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故郷七十年|柳田国男

文学と神楽坂

 柳田国男氏に「故郷七十年」(神戸新聞、1958年)という本があります。自叙伝が中心ですが、森鴎外尾崎紅葉などは普通に書き、しかし、泉鏡花については、かなり大胆な書き方をしています。ちなみに柳田国男の生年は明治8年、泉鏡花は明治6年です。
 柳田国男は民俗学者で、市谷加賀町の柳田家に(よう)嗣子(しし)(民法旧規定で、家督相続人となる養子)として入籍し、結婚しています。

   泉鏡花

 星野家の天知夕影の両君と、妹のおゆうさんとの住居は日本橋にあった。中庭のある変った旧家で、すぐそばに平田禿木(とくぼく)も住んでいた。おゆうさんはどちらかというと、兄の友人などからちやほやされることに、意識的な誇りを覚えるというような型の婦人だったように思う。後に吉田賢竜(けんりゅう)君の所へ嫁いだ。
 吉田君は泉鏡花と同じ金沢の出身だったので、二人はずいぶんと懇意にしていた。よくねれた温厚な人物で、鏡花の小説の中に頻々(ひんぴん)と現われてくる人である。私が泉君と知り合いになるきっかけは、この吉田君の大学寄宿舎の部屋での出来事からであった。
 大学の一番運動場に近い、日当りのいい小さな四人室で、いつの年でも卒業に近い上級生が入ることになっていた部屋があった。空地に近く、外からでも部屋に誰がいるかがよく判るような部屋である。その時分私は白い(しま)(はかま)をはいていたが、これは当時の学生の伊達であった。ある日こんな恰好で、この部屋の外を通りながら声をかけると、多分畔柳(くろやなぎ)芥舟(かいしゅう)君だったと思うが、「おい上らないか」と呼んだので、窓に手をかけ一気に飛び越えて部屋に入った。偶然その時泉君が室内に居合せて、私の器械体操が下手だということを知らないで、飛び込んでゆく姿をみて、非常に爽快に感じたらしい。そしていかにも器械体操の名人ででもあるかのように思い込んでしまった。泉君の「湯島詣」という小説のはじめの方に、身軽そうに窓からとび上る学生のことが書いてあるが、あれは私のことである。泉君がそれからこの方、「あんないい気持になった時はなかったね」などといってくれたので、こちらもつい嬉しくなって、暇さえあれば小石川の家に訪ねて行ったりした。それ以来、学校を出てから後も、ずっと交際して来たのである。
 鏡花は小石川に住む以前、牛込横寺町尾崎紅葉の玄関番をしばらくしていた。しかし誰でも本を出すようになると、お弟子でも師匠から独立するのが一般のしきたりになっていたようだ。ことに泉君は何となく他の諸君に対する競争心があって、人からあまりよく思われないような所があった。
 酒を飲むにしてもまるで古風な飲み方をするし、あとの連中はまあ無茶な遊び方が多かった。そのいちばんの巨魁(きょかい)小栗(おぐり)風葉(ふうよう)で、この連中は「ああ、偽善者()が」と泉の悪口をいうものだから、しまいには仲間割れがしてしまった。
 同じ金沢出身の徳田秋声君などともあまりよくなく、徳田君の方で無理してつき合っているような様子がうかがえた。徳田君は外国語の知識も若干あったが、泉君の方は、それは昔風で、ただ頭がいいから、他人が訳した外国のものなども、こっそり読んでいたようである。いろいろなことがあったが、私にとっては生涯懇意にした友人の一人であった。

とび上る学生 泉鏡花作の『湯島詣』から取った、部屋の外から中に一気に飛び込む場所です。

(にぎや)かだね、柳澤(やなぎさは)、」と(まど)(した)園生(そのふ)から(こゑ)()けたものがある。
        二
 一番(いちばん)(まど)(ちか)柳澤(やなぎさは)は、亂暴(らんばう)(むね)(そら)して振向(ふりむ)いたが、硝子(がらす)(ごし)(した)(のぞ)いて()て、
龍田(たつた)か。」
(たれ)()()るかい。」
根岸(ねぎし)新華族(しんくわぞく)だ、(はひ)れ。」と()つて()(なほ)る。
 同時(どうじ)に、ひよいと(まど)(ふち)()(かゝ)つた、飛附(とびつ)いて、(その)以前(いぜん)器械(きかい)體操(たいさう)()らしたか、()(かる)さ、(かた)()()げて(しつ)(なか)に、()()瀟洒(せうしや)なる(かほ)()したのは、龍田(たつた)()若吉(わかきち)といふのである。
 (あづさ)()(ゑみ)(ふく)み、
堪忍(かんにん)してやれ、神月(かうづき)はもう子爵(ししやく)ぢやあない。」といひながら腕組(うでぐみ)をして外壁(そとかべ)附着(くツつ)いたまゝで()る。柳澤(やなぎさは)椅子(いす)をずらして、
「まあ(はひ)れ、丁度(ちやうど)()い。(いま)其事(そのこと)()いて、神月(かうづき)問題(もんだい)といふのをはじめた(ところ)だ。一寸(ちよつと)(その)休憩時間(きうけいじかん)よ。神月(かうづき)(ひど)辯論(べんろん)(きう)して、き(さま)()るのを()つて()たんだぜ、龍田(たつた)()たらばツて()ういつてな。」

天知 星野天知。ほしのてんち。評論家。小説家。帝大農科大学卒。1887年平田禿木らと日本橋教会で受洗。明治女学校で教鞭を取り、1890年『女学生』を創刊、主筆に。26年、北村透谷らと「文学界」を創刊。のち書道研究に没頭。生年は文久2年1月10日、没年は昭和25年9月17日。享年は満88歳。
夕影 ほしのせきえい。建築家。帝大建築科卒。「文学界」同人となって雑誌経営の実務を担当。大卒後は内務省技師。日光東照宮の修復などに携わった。生年は明治2年11月8日、没年は大正13年3月19日。享年は満54歳。
頻々 ひんぴん。同じような事が次から次へと起こること。
伊達 人目にふれるような派手な行動をする。派手なふるまいなどで外見を飾る。
畔柳芥舟 くろやなぎかいしゅう。英語・英文学者。評論家。明治31年、一高教授。のち「大英和辞典」(冨山房)の編纂に専念。生年は明治4年5月17日。没年は大正12年2月20日。享年は満50歳。
湯島詣 芸者蝶吉が主人公。華族の令嬢を妻にした青年神月梓を配し、梓が狂人となった蝶吉とついに心中する話。
小石川の家 鏡花が住んでいた場所でしょう。小石川区大塚町57番地です。
巨魁 盗賊などの悪い仲間の首領。

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千寿|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

『製菓実験』昭和13年4月号に「千壽」(千寿)が出ています。

       千壽
倉本
 不折が泣くであらうが――と云つたら、御主人は不平であらう。が、江戸ツ子は口が惡いものである。この店を見ては、そう言はざるを得ない位である。もつとも、之を菓子屋だとおもつたら間違ひかも知れない。汁粉店であらう。それにしても、店といふものが、お客樣の口に入れるものを入れる特別の入れものだと考へたら、モツト、何んとか考へてよさそうではないか。
 この店を、このまゝ活かすなら、の腰にも同じタイルを張り、入口に淸洒湓色暖簾でもかけることだ。面して、讀者諸君に、こゝで注意したいことは陳列窻の有難さといふことだ。この店で、これが無かつたら、何の店かワカリはせぬ。(もつとも、小さな電氣看板の側面には何とか商賣名が書いてはあるのだらうが……)

 あまり技巧的にならない良い店である。看板とタイルとは不思議にマツチしてゐる。ショーウインドウの腰が何となく粗製の感じがあるのと、その欄間チヨンビリしてゐながらドギツく感じられるのが缺點である。全體的にみて少しおさまり過ぎてゐる處はあるが、それも大して氣にはならない。
 右側の小窻には紙張りの障子を入れた方がいゝであらう。こゝに白い處があれば欄間のドギツさも幾分か救はれるかも知れない。

 新字体の「窓」
清洒 せいしゃ。華美なところがなくさっぱりとしている。
湓色 「ほんいろ」か。「湓」は「水がわきでる」こと。水色?
暖簾 のれん。商店で、屋号などを染め抜いて店先に掲げる布。
粗製 作り方が粗雑なこと。雑なつくり。
欄間 らんま。採光、通風、装飾のため天井と鴨居との間の開口部材。
ちょんびり わずかに。ほんの少し。ちょっぴり。
缺點 新字体の「欠点」

 2009年12月号の「かぐらむら」「記憶の中の神楽坂」の「神楽坂1丁目・2丁目・3丁目」で「千寿」が出ています。欠点はどこにもなさそうに、あっさりと、書いています。

場所もお店の詳細も不明である。看板は、新宿中村屋のロゴマークや、漱石の「我が輩は猫である」の挿絵で知られる「中村不折」の揮毫。お菓子屋というよりはお汁粉屋さんであったようだ。

揮毫 きごう。毛筆で文字や絵をかく。特に、知名人が頼まれて書をかくこと。

 この揮毫は中村不折によるとはっきりとわかっていないと思います。
 千寿の写真で、左側と右側の柱ですこし長さが違い、向かって左側が少し長くなっています。これは、坂道の入り口や降り口の周辺なのでしょう。
 岡崎公一氏の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」ではよく似た店舗がありました。「天寿堂飴店」です。「千寿」と「天寿」、お汁粉屋と飴店。似ている、似ていない。間違えて千寿を天寿と書いたのでしょうか。
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合羽坂|市谷片町

文学と神楽坂

 合羽坂という坂道は、時代によって大きく違った坂でした。

 横関英一氏の『続江戸の坂 東京の坂』(有峰書店、昭和50年。中公文庫 昭和57年)の「市ヶ谷尾張屋敷に囲い込まれた六つの坂 」では

新五段坂と合羽坂 明和のころになると、五段長屋、五段坂、大隅町一帯の地が、尾張屋敷の中に完全に囲い込まれてしまったのである。『半日閑話』には、次のように、その年月日を詳しく書いている。「明和五年(一七六八)五月二十五日、尾州侯五段長屋御囲ひ出来る。五段坂大隅町辺皆御館の内に入る」。そして、この五段坂とその西のほうの合羽坂との中間に、新たに平行してできた坂が、新五段坂であった。
 それからもう一つ、『御府内備考』の別のところに、「合羽坂は新五段坂の西の方にあり」と書いている。五段坂と新五段坂と合羽坂とは、三つとも平行した、南から北へ登る坂みちであったとしか考えられない(下線は筆者)。(中略)
 ここで特に注意することは、合羽坂の説明で、「右坂下通西の方え登り」とあることで、右坂とは新五段坂のことであり、この坂下通りを西のほうへ登るのが合羽坂であるというのである。右の引用文は、五段坂の西に新五段坂があり、さらにその西に合羽坂があるということなのである。

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』で合羽坂合羽坂(かっぱざか) 市谷本村町の自衛隊本部西わき、市谷仲之町の境を南へ下る坂で、坂下は靖国通りをまたぐ陸橋(曙橋)がかけられて四谷片町につらなっている。「新撰東京名所図会」は「合羽坂は四谷市谷片町の前より本村町に沿ふて仲之町に上る坂路をいふ。昔時此坂の東南は蓮池(はすいけ)と称する大池あり。雨夜など(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思ひしより坂の呼名となりしが、後転じて合羽の文字を用ひ来りしといふ。」と記している。もとは谷間に下る急坂であったが、睦橋を架して道幅をひろげ、河童の伝説とはかけ離れた自動車道路となった。

 戦前、大正~昭和では、合羽坂は大きな坂になります。大正と戦前昭和の合羽坂

 戦後、またまた位置が変わります。昭和56年は……昭和50年代の合羽坂

 なんと、左の坂を「合羽坂」に入れています。左の坂は明治20年にはなかったのに。

 歴史・文化のまちづくり研究会編の『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)では

1990年代の合羽坂

 現在の交差点を見ると、外苑東通りの交差点が「合羽坂」交差点、その右下の交差点が「合羽坂下」となっています。そして、「合羽坂」交差点と「合羽坂下」交差点をつなぐ坂が「合羽坂」です。

2010年代の合羽坂

備仲臣道氏「内田百聞文学散歩」(皓星社、2013)

 また、昭和58年3月、都は説明でこの合羽坂の頂上近くに、道標をたてています。下の図では元治元年(1864年)の「江戸切絵図」を紹介し、ここでは合羽坂は現在の合羽坂と全く同じ位置でした。

合羽坂の道標と地図。赤丸が合羽坂

合羽坂(かっぱざか)

 新撰東京名所図会によれば「合羽坂は四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜などかわうそしばしば出たりしを、里人誤りて河童かっぱと思いしより坂の呼名と…転じて合羽の文字を用い云々」、何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。 

   昭和58年3月       
東京都     

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銀扇|神楽坂

文学と神楽坂

 銀扇は喫茶店で、左側上り囗、私の考えでは、神楽坂二丁目にありました。昭和5年頃の神楽坂で銀扇の出店はまだなく、しかし、昭和8年には出店し、少なくとも昭和14年にもありました。戦後はなくなりました。

 白木正光氏の「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和8年)では

 坂の中腹(ちうふく)左側。ベーカリー式の菓子、喫茶(きつさ)、カツレツ御飯(25銭)等婦人連(ふじんれん)にも()かれ(そう)な店です。

 安井笛二氏の「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では

銀扇堂 (さか)中腹(ちうふく)左側。ベーカリー式な家で、比較的(ひかくてき)落付いた店です。喫茶(きつさ)の外にランチも出來コーヒーとケーキは此の(みせ)自慢(じまん)のものです。場所柄(ゐき)な婦人(れん)がよく出入りし、學生間にも却々好評(こうへう)です。高級の喫茶として、レコードにゆっくり落付(おちつけ)ます。此所の洋菓子(ようくわし)はなか/\うまい。

 なお、「却々」は「なかなか」と読みます。

『製菓実験』昭和14年4月号で描く銀扇(牛込神楽坂)は

神楽坂の喫茶店、銀扇 缺點もなく、又、探り立てゝ云うこともない無難な店である。左端にある二個の六角の装飾電燈は無意味で、もし現在電氣を點けてゐるのならば、これを取りのけて、簡單な長方形の突出し行燈をつけて、同じ電流を活用させた方が、ずつと効果的だ。
 尤も、こゝは以前、資生堂の店だつたのを、そのまま入れ變つたところだから、わざわざつけたのではない。

 中村武志氏の「目白三平のあけくれ」(大日本雄弁会講談社、昭和32年)では

 この「田金」果実店の並びに、「志満金」という蒲焼屋があるが、そのあたりに、当時は「ギンセン」という喫茶店があった。「ギンセン」では、二十五銭のカレーライスと、三十銭のハヤシライスを食べさせてくれた。味が非常によかったから、金のある時は、ここへいつも来たものだ。

 中村武志氏の「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」(昭和46年)から「ここは牛込、神楽坂」第17号に転載)で

 戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。

 『かぐらむら』の記憶の中の神楽坂では

 坂の中腹にあった。ベーカリー式の菓子喫茶で、コーヒーとケーキはこの店の自慢のもの。ランチもあり、カツレツご飯は25銭。高級喫茶としてレコードを聴きながら、ゆっくり落ち着ける店だった。この写真の注目すべき点は、左側2個の六角形の電灯である。ここは、震災後資生堂の店だったのを、そのまま入れ替わったため、お菓子屋に不似合いな装飾電灯がついているのだそうだ。