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「新見附」はいつから?

文学と神楽坂

地元の方からです

 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は「江戸城三十六見附」にはなく、民間資本で作られた新しい橋です。明治26年(1893年)の新設許可は単に「新道」でした。
 この橋はいつ完成し、いつごろから「新見附」と呼ばれるようになったのでしょう。
 明治28年7月調査の地図には橋が描かれており、2年足らずで完成したと思われます。しかし牛込門や市ヶ谷門と違い、名前は書いてありません。

東亰市麹町區全圖 新見附付近 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088845/5

 明治31年11月の新撰東京名所図会第17編 麹町区の部・中には「新開道」として出てきます。「名づく」とあるので、これが名前だったとも思われます。

新開道 靖国神社南側の通りを一直線に進み、市ヶ谷に至るの間。堤丘を開窄(開削)し、壕水を埋没し、もって道路とせるところを名づく。(新字・新かなに変更)

 また明治32年6月の新撰東京名所図会第19編では、絵図に描かれているにもかかわらず何も書かれていません。一口坂についても記事がありません。

 明治30年代の地図には新見附自体が描かれていないものが多く、「地元民しか知らない橋」であったようです。
 一転して明治39年8月の新撰東京名所図会第四十三編 牛込区の部・下では地図に「新見附」が明記されます。

 これ以降、他の地図でも新見附が見られるようになります。何が変わったのでしょうか。
 それは路面電車の開業です。東京電気鉄道の外濠線(後の都電3系統)が延伸され、橋のたもとに新見附停留所ができたのは明治38年8月でした。

 新撰東京名所図会の市谷田町の説明にも

電車外濠線往復し、新見附停留所あり。商家軒を連ねたり

と出てきます。
 すでに地元で新見附と呼ばれていたのか、外濠線が新しい名を考えたのかは分かりません。ただ停留所名は公文書にも記載されるため、新見附の名が定着したと思われます。

 新見附の大半は土堤でできた土橋です。大正9年9月30日の暴風雨で崩壊し、橋の下を通っていた中央線の電車(現・JR)が壕側にずり落ちる大事故がありました。崩れた部分から、土中の水道管や電線が見えます。現在は鉄道の上は鉄橋で、昭和4年(1929)7月にかけられました。

一口坂を下りきった新見附交差点から、新宿区市谷田町に向かって、JR中央・総武線を越え、外濠の水を横切っている橋です。明治中頃、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて橋が造られ、旧麹町区と旧牛込区の住民の行き来の便宜が図られました。その結果、外濠は二つに仕切られ、下流の牛込橋寄りは牛込濠、上流の市ヶ谷橋寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。現在の橋は昭和4年(1929)7月6日の架橋で、長さ20.65m、幅11.27mの鋼橋です。
千代田区観光協会

 この説明に従えば、千代田区側の橋のたもとが「新見附交差点」です。ただ外濠通りの信号(新宿区)の交差点名表示も「新見附」とあります。
 牛込見附や市ヶ谷見附の橋が「牛込橋」「市ヶ谷橋」であるのに対し、新見附は「新見附橋」と「見附」が橋の名になっています。

外濠通り「新見附」Google

注:国や東京都、他の道路地図では、外濠通りの交差点を「新見附」交差点と呼びます。また橋は「新見附橋」と呼び、普通「新見附」とは呼びません。

新見附の新設[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂

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 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は、明治期の新しい橋(土橋)から生まれた地名です。旧江戸城の三十六見附ではないため知名度が低く、資料も少ないようです。見附といっても門も桝形もないので、橋全体が「新見附」と呼ばれることもあります。
 東京市区改正委員会が「麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路ノ自費開設願」を審議したのは、明治26年(1893年)9月22日開催の第百号会議でした。

東京市区改正委員会議事録 第6巻81コマ 新見附開設 麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路新設之図

 市区改正は重要度順に、第1等から第5等に分けて道路建設を計画していました。その計画にない「等外」道路を、民間が自費で建設するプランです。「新見附」という名もありません。
 当時の東京府知事は、以下の内容を文書で市区改正委員会に意見を求めました

 新道開設の儀につき、福永儀八ほか22名の者より出願あり。
 麹町牛込両区を貫通する中央枢要の路線にして、将来一般の便益少なからず。かつ新道に要する土積は、目下、牛込門外壕内浚渫等の土、その他不用土を生ずべき見込みもあり。
 この不用土をもって漸次、築設することに致せば、幸いに多額の工費を要せず。工費2,486円余をもって竣工し得べきことに相成り。
 工費は願人その他有志者より悉皆寄付致すべき旨、申し出あり。建物の移転料を要せずして開設し得べき。等外道路幅員4間(7.2m)として開設可と致し候。ご意見承知したく。
新字・新カナで適宜省略

 出願者の代表である福永儀八は、市谷田町で呉服商「あまざけや」を営んでいました。橋の必要は切実だったでしょう。

 新見附橋の大部分を占める土堤が不用土処分場を兼ねていたというのも興味深いでしょう。「牛込門外壕内浚渫」とは、おそらく飯田壕の揚場の舟運のためでしょう。神楽河岸に土砂や石など建築廃材の集積場があったことも、新道の開設工事を容易にしたと思います。
 この提案に対し、委員会では次のように議論されました。

7番委員 牛込市ヶ谷間はずいぶん長きところなれば、道路の新設は誠に賛成なり。
企望(希望)は、俗に一口坂とか言うすこぶる急な坂あるが、この坂を改正(改修)せば便利を増す。この際、ともに坂路を改正せられなば大なる便宜ならんと信ず。
21番委員 本案は最初、牛込区において大いに尽力せられ、麹町区にも内談ありし。
麹町区においても等外道路として取り広げ、馬車等をも通せしむる様したいと、寄付金を募りすでに出願せんとす。その節には可決せられんことを。
新字・新カナで適宜省略

 新道の先、現在の千代田区側は都市計画道路にはないけれど、寄付金で坂をなだらかにする工事ができそうだから許可しよう-ということです。古い地図を見ると、確かに一口坂には大きなガケがあります。

明治東京全図 明治9年(1876)一口坂付近 緑斜線がガケ

 出席者に異議はなく、東京府の決定を「是認」しました。この道路の新設により、外濠は牛込壕と新見附壕に分けられました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

あまざけやと福永儀八氏 市谷田町

文学と神楽坂

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 大正期まで市谷田町にあった呉服商「あまざけや」は、福永儀八氏の経営でした。福永氏は明治時代に、外濠の新見附を民間資金で新設した時の代表者です。

 あまざけやは江戸期から続く老舗で、紳士録や名鑑などに見られます。古典落語にも登場します。「落語の中の言葉」では……

落語の中の言葉138「あまざけ屋」
 実在の「あまざけ屋」は呉服屋で、品揃えが豊富で普通の店では置いていない御殿向の物まで揃えていたという。
「市ヶ谷のあまざけ屋は、御殿向のものが一切揃えてありましたが、あまざけ屋は御用達ではありませんでした。」(三田村鳶魚「御殿女中」春陽堂、昭和5年)
「四谷市ヶ谷にあった呉服の老舗「あまざけ屋」は、店頭に大釜をかけておき、入って来るお客に甘酒を進呈していたことで人気があった。この店の屋号は福永屋であったが、誰もほんとうの屋号を呼ばず「あまざけ屋」で通っていた。(増田太次郎『引札絵ビラ風俗史』青蛙房 1981)」
https://9rakugo-fan.seesaa.net/article/201508article_2.html

 新撰東京名所図会第43編「牛込区の部」下(東陽堂、明治39年8月)33頁に伝説めいた記事があります。

●あまざけ屋
市谷田陶二丁目十四番地、呉服商、福永商店、屋号あまぎけや電話番町一二五。山手の老舗なり、或人云、往時田町の堀端に甘酒売を渡世とする老爺あり、人あり之を憐み、奚すれぞ百年の計を爲さざると、爺、口を開いて笑つて曰く、説くことを止めよ、卿に一女あり、才色優れたりと、幸に愚老に許すあらば請ふ謹んで其誨を聞かむと、其人家に帰り、之を女に謀るに、女頗る喜色あり、即ち之を嫁す、爺少婦を得て同棲し、田町下二丁目に呉服店を開く、日ならずして店頭繁栄し、遂に老舗となれり、是に於てか甘洒屋を屋号とするとぞ。

 この牛込区の部・下には「市谷田町2丁目通り」の写真があります。この並びにあまざけやがあったと思います。

 福永氏は、渋沢栄一会頭時代の東京商業会議所(現・商工会議所)の会員選挙に当選し、委員を務めました。人望もあったでしょう。

 一方、あまざけやは明治28年に伊勢丹に買収されましたが、大正期まで事業を続けました。

 その後、あまざけやにあった「朝日弁財天」は伊勢丹の新宿本店に移され、屋上に祀られているそうです。

屋上の朝日弁財天。(photo: Pochi)
http://pochipress.blog20.fc2.com/blog-entry-82.html

朝日弁財天の由来

旧東京厚生年金病院(写真)昭和44年頃 ID 14154

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14154は、筑土八幡神社の石造鳥居の陰から津久戸町の旧東京厚生年金病院(現在はJCHO 東京新宿メディカルセンター)を撮った写真です。撮影時期は「昭和44年頃か」と不正確です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14154 遠方に津久戸町旧東京厚生年金病院

 鳥居は石段の参道の途中にあり、区内最古として新宿区登録有形文化財に指定されています。

住宅地図。1973年

 鳥居の額束に(見えないが)「筑土八幡神社」が刻印されていて、柱の銘にはコントラストを変えると奉納者は「享保十一丙午歳十一月十五日 従四位下行(豊)前守◯治真人」 と読めます。写真は古い鳥居と現代的な病院建築の対比を狙ったのかも知れません。鳥居のすぐ向こうの金網は、区が昭和41年9月16日に開設した「こどもの遊び場」(ID 7451)を囲むものです。
 東京厚生年金病院の旧本館は、武道館や京都タワーを手がけた建築家の山田守氏の代表作のひとつで、昭和28年(1953年)の芸術選奨で文部大臣賞を受賞しました。
「Y字型のみるからに明るいモダンな病院」(石田竜次郎・和歌森太郎共書「県別・写真・観光日本案内 東京都」修道社、昭和36年)と評されました。屋上の丸い建物は展望室で、その下はらせんのスロープになっています。

東京厚生年金病院 建替説明図。東京厚生年金病院からJCHO東京新宿メディカルセンターに

http://onlyjustfadeaway.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f165.html

 沿革を見ると

時期内容病床数
昭和27年10月病院開設
昭和27年11月整形外科 外科 内科 診療開始66床
昭和28年10月南棟4階58床増設124床
昭和28年10月西棟3、4、5階改造319床
昭和32年9月別館増築290床増床普通510床 伝染6床
昭和33年4月高等看護学院開院
昭和40年10月別館神経科病棟16床増床。伝染6床廃止526床

建替説明図。東京厚生年金病院からJCHO東京新宿メディカルセンターに 赤字の説明は引用元にはない
http://onlyjustfadeaway.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f165.html

 その後、この旧館はY字の一辺ごとに解体・建て直しする難工事によって建て替えられました。沿革に基づけば13年間を要しました。

時期内容病棟
昭和62年6月南棟解体
平成元年10月A棟竣工(本館)地下4階地上8階
平成2年3月西棟解体
平成5年10月
B棟竣工(本館)地下4階地上8階
平成10年1月東棟解体
平成12年3月外来棟竣工地下4階地上1階

 新本館も設計は山田守建築事務所で、屋上に丸い展望室があります。

筑土八幡神社(写真)昭和44年 ID 8255-8256

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255-8256は筑土八幡神社の写真です。撮影時期は「昭和44年頃か」(1969年頃)と不正確です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255 築土八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256 築土八幡神社 庚申塔

 ID 8255について、左手には神輿みこしを格納する神輿みこしくら。その奥には見えないが純米大吟醸「白鷹」の積み樽。明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛は倉庫に白鷹を発見し、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
 境内に駐車車両。筑土八幡の表参道は石の階段。しかし、正面左手の裏参道では車は通行可。
 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。拝殿は昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和38年、氏子の浄財で再建。拝殿前には1810(文化7)年に奉納された狛犬2匹。左は口を閉じた吽形うんぎょう、右は口を開いた阿形あぎょうの狛犬。
 右には社務所。その前に見えませんが、神楽を奏する神楽かぐら殿でん。これも見えない宮比神社。注連しめなわをかけた銀杏が見え、前にある百度ひゃくどいしは百度参りをする時に標識する石。またも見えない庚申塔こうしんとう。右で見切れている手水舎ちょうずやの一部。一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。
 ID 8256は庚申塔こうしんとう。目黒区「歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰」は、「庚申こうしん信仰は暦のうえで、60日ごとにある庚申かのえさるの日に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教え(中略)。人の体内には、三尸さんしと呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった」。この庚申塔では、猿1匹は桃の実を取り、別の1匹は手に持っており、下に男女名10人が刻まれていました。

筑土八幡神社前(写真)昭和41~昭和45年 ID 7161, 7428, 8253-8254, 8288

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7161、ID 7428、ID 8253-8254、ID 8288は筑土八幡神社前の写真です。ID 7161とID 8288とは全く同一の写真でしたので、以下はID 7161しか使いません。撮影時期はID 7161とID 8288が昭和40年代前半、ID 8253-8254は「昭和44年頃か」(1969年頃)と不正確で、ID 7428は昭和45年3月26日で、写真解説は「昭和40年代は、明治以来庶民の足であった都電が次々に廃止された時代にあたる。写真は、3月末の廃止目前に、筑土八幡町を走る都電13系統(新宿駅―岩本町)の様子」でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7161 筑土八幡町 昭和40年代前半

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8288 筑土八幡神社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7428

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8253 築土八幡神社前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8254 築土八幡神社前

 どの写真も左右の道は大久保通りで、都電のレールが敷かれています。横断歩道と信号から右は「筑土八幡町」交差点です。電柱の「筑土八幡町」は路面電車の停留所を示します。信号機にはゼブラ柄の背面板がある一方、横断歩道にはゼブラ塗装をしていません。この場所には、よく似た複数の写真があるので比較します。

 大久保通りのこの区間は、地下鉄東西線建設のため掘り返され(ID 6998)ました。東西線が昭和39年12月に開業後、開削工法の路面は埋め戻され、都電のレール回りも綺麗にアスファルト舗装されています。それ以前は石敷きでした。
 それ以外の細かな違いを見ていきます。一番、新しいのはID 7428です。目立っているのは、右の丘の上のコンクリートの建物に「みことばの家」の看板が出たことです。ここはカトリックの御受難修道会の東京修道院として2017年頃まで使われました。

みことばの家 門柱

 ID 7161は、左の信号機の柱の看板が傷ついて読みにくくなっています。ID 8253-8254はきれいな状態なので、ID 8253-8254の方が古い写真だと分かります。
 また筑土八幡神社の参道脇(階段の途中の石鳥居の右側)に、区が昭和41年9月16日に開設した「こどもの遊び場」(ID 7451)があります。この時に設置した転落防止の金網がID 7161とID 8253-8254で確認できるので、撮影時期はそれ以降です。
 筑土八幡交差点は今も昔も変則五叉路です。商店街のような街灯は見えませんが、高い位置に街路灯があったでしょう。右奥の道は目白通りの大曲付近につながります。ただ新隆慶橋につながる道が開通したのは平成28年でした。
 さらに神楽坂の本多横丁につながる道(三年坂)の出口もここです。

筑土八幡五叉路(都建設局資料に加工)

田口氏「歩いて見ました東京の街05-14-17-1 大曲付近・都電最後の日 1968-09-28

 ID 7428、ID 7161、ID 8253を左から右に見ていきます。

  1. ノームラテックス マツダ HO◯◯(峰岸モータース)
  2. (末広家割烹)
  3. しゃれっと(洋装品)オーダー 承ります<神楽坂>=〇〇ドライクリーニング
  4. 花電車(ID 7428)「新宿駅ー岩本町 が3月27日から廃止になります ながい間ご愛用ありがとうごさいました 東京都交通局」
  5. 看板「通学路です/児童を守ろう」飯田橋ライオンズクラブ
  6. 不明(養神館道場)=みことばの家
  7. 灯籠(奉納、筑戸自治会 新小川町)、筑土八幡神社、参道(石鳥居と額「筑土八幡神社」)、「こどもの遊び場」(田中久一)、唱歌 金太郎 作曲者 田中
  8. 路面電車の駅「筑土八幡町 旅館 筑土/←神楽坂 筑土八幡町 飯田橋→ /週刊朝日 毎週水曜発売」「八月九日◯◯◯」筑戸自治会 横断歩道の旗
  9. パーマ。筑土美容院
  10. 「みんなで歩いているときも一人一人がよくちゅうい 牛込警察署 筑戸自治会」
  11. 8ー20 駐車禁止
  12. ロッテ(菓子)
  13. 電柱広告「歯科 田中」

住宅地図。1969年

紀の善(明治・大正)寿司屋時代

文学と神楽坂

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 神楽坂下の紀の善は、戦前は寿司屋でした。

広瀬光太郎編 東京飲食店独案内 明治23年

 明治23年1月刊行の東京市内の店名・所在地のリストに「神楽町2丁目 花ずし 紀乃善」とあります。明治初期の町域は今と異なり、1丁目は神楽坂通りの南側だけでした。
 明治20年には北側と南側の両方に出現します。紀の善が今と同じ場所だったとしても「2丁目」は納得できます。町域が改まったのは明治20年なので、明治23年の「東京飲食店独案内」は古い情報で出版されたと考えてもいいでしょう。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 また「昭和10年代の神楽坂通り(写真)」では、紀の善はまだ神楽坂の本通りではなく、現在の神楽小路に面していたようです。
食行脚 東京の巻」(協文館、大正14年)に記事があります。著者の奥田優曇華は巻頭言で「生来の食いしん坊ぶりを発揮して、あさり歩いた漫録」として「見たこと聞いたことを、書き綴ってみた」と記しています。なお、適宜新字・新かな等に修正しました。

食行脚. 東京の巻(大正14))82コマ「紀の善」

紀の善(神楽坂)
 花蝶寿司でその名を知られている。
 牛込の牡丹屋敷と言われた旗本のお屋敷から、格別のひいきを受けていた紀の善は、その恩顧を記念するため、牡丹の花に蝶をちなんで、家業の寿司に「花蝶」と名付けた。
 創業の幕を開けたのはおおよそ七十余年前。宮家や諸官庁の御用のほか、古いお得意では本郷の前田侯(爵)、小石川の細川侯(爵)、牛込の酒井子(爵)をはじめ、お屋敷の注文が年ごとに増えてきだした。
 一人前50銭、80銭、1円に分かれ、階下は食卓、2階は小座敷が4室、客のお望みとあれば、これも神楽坂名物のが「こんばんわ…」。(神楽町1-12、電話牛込1343番)

三味線

 さお。三味線の糸を張る部分(ギターではネック)。紫檀棹(したんざお)とは、紫檀の木で作った三味線の棹。転じて、三味線か芸者。

 大正14年(1925年)から70年前はおおよそ嘉永年間(1848-1854)で「文久・慶応年間(1861-1868年)「紀ノ善」創業。口入業」という他の記事と符合しません。
 現在は周知のように甘味処です。

白銀公園(写真)昭和30年代後半と令和2年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6554-6555、7169、13535は昭和30年代後半(1960年代前半)、ID 14916は令和2年(2020年)5月、白銀しろがね公園を狙った写真です。またID 7169は「白銀公園 遊具で遊ぶ子どもたち」としてこのデータベースの写真が紹介されています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13535 白銀公園

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6554 白銀公園

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6555 白銀公園

 昭和18年4月東京市立公園として開園し、「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年、新宿区役所)によれば、昭和25年1月1日、新宿区に移管されました。昭和36年では区20か所のうち面積で5番目(4167㎡)に大きく、牛込地域では1番目でした。ID 13535、ID 6554と6555では、昭和35年にコンクリート製の「石の山」が整備されました。昭和36年、「石の山」と「オーシャンウェーブ」、ブランコ、シ-ソー、はしご各々1つだけで、現在では寒々した遊具です。かわりにベンチ22個があり、区では2番目です。
 ID 6554-6555は晴天で陽差しが強く、ID 13535は曇天のようです。どちらも地面は四角いブロック敷き。子どもは長袖、木々の葉は落ちていて冬ですが、おそらく違う時間の撮影です。

石の山全景「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年、新宿区役所)

「新宿区15年のあゆみ」には当時のカラー写真もあります。「石の山」は石垣や手すりに囲まれています。別の区域ではヤシ科と思える植物は数本並び、樹木は若木になっています。
 当時の様子を国土地理院が公開している航空写真で見ると、園内が4つのエリアに区切られていることが分かります。十文字の道のコーナーの黒っぽく写っている部分が石垣と手すりです。「石の山全景」は下図のカメラ位置からの撮影でしょう。
 この区切りや石垣は現在はなく、園内は平らになっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7169 白銀公園 遊具で遊ぶ子どもたち

 ID 7169の「オーシャンウェーブ」について、地理院地図の航空写真では左にある丸い遊具でしょう。ある人は「かなりのデンジャラスなしろもので高速回転の遠心力に耐え切れず吹き飛ばされる者、わっかと支柱に挟まれる者などケガ人続出で、うちの学校では高学年しか使用できない玄人用の遊具でした」。したがって「石の山」が現在もあるのに「オーシャンウェーブ」は短命だったと思います。
 また、「新宿区15年のあゆみ」(昭和37年、新宿区役所)では、昭和36年、初めて地面を播く時に砂の代わりに砕石ダストを使っています。しかし時期は「昭和30年代後半」だけなので、写真を撮った時点で砕石ダストを使ったのか不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14916 白銀公園

 令和2年5月のID 14916でも「石の山」は健在で、子どもに人気です。青々と木が茂り、全員半袖です。奥にはグローブジャングル、手前にジグザグ平均台が見えます。
 地面は石灰ダストの舗装をしています。これは石灰岩を細かく砕いた砂粒で、それを固めた舗装です。「石灰岩」は「塩化カリウム」を含んでいて、雑草などを取り除いてくれます。
「石の山」は白銀公園の象徴的存在で、意外なシーンにも登場します。

白銀公園 1977年 TV「気まぐれ本格派」第32話

牛込駅の通路新設[明治の市区改正](明治28年)

文学と神楽坂

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 甲武鉄道(現・JR中央線)は明治22年(1889年)に新宿-八王子間で開業。東京市内への延長は外堀の一部を埋め立てる方法を採用し、明治27年10月に新宿-牛込間が開業しました。さらに段階的に工事を進め、明治37年にお茶の水まで延伸しました。
 牛込駅の隣の飯田町駅が終点だった明治28年、甲武鉄道は四谷駅市ヶ谷駅牛込駅3駅の「通路新設」を願い出ます。
 いずれも改札口から別方向への出口の新設で、外堀の土手の使用許可を求めたものでした。牛込駅を分かりやすく加工して詳しく見ます。

 堀端の「停車場道」が、もともと駅と神楽坂を結んでいました。牛込見附の土堤は坂になっていて、橋の部分で鉄道を越えます。駅からは跨線橋で上がり、線路をまたいで反対側に行けるようにする計画でした。
土提 どてい。どて。土を小高くもった土の堤。水や風、敵などを防ぐ。土手どて
跨線橋 こせんきょう。鉄道線路を立体交差で越えるための橋。

 跨線橋である「牛込渡橋」の図面も残っています。向かって左が神楽坂側、右が新設する土手上の出口です。

甲武鉄道市街線紀要(明30年)牛込渡橋

 明治28年6月25日、東京市区改正委員会第118号会議で、この問題を議論します。議事録を読みやすく抜き書きすると

17番委員「通路に当たるところの樹木は何本ほど伐採せらるべきや」
25番委員「樹木にはかからぬはずなり」
15番委員「双方(両側)に通路を設けるに、従来のはいかが(どうする?)」
25番委員「現今は1カ所なるが、便利のため更に2カ所を開くとのこと」
24番委員「本案は別に調査委員にて調ぶる方がよからん。土堤を使用するには美観を損せざる様にとの主意なりしに、かくのごとく見苦しき階段を付しては、それらの点もいかがや」
17番委員「賛成。樹木を伐採せぬとは判然とせぬ。十分調査せらるるよう」

と、今日でいう環境問題から結論が先送りされました。
 調査委員の実地調査の結果、「樹木に支障なき」として原案通りに決まったのは2カ月後の第119号会議でした。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

尾澤薬局(昔)神楽坂4丁目

文学と神楽坂

『かぐらむら』(サザンカンパニー、1998~2018年)の「記憶の中の神楽坂」で尾澤薬局が取り上げられたことがあります。

(『大正初期の神楽坂上、尾澤薬舖 尾澤豊太郎翁追想録』昭和7年) 筑土八幡9番地にあった尾澤良甫の薬舖は、江戸市中で高名な薬種店であり、脈をとらせても当代一と謳われた。明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した。販売も戦略的で、イボ、ホクロ取りという、その頃としては珍奇な売薬を扱うことで「神楽坂尾澤薬舖に行けばどんな薬もある」との評判を得、薬局といえば「山の手では尾澤、下町では遠山」と呼ばれる様になった。大正2年、独立させていた店員、親族の店を、チェーンストアに組織化し、東京医薬商会を設立する。自社工場で大量生産したものを各店に配る方式は、当時においては大変に斬新であった。大正7 b年夏、拡大した事業の整理を行い神楽坂店を譲渡し、払方町19番地に移転後は薬業に専念した。

尾澤薬局 店内(『大正初期の神楽坂上、尾澤薬舖 尾澤豊太郎翁追想録』昭和7年)
 日露戦争後は、長壽丹全治水が売れに売れて、30人の店員が、店先にずらりと並んで後から後からと黒山の様に押しながら立て込んで来るお客を捌いたそうだ。大きな銭函にお金を放り込むチャリンチャリンの音と「いらっしゃいまし」「ありがとうございます」と、挨拶する声は、神楽坂の名物に数えられていた。

 尾澤のもう一つの名物は、中元歳末の七日間に行われる「売り出し」であった。明治41年頃に、日本新聞社主催の神楽坂商店の総合売り出しで好成績だったことに端を発して、単独で行われる様になったという。豊富で実用的な景品(鏡台、反物、火鉢、薬缶、ちり取りなど)を店頭に積み上げ、くじは紅白モナカに入れ、蓄音機で興を添えた。景品が出る度に、伊三さんという店員が見振りおかしく鈴を打ち振って「大当たり、大当たり」と踊るのも売り出しの一風景だった。売り出しが始まると、かなり遠方の店まで薬や化粧品の売り上げが減ったという。
長壽丹 長寿丹。寿命と関係する薬
全治水 皮膚病の薬。効能は「にきび・ぜにかさ・そばかす・しもやけ・ふきでもの・毒虫刺され・いんきん田虫・水虫」

 私は「尾澤豊太郎翁追想録」を引用できると考えて新宿区歴史博物館に行きました。ところが引用はできないものでした。「尾澤豊太郎翁追想録」の中身は「記憶の中の神楽坂」とは無関係でした。おそらく話した人は多分いたと思いますが、普通この本は引用元とはいえません。
 さらに驚く理由がもうひとつ。「記憶の中の神楽坂」のほうが生き生きして、逸話も精彩をだしていたのです。

大久保通りの拡幅[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂


地元の方からです

 牛込区史(昭和5年)によれば、東京市区改正委員会は明治22年(1889年)、「道路の新設拡張が70線」を主体とする「市区改正設計」を決めました。その中に「第四等道路」として次の計画があります。

第三十五、牛込揚場町第二等線より津久戸前町に至り、左折して肴町・山伏町通り、原町等を経て、戸山学校に至るの路線。

 これが後の大久保通りです。「第二等線」は同時に計画した外堀通りを指します。
「市区改正設計」には実現しなかったものも多いですが、大久保通りはおおよそ完成しました。多くの部分は、屋敷や寺社の間を通る細い道を何度かに分けて広げたものです。
 たとえば明治22年4月16日開催の東京市区改正委員会29号会議で「牛込肴町他2カ町道路取拡」を決めています。火事で焼けた跡の再建を許さず、東京府が買い上げる内容です。

当府牛込区牛込肴町今暁消失ニ罹リ候場所ハ市区改正審査ニ於テ第三四等道路ニ決定ノ路線ニ係リ候……

 また明治26年(1893年)には、この時の広い道路を南西に少し伸ばして下水を新設することを決めました。「道幅八間」とあるので14.4メートルです。

 本格的に道を広げる計画は明治26年10月19日開催の第102号会議で決定しました。議第179号の7として岩戸町から現在の牛込柳町まで、議179号の8として柳町から南側(現在の外苑東通り)を拡幅します。予算は両計画合計で5万507円17銭5厘を計上しました。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784706/123
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784706/124
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784706/125

 この3図を結合したものに今の地名を書き込みました。太線または二重線が当時の道、青線は拡張予定の道です。旧・牛込区役所は、道だったところに敷地を拡張しました。

 大久保通りの拡幅計画の図はシンプルですが、牛込北町と神楽坂上の中間付近に線が3本になって分かりにくい部分があります。ここは原資料に間違いがあると思われるので、拡大して修正した図をつけます(下図)。

南蔵院付近 道路台帳

 この修正図と、区が公表している道路台帳を突き合わせると、明治の道路拡幅がしっかり実施されたことが分かります。

南蔵院付近 道路台帳

 大久保通りと外苑東通りは現在、終戦後に策定した都市計画に従って新たな拡幅工事が進んでいます。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

松平定安伯爵の神楽坂邸(昔)神楽坂3丁目

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂3丁目には「出羽様」と呼ばれた大きな邸がありました。邸の主は出雲松江藩の第10代(最後)の藩主であった松平定安で、官位は出羽守、明治維新後は伯爵に叙せられました。私家版の詳細な伝記(昭和9年刊)が残っています。
 この中から、神楽坂邸に関する部分を拾い読みします。新字・新かなに改め、適宜省略しています。
 明治3年10月、旧藩主時代から江戸にあった官邸・私邸の「拝借期限」が向こう3カ月間だと明治政府から通達されます。

 これにおいて東京府内に適当の邸宅を物色し、翌4年8月朔日(明治4年8月1日)に至り、牛込神楽町3丁目3番地(原注。後6番地と改まる)の邸地を購入し、もって新邸を営むに至れり。すなわち該地は旧旗本高木義太郎・筧四郎・押田求馬の邸宅なりしが(中略)その代金として1,755円を交付せり。
 更に隣地武沢楠之助の邸宅を購入してこれを合併せり。(中略)宅地2374坪4勺、崖地105坪4合8勺と定められる。

 買い取ったうち武沢・筧・押田の3邸は「若宮通り」と書いてあります。松平定安は同年9月19日に、この神楽坂の新邸に入りました。
 松平家は続けて、周辺に土地を求めます。

(明治)4年12月19日には、牛込肴町において屋宇1カ所を購入し、これを質貸の店にあて…
 7年12月13日にいたり、牛込岩戸町3番地内において、本邸地に接続せる地所102坪1合6勺ならびに土蔵・納屋を購入し、翌8年3月、同町2番地(原注、鈴木重右衛門所有地)191坪9合7勺ならびに土蔵を購入せり。

 この肴町の「質貸の店」については別に記述があります。

 旧藩士中の東京に居住せる者にとり、幸いにひとつの金融機関を得、おおいに生活上に利便を受くるに至れり。

 つまり家禄を失った旧藩士を救済するための質屋でした。この店は明治9年3月10日に閉鎖し、後に別の場所で続けられました。
 また、この時代の岩戸町は神楽町3丁目の松平邸に隣接していました。ここに邸を広げたのでしょう。現在の三菱UFJ銀行神楽坂支店の裏に当たります。

明治東京全図(明治9年)松平邸付近、「花」は華族

 松平定安伯は、この神楽坂邸を本邸として過ごします。明治5年の年譜には

5月2日、松江邸の鎮守たりし稲荷社および八重垣社を神楽坂邸に安置す。

 とあります。明治16年の「五千分一東京図測量原図」では、松平邸内の最も東側(坂下側)に参道らしきものと、その周辺に社寺がいくつかあります。いずれかが「稲荷社」と思われ、これが見番横丁に今もある「伏見火防稲荷神社」のルーツです。

稲荷社 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

 松平定安伯は一度は養子・直応に家督を譲ったものの復帰、明治15年11月に再び隠居します。

28日、(定安は後継者である)優之丞公をして、神楽坂邸に起居せしめんとし、この日来、同邸に修繕を加えし

 その直後の12月1日、別邸の根岸邸で急逝します。享年48歳。
 実子の優之丞は伯爵を継いで松平直亮と改名。貴族院議員などとして活躍しました。明治25年10月版の華族名鑑(博公書院)では神楽町に住所があります。明治26年3月版では四谷に転居しています。

 神楽坂の「出羽様」の邸跡には明治26年に新たな道路が作られ、芸者屋や料理屋が林立する花街に姿を変えました。それでも中央部に「神楽坂演芸場」があったのは、元が大邸宅だったため比較的まとまった土地が確保できたからかも知れません。牛込町誌 第1巻(大正10年)によれば、神楽町3丁目6番地の2,773.65坪の所有者は松平直亮氏ひとりでした。つまり芸者屋も寄席も地代を納めることで、四谷に引っ越した松平伯爵家の生活を支えていたのです。

牛込町誌 第1巻(大正10年)「神楽坂演芸場」

見番横丁の開設[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂3丁目のうち1番地と6番地は他の番地に比べて広く、宅配便の業者を困らせることがあります。江戸期の大名屋敷などをひとつの番地にしたことが原因と思われます。

明治7年の神楽坂(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

 6番地は旧・松平出羽守の邸で、明治維新後も華族として住んでいたようです。立ち退き後、今もある路地が開設されます。その資料があります。

東京市区改正委員会議事録 第6巻151コマ 牛込区神楽町三丁目民有道路開設 180°回転

 明治26年、現在の見番けんばん横丁と、それに続く三叉路を「開設」したことが分かります。神楽坂通りと「若宮町通り」への出口は道幅「二間半」、途中は「三間」と広くとっています。
 図には「民有道路開設之図」とあります。これが私道を意味するかどうか分かりません。現在の新宿区道路台帳では、この道路はすべて区道です。途中から幅が広くなる様子などは計画通りと思われます。ただ見番横丁の現在の入り口は3.16メートルしかなく、計画の2.5間(4.5メートル)よりもかなり狭まっています。
 もう1点、注目したいのは「六番ノ内 崖」「若宮町通り」という記載です。
 「六番ノ内 崖」のは、南側にある小栗横丁の道ではありません。小栗横丁と見番横丁の間に今もあるガケでした。

新宿区道路台帳 見番横丁と小栗横丁

 つまり松平出羽守の邸のガケ下に民家がありました。崖下は一部を除いて若宮町です。後に、このガケを東側から降りるために熱海湯の階段が作られました。
 また、この図の「若宮町通り」という表記は他の資料に出てきません。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「神楽坂附近の地名」では「出羽様下」と記載しています。ただ位置関係から見て、本来の「出羽様下」はガケ下一帯、現在の小栗横丁の西側入り口付近の民家を指していたと考える方が自然に思えます。

神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

「牛込区神楽町三丁目民有道路開設」は東京市区改正委員会の「報第47号幹事会」で処理し、明治26年10月19日開催の「第102号会議」に報告されました。大久保通りの拡幅を決めたのと同じ会議でした。
 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

 明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)によれば、崖に接したのは道路ではなく等高線でした。

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

出羽様下 「出羽様下」では不明ですが、牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第2号の竹田真砂子氏の「銀杏は見ている」によれば「出羽様」は……

(本多横丁の)反対側、今の宮坂金物店(現・椿屋)の横丁を入った所には、旧松平出羽守が屋敷を構えていて、当時はこの辺を「出羽様」と呼んでいた。だいぶ前、「年寄りがそう言っていた」という古老の証言を、私自身、聞いた覚えがある。

  ただ市区改正の地図に基づけば、旧松平出羽守の屋敷があった時には宮坂金物店の横丁は出来ていなかったことになります。

下宮比町(飯田橋)交差点

文学と神楽坂


地元の方です

 目白通りと外堀通り、そして大久保通りが交わる五叉路を、地元では「下宮比町の交差点」と呼ぶことが多かったと記憶します。
 しかし戦後の地図を見ると、一貫して「飯田橋」と書かれています。この理由を考察しました。

 交差点は全域が外堀の外で、新宿区内になります。隣接する千代田区の地名「飯田橋」は不適当とも言えます。しかしながら、かつては都電の結節点として交差点を取り囲むように飯田橋停留所があったことから、飯田橋と呼ぶことに抵抗は少なかったはずです。

住宅地図。飯田橋交差点 1962

 ひとつの可能性は信号機に交差点名が表示されていなかったことでしょう。単に「下宮比町のあたり」と呼ばれていたことはありそうです。

 もうひとつは、この交差点に1970年代に設置された「飯田橋歩道橋」の住所表示です。田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の写真には大きく地名が書かれています。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-1 船河原橋西詰から 1976-12-02

 実は信号機の交差点名の表示も始まっています。よほど目立たなかったのでしょう。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-2 船河原橋南詰から 1976-12-02 赤囲みが交差点名

 現在でも同様な表示はあるのですが、いくぶん文字を小さするなど誤解を避ける工夫をしているようです。


四谷・市ヶ谷見附の桝形撤却[明治の市区改正](明治32年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 旧江戸城の城門のうち、内郭(内堀より内側)は皇居なので、古い姿をよく残しています。これに対して外郭(外堀沿い)の門は交通の障害になるとして順次、取り壊されました。
 そのうち四谷見附と市ヶ谷見附の桝形の「撤却」資料があります。両案とも明治32年(1899年)8月14日開催の東京市区改正委員会159号会議で異議なく決定しました。

拡大図。青線は撤却を決めた石垣

 両者とも石垣すべてではなく、道路にかかる部分を選んで取り壊します。ただ市ヶ谷見附が旧見附橋の部分に新しい橋をかけるのに対し、四谷見附は旧橋の脇に新たな橋をかける計画でした。つまり門によって橋の位置は昔と違うのです。
 明治37年(1904年)、両門のすぐ外の橋の下に甲武鉄道(現・中央線)が開通します。参考までに市ヶ谷門の図面を回転し、現在の地図と並べてみると、中央線も靖国通りも当時は計画すらなかったことが分かります。

市ヶ谷見附 比較図

 牛込門の桝形撤却は両門より少し後で、残念ながら資料は公開されていません。
 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

靖国通り 両国橋から皇居の北の丸公園、靖国神社、防衛省等を通り、新宿駅北の大ガードまでの延長8kmの道路。この路線は東京中央部を南北に分ける。

飯田濠(写真)昭和27年頃 ID 16566

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16566は、飯田橋の橋から飯田ぼり、遠くは牛込橋周辺までを見たものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 16566 牛込神楽河岸

 発表日時は不明ですが、新宿歴史博物館「新宿の歴史と文化」(平成25年)によれば「昭和27年頃」です。よく似たものとして新宿区役所「新宿區史」(昭和30年)があります。はしけ船の数などから撮影時期は違いますが、周囲の様子はほぼ同じに見えます。

 この当時、神楽河岸には建設廃材の集積所があり、神田川経由で東京湾に運びました。中央に見える掘に突きだした三角と、その向こうの斜めに掘に崩れているように見えるのは、この拠点だった土辰資材置場でしょう。右端の建物は東京都牛込清掃事務所と思われます。
 資材置場の奥には倉庫らしき建物が何棟も並び、その先には大郷材木店もあると思われますが、よく見えません。
 掘にははしけ船をつなぎとめる竹竿のようなものがたくさん立っています。左奥の水面が白く、さざ波が広がるように見えるのは牛込橋の下の「どんどん」から水が落ちているためです。
 中央やや右、屋根より高い位置にメトロ映画の甲板が見えます。その右の建物の屋根にも大きな看板があり、さらに右には2階屋くらいの壁が見えます。
 この2階屋は、位置関係からみて田口氏が撮影した升本酒店の隣の建物であるかもしれません。だとすれば隣に見える大きな看板は軽子坂に面した映画館「銀鈴座」である可能性があります。
 メトロ映画は昭和27年(1952年)1月に開業。「銀鈴座」は昭和33年12月に火災で全焼し、5階建ての銀鈴会館が昭和35年ごろ完成しました。この写真では銀鈴会館は見えないので、撮影時期は昭和27~33年ごろと考えられます。

住宅地図。昭和38年

神楽河岸(写真)昭和51年 ID 474, 11456, 12189

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474とID 12189は昭和51年(1976年)下宮比町のおそらく歩道橋の上から南西の神楽河岸方向を狙ったカラー写真で、ID 11456は昭和51年8月、モノクロ(白黒)写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 474 揚場町神楽河岸界隈

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12189 飯田橋交差点付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11456 飯田橋交差点付近

 手前の目につく街灯は水銀灯かナトリウム灯でしょう。中央は外堀通り。自動車はヘッドランプが丸く、時代を感じさせます。
 外堀通りの町並みはこの当時、右側は下宮比町、左側は神楽河岸だったようです。その後に区境変更や住居表示があり、現在は右側は揚場町、左側は千代田区になっています。

下宮比町→神楽河岸(平成51年)
  1. 東京都水道局神楽河岸営業所
  2. 大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  3. ▶都バス「飯田橋」
  4. 交通局定期券売り場
  5. 空き地
  6. 新宿東清掃事務所

▶は歩道上で車道寄りに看板等がある

  1. 空地。鉄の塀に無数のポスター跡と麻雀店の立て看板
  2. ▶交通信号機「飯田橋」。架線柱
  3. 文鳥堂書(店)
  4. (山)路(飯店)(中華料理店)
  5. 麻雀店とパチンコ店の突き出し看板

住宅地図。1976年

渡邊坂の廃道[明治の市区改正]明治29年

文学と神楽坂

地元の人からです。

 神楽坂から早稲田へ行く途中の「渡邊坂」について、ブログの記事で詳細に検討しています。
 それを裏付ける史料がありました。

渡邊坂廃道

 分かりやすく向きを変え、修正したのが下図です。現在の江戸川橋通りの整備と、周辺の道を廃道にすることが描かれています。

渡邊坂廃道

 渡辺坂の廃道は、東京市区改正委員会の「報第66号幹事会」で処理し、明治29年3月31日開催の「第126号会議」に報告されました。「号」は「回号」を意味します。
 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています

青木堂と木全信次郎氏

文学と神楽坂


 地元の方が主に青木堂と経営者の木全信次郎氏について書いてくれました。

 明治から大正期に通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった食料品商・青木堂の歴史を、経営者である木全信次郎氏とともに追っていきます。
 まず木全氏のプロファイルから。

木全信次郎 靑木堂、洋酒食料品商 東京府平民
 君は東京府平民木全善三郎の長男にして明治二年四月二十二日を以て生れ同十三年六月家督を相続す 洋酒食料品商を營み屋号を靑木堂と稱し直接國税五百八十餘圓を納む【家族は省略】【東京、牛込、通寺町五一 電話番町二七五】
『人事興信録』第3版(人事興信所、明44.4)

 青木堂の開業年は分かりません。ただ明治30-31年と続けて、高額納税者を掲載する日本紳士録(交詢社)に木全氏の名が出ます。この時の住所は通寺町25番地で、ここに青木堂があったと想像されます。
 明治33年ごろ、旧店舗向かい側の通寺町51番地の新店舗に移転し、商売を大きくしました。電話は番町電話局(番)275番を自前で備えました。電話を持つことがステータスだった時代です。
 紳士録に「青木堂」の名と電話が掲載されるのは明治35年です。納税額も増えました。
 データには欠落も多いのですが、以後の木全氏の納税額をグラフ化しました。明治41年からは営業税(現在の事業税)も大きな額です。青木堂は木全氏の個人事業なので、業績が伸びれば納税額も増えます。変動はあるものの、明治末期から大正初期にかけては事業が成功していたようです。

木全氏の納税額の推移

 この時期、木全氏の社会的地位を示す史料が選挙人名簿です。当時は制限選挙で、投票権のある高額納税者が尊敬されました。通寺町の名簿には選挙人として72人の氏名と職業、納税額が記載されています。51番地で「雑貨」を商う木全氏は371円21銭と、町のトップでした。令和初期の貨幣価値だと2,000万円くらいでしょうか 1)。ただ他の町には、もっと高額の納税者がいました。

東京市衆議院議員選挙人名簿(明治45年2月)財務協会

 状況が変わるのは大正5年。木全氏は青木堂を経営したまま「米山サイダ株式会社取締役」に就任しました。事業拡大を狙ったのか、別の目的があったのかは分かりません。大正9年には米山サイダー取締役と青木堂を兼務したまま、過去最高額の納税をしています。

①初掲載 通寺町25(明30) ②「青木堂」電話(▲)取得 通寺町51(明35) ③納税額急上昇(明41) ④順調だった頃(大1) ⑤米山サイダ取締役に(大5)⑥過去最多納税(大9) ⑦納税額大幅減 通寺町57 電話なくなる(大10) ⑧食料品商廃業 米山サイダー社長に 最後の掲載(大11)

 大正10年、状況が激変します。紳士録では莨(タバコ)食料品商は変わらないものの「青木堂」の屋号が消えます。所在地が通寺町57なのは誤植かも知れません。しかし納税額は10分の1に激減し、事業税も電話もなくなりました。事業継続が困難になったと想像されます。
 翌大正11年の紳士録では店が記載されなくなり、木全氏は米山サイダーの社長になっています。店舗ではないので営業税はありません。そして、これが木全氏が紳士録に掲載された最後になりました。
 青木堂の土地所有者を調べると、借店だったことが分かります。富裕だった頃の木全氏が自前の店にしていたら、危機への対処も違う結果になったかも知れません。
 また、大正12年は関東大震災の年としても有名です。青木堂の被害は、あっても、どれぐらいの規模になるのか不明です。すでに閉店になっていた可能性もあります。一般的にいえば、牛込区の被害はほとんどありませんでした。

      ◇

 木全氏が社長になった米山サイダー(株)は清涼飲料水のメーカーで、麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)4丁目1番地に本社がありました。大正13年版の東京市商工名鑑では代表者は「中村喜作」とあり、木全氏が社長だった期間は短かったと推察されます。
 青木堂の跡はどうなったのでしょうか。電話帳や紳士録には通寺町51番地に「小川食品・小川倉吉」の名があります。電話は青木堂とは別の番号です。

 
図・青木堂から小川商店へ。①東京特選電話名簿. 上巻(大正11)青木堂 ②職業別電話名簿. 東京・横浜(大正12)小川商店 ③人事興信録 第8版(昭和3年)小川倉吉

 紳士録や人事興信録によれば、小川倉吉氏は先代と当代の2人がいました。神田で食料品商を営む一方、菓子メーカーの取締役を兼ねていました。同業の青木堂を買収するなどして引き継いだのでしょう。昭和3年の時点では通寺町51に店があったことが分かります。小川氏は昭和16年に菓子メーカー監査役となり、居宅は杉並区に変わりました。戦時下で事業を閉じたように思われます。

      ◇

 青木堂があったのは、遅くとも大正11年(1922年)。廃業から1世紀が経ちました。しかし実は、今も法的には存在しています。法務局の登記情報を「青木堂」で検索すると、次の2つが出てきます。

青木堂 商号登記

青木堂 法人登記

 前者は商標権のみ、後者は会社法に基づく法人で、いずれも有効な登記です。類似商号を認めた最近の法改正まで、新宿区内で「青木堂」という同業の店や会社は設立できませんでした。木全氏が法人を設立したのは、通寺町の青木堂が消滅する2年ほど前。本店所在地も通寺町ではありません。迫り来る経営難を予期し、再起を図る準備をしていたのでしょうか。
 株式会社は一定の期間、登記に変更がないと行政権限で強制解散させられます。合資会社には、その制度がありません。木全氏の青木堂は今後も、ひそかに存続するでしょう。

I) 政府予算の税収を見ると、現在は約12万倍です。
・大正元年度 5億円   ・令和元年度 61兆円(国債含まず)
一方、大正期の物価を見ると、現在は1万倍程度と思われます。
コーヒーやドーナツ5銭   ・アイスクリーム8銭
両者の間を取って6万倍で推定しました。

青木堂(昔)超有名店 神楽坂6丁目

文学と神楽坂


 地元の方が主に青木堂について書いてくれました。

 青木堂は明治中期から大正にかけて、通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった食料品商です。酒や洋菓子、タバコ、西洋雑貨を手広く扱いました。当時の表記はすべて旧字の「靑木堂」です。
 所在地は通寺町24番地から51番地。経営者は木全信次郎氏でした。

青木堂 日本之名勝(明治34年)

 写真は漆喰塗りの蔵造りを思わせる重厚な店でした。左の荷車は「牛込區通寺町/西洋酒/食料品」と読めます。は商標で、店の看板の左右にも描かれています。店内にはガラス瓶や缶詰らしきものが数多く見えます。

     ◇

「日本之名勝」は史伝編纂所の発行による明治時代の写真入り観光案内です。明治34年(1901)発行の第三版「地の部」に青木堂の紹介があります。なお、句読点は補ってあります。

  靑木堂食料品店(
 東京牛込通寺町に在り。和洋煙草、洋酒、罐詰の類いを鬻ぐ。店内甚だ広壮ならずと雖も其繁栄の一事に至つては實に區内第一なり(中略)
 他店に比して多きは二割少も一割の低價なるより客足自から同店に向ふ(中略)
 初め其對側に蕞爾たる小店を開きしより一二年にして其兩隣を併せ有し今は更に其前面に店舗を移して數倍大の擴張をなし終に宮内、陸軍、兩省の用達を務むる(以下略)

日本之名勝(1901)374コマ ⇒

 これから分かることは…
・良品を他店より1-2割安く売って繁盛した
・最初は小さな店を出し、短期間で両隣に広げた
・さらに向かい側に大きな店を開いて移転した
・宮内省と陸軍省を得意先にしていた
 経営者の木全信次郎氏が、高額納税者を掲載する紳士録に初めて掲載された明治30年①は「通寺町25」でした。明治32年②も同じでした。明治35年②「日本之名勝」に掲載されたのは拡張・移転した直後と思われます。

(左)日本紳士録 第4版(明30)交詢社 (中央)大日本商工名鑑(明32)商業興信所(右)日本紳士録 第8版(明治35年)交詢社

 大正時代、販売は順調に進んでいます。

(左)東京区分職業土地便覧 牛込区之部(大正4年)(右)帝国飲食料同業名鑑(大正5年)

 なお、大正5年の「東京ガイド」(写真通信会)は、おそらく広告を兼ねていて、青木堂は「和洋酒」「化粧品雑貨」等の2業種でエントリーしたと思われます。現代のNTTの職業別電話帳(タウンページ)では、費用を払えば複数業種での掲載や、別途の広告掲載ができます。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

      ◇

 大正時代の東京・大阪・京都の観光案内「三府及近郊名所名物案内」の上巻にも記事があります。同書は大正7年が初版で、何度か重版されました。なお、句読点を付け、ルビを省略しています。

三府及近郊名所名物案内(大正7年)54コマ

食料品と靑木堂商店 

 西洋酒、食料品、和洋煙草、雑品の販賣舗として多大の信用を博し山の手随一の評判となつてゐる。(中略)
 何れも確實な物品を選び安價を主眼として販賣してゐる。従って店頭は常に顧客雲集して大盛況を呈してゐる。(中略)
 御進物品は美麗で且體裁を飾り切手も調進し、市内各方面からも電話又は郵便はがきで注文すれば早速配達する(中略)
 宮内省の御用達として用命を蒙つている……

 内容はほぼ同じですが
・電話や郵便で贈答品として発送する
ことが加わっています。読者の注文を期待したのでしょう。

      ◇

 観光案内も宣伝の色彩が濃く、広告費を払って記事を掲載する「ペイド・パブ(記事風広告)」だった可能性が高いでしょう。「宮内省御用達」を前面に出すなど商売上手だったことがうかがえます。

牛込見附と桜の木(大正11-12年)

文学と神楽坂


「牛込見附」の写真について地元の方が解説をしました。

 東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖は、当時の東京市役所公園の手による関東大震災直前の写真集です。「序」には「都市改造ノ業益進」む中で「真景ヲ留」める目的とあります。精細なコピーが国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。
「牛込見附」は第1集4(コマ番号11)で、以下の写真と解説があります。


 麴町區富士見町より牛込神樂坂に通ずる門で、牛込口または牛込門ともいひ、此邊に楓樹があったので俗に紅葉門とも呼んだことがある。寛永十三年幕府が江戸城の修築を諸侯に命じた時、此見附は蜂須賀忠秀が營んだもので、恐らく此時新たに出来た見附と思はれる。今は殆んど舊態を失ひ、僅かに石垣のみに其名残を留めて居る。

 牛込見附については、このブログの別記事で詳細に検討されています。
 ここでは、写真帖の牛込見附の写真を見ていきます。牛込橋は神楽坂の反対側を左手前から上にあがり、欄干がでています。その先の木柵部分は千代田区側で、下を中央線(旧・甲武鉄道)がくぐっていると思われます。正面右の石垣手前に立つ白いポールは鉄道の信号機でしょう。線路らしきものも確認できます。この右側が旧・牛込駅(後に廃止)になります。積雪があるので季節は冬でしょう。
 道路の舗装部分から外れると土手で、右はガケになります。ガケの下は現在のカナルカフェです。土手の電柱の広告は篠崎インキの「万年筆用ライトインキ」。牛込周辺の学生をターゲットとしたものでしょう。
 電柱はたくさん立っていますが、街灯らしきものは見えません。牛込土橋の店もなく、夜は真っ暗だったでしょう。赤井足袋店の赤井儀平氏の回想に一致します。

 土手の中央に桜の木があります。この三股が特徴的な桜は時代を超えて、いくつかの写真に登場します。
・昭和6年 ID 2 飯田橋駅付近より坂上方向
 左端の木で、太くなりました。土手は歩道として整備されました。
・昭和20年 早乙女勝元『東京空襲写真集』
 左端で見切れています。
・昭和37年頃 ID 55-56 飯田橋駅付近より坂上方向
・昭和37年 ID 5993-5994 神楽坂入口をのぞむ
 店ができています。歩道を半分占めるほどの大樹に。
その後、おそらくジャマになって切り倒されました。
・昭和42年 田口氏05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を
桜の木を基準にすると、牛込橋の幅が徐々に広がっていったことが分かります。

飯田橋駅(写真)信号機 昭和28年 ID 13030

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030は、昭和28年(1953年)、飯田橋交差点(当時は下宮比町交差点)から東南から西北を、つまりしも宮比みやび町を見た写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030 飯田橋交差点

 新宿未来創造財団の「新宿風景Ⅱ」(新宿区立新宿歴史博物館、平成31年)では……

120 飯田橋交差点 昭和28年(1953)
左手奥が大久保通りで、かすかに津久戸小学校が見える。左手建物の屋上に見える丸い建物は、東京厚生年金病院。

 
 交差点は五叉路(東西に目白通り、南北に外堀通り、大久保通り)ですが、見えているのは左奥に坂を上る大久保通りだけ。左に立つ電柱の右側に隠れるような黒い影が、説明文にある津久戸小学校の校舎です。
 中央の縦に並んだ信号機は交差点の中の土台の上に立っています。信号機の背面板と土台は注意喚起のゼブラ柄。「自動交通信号機設置記念」の看板は緑門のように青葉で囲まれているようです。読めない文字は自治体名か警察署名でしょう。
 同時期のID 23(昭和27年頃)では、隣接する牛込見附交差点(現・神楽坂下交差点)に信号機が見えません。都内の信号機の多くは戦災で失われました。それが復旧した記念の写真と思われます。
 右上に煙突が2本。手前は「工場」、その奥は「クリーニング」と読めます。この一帯は牛込台地から見ると川沿いの低地です。通りに面して店が並んでいますが、裏に回ると工場や倉庫が多く立地していました。
 大久保通りをバスが何台か下ってきています。交差点に近い黒バスは分かりませんが、少し後ろは都バスと思われます。富士TR014X-2のようです。
 飯田橋交差点は都電3系統が交わる交通の要でした。路面電車は写っていませんが、空中には縦横に架線が渡っています。車道と歩道の間はガードレールではなく歩車道分離柵でした。
 正面のひときわ偉容を放つのは東京厚生年金病院です。昭和27年10月に開設、11月に診療開始。南棟を増設し、昭和28年に完成しました。5階建てで、屋上の丸い建物の下はぐるぐる回るらせん階段でした。35年後の昭和62年に建て替えのため南棟を解体し、平成10年に東棟を解体して旧館の取り壊しが終了。平成26年、東京新宿メディカルセンターに改称。

 以下、左から右に。

    大久保通り手前側

  1. 質王 陣屋 質と金融
  2. 立て看板「横断(歩道)/見」
    大久保通り向こう側

  1. 大野屋武道具店
  2. 第一銀行(現・みずほ銀行飯田橋支店)
  3. や〇處
  4. 〇マニ(ヤマニ飲食店?)
  5. 不明
  6. 建屋越しの看板「旅館タカラ」(多加良)
  7. 不明、2階窓に干し物
  8. 電柱広告「たから」(多加良)
  9. 不明
  10. 山口のパン
  11. 飯田橋ビヤホール 中華料理 キリン
  12. パーマネント (L)ady
  13. 森永キャラメル づぼ屋

下宮比町。人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

赤城神社(写真) 遠望 昭和28年 ID 13029 

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13029は、昭和28-29年(1953-54年)、赤城神社の台地からの遠望写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13029 赤城神社より遠望

 以下は地元の方の解説です。へーっと驚くことばかり。たとえば、台地と上の建物、これってなんでしょう。

 写真左の水平線に早稲田大学の校舎と大隈講堂が見えます。正面の高台は文京区の関口台で、植物に覆われた斜面は現在の文京区立江戸川公園です。明治以来ソメイヨシノの名所として知られ、この斜面に沿って神田川が流れています。
 台地の上はホテル椿山荘です。戦災で三重塔以外が焼け落ちましたが、戦後に椿山荘は建物を再建して昭和28年3月に営業再開しました。ID 12145(昭和36年)の最遠部でも確認できます。
 さらに右側の白い建物は分かりませんが、獨協学園の校舎と思われます。右端の水平線のビルは講談社かもしれません。
 つまり撮影したのは北西方向でした。この台地の眺望を野田宇太郎は「文学散歩」でパリのモンマルトルの丘に例えました。現在はビルですっかり視界が狭まりましたが、ID 14051(平成31年)のように、まだ眼下に「赤城下町」を見ることが出来ます。
 一帯は戦災焼失区域ですが、戦後10年にならないのに家で埋め尽くされています。ただ終戦直後のにわか作りと思われる平屋が目立ちます。煙突が多数あることも印象的です。銭湯ばかりでなく店や会社が自前でゴミ焼却炉を備えていた時代でした。 
 正面手前、細い鉄柱からポールが伸び、最上部に黒っぽい丸い玉がついているものは、恐らく航空障害塔です。夜には赤い光を発したでしょう。赤城台が、それだけ高く感じられていたことだと思います。

ゴミ焼却炉 環境省の「日本の廃棄物処理の歴史と現状」(2014年)を簡単にまとめると

  1. 以前にごみと関係する問題として、河川等の投棄や野積み。排出量の急増。手車での収集のため道路に飛散。ハエや蚊の大量発生。伝染病の拡大。[赤城神社(写真)昭和28年 ID 13029 遠望 もこの頃]
  2. 1954年 「清掃法」制定
  3. 1958年 東京都の第五清掃工場(大型焼却炉6基。生ごみ等の焼却前乾燥。ベルトコンベヤの焼却灰搬出装置。地元に温水給湯サービス)。つまり、ごみの改良がいくつも進む。
  4. 1963年「生活環境施設整備緊急措置法」

航空障害灯 航空機に対し、航行の障害となる高い建物などの存在を知らせるために設置する灯火。昭和35年から高さ60m以上の物件。その以前の高さは未詳。

地下鉄飯田橋駅

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 641は昭和54年(1979年)2月、地下鉄飯田橋駅を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 641 地下鉄飯田橋駅

 飯田橋駅は1964年(昭和39年)営団地下鉄東西線、1974年(昭和49年)有楽町線、1996年(平成8年)南北線、2000年(平成12年)都営大江戸線の駅が開業しました。昭和54年には東西線と有楽町線の駅がありました。
 東西線は複線の路線を2つのホームが挟む相対式、他はホームの両側を線路が走る島式です。したがって、この写真は東西線です。正面の駅員の奥に柱らしきものが見えますが、これは九段下側の出口です。電車は大手町など都心に向けて走ります。

飯田橋駅の東口と西口

 写真で見えるものは…

  1. ホームの番線表示は「1」。読めませんが「大手町・東陽町・西船橋方面」でしょう。
  2. 天井にシーリングファン。まだ駅も車両も冷房化されていませんでした。
  3. 左の壁面に沿って広告付きベンチ、その手前と奥に案内物の掲示ホード。ベンチとボードと間の腰高の四角いものは灰皿、奥にある低い丸いものは中に水が入った吸いがら入れです。営団地下鉄が全駅構内で終日禁煙を実施したのは1988年(昭和63年)でした。
  4. ホームの番線表示の奥は「電車到着時刻表」。その右は電車接近表示で「今度の電車は神楽坂を出ました」
  5. さらに奥は電光式の行き先案内版。次が「西船橋」行き、その次は「快速西船橋」行きでした。
  6. ホーム中央に、視覚障害者向けの誘導路(いわゆる「黄色い線」)。この当時はホームの端を基準に「白線よりお下がり下さい」とアナウンスしていました。

飯田橋駅東口2(写真)昭和51年 ID 480, 11455, 494

文学と神楽坂

 新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の写真ID 480とID 494は、昭和51年8月に飯田橋駅東口と飯田橋交差点を撮った写真です。
・飯田橋駅東口(写真)ID 481~483
・失われた新宿区(写真)ID 484
の撮影で、おそらく再開発前の同地区の様子を記録したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 480 揚場町、飯田橋駅前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11455 飯田橋交差点、飯田橋駅ホーム

 ID 480とID 11455は、飯田橋交差点の西側からを東側を狙っています。左右方向が外堀通り。手前の横断歩道は大久保通り。左側の高架の下が目白通りです。
 歩道橋の右、日除けテントの古い建物はこの当時、新宿区に属していました。後に区境変更で千代田区になります。
 その右は取り壊されて空地になり、フェンスで囲まれています。フェンス越しに見えているのは外堀の向こう岸にある飯田橋駅駅舎の2階部分。その上にはホームの屋根が左右に続いています。駅舎の手前、右の平屋は東京燃料林産の建物でした。一番奥の数棟のビルも千代田区です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 494 飯田橋駅ガード下

 ID 490は、ID 480の左側の歩道橋の上から飯田橋駅の高架ホームを撮影しています。JRの発足は1987年(昭和62年)4月なので、撮影当時は「国電」でした。高架橋の案内看板には「JNR(日本国有鉄道) 飯田橋駅→」と書かれています。駅前のタクシー乗り場は、今も同じ場所にあります。
 飯田橋駅のホームは、この写真の右側に200メートルほど移転し、2020年7月12日に新しく開業しました。今も高架橋は変わっていませんが、すでに写真の部分はホームとしては使われていません。
 撮影位置は新宿区の最も外れで、写っているのはすべて千代田区です。
 なお、現在の飯田橋駅の出入口は、始めの一か所から、変遷の末、北東の出入口と南西の出入口になりました。北東の出入口を東口、南西は西口と呼び、さらに現在は無数の改札があります。

飯田橋駅の東口と西口

  1. 道路標識(最高速度40)大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  2. 陸橋。道路標識「大型最徐行」
  3. JRのプラットホーム。中央線 JNR 飯田橋駅
  4. タクシーのりば
  5. 新聞売り場
  6. チラシ「催眠療法。赤面対人恐怖どもり」
  7. 歩道橋。当時は「エ」の形をしていた。
  8. 交差点。名前は「飯田橋」。縦に並んだ信号機があるが、理由は不明。
  9. 店舗。シームレス(後ろ中央に縫い目のない婦人用長靴下)を販売。
  10. 店舗。立喰いそば 富士
  11. 空地、
  12. 立て看板「〇くださ(い)/ゴミをすてて(は)/いけません/〇〇)
  13. 飯田橋駅駅舎(二階建ての家)
  14. 歩行者用信号機
  15. 東京燃料林産(一階建ての家)

豊来亭?|大正時代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「新宿風景Ⅱ」(新宿歴史博物館、平成31年)に「関東大震災前の神楽坂の西洋料理店・豊来亭」と「震災後の神楽坂の西洋料理店・豊来亭」がでています。個人が提供したものです。なお、関東大震災は大正12年9月に起こりました。

 これについて地元の方は……

「豊来亭」の名は「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」をはじめ各種資料では見かけません。また、この写真では場所を特定できません。ただ26の右ののれんの上の横書き看板は、無理に読むと「洋食屋/豊来亭」のようにも見えます。

 国立国会図書館デジタルコレクションで公開している「職業別電話名簿 東京・横浜」の大正11年版で調べてみました。西洋料理業の項に「寶来軒」があります。新字体なら「宝来軒」ですが、旧字の「寶」は「豊」と誤読しやすいです。

職業別電話名簿 東京・横浜。大正11年

 この店の所在地は「牛、矢来26」-すなわち牛込区矢来町26番地です。現在の地下鉄神楽坂駅あたりですが、ここに「寶来軒」がありました。ただし大正11年の地図では、このあたりは非常に細かく区画されていて、26番地は角地でもないようです。複数の区画に建つ人気店だったかも知れません。

東京市牛込区。大正11年。(地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会)ただし


 では27はどうでしょうか。

「震災後に再建した店の様子」と説明がありますが、そもそも神楽坂は関東大震災では被災せず、それが戦前の繁栄につながりました。
 26が左右に出入り口を持つ角店なのに対して、27は間口が狭く、同じ場所には見えません。27の店名看板は「西洋料理 御〇」「御国洋食部」、正面電柱の左側の看板も「御国洋食部」と読めます。
 さらに店名の左右には「電話本所 五九九一番」と書いてあります。つまり27は本所区(現・墨田区)にあった洋食店で、神楽坂ではありません。本所は関東大震災で大きな被害を受けた地区なので「再建」もしっくりきます。
 なぜ、これらの写真が「豊来亭」になったのでしょう。実は職業別電話名簿の「寶来軒」の隣に「寶来亭」が掲載されています。所在地は「本所、中ノ郷八軒23」-本所区中ノ郷八軒町23番です。
「寶来軒」と「寶来亭」の間にのれん分けなどの関係があったのか、「寶来軒」の料理人が震災後に「御国洋食部」に転職したのか。それとも単純ミスか。真相は分かりません。
 なお関東大震災後の「職業別電話名簿」大正15年版にも「寶来軒」「寶来亭」は両方とも掲載されています。

 矢来町26番地について。昭和初期に矢来町だけが番地の分配や再分配を行いました。もともとは明治35年の「夜の矢来」の訳では「君はどちらから来たのですかと他人に問われて、矢来ですと答えると、その人が二の句を発し、矢來は広い所ですねえと必ずいう。でも、そんなに広い所ではないのです。ただ本鄕の西片町と同様で、一か所、番地のなかは中々広い、家が数百ケ戸もある番地があります」。つまり、旧酒井若狭守の下屋敷です。
 明治時代には下屋敷は巨大で過疎地域になり、逆に庶民は小さな平屋に住んでいました。昭和12年になると、この庶民の町は小さな家屋や店舗が一杯に並んだ地域となり、新しい番地が告示され、下の地図も登場し、そして矢来町26番地はどこにあったのか分からない時代になります。そして、写真26はどう見ても26番地とは違うと感じます。

矢来町。都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年

メイセンヤの変遷

文学と神楽坂

 メイセンヤについて、地元の方がエッセイを書いてくれました。

 このブログには「メイセンヤ」という、現代では聞き慣れない店が何カ所か出てきます。とくに「古老の記憶による震災前の形」の地図には、神楽坂2丁目に「銘仙屋」があり、混乱しがちです。

メイセン屋。古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会

「銘仙」は織物の種類だそうです。ソバを食べさせる店を「ソバ屋」と呼ぶように、単に「生地屋」という意味なのでしょうか。
 国立国会図書館デジタルコレクションで、大正から昭和初期の東京近郊の職業別電話帳が公開されています。この中に「銘仙屋」が出てきます。
 電話帳の右側は「東京特選電話名簿」(三友協会、大正11年)。それによると「銘仙屋平本合資会社」が正式名称で、本社は神田区鍋町13(現・千代田区神田鍛冶町付近)にありました。「第一支店」が牛込区神楽町2-10(現・神楽坂2丁目)、四谷支店が四谷区傳馬町3-18(四谷伝馬町、現・四谷付近)にあったことが分かります。

銘仙屋の比較・昭和10年と大正11年

 左側は13年後の「職業別電話名簿. 第25版」(日本商工通信社、昭和10年)です。銘仙屋平本合資会社の社名は同じで、電話番号478番のままですが、本社は四谷区傳馬町に移っています。また第一支店は「牛込支店」と名を変え、牛込区上宮比町2(現・神楽坂4丁目)に移転したことが分かります。電話番号3143番は神楽町2-10の時と同じです。

 つまり「古老の記憶」は、別の時代の「銘仙屋」の支店を同じ地図上に記載してしまっていると思われます。屋号は商品名そのままの「銘仙屋」で正しく、メイセンを扱う代表的な店だったのかも知れません。
「銘仙屋」は戦後の地図には書かれていません。戦時中になくなったと想像されます。

 メモですが、岡崎公一氏は「神楽坂と縁日市」(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)で、昭和5年頃は、神楽坂2丁目の銘仙屋は大木堂パンに変わり、一方、神楽坂4丁目はメイセンヤのままだとしています。
 また、銘仙という絹織物は優しい色、お嬢様学校の柄、洋風の普段着として、昭和初期に全盛期になりました。
 最後に、漢字の銘仙屋から片仮名のメイセンヤに変わった理由は、おそらくメイセンヤのほうが綺麗で、おしゃれで、粋だったためでしょう。