自分だけの狭い考えにとらわれること。度量の小さい状態。
大通 この場合は「たいつう」で、「深くその分野のことを究めること。大いに通ずること」
味醂 みりん。焼酎を原料としてつくる日本固有の酒の一種。焼酎を水の代りに麹と蒸し米を加えて仕込み、熟成して、もろみを圧搾してその上澄み液を取ったもの。
當然 当然。「當然」は「当然」の旧字体。
香の物 漬物。
大阪漬 おおさかづけ。浅漬けの一種。大根やかぶを刻み、葉茎もともに塩漬けにしたもの。数時間から一晩程度で食べられる。
火吹竹 ひふきだけ。吹いて火をおこす道具。
煙出し けむだし。煙出し。 煙を外に出すために設けた窓。けむりだし。煙突。けむりだし。
零す こぼす。涙などを不覚にも落とす。
労務 報酬を受ける目的で行う労働勤務。
侠骨 きょうこつ。おとこぎのある性質。おとこだての気性。
脆い もろい。外からの圧力や影響に対して抵抗する力が乏しい。心を動かされやすい。

 然うかと思ふと紅葉は、一寸した事にも、非常に惑激して喜ぶ場合もあつた。それは裏の片瀧川でハゼが澤山釣れて、家の者は食ひ厭きて了つたので、燒乾にして紅葉の處へ送つた處が、大御機嫌で、
  燒におもふそ君のをしも
といふ句を贈つて來た。
 この他にいろ/\の實例から歸納すると、紅葉は丶丶丶紅葉一流丶丶丶丶道德標準丶丶丶丶が有つ丶丶丶苟しくも丶丶丶丶それに丶丶丶觸るれば丶丶丶丶嚴密に丶丶丶叱責し丶丶丶丶偶然にも丶丶丶丶それに丶丶丶適合すれば丶丶丶丶丶極端に丶丶丶感激する丶丶丶丶のであつた丶丶丶丶丶俗にいふ◎◎◎◎氣むづかし◎◎◎◎◎屋で◎◎
紅葉は△△△變な事を△△△△怒るよ△△△。』とは社中◎◎總評◎◎であつた。

焼乾 焼いて乾燥する。日干しでしょうか? 日干しは直接日光に当てて乾かすこと。
 ハゼ。魚の名前。
 やせる。セキ。
苟しくも いやしくも。仮にも。かりそめにも。もしも。万一。
社中 硯友社です。尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、丸岡九華などで発足し、尾崎紅葉の死後、解体しました。

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紅葉の臨終③江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏が『自己中心明治文壇史』で書いた紅葉氏の臨終の様子です。

   紅葉逝く(明治三十六年の冬の上)

 悲しみの極みの日は遂に来た。十月三十日の朝、紅葉危篤の至急電報が來た。急いで自分は陣屋横町の家を出た。
 其頃自動車があれば問題ではないのだが、品川から牛込までは、綱曳の人力車としても相當に時間を要するのだ。
 取りあへず品川驛へ駈付けると、其折、山の手線の汽車が入つたので、急いでそれに飛乘り、新宿で又乘替へて、牛込驛で下車したが、此時品川から偶然同行したのは、紅葉夫人菊子の從妹の良人、岸といふドクトルであつた。
 硯友社員及び門下生は勿論、角田竹冷長田秋濤齊藤松洲、その他が前後して駈付けて來た。
 紅葉の病床は二階の八疊? 我々は階下の一室に詰切つてゐた。看護には菊子夫人を初め親族方が附切りの他に、看護婦二人ゐた。(この内の丶丶丶丶一人が丶丶丶後に丶丶柳川丶丶春葉丶丶夫人丶丶
 それから○○○○神樂坂○○○藝妓で○○○相模屋○○○○養女○○である○○○小ゑん○○○といふのも○○○○○枕頭を○○○離れ○○なか○○。(この小ゑんといふのは、明治二十七年の三月三十一日に初めて紅葉と逢つた。それは紅葉が思案風谷及び自分との四人連れで、例の吉熊で小集した時なので。その後一二度社中と共に矢張吉熊へ呼び、四月二十一日には紅葉思案風谷及び自分との四人逹で、相模屋の經營してゐる喜美川といふ待合に遊んだのが深くなる始まりであつた。それからズツト永く續いてゐるのであつた。この小ゑんが紅葉死後、東洋通の某代議士の貞淑なる夫人と成つた。その代議士も先年物故した。)
 午後に丶丶丶成つて丶丶丶(何時であつたか記憶を缺ぐ)もう丶丶到底丶丶駄目丶丶だから丶丶丶靜かに丶丶丶暇乞丶丶したら丶丶丶好からう丶丶丶丶といふので丶丶丶丶丶、親族側が先きで有つたらう。それから友人逹が、二階の六疊? の方に入つて待合せ、そこから二人宛組んで、次の間の八疊? の方に行き、生前の△△△告別△△をした△△△。(門生一同を集めて――七たび丶丶丶人間に丶丶丶生れて丶丶丶文章丶丶報國丶丶遺言丶丶した丶丶時に丶丶――ドレ△△を見ても△△△△マヅイ△△△面だなァ△△△△――と死の丶丶前の丶丶諧謔丶丶發した丶丶丶といふ丶丶丶のは丶丶前後丶丶の筈丶丶。)
 自分の前には、秋濤と他に一名で、あのノンキ屋の秋濤が涙滂沱で出て來たのが、今も歴々と限前に浮んで来る。それとスレ違ひに自分は柳浪と共に病室に入った。
 紅葉は丶丶丶未だ丶丶意識は丶丶丶明瞭で丶丶丶二人の丶丶丶顏を丶丶見て丶丶
遠方を◎◎◎ワザ◎◎/\◎◎……』と云つて丶丶丶その儘丶丶丶眼を丶丶閉ぢた丶丶丶
 自分は△△△胸が△△一杯で△△△低頭△△した△△ゞけで△△△一言も△△△發し△△得な△△かつ△△。柳浪も同樣であつた。それで其儘退いて他と入替つた。
 遠方をワザ/\とは、明かに自分に向つてゞ。それは其時代としては、品川は東京外で、旅へでも出るツモリで、呑氣に遊ぶ程なのだが。それは丶丶丶紅葉が丶丶丶自分に丶丶丶發し丶丶最後の丶丶丶別れの丶丶丶としては丶丶丶丶何んだか丶丶丶丶餘所行丶丶丶挨拶丶丶の様で丶丶丶自分丶丶としては丶丶丶丶悲し丶丶かつ丶丶
 自分は神戸以來、紅葉の感情を害してゐたに相違無かつた。皆それは自分の不德の致す處なので、それには辯解の辭が無いのである。
 小波が獨逸滞在中、紅葉が三十五年五月六日夜一時に書いた手紙の中に(『紅葉より小波へ』参照)

(前略)眉山には今だに一會も致さず稀有なるはあの男に御座侯如何致し候つもりにやあれほどの友にてありながら無下にあさましき人に有之侯
水蔭も日増に遠々しく相成はや半年近くも面會不致(下略)

 斯ういふ有樣で、紅葉晩年の親友は大分變つてゐた。(眉山のは、自分のと違つて、明かに理由があつた。それは小波洋行の時、送別會に顏を出さなかったのを紅葉が怒ったので、眉山もツヒ其爲に來難く成つてゐたのであつた。臨終には無論駈付けて來たので、紅葉は丶丶丶我儘丶丶氣儘丶丶丶に就て丶丶丶最後の丶丶丶忠告を丶丶丶試みた丶丶丶此時は丶丶丶眉山も丶丶丶泣い丶丶服膺した丶丶丶丶。)
 夜十一時、遂に昏睡に入つた。親族、友人、門生等の多数に取卷かれて、安らかに永き眠りに就いた。自分は丶丶丶此時丶丶釈尊丶丶涅槃丶丶の有樣丶丶丶連想せず丶丶丶丶には丶丶ゐられ丶丶丶なか丶丶

陣屋横町 旧東海道品川宿の1横町。京浜急行新馬場駅の近くで、『東京逍遙』では、ここ。


綱曳の人力車 人力車などで、急を要するとき、かじ棒に綱をつけてもう一人が先引きすること。図を参照。
紅葉の病床 これを参考に。
小えん 神楽坂の芸者で愛人。芸妓置屋相模屋の村上ヨネの養女でした。
喜美川 明治37年の「新撰東京名所図会」では喜美川の所在はわかりませんでした。神楽阪(現在の神楽坂一~三丁目)、上宮比町(現、神楽坂四丁目)、肴町(現、神楽坂五丁目)、通寺町(現、神楽坂六丁目)にはありませんでした。なくなったか、それ以外にあったかでしょう。
暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
告別 別れを告げること。いとまごい。
文章 文を連ねて、まとまった思想や感情を表現したもの。威儀・容儀・文辞などとして、内にある徳の外面に現れたもの。
報国 国恩にむくいるために働くこと。国に尽くすこと。
諧謔 おどけておかしみのある言葉。気のきいた冗談。ユーモア。
滂沱 ぼうだ。雨が激しく降る様子。涙がとめどなく流れる様子。
歴々 はっきりと。ありありと見える。
余所行き よそゆき。よそへ行くこと。外出すること。改まった態度や言葉づかい。
服膺 ふくよう。心にとどめて忘れないこと。
釈尊 しゃくそん。釈迦の尊称。
涅槃 ねはん。煩悩を消して、悟りの境地にはいること。釈迦の死亡。

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紅葉の臨終④伊藤整

文学と神楽坂

 伊藤整氏の『日本文壇史』第7巻(講談社、初版は1964年)では尾崎紅葉氏の臨終を詳しく書いています。

 玄関の三畳に集っていた七人の弟子たちへも遺言するというので、皆は二階の八畳の病室へ入った。紅葉は目を閉していた。弟子たちが、
「先生、先生」と口々に呼んだ。
 紅葉は目を見開いた。そして言った。
「まづい面を持つて来て、見せろ。」
 一人一人名前を言え、と言われて、一同は次々と「小栗です」、「です」、「徳田です」、「柳川です」と言った。
 それに一つ一つうなずいてから、紅葉は言った。
「お前たち、相互に助け合って、おれの門下の名を辱しめないやうにしろよ。夜中は忙がしい所を毎夜かはるがはる夜伽(よとぎ)に来て呉れて満足した。どうか病気に勝って今一度生き返り、世話をしてやらうと思つてゐたこともあるが、もういかん。これから力を合せて勉強し、まづいものを食っても長命して、ただの一冊一篇でも良いものを書け……おれも七度生れ変つて文章のために尽す積りだから……」
 すすり泣く声か弟子たちの間に起った。
「直さん、直さん」と妻喜久子の弟の医師樺島直次郎を呼び、モルヒネを多量に注射して死なしてくれ、と言った。樺島直次郎が、あまり興奮するといけない、と言うと、紅葉は憤然として、
「そんなに女々しくちや仕方がない。どうせ命かない者か悶え苦しんで二時間や三時間生きながらへて何になるものか」と言った。
 皆が困り切っていると、彼は言葉をついで、
「理窟の分らぬ奴ぢやないか。この苦しみをして生きてゐたつて、何の役に立つものか。お前等がそんなことを言ふのは。死んだことがないからだ。嘘だと思ふなら死んでみろ」と言った。
 あまり興奮させては、と皆が次の間に下り、樺島直次郎はカンフルにモルヒネを少し入れて注射した。そのあと紅葉は気分が落ちついた。そして何か甘い(あん)のようなものを食べたいと言うので、金鍔(きんつば)を一口食べさせた。
 そのうちに、また小栗、泉と呼ぶので二人が行くと、
「今夜は酒はどうした?」と、いつもの夜伽のことを訊いた。鏡花は、今夜も酒を持って来ました、徳田は、肴として鳥と松茸の煮たのを持って来ました、と言った。
「三十日近くに、えらいな。酒をここへ持って来て飲んだらよからう」と紅葉が言った。
 酒はもう下で皆で飲んでしまった後だったので、改めてそこへ酒を持って来させ、鏡花と風葉の間に置き、紅葉には管で少し口に入れてやり、あとを皆が一口ずつ飲んだ。別れの盃であった。
 そのあとで紅葉が、思案に、
「石橋、是非解剖してくれ」と言った。
 思案が当惑して口ごもると、
「何だ生返事なんかしやがつて。おれを解剖すると新聞屋なんざあ種がふえて喜ぶだらう」と言って微笑した。そのあとで紅葉は、葬式に寝棺を使うと皆より高い位置になって悪いから、駕籠(かご)にしてくれと言い、また遺品の分配のことも言った。朝方の四時半には遺言もお別れも済んだ。
 その頃、突然、すさまじい音を立てて大雨が降りはじめ、雨の中に夜が明けた。
 紅葉が言った。
「石橋、曇天(クラウデイ・ウエザー)だな、なに、(レーン)が降つてる? どうも天気の悪いのが一番いやだ。」
 そして彼は顔をしかめた。
 それから彼は牛乳を少し飲んだ。五六人ががりで寝巻や蒲団をすっかり新しく取り替えたあと、紅葉はよく眠った。
 この十月三十日の朝早く打った電報で、 硯友社員の江見(えみ)水蔭(すいいん)川上(かわかみ)眉山(びざん)広津(ひろつ)柳浪(りゅうろう)丸岡(まるおか)九華(きゅうか)たちがまた駆けつけた。外に長田(おさだ)秋濤(しゅうとう)斉藤(さいとう)松洲(しょうしゅう)角田(つのだ)竹冷(ちくれい)などの友人も来た。午後になって、もう駄目だから暇乞いしようと言って、親戚から順に二人ずつ八畳の病室に入った。長田秋濤は涙を滂沱(ぼうだ)と流していた。柳浪と水蔭が一緒に入ると、紅葉は、目を開いて二人を見、
「遠方をわざわざ、……」と言って、すぐまた目を閉じた。柳浪も水蔭も胸が一杯になり、一語も発することかできなかった。眉山が入って行くと、紅葉は、眉山の我がままについて最後に忠告をした。眉山は泣き出した。
 その夜の十一時十五分、潮の引きぎわに、紅葉は昏睡したまま息を引きとった。

 硯友社の社員は当初は4人でした。明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校、現・東京大学教養学部)の学生、尾崎紅葉山田美妙石橋思案と高等商業学校(現・一橋大学)の丸岡九華の4人が創立したのです。同年5月、機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を発行。以降、同人に巌谷小波(いわやさざなみ)広津柳浪川上眉山らが参加、また紅葉門下の泉鏡花小栗風葉柳川春葉徳田秋声等が加わっています。『我楽多文庫』には小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)などさまざまな作品を載せ、その結果、明治20~30年代の文壇の中心勢力になりました。

玄関の三畳  後藤宙外氏の『明治文壇回顧録』によれば「半坪程の土間につづく取次の間は、確か二畳であつたと思ふ」と書き、一方、鳥居信重氏が『よこてらまち』(新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会)で描く尾崎邸の玄関は畳二枚に板敷一枚分だと書いてあります。野口冨士男氏の『私のなかの東京』では「面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである」と書いています。図はここにあります。

七人の弟子たち 七人の名前のうち泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声以外はわかりません。
夜伽 病人の看護、主君の警備などのために夜通し寝ずにそばに付き添うこと。
金鍔金鍔 小麦粉の薄い皮で餡を包み、刀の鍔に似せて平たくし、鉄板の上で軽く焼いた和菓子
暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
滂沱 雨の降りしきるさま。涙がとめどもなく流れ出る様子

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紅葉の臨終②徳田秋声

文学と神楽坂

 徳田秋声氏の『黴』三十七章(1911年)では、この「先生」の臨終の様子をあっさりと書いています。(青空文庫から)

三十七
 一時劇しい興奮の状態にあった頭が、少しずつしずまって来ると、先生は時々近親の人たちとことばを交しなどした。その調子は常時いつもと大した変りはなかった。
 興奮――むしろ激昂げっこうした時の先生の頭脳あたまはいたましいほど調子が混乱していた。死の切迫して来た肉体の苦痛に堪えかねたのか、それとも脱れることの出来ぬ冷たい運命の手を駄々ッ子のように憤ったのか、すすりあげるような声でいろいろのことが叫び出された。
 苦痛が薄らいで来ると、先生の様子は平調にかえった。時々うとうとと昏睡状態に陥ちることすらあった。長いあいだの看護に疲れた夫人を湯治につれて行ってやってくれとか、死骸しがいを医学界のために解剖に附してくれとかいうようなことが、ぽつぽつ言い出された。
「死んでしまえば痛くもなかろう。」先生はこうも言って、淋しく微笑ほほえんだ。
「みんなまずい顔を持って来い。」と叫んだ先生は、寄って行った連中の顔を、うるんだ目にじろりと見廻した。
「……まずい物を食って、なるたけ長生きをしなくちゃいけない。」先生は言い聞かした。
 腰にまつわりついている婦人連の歔欷すすりなきが、しめやかに聞えていた。二階一杯にふさがった人々は息もつかずに、静まり返っていた。後の方には立っている人も多かった。
 先生の息を引き取ったのは、その日の午後遅くであった。

湯治 とうじ。温泉に入って病気などを治療すること。

紅葉の臨終①泉鏡花

文学と神楽坂

 尾崎紅葉氏は明治36年(1903年)10月30日に満35歳で死亡しました。

 まず泉鏡花氏が書いた紅葉の臨終際の文章です(鏡花全集28巻)。感極まっているのです。

   紅葉先生逝去前十五分間      明治38年7月
 明治三十六年十月三十日十一時、……形勢不穩なり。予は二階に行きて、(つゝし)みて鄰室(りんしつ)(かしこ)まれり。此處(こゝ)には、石橋丸岡久我の三氏あり。
 人々は耳より耳に、耳より耳に、(にぶ)き、弱き、稻妻の如き(さゝやき)(つた)()れり。
 病室は(たゞ)(しん)として()のもの音もなし。
 時々時計の(きし)(こゑ)とともに、すゝり(なき)(なき)ゆるあるのみ。
 室と室とを隔てたる四枚の襖、其の一端、北の方のみ細目(ほそめ)に開けたる間より、五分()き、三分措きに、白衣、(いろ)(あたら)しき(せう)看護婦、悄然(せうぜん)として()でて、(しづか)に、しかれども、ふら/\と、水の如き(ともしび)の中を()ぎりては、廊下に(たゝず)める醫師と相見(あひみ)私語(しご)す。
 雨(しきり)なり。
 (まさ)に十分、醫師は()()りて、(まゆ)憂苦(いうく)(たゝ)へつゝ、もはや、カンフルの注射無用(むよう)なる(よし)を説き聞かせり。
 風又た一層を(くは)ふ。
 雨はたゞ波の(たゞよ)ふが如き氣勢(けはひ)して降りしきる。
 これよりさき、病室に(かすか)なるしはぶきの聲あるだに、其の都度、皆慄然(りつぜん)として(たましひ)を消したるが、今や、(ひとへ)に吐息といへども聞えずなりぬ。
 時に看護婦は襖より半身を(あらは)して、ソト醫師に目くばせ()り、同時に相携(あひたづさ)へて病室に入りて見えずなれり。
 石橋氏は椅子に()りて、()()(さゝ)ふること(あた)はざるものの如く、()(あふ)ぎ、且つ()し、左を見、右を見て、心地(こゝち)()なんとするものの如くなりき。
 (角田氏入る。)
 人々の(さゝや)きは(やうや)(しげ)(こまや)かに()(きた)れり、月の(いり)引汐(ひきしほ)、といふ(こゑ)(ひらめ)(きこ)えり。
 十一時十五分、予は病室の事を語る能はず。
[現代文]明治36年10月30日午後11時……形勢は不穩である。私は二階に行き、隣の部屋に謹んで正座していた。ここには、石橋思案氏、丸岡九華氏、久我亀石氏の三氏もいた。
 鈍くて弱い、稲妻のような囁きが、耳から耳に、耳から耳にと伝わってくる。病室はただシンとしてほかの音はない。
 時々時計のきしむ音とともに、すすり泣きだけが聞こえてくる。
 部屋と部屋を隔てたのは四枚の襖。その一端の北の方、細く開けたあいだから、色は新しい白衣の看護婦は、五分おき、三分おきに、元気はなく出てきて、静かに、でも、ふらふらと、水と似ている灯火のそばを過ぎていく。廊下に佇む医師と向かい合い、私語をしている。
 雨はしきりに降ってくる。
 まさに十分後、医師は、眉に憂苦をただえ、もはやカンフルの注射は無用だと説き聞かせている。
 さらに一層、風は強くなる。
 雨はただ波が漂うような気配で、降りしきる。
 以前は、病室にささやかな咳の声があり、その都度、みんな身震いするようで気力は消えていた。しかし、現在は、この吐息も聞こえないようになった。
 この時、看護婦は襖より半身を現し、そっと医師に目くばせし、一緒に病室に入って見えなくなった。
 石橋氏は椅子によりそって、身を耐え支えるのはできないように、上を見たり、下を見たり、左や右を見たりで、気持は死のうしているようだ。
 (角田竹冷氏が部屋に入った。)
 人々のささやき声もようやく出てきて、こまやかになり、月の入りや引汐という声も一瞬聞こえてくる。
 午後11時15分は尾崎紅葉が逝去した時刻だが、私には病室のことを話す能力はない。

畏まる かしこまる。相手の威厳などを恐れて、つつしんだ態度をとる。正座する。
久我 久我龜石。硯友社の会員。詳細は不明。
悄然 元気がなく、うちしおれている様子。しょんぼり。
衝と つと。ある動作をすばやく、または、いきなりするさま。さっと。急に。不意に。
カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在まずない。
しはぶき せき。咳嗽
慄然 恐ろしくて身震いする様子。
そと 音を立てないように。静かに。人に知られないように。ひそかに。そっと。
心地 ここち。物や事に接した時の心の状態。気分。気持ち。

小品『草あやめ』①|泉鏡花

文学と神楽坂

泉鏡花作「草あやめ」(明治36年)の最初の1節です。当時の神楽坂2丁目の様子がわかります。まだこの辺りは華街にはなっていなかったのですね。

二丁目にちやうめ借家しやくや地主ぢぬし江戸兒えどつこにて露地ろぢとざさず裏町うらまち木戸きどには無用むようものるべからずとかたごとしるしたれど、表門おもてもんにはとびらさへなく、けても通行勝手つうかうかつてなり。たゞ知己ちかづきひととほけ、世話せわもを素通すどほ無用むようたること、おもひかはらずりながら附合つきあひ五六けん美人びじんなきにしもあらずといへどみだり垣間見かいまみゆるさず、のき御神燈ごしんとうかげなく、おく三味さみきこゆるたぐひにあらざるもつて、頬被ほゝかぶり懐手ふところで湯上ゆあがりのかた置手拭おきてぬぐひなどの如何いかゞはしき姿すがたみとめず、華主とくいまはりの豆府屋とうふや八百屋やほや魚屋さかなや油屋あぶらや出入しゆつにふするのみ。

[現代文] 二丁目の私の借家の地主は、江戸っ子であり、門などは閉めない。裏町の木戸には無用の者は入ってはいけないと型どおりに書いている。しかし、表門を見ると、扉はなく、夜が更けても誰でも勝手に通行できる。ただし、近くの人の通り抜けはよくない。一般的な言葉を使うと、素通り、つまり、立ち寄らずに通り過ぎる人は、いらないと私は考えている。
 お付き合いした五六軒を見ると、美人もいるが、やはり、みだりにのぞき見はいけない。待合のように提灯はかかっておらず、奥には三味線の音も聞こえてこない。さらに、ほおかぶり、懐手、湯上りの肩に置手拭といったいかがわしい姿もない。あるのは、得意客を回る豆腐屋、八百屋、魚屋、油屋が出入する音だけだ。

二丁目 神楽坂2丁目22番地のこと。泉鏡花は明治36年から39年まで、ここを借りていました。
露地を鎖さず 「ろじをとざさず」。露地は覆いがない土地。これを戸・門などでしめない。
通行勝手 勝手に通行できる。
素通り 立ち寄らずに通り過ぎる。
かはらず 変わらず。変わることないが。そう考えているが。
お附合 「お付き合い」。人と交際すること
美人なきにしもあらず 「なきにしもあらず」とは「無きにしも非ず」。ないわけではない。美人ではないわけではないが
垣間見 間からからこっそり見ること。のぞき見。
御神燈 芸者屋などで縁起をかついで戸口につるした提灯。
三味の音 芸者さんは午前中から三味線の練習をしました。
類にあらざる 同類ではない。似ていない。芸者さんとかは来ていない。
頬被 手ぬぐいなどで頭から頰にかけて包み、顎のあたりで結ぶこと。
懐手 手を袖から出さずに懐に入れていること。傍観者の立場という感じでしょうか
置手拭 手ぬぐいを畳んで、頭や肩にのせること
如何はしき いかがわしい。怪しげだ。疑わしい
豆府屋 行商の豆腐屋はラッパを鳴いて売り歩いていました。行商の八百屋、魚屋、油屋もありました。

あさまだき納豆賣なつとううり近所きんじよ小學せうがくかよをさなが、近路ちかみちなればいつたもとつらねてとほる。おはなやおはな撫子なでしこはな矢車やぐるま花賣はなうりつき朔日ついたち十五日じふごにちには二人ふたり三人さんにんくなり。やがて足駄あしだ齒入はいれ鋏磨はさみとぎ紅梅こうばい井戸端ゐどばた砥石といしゑ、木槿むくげ垣根かきね天秤てんびんろす。目黑めぐろ(たけのこ)うりあめみの若柳わかやなぎ臺所だいどころのぞくもゆかや。

[現代文] 早朝、納豆を売る人が出てくる。近所の小学校に通う幼児も近道をとおり、五人や六人、一緒に歩いている。お花を売る姿も見える。撫子の花や矢車の花を売り、月の一日や十五日になると、二人三人呼びあって、皆で買うようだ。やがて行商の足駄の歯入やハサミ研ぎが出てくる。紅梅の井戸端に砥石をそろえ、木槿の垣根に天秤を下ろす。目黒の筍売屋は雨の日に蓑を着て、若い女性が台所にいるのを見ている。これもいい感じだ。

小学 竹内小学校です。場所はここ。明治20年の地図ではここ。平成9年の『ここは牛込、神楽坂』第4号16頁によれば、「『近所の小学』というのは、現在、東京理科大学の一部になっている所にあった私立竹内小学校のことで、公立の津久戸小学校が創立されるまで、付近の子供たちはほとんど、ここに通っていたと聞きました」と書いてあります。実は津久戸小学校ができてもただちに竹内小学校が消えたのではなさそうです。津久戸小学校が作られたのは明治37(1904)年4月。ほぼ20年後の大正11(1922)年になっても、東京逓信局編纂『東京市牛込区』では、この2つの小学校は依然同時にあります。大正12年、関東大震災が起こり、それから、ようやく昭和5(1930)年には竹内小学校は消えています。また、昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、私立竹内小学校はかなり大きな敷地を占めていました(下図)。

古老の記憶による関東大震災前の形竹内小学校
現在は理科大のキャンパスです。竹内小学校

朝まだき 早朝
幼き おさなき。年齢がごく若い。未熟だ。
袂を連ねて 袂とは和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。袂を連ねる人と行動を共にする。
撫子 なでしこ。ナデシコ科の多年草。
矢車 やぐるまぎく。キク科の一年草。
足駄 あしだ。下駄の一種。東日本では歯の高い差歯(さしば)の下駄をアシダと呼んでいる。
歯入 はいれ。下駄の歯を入れ換えること。その職業。
鋏磨 ハサミ研ぎ。
紅梅 こうばい。ウメのこと。
木槿 ムクゲ。アオイ科の落葉低木。写真は左からなでしこ、やぐるまぎく、むくげ 藁(わら)を編んで作られた雨具の一種。
若柳 若い柳。ここは美人のことだと思います。たとえば、柳眉とは柳の葉のように細く美しい美人の眉をさします。同じではないでしょうか。
床し 気品・情趣などがある。

小品『草あやめ』⑤|泉鏡花

文学と神楽坂

 翌朝あくるあさ(れい)(あき)さん、二階(にかい)駈上(かけあが)跫音高(あしおとたか)く、朝寢(あさね)(まくら)(たゝ)きて、()きよ、(こゝろ)なき(ひと)人心(ひとこゝろ)なく(はな)かへつて(じやう)あり、さく(ひやゝ)かにいひおとしめし()ぢたりけん、シヽデンの(はな)(ひら)くこと、今朝(けさ)一時いつときに十一と、あわたゞしく起出(おきい)でて(はち)いだけば花菫はなすみれ野山(のやま)滿()ちたるよそほひなり。()つゝ(おも)はず悚然ぞつとして、いしくも()いたり、可愛かはゆき花、あざみ鬼百合おにゆりたけんば、()ことば(いきどほ)りもせめ姿形(すがたかたち)のしをらしさにつけ、(なんぢ)(やさ)しき(こゝろ)より、百年もゝとせよはひ(さゝ)げて、一朝(いつてう)(さかり)()するならずや、いかばかり、(われ)(うら)なんと、あはれ()ふべくもあらず。くちそゝ()てつ、書齋(しよさい)なる小机(こづくゑ)()て、(ひと)なき(とき)端然(たんぜん)として、失言(しつげん)(しや)す。しかゆふべにはしをれんもの、(ねがは)くば、()(いのち)だに(ひさ)しかれ、(あら)(かぜ)にも()べきか。なほ心安(こゝろやす)らず、みづから()(こゝろ)なかりしを()いたりしに、(つぎ)(あさ)(いた)りて(さら)に十三の(はな)()けり、(うれ)しさいふべからず、やよや人々(ひと/”\)(また)シヽデンといふことなかれ、()(いへ)ものいふ(はな)ぞと、いとせめてであへりし、()()日曜(にちえう)にて宙外ちうぐわい(くん)(たち)()らる。
 巻莨まきたばこ()(ひか)たなそこ()()て、なん主人(しゆじん)むくつけき(なん)()(はな)のしをらしきと。主人(しゆじん)(おほ)いに恐縮(きようしゆく)して假名(かな)()()けば()()らずと()はる。(わす)れたり、斯道しだう曙山しよざん(くん)ありけるを、(はな)(ひと)()りて(ふところ)にせんもをしく、よく(いろ)()()(おぼ)え、あくる()四丁目(よんちやうめ)編輯局(へんしふきよく)にて、しか/″\の(くさ)はと()へば、同氏(どうし)(うなづ)きて、(かみ)()して(これ)ならん、それよ、草菖蒲くさあやめ女扇(をんなあふぎ)(たけ)(あを)きに(むらさき)(たま)(ちりば)たらん姿(すがた)して、()()よそほひまさる、草菖蒲(くさあやめ)といふなりとぞ。よし(なに)にてもあれ、()いとほしのものかな。

[現代語訳] 翌朝、例の秋さんが、その足音は高く、二階へ掛け上ってきた。朝、枕を叩いて、「起きてみてよ。冷徹な奴だな。人間には思いやりはないが、花には情がある。昨日は冷ややかにいわれ、軽蔑され、恥をかきました。でもシシデンの花は大きく開いている。今朝、一回の開花でなんと11輪」。私は慌ただしく起きだして、鉢を抱いてみた。花スミレは野山にいっぱいのよそおいだ。見ていると思わず感動した。「見事に咲いた、可愛い花。アザミ、オニユリなどの勇ましい植物だとすると、私の言葉に腹立ちもあろう。しかし、シシデンの姿形はしおらしく、心は優しい。百年の年齢を献げても、一日の朝には最盛時を見ない場合もある。私に対する怨みをどれほどもっているのか。まして、あわれさでは、言っても言い切れない」と。私は口の中を洗い終えて、花を書斎の小机の上に置き、人がいない時に、姿勢を正し、失言だったと、あやまった。シシデンは夕方になると、しおれるので、願わくは、葉の命だけでも永久に、また、荒い風にも当てるべきではないか。しかし、これで安心はまだできない。私は真に心なき人だったと悔んでいた。次の朝、さらに花は十三輪ほど咲いた。その嬉しさはいいきれない。さあさあ、人々が再びシシデンということはもうない。わが家の美人よ、せめてその美しさを味わおう。その日は日曜であり、後藤宙外君も立ち寄った。
 巻タバコの手を控え、葉を手のひらでさすった。どうして大家は無風流であり、どうしてこの花はしおらしいのか。その大家は大いに恐縮し、「俗称の名前をなんでしょう」と聞くと氏もわからないときっぱり答えた。忘れていたのが、この分野で有名な人に前田曙山君がいる。花一輪を取り、懐中にいれるのは、おしい。そこで、よく色を見て、葉を覚えて、翌日、四丁目の春陽堂編集局に行き「こんな草は」と質問すると、曙山君はうなづいて紙に絵をかき「これでしょう」といったのである。「そう、これ、これ」というと、「草アヤメです」と答えた。青い竹でつくった女性用の扇で紫の珠をちりばめたような姿があり、日に日に風情が増し、草アヤメだという。なるほど、何はともあれ、私にとっては、この花はかわいいものよ。

草菖蒲  昔の「あやめ」「あやめぐさ」はともに現在の「ショウブ」でショウブ目ショウブ科ショウブ属。この花は花らしくはないので違います。残るのはアヤメ、ハナショウブ、カキツバタの3種。違いは竹田寛氏の「6月 《アヤメ》 ― いずれアヤメかカキツバタ 」によれば

 外花被片の基部の模様、すなわち密標の模様の違いです。アヤメは文目模様、花ショウブは黄色の筋、カキツバタは白い筋です。私は「文目(あやめ)、黄しょうぶ、白つばた(アヤメ、キショウブ、シロツバタ)」と覚えることにしています。これだけ覚えておけば十分です。またアヤメは乾地、カキツバタは湿地、花ショウブはその中間の地帯に育ちます。

 草あやめはアヤメ、ハナショウブ、カキツバタ、あるいはその変種のうち何なのでしょうか。文章を読む限り、どれもありそうで、はっきりしません。そこで前田曙山氏が書いた「和洋草花趣味の栽培」「草木栽培書」「高山植物叢書」も調べてみました。アヤメ、ハナショウブ、カキツバタの3種類の中で、山菖蒲(ハナショウブの原種)、水菖蒲(ショウブの別名)はありましたが、草あやめという名前はなく、さらに種や変種でもありませんでした。さらに後藤宙外氏には『草あやめ』という小冊子もありましたが、この中には無関係の小説数点がはいっているだけでした。では、草あやめは何なのでしょうか。私は単に草本の「アヤメ」と同じだと考えています。花菖蒲、山菖蒲や水菖蒲、菖蒲草と同じように草菖蒲もあり、これは現在のアヤメなのです。しかし、他の考え方もあり、昔は「草あやめ」の名前はあっても、やがて、何をさしていたのか、わからなくなった場合や、あるいは、草あやめという植物をこの小説のため創作したなどです。また、森脇伸平氏によれば、庭の花写真でニワゼキショウというアヤメ科の俗名が草あやめだといいます。一応、草あやめは不明のままとしておきます。

心なし 思慮分別のない。思いやりのない。そんな人。
 過ぎ去った日。むかし。きのう。
おとしめる 貶める。おとしむ。劣ったものと軽蔑する。さげすむ。見下す。
 そう。よそおい。外観をととのえる。
悚然 しょうぜん。恐れて立ちすくむさま。慄然。寒さや恐怖など、また、強い感動を受けて、からだが震え上がるさま。
いしくも 美しくも。見事に。殊勝にも。形容詞「い(美)し」の連用形と係助詞「も」。
 キク科アザミ属の多年草の総称。葉に多くの切れ込みやとげがある。
鬼百合 ユリ科ユリ属の多年草。山野に自生し、高さ約1メートル。
猛し 勇猛な。勇ましい。勢いが盛ん。激しい。
せむ 責む。とがめる。なじる。責める。
一朝 いっちょう。わずかな間。
 力や勢いがさかん。さかえる。
ずや …ではないだろうか。…ではないか。
なん 完了の助動詞「ぬ」の未然形と、推量の助動詞「む(ん)」でしょうか。きっと…だろう。…にちがいない。
あわれ 不憫と思う気持ち。無惨な姿。
漱ぐ くちそそぐ。水などで口の中を洗い清める。うがいをする。
すえる 据える。物を一定の場所に動かないように置く。
端然 姿勢などが乱れないできちんとしているさま。礼儀にかなっているさま。
当てる 光・雨・風などの作用を受けさせる。
心安い 安心である。心配がない。
やよや 呼びかける時に発する語。さあさあ。おいおい。
ものいう花 ことばを発する。口をきく。力を発揮する。「物言う花」で美人。
撫す ぶす。ぶする。手のひらでさする。なでる。いたわる。かわいがる。
むくつけし 無骨でむさくるしい。無風流だ。
仮名 実名を秘して仮につけた名前。変名。俗称。通称。
斯道 学問や技芸などで、この道、この分野。
 ふところ。衣服を着たときの、胸のあたりの内側の部分。懐中。
編輯局 日本橋区通四丁目にあった春陽堂の編集室です。ここで一時編集者として前田曙山氏が働いていました。
女扇 おんなおうぎ。女持ちの小形の扇。
鏤める ちりばめる。金銀・宝石などを、一面に散らすようにはめこむ。
 よそおい。装い。粧い。外観の様子。おもむき。風情。
いとほし 気の毒だ。かわいそうだ。かわいい。