月別アーカイブ: 2019年2月

牛込橋

文学と神楽坂

 北西の「神楽坂下」から南東の牛込見附跡までにある橋を牛込橋といいます。

%e7%8f%be%e5%9c%a8%e3%81%ae%e7%89%9b%e8%be%bc%e6%a9%8b

 千代田区では交番の脇の標示に…

牛込橋

牛込橋

牛 込 橋 この橋は、「牛込橋」といいます。
『御府内備考』によれば、江戸城から牛込への出口にあたる牛込見附(牛込御門)の一部をなす橋で、「牛込口」とも呼ばれた重要な交通路でした。また、現在の外堀になっている一帯は堀が開かれる前は広大な草原で、その両側は「番町方」(千代田区側)と牛込方(新宿区側)と呼ばれてたくさんの武家屋敷が建ち並んでいたと伝えられています。
 最初の橋は、寛永十三(一六三六)年に外堀が開かれた時に阿波徳島藩主の蜂須賀忠英によって造られましたが、その後の災害や老朽化によって何度も架け替えられています。
 現在の橋は、平成八年三月に完成したもので、長さ四六メートル、幅一五メートルの鋼橋てす。
     平成八年三月
千代田区教育委員会

 最初は広重の「どんどんノ図」の一部です。神田川を遡る荷船はこの「どんどん」と呼ぶ牛込御門下の堰より手前に停泊し、右岸の揚場町へ荷揚げしました。天保年間(1830-44)後期の作品です。
  団扇絵3

 次は明治4年(1871)の橋で、「旧江戸城写真帖」に載っている写真です。太政官役人の蜷川式胤が写真師・横山松三郎と絵師・高橋由一の協力を得て、江戸城を記録した写真集です。湿式コロジオン法といわれる撮影技法を用い、感光能力に優れ、取り扱いも簡便、画像が鮮明で保存性もよかったといいます。
牛込門

東京実測図。明治28年

東京実測図。明治28年

 明治27(1894)年、牛込駅が開業し、駅は神楽坂に近い今の飯田橋駅西口付近でした。駅の建設が終わると、下の橋もできています。翌年、飯田町駅も開業されました。

 次は明治後期で、小林清親氏の「牛込見附」です。本来の牛込橋は上の橋で、神楽坂と千代田区の牛込見附跡をつなぐ橋です。一方、下の橋は牛込駅につながっています。

小林清朝氏の牛込見附

小林清朝「牛込見附」

 今度は、東京市編纂の「東京案内」(裳華房、明治40年、1907年)の牛込橋から見た神楽坂です。

 さらに明治42年(1909年)の牛込見附です。(牛込警察署「牛込警察署の歩み」、1976年) L

 1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業しました。場所は 牛込駅と比べて北寄りに移りました。また、牛込駅は廃止しました。

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

牛込見附、牛込橋と飯田橋駅。昭和6年頃

 織田一磨氏が書いた『武蔵野の記録』(洸林堂、1944年、昭和19年)で『牛込見附雪景』です。このころは2つの橋があったので、これは下の橋から眺めた上の橋を示し、北向きです。

牛込見附雪景

牛込見附雪景

 なお、写真のように、この下の橋は昭和42年になっても残っていました。

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

 また、牛込橋と関係はないですが、2014(平成26)年、JR東日本は飯田橋駅ホームを新宿寄りの直線区間に約200mほど移設し、西口駅舎は一旦取り壊し、千代田区と共同で1,000㎡の駅前広場を備えた新駅舎を建設したいとの発表を行いました。2020年の東京オリンピックまでに完成したいとのこと。牛込橋も変更の可能性があります。新飯田橋駅

思い出はいつも光とともに|川村克己

[cardboard id=”43605″]

文学と神楽坂

川村克己氏

『ここは牛込、神楽坂』第4号で川村克己かつみ氏が津久戸小学校のことを書いています。
 川村氏はフランス文学者で、1945年、東京帝国大学仏文科を卒業し、立教大学教授を勤め、退職後は新潟産業大学副学長。生年は1922年3月13日、没年は2007年6月14日。享年は満85歳。

 思い出はいつも、光とともにあった。遥か遠くに去った日々が、時折りきらりと光るきらめきを送ってくる。そして失われた時の風景がよみがえる。
 その日、いつも明るいはずの教室には、どんよりとした薄暗い光が重苦しく淀んでいた。いつもは優しい西林先生が、いかめしい顔つきで立っていられる。宿題をやってこなかったひとは立ちなさいと言われ、おずおずと立ち上がった僕の眼には涙が惨み出てきた。
 前の日、学校から帰るとランドセルを放り出し、宿題はないのという母の声をふり切って、毘沙門さまに日暮れまで遊びに出かけてしまったのだ。
 お使いに行かされたのでと言い訳にもならぬ言い訳をか細い声で言ったのに対し、「一日中お使いしていたわけではないでしょう」と問いつめるきびしい声が返ってきた。先生の姿は、灰色のバックに黒々と浮かんで、あふれる大粒の涙の中にゆれる影となって見えなくなった。木造だった校舎の一階の、一年生の教室は、悲しい光に満ちていた。
          §
 雨が降るとそのゆるやかな小松石の石段は、鮮やかな緑色に光るのだった。そこをぴちゃぴちゃとはねをあげながら走り降りるのが好きだった。
 神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんがある。その先は細い路地をへだてて、太白飴名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。
 その頃、折れそうに痩せこけた少年の僕は、いつも遅刻しそうになりながら、パン屋と飴屋の間の路地に駆け込み、突き当たって右に折れる。置屋の並ぶその道が、やがてゆるやかに下る石段となる。いつもはくすんだ色のその石段が、雨に濡れると装いを凝らしたグリーンの色となり、この僕になにかわからない言葉で、語りかけてくるのだった。
 段をおりきって、これもさして広くない道へ出る。そこを左に折れて、真っすぐに、だらだらと下ると、われらが津久戸小学校の門に行き着く。
          §
 新学年のまだ馴染めない教室だけれども、華やいだ光に満ちている。校庭をとりまく桜の木が、咲き乱れる花をつけて、その枝が二階の僕たちの教室の窓際にまでのびている。
 その明るい教室の教壇のわきに見なれない少年が立っている。転校生として先生が紹介されたその子は、僕の前の席に座った。櫛田克己という名で、僕と同じ名なので、すぐ仲良しになった。しかし、何ヵ月かたつと、彼の姿は消えてしまった。また引っ越していったらしい。中学に入ったら、その櫛田と再会し、肴町の鳥肉屋の息子、重田功もまじえ、この三人は長く友達としてつき合った。先年櫛田はこの世を去り、残された二人は、淋しい思いを抱きながらも、時折出会って懐かしさを反芻している。
太白飴

太白飴

小松石 箱根火山の溶岩が急速に固まった安山岩で、特に神奈川県真鶴町でとれるのを「本小松石」という。石の表面を研磨すると、緑がかった灰色の輝く美しい石肌がでる。
はね 跳ねる。はずみをつけて飛び上がる。跳躍する。
太白飴 たいはくあめ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴。
名代 なだい。評判が高いこと。名高いこと。
宮城屋 宮城屋は下図の右から2番目

大正11年頃の「豊島理髪店」から「パン木村ヤ」まで。(「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年。新宿区立図書館資料室紀要4。「神楽坂界隈の変遷」新宿区教育委員会)

大正11年頃の「豊島理髪店」から「パン木村ヤ」まで。(「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年。新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」新宿区教育委員会)

置屋 おきや。芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。芸妓屋。芸者屋。
津久戸小学校 明治37年に開校。酒問屋の升本喜兵衛氏がこの学校を寄付。
櫛田克己 くしだかつみ。朝日新聞の学芸記者。
肴町 現在は神楽坂五丁目
重田功 久保たかし氏が書いた随筆「ふるさと神楽坂」(大久保孝、1994年)で、「重田功」の名前が出てきます。それを除くと、なさそうです。

 私と津久戸小学校の同級生で、早稲田中学へ行った人達は多かった。
 その中で、川村克己君(立教大学の文学部教授でフランス文学者、その後柏崎市にある新潟産業大学の教授になり、今は副学長)、重田功君(サラリーマンを定年でやめたあと、今は横須賀で自然破壊に敢然と立ち上がり、運動を行っている)、櫛田克己君(故人櫛田民雄氏と櫛田ふきさんの息子。朝日新聞の記者として、大佛次郎さんが「天皇の世紀」を執筆されるに当って、つきっきりでお世話をした人として有名)のトリオは、まことにうらやましい仲であった。
 後年、川村、重田の両君がその想い出を書いておられる。

揚場町|町方書上と御府内備考

文学と神楽坂

揚場町・現代

揚場町・現代

 揚場あげばちょうは新宿区北東部にある町名で、飯田濠に面した荷揚げ場があったので、この名前になりました。
 文政9年(1826年)の「町方書上」の揚場町です。「相」という言葉が出てきますが、「相成る」「相変わらず」と同じで、意味は「語勢や語調を整える。意味を強める」ものです。

新宿近世文書研究会『町方書上 牛込町方書上』平成8年。

新宿近世文書研究会『町方書上 牛込町方書上』平成8年。非売品。新宿区立図書館。

牛込揚場町
一 御城之方り、弐拾七町
一 町方起立之年代、草分人之名書留無御座分り不申候得共、往古武州豊嶋郡野方領牛込村之内有之候處、年月不知武家方御屋鋪相成、其後追々拝領町屋相渡、神田川附而山之手諸色運送之揚場相成候付、町名揚場町相唱申候
[現代語訳]牛込揚場町
一 江戸城からは北西の方角で、およそ3kmぐらい
一 町成立の年代や成立時の人々の名前は書きとめはなく、不明ですが、昔は武蔵国豊島郡野方領牛込村の中にありました。年月はわかりませんが、初めに武家方の御屋敷がでてきて、その後、だんだんと拝領町屋もでできました。神田川の側であり、山の手で種々の品物を運送するのが揚場になりました。町名も揚場町といいます。

書上 かきあげ。特定の事項を調査して、下位から上位の者や機関に上申すること。その文書。
 より。平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)
 い。北西よりやや北寄り。北西微北。北から東回りで330°
 新字体は「当」
 おおよそ。ほぼ。大体。
弐拾七町 27町。約3km。
起立 きりつ。都市などを建設すること
草分人 くさわけにん。草分は、江戸時代、荒れ地を開拓して新しく町村を設立すること。従事した者や設立当時からの住民を草分町人や草分百姓という。
書留 書き終える。書きとめる。
無御座 ござなく。ありません。ございません。「無し」の尊敬語、丁寧語。
 動詞に付いて、語勢や語調を整える。意味を強める。
不申候 〜と言いませんでした。
候得共 そうらへども。ではありますが
武州 武蔵国の別称。
豊島郡 武蔵国と東京府にあった郡。概ね千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、練馬区の区域
野方領 地名に武蔵野のように野がつくところが多く、まとめて野方と読んでいた。豊島郡のうち牛込村から吉祥寺村までの広範な部分。
屋鋪 やしき。屋敷。
追々 おいおい。これから徐々に。時間が経つにつれて。だんだんと。
諸色 諸式。いろいろな品物。いろいろな品物の値段。物価。
 しこうして。しかして。そして。順接を表す語。しかも。しかるに。それでも。逆接を表す語。

 次は文政12年(1829年)の「御府内備考」の揚場町です。ほとんど同一なので、訳はしません。

揚場町

(左図)御府内備考。第53~55巻。牛込1~3。揚場町。(右図)大日本地誌大系。第3巻。御府内備考巻54。どちらも国会図書館。

一 町方起立の年代草分人の名書留等無御座相分不申候得共往古武州富島郡野方領牛込村の内に有之候處年月不知武家方御屋鋪に相成共後追々拝領町屋に相渡神田川附に而山の手諸色運送の揚場に相成候に付町名揚場町と相唱申候

夏目漱石の年譜|漱石公園の道草庵

文学と神楽坂

 夏目漱石の年譜は、漱石公園道草庵にあるパネルに上手に描いています。

 出生は慶応3年(1867)。明治23年(1890)、帝国大学文科大学に入学。明治33年(1900)9月、英国留学。明治36年(1903)、帰国。明治38年(1906)『吾輩は猫である』を発表。没年は大正5年(1916)です。
夏目漱石の生涯

慶応3年(1867)2月9日(新暦)夏目直克・千枝の五男として、江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町一番地)で誕生。金之助と命名される。生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるがすぐに連れ戻される。
慶応4年(1868)内藤新宿の名主・塩原昌之助の養子になる。
明治2年(1869)養父母とともに浅草三間町に転居。
明治3年(1870)疱瘡にかかり、溥く痘痕がのこる。
明治4年(1871)養父母とともに内藤新宿に戻り、休業中の妓楼「伊豆橋」に留守番代わりに住む。
明治6年(1873)3月 浅草諏訪町に転居。
明治7年(1874)浅草寿町の戸田学校下等小学第八級に入学。
明治9年(1876)4月 養父母の離婚により塩原姓のまま養母とともに夏目家に戻る。5月 市谷学校下等小学第三級(その後、区立愛日小学校に統合)に転校か。
明治11年(1878)4月 神田猿楽町の錦華学校小学尋常科第二級後期に転校し、卒業。
明治12年(1879)3月 東京府第一中学(一ッ橋中学、現在の日比谷高校)に入学。
明治14年(1881)1月 母・千枝死去。東京府第一中学を中退し、漢文を学ぶため二松学舎に転校。
明治17年(1884)小石川の新福寺(現在の文京区竹早)に下宿。9月 大学予備門予科(後の第一高等中学校)に入学。同級に中村是公・芳賀矢一ら。
明治21年(1888)1月 夏目家に復籍。7月 第一高等中学校本科英文学科に進学。
明治22年(1889)1月 正岡子規と親交を深める。子規の『七艸集』を漢文で批評し、その際はじめて「漱石」と署名する。9月 紀行文集『木屑録』を書く。
明治23年(1890)9月 帝国大学文科大学(現在の東京大学)英文学科に入学。
明治25年(1892)4月 徴兵の関係で分家し北海道に転籍する。5月 東京専門学校(現在の早稲田大学)講師となる。子規と関西を旅行した後、単身岡山を訪ね、再び松山で子規に会う。この時、高浜虚子・河東碧梧桐と知り合う。
明治26年(1893)帝国大学大学院に進学。束京高等師範学校英語嘱託となる(月給37円50銭)。
明治27年(1894)12月 大学院時代からの友人菅虎雄の紹介で、鎌倉円覚寺の帰源院に参禅する。
明治28年(1895)愛媛県尋常中学校の英語科嘱託教員として赴任(月給80円)、教え子の松根東洋城は後に漱石門下、真鍋嘉一郎は主治医となる。子規が帰郷し、漱石の下宿に住む(愚陀仏庵)。12月 貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合いし婚約。
明治29年(1896)4月 熊本の第五高等学校講師として赴任(月給100円)、教え子の寺田寅彦は後に漱石門下。6月 鏡子と結婚。7月 教授に就任する。
明治30年(1897)6月 父・直克死去。
明治31年(1898)7月 熊本市内坪井七八番地に転居する(現在、内坪井旧居として公開されている)。
明治32年(1899)5月 長女筆子誕生。
明治33年(1900)6月 文部省から英語研究のため2年間の英国留学を命じられ、9月横浜から出航(学費年1800円。留守手当年300円)。
明治34年(1901)1月 次女恒子誕生。英文学概論を書く(後の『文学論』)。
明治35年(1902)強度の神経衰弱にかかる。9月 正岡子規没(享年36)。12月 帰国の途につく。
明治36年(1903)1月 帰国。3月 本郷区千駄木五七番地に転居。4月 東京帝国大学英文科講師(年俸800円)、第一高等学校英語講師(年俸700円)となる。11月 三女栄子誕生。この年、神経衰弱が悪化する、
明治37年(1904)9月 明治大学講師を兼任。12月 高浜虚子主宰の「山会」で自作の「猫伝」を朗読。この頃、野村伝四が門下となる。橋口五葉との交流が始まる。
明治38年(1905)1月『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に、「倫敦塔」を『帝国文学』、「カーライル博物館」を『学鐙』に発表。12月 四女愛子誕生。この頃、森田草平・鈴木三重吉・小宮豊隆・野上豊一郎・中勘助らが門下に加わる。
明治39年(1906)4月『坊つちゃん』を『ホトトギス』に発表。9月『草枕』を『新小説』に、10月『二百十日』を『中央公論』に発表。面会日を木曜日の午後三時以降と定める(木曜会)。12月 本郷区西片町十-ろ-七号に転居。
明治40年(1907)1月『野分』を『ホトトギス』に発表。3月 東京帝国大学と第一高等学校の職を辞し、朝日新聞社に入社(月給200円)長男純一誕生。『虞美人草』を連載、9月牛込区早稲田南町七番地に転居(漱石山房、現在の区立漱石公園)。11月 謡を習い始める。この頃、安部能成・林原(岡田)耕三が門下に加わる。この頃より胃病に苦しむ。
明治41年(1908)『坑夫』『夢十夜』『三四郎』『文鳥』を連載。12月 次男伸六誕生。
明治42年(1909)『永日小品』『それから』を連載。9~10月 中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この頃、阿部次郎が門下に加わる。
明治43年(1910)3月 五女雛子誕生。『門』を連載。6月 胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院。8月 転地療養のため修善寺温泉の菊屋旅館に滞在。24日大量吐血し、一時危篤状態におちいる。10月 帰京し長与胃腸病院に再入院。『思ひ出す事など』を連載。
明治44年(1911)2月 文学博士号を辞退。8月 関西講演旅行中に胃演瘍が再発し大阪で入院。11月 雛子急死。この頃、内田百閒・津田青楓が門下に加わる。
明治45年・大正元年(1912)1~4月『彼岸過迄』を連載。12月『行人』を連載(中断を経て大正2年11月完結)。
大正2年(1913)強度の神経衰弱となる。胃潰瘍のため療養する。この頃、赤木桁平・岩波茂雄・和辻哲郎が門下に加わる。
大正3年(1914)4~8月『こゝろ』を連載。胃潰瘍のため療養する。
大正4年(1915)1~2月『硝子戸の中』を連載。3月 京都に旅行中、胃潰瘍を再発。6~9月『道草』を連載。この頃、江口渙・芥川龍之介・菊池寛・久米正雄・咆岡譲が門下に加わる。
大正5年(1916)5月『明暗』を連載(未完)。11月 胃潰瘍が悪化。12月9日 死去(享年49歳)、新海竹太郎によりデスマスクがとられ、鏡子の申し出により東京帝国大学で医学解剖が行われる。12日 葬儀、法名は文献院古道漱石灰士。28日 雑司ヶ谷墓地に埋葬される。