神楽坂|大東京案内(3/7)

前は大東京案内(2/7)です。

通りで目貫(めぬ)の大店は、酒屋の万長(まんちよう)、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢(おざわ)、糸屋の菱屋(ひしや)、それらの老舗(しにせ)の間に割り込んで日蓮宗(にちれんしう)辻説法でその店(うた)はれるカグラ屋 メリンス店。山の手一流の菓子屋紅谷は、今では楼上を喫茶部、家族づれの人達の上りいゝ店として評判が高い。

目貫き。めぬき。目抜き。目立つこと。中心的。市街で最も人通りの多い、中心的な通り。
尾沢。尾沢薬局。現在は喫茶店の「Veloce神楽坂店」

菱屋 創業は明治3年(1870)。「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが並んでいます。現在も営業中。
辻説法 道ばたに立ち、通行人を相手に説法すること。カグラ屋メリンス店については、インターネットの「西村和夫の神楽坂」はこう書いています。
http://members.jcom.home.ne.jp/riso-saitama/nishi-kagura.html

古い神楽坂ファンなら忘れてはならぬ店が毘沙門前のモスリン屋「警世文」である。店の主人は日蓮宗の凝り屋らしく、店先に「一切の大事のなかで国が亡ぶるが大事のなかの大事なり」といったのぼりを掲げ、道行く人に「思想困難」とか「市会の醜事実」を商売をよそに論じ、その周りに人だかりができ、暗がりには易者が店を出すといった、神楽坂が銀座や新宿の繁華街と違った雰囲気を持っていた。

実はこの元がありました。大宅壮一氏が書いた「神楽坂通り」でした。

カグラ屋 5丁目で、神楽屋とも。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。
メリンス店 メリノ種の羊毛で織ったところから薄く柔らかい毛織物。モスリン。唐縮緬 (とうちりめん)
楼上 階上。紅谷の場合、1階は菓子屋、2階は喫茶店。大正10年、3階建てに改築。3階はダンスホールでしたが、大震災後は喫茶店に。
4丁目と5丁目2

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和12年

明治製菓白十字船橋屋はりまや等から、よく売り込んだ()(よし)()()鹿()()半玉(はんぎよく)(ねえ)さんなどになくてならない店。今は店がかりもみすぼらしい山本もこゝでの喫茶店の草分(くさわ)けだ。
 カフエ・オザワ、それから牛込演芸館下のグランド女給のゐるカフエの大どころ。田原屋は果実店の(かたは/rt>)らレストランをやつてゐるが、七面鳥とマカロニを名物に一流の洋食を喰はせるので通人間(つうじんかん)に響いてゐる。
明治製菓 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば「明治製菓の神楽坂分店で相當に大きい構へです」と書いてありました。「明治食堂」の場所は5丁目の白十字の左隣で、現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」です。
白十字 新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で大正11年頃から昭和8年は5丁目にあったようです。「大東京うまいもの食べある記」では「白十字の神楽坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同様喫茶、菓子、輕い食事等」と出ています。現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」です。また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば、昭和12年頃は2丁目でした。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
船橋屋 広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では「船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた」。今は「神楽坂FNビル」に変わりました。
はりまや 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば2丁目にあった喫茶店です。10年ぐらい前には「はりまや」のあった場所には「夏目写真館」でした。しかし夏目写真館も引っ越し、現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
緋鹿ノ子 緋鹿ノ子ひがのこ。真っ赤な鹿()()絞り。鹿の子とは模様が子鹿の斑点に似ているところから来た言葉
山本 4丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば、「春月の向ふ側にあつて喫茶、菓子、中でもコーヒーとアイスクリームがこゝの自慢です」。現在は「魚さん」。楽山ビルを正面に向かって右隣りです。
カフエ・オザワ 4丁目。一階は女給がいるカフェ、二階は食堂。現在はcafe VELOCE ベローチェに。
牛込演芸館 現在は神楽坂3丁目のコンビニの「サークルK」に。大正12年(1923年)9月1日、関東大震災の頃は貸し座敷「牛込會館」に。同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。
グランド 3丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば、「野球おでんを看板のグランド」と書いています。現在はコンビニの「サークルK」に。
女給 カフェやバーなどの飲食店で客の接待や給仕をする女性
田原屋 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば、「毘沙門の向ふ隣。果物屋として昔から名の知れた店ですが、同時に山の手一の美味な洋食を食べさせることも、既に永い歴史になってゐます。店先を見ただけでは、どこで洋食をたべるのか一寸判らぬ位ですが、果物の間を抜けて奥へ行くと食堂があり二階は更に落付いた上品な食堂になってゐます』と書いてあります。現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」
日本料理では芸者の入る末よし吉新吉熊橋本常盤指折(ゆびを)りの家。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金など、なかなかの老舗(しにせ)で芸者も入る。さうでないのは鳥料理(とりれうり)川鉄、家族づれの客にはうつてつけの心持のいゝ家。
末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左のイラストで。地図は現在の地図。
吉新
よしん

よしん

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には

相川さん 三尺の路地がありまして、奥に「吉新」という割烹店があった。
佐藤さん ああ、魚金さんの奥の二階家だ。
馬場さん 戦後はね。いまの勧銀(注)のところまでつながっているとこだ。
(注) この勧銀は現在の百円パーキング

百円パーキングは今ではなく、PAUL神楽坂店などに変わりました。

吉熊 箪笥町三十五番「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では「吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。」箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。
橋本

安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。
橋本

現在は石かわ

現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。

常盤 当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」で、常磐と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。上宮比町
紀の善 東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋。
島金 現在は志満金。昔は島金。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。

次は大東京案内(4/7)です。

文学と神楽坂

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