行元寺の仇討ち|神楽坂

文学と神楽坂

 行元ぎょうがん寺は、元は肴町(現在は神楽坂五丁目)にありました。この行元寺の柳の下で、仇討ちがおよそ250年前にありました。第10代将軍の徳川家治の頃です。
 明和4年(1767年)9月、下総国相馬郡早尾村(現在の茨城県結城郡)で百姓2人が口論になり、組頭の甚内は、百姓の庄蔵を殺しました。しかし、甚内の処罰はなく、5か月以内に甚内本人もいなくなっています。
 それから16年経ち、天明3年(1783年)、庄蔵の長男、富吉(28歳)は行元寺で甚内を発見。甚内(49歳)は御先手浅井小右衛門組同心の二見丈右衛門と称していました。一方、富吉は剣術家の戸賀崎熊太郎の下僕になり、10月8日、富吉は下図で見られるような柳の下で甚内を殺害しました。
 これは「天明の仇討」として有名になり、その結果、戸賀崎氏の門弟は3000人以上に増えたといいます。一方、富吉では、『新撰東京名所図会第41編』によれば、「初根來喜内亦麾下士也、從戸賀崎學、愛富吉爲一レ人、欲延爲臣隷、富吉固辭不就、至是、又欲祿百石」(17頁上)。うーん、よくわからない。好村兼一氏の小説「神楽坂の仇討ち」(廣済堂、平成23年)では「その後、ごろ喜内という旗本に禄百石で召抱えられた」とハッピーエンドに終わっています。

麾下 きか。将軍じきじきの家来。はたもと
臣隷 しんれい。召使い、使用人。

 事件後、「大崎富吉復讐の碑」ができ、表に法華経の「念彼観音力 還著於本人」が描かれ、さらに、法事三十三回忌(文化12年、1815年)には裏面をつけ加え…

  癸卯天明 陽月
  二人 不戴 九人
  同有下田 十一口
  湛乎無水 納無絲
      南畝子 願主 休心

 と行元寺住職の依頼を受け、大田南畝(蜀山人)が記しています。現在、この碑は品川区西五反田の行元寺の中にあります。

[現代語訳]観音菩薩の力を念ずれば かえって自分に報いをうける
  天明3年10月8日  天を戴かざる仇は誰か
  (討つのは)富吉  (討たれるのは)甚内
    大田南畝  安心を願う

念彼観音力 ねんぴかんのんりき。「法華経」の言葉。「観音菩薩の力を念ずれば」
還著於本人 げんじゃくおほんにん。「法華経」の言葉。還って本人に著きなん。「かえって自分に報いをうける」
癸卯天明 天明年間の癸卯年。天明三年
陽月 十月の異称
 8日
二人 天という文字
九人 仇。文章は「天を戴かざる仇は誰か」
同有下田 同の下に田の文字は富
十一口 十一口の文字は吉。文章は「富吉」
湛乎無水 湛に水が無いの文字は甚。
納無絲 納に絲が無いの文字は内。文章は「甚内」
願主 神仏に願をかける当人。ねがいぬし。
休心 心を休める。安心する。

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