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夏目漱石「それから」|神楽坂

「それから」は明治42年に夏目漱石氏が書いた小説です。
 主人公の長井代助は、悠々自適の生活を送る次男で、その住所は神楽坂。もっと詳しく言うと、地蔵坂、あるいは、藁店わらだなの上で、おそらく袋町に住んでいます。
 藁店など、地名はたくさん出てきても、簡単に忘れてしまいます。なんというか、人間の英知でしょうか。また、この時代の「電車」には、外濠線の路面電車(チンチン電車)と、現在のJR線の中央本線(以前の甲武鉄道)という2つの電車がありました。
 結婚を迫られていますが、本人はその気はありません。ある女性への恋慕がその理由で、まあ、これは大人の恋愛小説ですが、内容について触れるつもりはありません。ここでは問題になるのは場所だけです。
 黄色は普通の注釈、青色の注釈は神楽坂とその周辺のことを表しています。

一の一
 誰かあわただしく門前をけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおのくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。

一の一 「1の1」、つまり「1章1節」です。
俎下駄 男物の大きな下駄

 これはこの本の最初の文です。「神楽坂」はしばらく鳴りを潜め、初めて出てくるのは八章です。
 なお、ここでは青空文庫を基準として使い、部分的に岩波書店の「定本漱石全集」を使っています。

八の一
 神楽坂かぐらざかへかかると、ひっりとしたみちが左右の二階家に挟まれて、細長く前をふさいでいた。中途までのぼって来たら、それが急に鳴り出した。代助は風がの棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、たちまち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子ガラスの打ち合う音が、見る見るはげしくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでいた。その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。すると、突然右側のくぐり戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと云って出て来た。代助はその男の声を聞いてようやく安心した。
 家へ着いたら、ばあさんも門野も大いに地震のうわさをした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかったろうと考えた。(中略)
 その明日あくるひの新聞に始めて日糖事件なるものがあらわれた。

神楽坂 新宿区東部の地名。
日糖事件 大日本精糖株式会社の重役と代議士との贈収賄事件。明治42年4月11日から日糖重役や代議士が多数検挙された。新聞でも報道があった。

ああ地震だと 明治42年3月13日に地震が起きました。漱石の日記では

 三月十四日 日[曜]
 昨夜風を冐して赤坂に東洋城を訪ふ。野上臼川、山崎楽堂、東洋城及び余四人にて桜川、舟弁慶、清経を謡ふ。東洋城は観世、楽堂は喜多、臼川と余はワキ宝生也。従って滅茶苦茶也。臼川五位鷺の如き声を出す。楽堂の声はふるへたり。風熄まず、十二時近く、電車を下りて神楽坂を上る。左右の家の戸障子一度に鳴動す。風の為かと思ふ所に、ある一軒から子供を抱いた男が飛び出して、大きな地震だと叫ぶ。坂上では寿司屋丈が起きてゐた。
 今日も曇。きのふ鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着てゐた。派出に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い。
八の二
 仕舞にアンニュイを感じ出した。何処どこか遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見ようと云う気を起した。神楽坂から外濠そとぼりへ乗って、御茶の水まで来るうちに気が変って、森川町にいる寺尾という同窓の友達を尋ねる事にした。この男は学校を出ると、教師はいやだから文学を職業とすると云い出して、ほかのものの留めるにも拘らず、危険な商売をやり始めた。やり始めてから三年になるが、いまだに名声も上らず、窮々云って原稿生活を持続している。

アンニュイ ennui。倦怠感。退屈
外濠線 旧江戸城の外濠を一周する路面電車。明治37年、東京電気鉄道株式会社が開業。
森川町 現在の文京区本郷六丁目の付近

十の二
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。一寸ちょっと神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからって、云われるもんですからな」
「じゃ又来るんだね」
「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
十の五
 三千代の頬にようやく色が出て来た。たもとから手帛ハンケチを取り出して、口のあたりきながら話を始めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方こっちの方へ出て来てみた。この前も寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日はその積りで早くうちを出た。が、御息おやすみ中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店わらだなを上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体からださわって、息が苦しくなって困った。――

伝通院 文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺。
電車 路面電車、チンチン電車です
本郷 文京区の町名。旧東京市本郷区を指す地域名
藁店 神楽坂の毘沙門堂の西側から袋町の上に行く通り。藁店横町と同じ。江戸時代から藁や藁細工を売る店があった。

十一の一
 新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賤民せんみんだと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。神楽坂へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭にこたえた。

新見付 しんみつけ。現在の地図は「新見附橋」交差点。牛込見附と市ヶ谷見附との間にあった昔の外濠線の路面電車停留所名。
電車 路面電車(チンチン電車)のことでしょう。
招魂社 現在は千代田区九段の靖国神社
番町 靖国神社の南西地域で、現在は千代田区1番町から六番町にかけての一帯。もと江戸城警護の「大番組」の旗本の屋敷があった。
賤民 身分の低い民。下賤の民。
蓄音器を吹かして 平円盤レコードが輸入され、大きなラッパ式拡声器がつき、再生することを「吹かす」といった。

十三の二
 彼は立ち上がって、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。そうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿いてけ出す様に門を出た。時は四時頃であった。神楽坂を下りて、当もなく、眼に付いた第一の電車に乗った。車掌に行先を問われたとき、口から出任せの返事をした。紙入を開けたら、三千代に遣った旅行費の余りが、三折の深底の方にまだ這入っていた。代助は乗車券を買った後で、さつの数を調べてみた。

電車 これも路面電車でしょう

十四の六
 津守つのかみを下りた時、日は暮れ掛かった。士官学校の前を真直に濠端ほりばたへ出て、二三町来ると砂土原町さどはらちょうへ曲がるべき所を、代助はわざと電車みちに付いて歩いた。彼は例の如くにうちへ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。ほりを隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、軌道レールの上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際てぎわに、軽快の感じを得た。その代り自分と同じみちを容赦なく往来ゆききする外濠線の車を、常よりは騒々しくにくんだ。牛込見附うしごめみつけまで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影ひかげを認めた。代助は夕飯ゆうめしを食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。
 約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院でんずういん焼跡の前へ出た。(中略)
 神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店わらだなあがった。
 ひる少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。午飯ひるめしを済ますやいなや、護謨ゴム合羽かっぱを引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。明日此方こっちからく積りであるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達せんだっての事は、まだ父に話さないでいるから、もう一遍よく考え直して御覧なさらないかと云われた。代助は感謝の辞と共に号鈴ベルを鳴らして談話を切った。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出ていると云う返事を得た。代助は雨をいて又坂を上った。花屋へ這入って、大きな白百合しろゆりの花を沢山買って、それを提げて、宅へ帰った。花はれたまま、二つの花瓶かへいに分けてした。まだ余っているのを、この間の鉢に水を張って置いて、茎を短かく切って、すぱすぱ放り込んだ。

津守 津之守坂。四谷区四谷荒木町(現在は新宿区荒木町)と三栄町の境にある坂。
士官学校 陸軍士官学校。陸軍の士官教育を行った。現在は防衛省などが入る。
濠端 外濠の淵や岸。ここでは市ヶ谷見附から牛込見附まで。
砂土原町 牛込区(現在は新宿区)市ヶ谷砂土原町。
電車 外濠線と比較しているので、これは現在のJR東日本の中央線の電車(右図は、水道橋付近を走る甲武鉄道電車)。明治41年から電車運転を開始
安藤坂 小石川区小石川水道町、現在の文京区春日町一丁目と二丁目の間にある坂。
焼跡 明治41年12月、本堂の全焼があった。
号鈴をを鳴らして 電話機に付いたハンドルを回してベルを鳴らし、電話交換手に会話が終わったことを知らせた。
花屋 創業1835年の神楽坂6丁目の「花豊」でしょうか?

十六の四
 狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云って、好加減にして足をいて上った。烟草たばこを吹いて、縁側に休んでいると、門野がその姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯からかった。
 晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。は深く空は高かった。星の色は濃くしげく光った。

門野 代助の書生です。

十六の七
平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と門野に云い置いて表へ出た。強い日が正面から射竦いすくめる様な勢で、代助の顔を打った。代助は歩きながら絶えず眼とまゆを動かした。牛込見附うしごめみつけを這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余りひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場あげば筋違すじかい毘沙門びしゃもんまえへ出た。(中略)
 この前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出たついでに、代助の所へ寄った明日あくるひの朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾えりかざりを持ったまま卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。口元には微笑の影さえ見えた。横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。

平岡 代助の同窓生で親友
飯田町 「飯田橋」以前の町名
飯田橋 千代田区の北端、外堀に架けられている橋。飯田橋駅東部地区。
揚場 牛込区(現在の新宿区)牛込揚場町。古くは神田川の舟着き場で、荷揚げを行った。地図ではここ
筋違 斜めに交差している。斜め。はすかい。
三千代 平岡の妻。代助から恋慕を受ける。
襟飾 洋服の襟や襟元につける飾り。ブローチ、首飾り、ネクタイなど。

「一七の三」で最後の文章です。

十七の三
 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。(中略)
 たちまち赤い郵便筒ゆうびんづつが眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘こうもりがさを四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸おっかけて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とれ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋たばこや暖簾のれんが赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりとほのおの息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってこうと決心した。(了)

飯田橋 これは飯田橋駅東部地区でしょう。
郵便筒 郵便ポストのこと

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈④

 

 去り難い気持であったが、わたくしはそのまま崖沿いの道を西へ歩いた。するとすぐに若宮町の一角の若宮八幡宮の境内に入る。戦災後昔の面影を失い、境内は附近の児童の遊園地になっている。そこを横切って道路に出るとそのまま右へ辿ることにした。その先は(とら)の日(うま)の日縁日でも知られた神楽坂毘沙(びしや)門天(もんてん)の脇から神楽坂通りに出るからである。
 毘沙門天の境内は、折から桜の花の真盛りで、子供連れの女のお詣り姿も見える。しかし境内でどうやら戦前からの面彫を残しているのは、表通りに面したコンクリートの玉垣位である。玉垣には寄進者の名が刻まれて、そのまま貴重な街の記録となっているが、正面入口の玉垣を見ると「カフエー田原屋」の文字がある。カフエーという名は大正時代からの記録で、戦前の神楽坂をわたくしに思い出させた。(中略)
 高い石段のある筑土八幡宮はその左側の筑土神社並んでいたが、今は筑土神社は少し離れた西側の白銀町に移り、八幡宮だけがどうやら昔の面影をのこLている。面影と云ってもそれは正面の高い石段だけで、それを登った境内は大きな銀杏(いちょう)の根株と、その前の猿の絵を浮彫りした古碑や、鉄の用水鉢以外は、本堂も社務所も戦後の再建である。その東側には津久土町の厚生年金病院のビルが、八幡宮を威圧するように高く(そび)えている。
 久しぶりに筑土八幡宮の石段を登りながら、わたくしはこの八幡宮下の柿ノ木横丁にあった薙城(なぎしろ)という下宿屋に、尾崎紅葉文学塾を出て読売新聞に勤めることになった徳田秋聲が、明治三十二年(一八九九)二月からしばらく下宿したことなど思い出していた。しかし柿ノ木横丁という小路など、もう今では夢物語にすぎない。ようやく登り着いた境内の片側に小学唱歌の「金太郎」その他のいわゆる言文一致唱歌の作詞作曲家だった「田村虎藏先生をたゝえる碑」がある。花崗かこう岩の表には「まさかりかついできんたろう」の五線譜が刻まれ、またその下に「田村先生(一八七三~一九四三)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職、言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され、また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」と碑文がある。田村と筑土八幡のゆかりがわからないので、折から社務所から出て来た宮司らしい老人に(たず)ねると、田村虎蔵は晩年八幡宮の裏側高台に住んでいたから、有志によって四年前の昭和四十年に、この碑がここに建てられたのだとわかった。

寅の日 十二支の寅の日。12日ごとに巡ってくる吉日で、特に最も金運に縁がある日
午の日 十二支のうしにあたる日。
縁日 神仏との有縁の日のこと。神仏の縁のある日を選び、祭祀や供養を行う日。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治二十年以後で、ここ毘沙門天がはじまり。
玉垣 たまがき。皇居・神社の周囲に巡らした垣。垣が二重にあるときは外側のもの。
寄進者の名が刻まれて 現在はありません。昔はありました。写真は池田信氏の「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社)から。玉垣には寄進者の名前が載っていました。昭和46年に今の本堂を建て、そこでなくなったのでしょう。   玉垣には寄進者の名前でしょうか、何かが載っていました。しかし、下の現在、左右の玉垣ではなにもなくなっています。写真では左の玉垣を示します。

カフエー田原屋 5丁目の田原屋(1階は果物屋、2階はレストラン)か、三丁目にあった「果物 田原屋」のどちかでしょう。
筑土神社 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現在は千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀って塚を築いたことで「津久戸明神」として創建。元和2年(1616年)、江戸城の拡張工事があり、筑土八幡神社の隣接地に移転。場所は新宿区筑土八幡町。「築土明神」と呼ばれた。1945年、東京大空襲で全焼。翌年(昭和21年)、千代田区富士見へ移転。
白銀町に移り その事実はなさそうです。
厚生年金病院 新宿区津久戸町5−1にあります。現在は東京新宿メディカルセンターと改称。図で右側のビル。左は筑土八幡神社。
柿ノ木横丁 新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』「揚場町」(平成22年)では「(揚場町と)下宮比町との間を俗にかき横丁よこちょうといった。この横丁の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があり、神木としてしめ繩が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからみて、賞賛したので有名になり、そのことから名付いたという」
薙城館 不明です。東京旅館組合本部編「東京旅館下宿名簿」(大正十一年)ではありません。
文学塾 詩星堂とか十千万堂塾と呼ばれました。
宮司 神社に仕え、祭祀、造営、庶務などをつかさどる者の長。
八幡宮の裏側高台 筑土八幡町31番地に田村虎蔵旧居跡があります。

東京俳優学校と牛込高等演芸館

かぐらむら』の「藤澤浅二郎と東京俳優学校」を読むと「東京俳優学校」や「牛込高等演芸館」についていろいろな情報が入ってきます。

藤澤浅二郎と東京俳優学校
神楽坂通りから光照寺に行く地蔵坂の右手の袋町3番地には、かつて、江戸時代から続く、牛込で第一と言われた寄席があった。夏目漱石が通い中流以上の耳の肥えたお客が集まったという「和良店亭」である。明治41年、新派の俳優、藤澤浅二郎は、この場所に、日本で初めての俳優養成所(後に私立東京俳優学校と改称)を開設した。この頃はまだ、江戸時代の慣習が色濃く、歌舞伎役者の地縁や血縁にある人だけが、芝居を行っていた。けれども文学の多様化により従来の型にはまらない、新しい表現のできる俳優が必要とされていた。

「牛込藁店亭」と都々逸坊扇歌
(「和良店亭」の席亭である竹本)小住の夫、佐藤康之助は、娘浄瑠璃の取り巻き「どうする連」の親玉だったと伝えられる。(中略)

洋風二階建ての「牛込高等演芸館」
(佐藤氏は)明治37~8年にはアメリカに遊学し、帰国後の39年暮れ、洋風二階建ての本格的な舞台を備えた「牛込高等演芸館」を新築した。地下に食堂を作り「セラ」という洋食屋を設け、翌年1月には盛大な開館式を行った。今でこそ、食堂の設置は常識だが、まだ、芝居といえば「お茶屋」を通して、という時代だったので人々の目には奇異に写ったという。 藤澤のこころざしを知った佐藤は、演芸館を破格の条件で提供することを申し出た。

東京俳優学校の開設
当初は、(藤澤氏は)西五軒町34番地の宏文学院跡での開校を考えていたが、舞台がないのが懸案だった。佐藤の厚意で、牛込高等演芸館の寄席の時間外を借り切る事になり、準備は順調に進められた。舞台は、間口4間奥行き3間ほどで、広い客席、桟敷付き2階とそれに続く大広間が2部屋。電話も自由に使わせて、舞台裏手奥に中2階の教室も新築してくれた。毎月の家賃は36円だった。生徒の終業年数は3カ年で、入学金5円、月謝は3円である。俳優養成所としてスタートしたが、明治43年3月に「私立東京俳優学校」に改称し、東京市の認可を得た。

入学前後の様子
生徒募集の反響は、予想以上に大きく、入学希望者は250名に上った。志願者は、湯島の藤澤邸で面談を受け、11月4日、選抜された35名に対して入学試験が行われた。午前中に学科:倫理、国学、英語又はドイツ語、午後は、実科:表情、しぐさ、台詞廻し、舞台度胸、役どころ、礼儀作法などが、当代一流の先生が並ぶ中で行われた。最終合格者は23名であった。
授業は11月11日から始まり、28日には客席を使って開所式が行われた。顧問の巌谷小波、新派の大御所や劇壇、文壇、劇評家達がずらりと並び、帝劇、有楽座、本郷座の幹部や、牛込区長、神楽坂警察署長も出席した。

授業の内容と生徒達
毎日、一日7時間、びっしりと行われた。学科は午前中で、倫理学、脚本解説、芸術概論、心理学(衣装や扮装の心理)音楽の心理、日本風俗史、有職故事、日本歴史(講師は前澤誠助:松井須磨子の二番目の夫)英語、フランス語。午後は実科で、藤澤による劇術、日本舞踊と扮装術(市川高麗蔵が、ロンドンから取り寄せたクラークソンの化粧箱を持って来て、英語まじりで化粧やヒゲのつけ方などを教えた)長唄(吉住小三郎)声楽(北村季晴、初子)清元(八木満寿女)義太夫(竹本小住)洋画(北蓮蔵)日本画であった。(中略)

赤字、そして閉校
生徒が30人程度で、月100円にも満たない収入では、家賃と講師陣の車代、事務費を出す事など、とうてい不可能だった。藤澤は、不足を補うために活動写真に出演して毎月100円を学校に入れた。当時、活動写真に出る事は「泥の上で芝居をする」として、舞台俳優からいやがられ、一度活動写真に出た者は再び舞台に立つ事は許されなかったが、藤澤だけは同情をもって許された。映画だけでは足りないので、舞台や巡業に休む間も無くなり、学校に顔を出す機会も減っていった。(中略)。
第2期、第3期の生徒は合わせて十数名に過ぎず、家賃の滞納が続き、ついに佐藤から牛込高等演芸館の使用を断られてしまう。明治44年12月に閉校解散となった。

『ここは牛込、神楽坂』第7号の「地蔵坂」で、高橋春人氏の「牛込さんぽみち」では

この坂の右側に、戦前まで「牛込館」という映画館があった(現・袋町3)。この同番地に、明治末から大正にかけて「高等演芸館・和良店」という寄席があった。この演芸館に「東京俳優養成所」というのが同居していた。

一方、同じく同号で、作家山下武は

牛込館の前身、牛込高等演芸館では藤沢浅二郎の俳優学校が設けられ、創作試演会が上演されたそうだ

西村和夫氏の『雑学神楽坂』では

藁店わらだなに江戸期からだな亭という漱石も通った寄席があった。明治41年に俳優の藤沢浅二郎がそれを独力で高等演芸館に改装して東京俳優養成所を開設し、ここの舞台に立つことは俳優を目指す者のあこがれになり、多くの俳優を育てた

と書いています。ただし「独力で高等演芸館に改装」したのは寄席「高等演芸館・和良店」の佐藤康之助氏でした。藁店(明治39年の地蔵坂。風俗画報。右手は寄席、その向こうは牛込館)

野口冨士男の『私のなかの東京』ではこう説明されています。なお、野口冨士男が誕生したのは明治44年7月です。

藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店という小さな寄席があった。映画館の牛込館はその二,三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五〇年九月30日発行の『週日朝日』増刊号には、≪明治39年の「風俗画報』を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正時代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。

紅谷研究家の谷口典子氏は「かぐらむら」平成25年4・5月第67号で

高等演芸館は、地域に大きな文化交流の場をもたらせたものの、個人で維持運営するには負担が大き過ぎた。藤沢の俳優養成所も経費がかさみ、莫大な負債を抱えて閉校に追い込まれる。高等演芸館は再度改築され、大正三年六月、人々の憧れの的、帝国劇場を参考に豪華な映画館「牛込館」に姿を変えた。しかし、映画もまだ充分な質量のフィルムが確保出来る時代ではなかった。2年後、廉之助は、日活に自宅を含む土地建物をすべて売却すると興行の世界から姿を消した。

牛込館の場所

文学と神楽坂

「牛込館」の場所はどこにあったのでしょうか。

牛込館

ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会で

糸山 石鐵さんの前には映画館があったんですよ
小林 ええ、牛込館ですね
吉野 洋画専門でね
牛込館と都館支店

左は昭和12年の牛込館と都館支店。右は現在で、別の施設になっている

現在の地図と昔の地図を加えると、リバティハウスと神楽坂センタービル2つを加えて「牛込館」になるのでしょう。なお、牛込館の南側の(みやこ)館は明治、大正、昭和初期の下宿で、たくさんの名前だけは聞いたことがある文士が住んでいました。都館は別の場所で行います。

「牛込館」について、細かくは夢をつむぐ牛込館で扱います。

夢をつむぐ牛込館

文学と神楽坂

1975年9月30日、『週刊朝日』増刊「夢をつむいだある活動写真館」で牛込館について出ています。初めて神楽坂の牛込館の外部、内部や観客席も写真で撮っています。

 

週刊朝日 むかしの映画館は、胸をわくわくさせる夢をつむぐ(やかた)であった。暗闇にぼおっと銀色の幻を描いた。
 東京・神楽坂にあった牛込館もそういった活動写真館の一つだった。もちろん、今は姿かたちもない。写真を見ると、いかにも派手な大正のしゃれた映画館に見える。
 これを、請け負ったのは清水組。その下で働いていた薄井熊蔵さんが建てた。薄井さんはことし五月、九十四歳で亡くなった。できた当時のことを、聞くすべもない。さいわい、つれそいの薄井たつさん(八四)が世田谷の三軒茶屋近くに健在だときいて訪れた。
「さあね、大正十年ぐらいじゃなかったかね。そのころ広尾に住んでましたけど、いい映画館を造ったのだと言って、そのころ珍しい自動車に乗せられて見に行きましたよ、ええ。まだ興行はやってなかったけど、正面玄関とか館内にはいって見てきましたよ。シャンデリアつて言うのですか、電灯のピカピカついたのがさがっていましたし、たいしたもんでしたよ。行ったのは、それ一回でしたけどねえ」
 なんでも当時の帝国劇場を参考にして、それをまねて造ったというのだが……

観客席

観客席


帝国劇場のことが少し入り

 この牛込館が十年ごろ完成したことになると、震災の時はどうだったのか。あるいはその後ではなかったのか。たつさんの記憶もたしかではない。もっとも神楽坂方面は震災の被害は少なかったともいわれるが……
 文士が住んだ街
 昭和の初期、この館を利用した人は多い。映画プロデューサー永島一朗さんも、そのひとりだ。
「そうねえ、そのころ二番館か三番館だったかな。私は新宿の角筈に住んでいて、中学生だったかな、七銭の市電に乗るのがもったいなくて、歩いて行ったものですよ。当時は封切館は五十銭だったが、牛込館は二十銭だった。新宿御苑の前に大黒館という封切館がありましたよ。
 どんな映画を見たか、それはちょっと覚えてないなあ。牛込館はしゃれた造りではあったが、椅子の下はたしか土間だったですよ」
 おもちや研究家の斎藤良輔さんも昭和五、六年ごろから十年にかけて早稲田の学生だったので、ここによく通ったそうだ。
「なんだか〝ベルサイユのばら〟のオスカルが舞台から出てくるような、古めかしいが、なんだかしゃれた感じがありましたよ。そのころ万世橋のシネマパレスとこの牛込館が二番館か三番館として有名で、われわれが見のこした洋画のいいのをやっていました。客は早稲田と法政の学生が多かったな。神楽坂のキレイどころは昼間も余りきてなかったな。ちょうど神楽坂演芸場という寄席ができて、そこに芸術協会の金語楼なんかが出ていて、そっちへ行ってたようだ」
 この神楽坂、かつては東京・山の手随一の繁華街で、山の手銀座といわれた時代があった。昭和四年ごろから、次第にその地位を新宿に奪われていった。関東大震災前から昭和十年にかけて、六大学野球はリーグ戦の華やかなころ、法政が優勝すると、軒なみ法政のちょうちんが並び、花吹雪が舞った。早稲田が勝てば、Wを描いたちょうちんで優勝のデモを迎えた。
 また日夏耿之介三上於莵吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などの文士がこの街に住み、芸術的ふん囲気も濃く、文学作品の舞台にもしばしばこの街は登場している。
 だから、牛込館はそういった街の空気を象徴するものでもあった。
 明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向こうに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。
 かつての牛込館あとをたずねて歩いた。年配のおばあちゃんにたずねると、土地の人らしく、「ええ、おぼえてますとも」と言って目をかがやかせる。空襲で焼かれるずっと前に、牛込館はこわされて、消えて行った。そのあとに、今も残っている旅館が二軒。それがかつて若い人たちが、西欧の幻影を追いもとめた夢まぼろしの跡である。

二番館 一番館(封切り館)の次に、新しい映画を見せる映画館

写真は最初の1枚を入れて4枚。牛込館

牛込館内部

牛込館の内部

牛込館の前に記念撮影

牛込館の前で記念撮影

映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館

神楽坂一平荘

文学と神楽坂

一平荘2015年1月2日から12日まで日本橋高島屋で川瀬()(すい)展が開かれました。そこで「神楽坂一平荘」の木版画も出ていました。「神楽坂一平荘」が出るのはこんな展覧会では初めてだといいます。沢山の木版画の中で小さな画なのにちょっと胸を張って出品していました。日本の作品集にも出たことはないそうです。

大体、こんなことが書いてありました。

「昭和東都 著名料亭百景」
昭和15年8月16日、加藤を仲介として多田に会い、牛込、両国、池之端、神楽坂の料亭「一平荘」を版画として製作した。これが「版元 多田鉄之介」、制作は加藤潤二と考えられる「昭和東都著名料亭百景」である。著名料亭百景とはいえ、実際に制作されたのは巴水の記録から両国、神楽坂、池之端の3図が可能性が高い。

 <神楽坂一平荘> 一般初公開!
写真図版等により作品の存在自体は知られていたが、過去展覧会等に出展した記録はなく、今回の日本橋高島屋の展覧会が一般初公開。

こちらは有名な「芝増上寺」です。芝増上寺

実際の一平荘はここです。

都館|文士が多し

文学と神楽坂

サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、サトウハチロー氏が都館に住んでいた宇野浩二氏を崇拝していたと言っています。

牛込郷愁(ノスタルジヤ)
 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈(けんとう)をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

袋町|日本出版クラブ会館

文学と神楽坂

 日本出版会館と日本出版クラブ会館は牛込城があったとされる光照寺の正面に並んで建っています。

 日本出版クラブは、「出版界の総親和」という精神を掲げ、1953年9月に設立されました。1957年8月、 日本出版クラブ会館が落成しました。創設60周年を迎える2013年、一般財団に移行しました。財団法人・日本出版クラブが運営し、一般の方でもレストランや宴会場、会議室など複合施設で利用が可能です。

 隣りは日本出版会館。財団法人・日本書籍出版協会が入り、著作権の問題や違法コピーへの対策、読書離れなど、高度情報化社会の発展により生じる新たな問題への対応も行っています。1957年(昭32)、181社が参加して日本書籍出版協会を設立しました。出版会館

 ここには大きなイチョウの木がたっています。その前には

新宿区保護樹木
樹齢250年以上のイチョウの木。戦時中。焼け野原となった街にこのイチョウが焼け残っており、それを目印に被災した人々が戻ってきたといわれています。幹には戦災の時の傷(裂け目)が残っており、そこからトウネズミやケヤキが生えており、生命力を感じさせます。イチョウやシイの木は水分を多く含むため、焼失せず残った木が今も数多く区内に存在しています。(新宿区平和マップより)

その上には、現在は何もないのですが、13年初めまで、この土地の歴史の変遷が書いてありました。

「新暦調御用所(天文屋敷)跡」 新宿区袋町六番地
この土地の歴史の変遷当地は天正十八年徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の1部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保2年居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。
 その後、歌舞伎・講談で有名な町奴頭幡随院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎左衞門に殺されたとの話も伝わるが定説はない。享保十六年四月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召上げられさら地となった。明和2年当時使われていた(ほう)(りゃく)(れき)の不備を正すため、天文方の佐佐木文次郎が司り、この火除地の1部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和6年に修正終了したが、天明2年近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。佐佐木は功により、のちに幕府書物奉行となり、天明7年八十五歳で没す。墓は南麻布光林寺。以降天明年中は火除地にもどされ、寬政から慶応までの間、2~3軒の武家屋敷として住み続けられた。
 弘化年中には御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わることはなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和二十年の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。
 戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、昭和三十年日本出版クラブ用地となり会館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴 を発見、牛込城の遺跡・江戸城と関連などが話題となり、工事が一時中断した。昭和三十二年会館完成現在に至っている。
  2007(平成十九)年1月
       平木基治記(元文藝春秋)
        ”天文屋敷とは?”……パンフレット あります。
              出版クラブ受付まで

光照寺 光照寺はここに。
定説 実際は定説があり、ないのが間違い。詳説は幡随院長兵衛について
火除地 火除地について
新暦調御用所 浅草天文屋敷について書いています
一平荘 一平荘について、巴水の絵が綺麗
高校 一平荘は税金が払えなかったため、高校に代わりました
横穴 由比正雪の抜け穴ではと大騒ぎになります。切支丹の仏像について

また『拝啓、父上様』の第10話で、こんなエピソードを書いています。

出版クラブ
  お引き()め。
  集まっている人々。
 り「その日は神楽坂の新年会に当たる “お引き初め”が出版クラブであり、その流れで“坂下”も忙しかった。
 

テレビででるのはほんとうに一瞬です。
出版クラブ11

文学と神楽坂

袋町|火除明地と新暦調御用所

文学と神楽坂

火除(ひよけ)明地(あきちは、江戸時代、火事の延焼を防ぎ、避難所として設けた空き地です。

幕府は1657年の明暦(めいれき)大火以後、特に享保期(1716~1736)に、多くの火除地を作りました。町民の火除地では当初は防火機能だけでしたが、18世紀には次第に庶民の都市活動の場として火除地の利用は盛んになりました。一方、武家地に立地する火除地では馬場、御放鷹の場、官有稽古場、袋町では御鉄炮稽古場が作られていますが、眺望の良い場所以外には賑わった空間ではなかったようです。

測量
宝暦13年(1763)、日蝕の記載に漏れがあり、明和元年(1764)、幕府は佐々木(ささき)文次郎(もんじろう)天文方(てんもんがた)に任命し、翌2年、光照寺門前の火除明地に「新暦(しんれき)調(しらべ)御用屋敷」をつくっています。いわゆる天文屋敷です。明和8年(1771)「修正宝暦暦(ほうりゃくれき)」を完成しました。しかしこの天文台の木立は茂り、不都合が出て、天明二年(1782)、牛込藁店わなだな(現袋町)から浅草鳥越とりごえに移っています。

北斎浅草天文台は葛飾北斎「富獄百景・鳥越の不二」にも出ています。天文方は編暦・天文・測量・地誌・洋書翻訳を職務として、当時の学問の最先端を行く所でした。この球体は天体の角度などを測定する「渾天儀こんてんぎ」から黄道環こうどうかんを取り、簡略化したもので、「簡天儀かんてんぎ」といいます。

手前の屋根の下には、天体の高度を測定する「象限儀しょうげんぎ」があります。たぶん、牛込藁店もほぼ似たような屋敷だと思います。

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袋町|幡随院長兵衛

文学と神楽坂

袋町の一平荘が建っていた場所は、はたして(ばん)(ずい)(いん)(ちょう)兵衛(べえ)が殺された場所なのでしょうか? 一平荘はそういっていたようですが。結論を言えば違います。

幡随院長兵衛は江戸時代の町人で、生まれは元和8年(1622年)、死亡は明暦3年7月18日(1657/8/27)です。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖とも言われました。彼と水野(みずの)十郎(じゅうろう)左衛門(ざえもん)はどちらも「かぶきもの」でした。ウィキペディアによると「かぶき者もの(傾奇者・歌舞伎者とも表記)」とは「戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮で、異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと」です。

また東京都教育庁生涯学習部文化課の『東京の文化財』で文化財講座「かぶき者の出現と幡随院長兵衛殺害事件」についてこう書かれています。

(「かぶき者」は身分の低い中間・小者・草履取・六尺など武家奉公人を指すのが普通ですが)同様の意識と行動をとった旗本もおり、彼らは「旗本やっこ」と呼ばれ、四代将軍家綱の時代には古屋組・鶺鴒せきれい組・大小神祇じんき組などのグル一プを結成していました。一方、町人の間からは旗本奴に対抗して「町奴」が生まれ、唐犬組・笊籬かご組などが組織されました。
 両者は江戸市中を横行し対立を深め、特に三千石の旗本、水野十郎左衛門が町奴の幡随院長兵衛を斬り殺した事件は、両者の対立の激しさを物語るものとして有名です。
 その殺害事件は明暦の大火から半年たった明暦3年(1657)7月18日に起こりました。水野十郎左衛門の町奉行への申し出によると、その日、水野の屋敷に幡随院長兵衛が来て、遊女町に誘ったが、水野が用事があるので断わると、臆病者のような無礼な言い方をしたので、斬り捨てたというものでした。これか記録に残るこの事件の全容ですが、水野の言い分しか残っていないので、事件の真相は不明です。しかし、一説には長兵衛と水野十郎左衛門とが鞘当(さやあて)をして、長兵衛に恥をかかされた水野が恨みに思い、長兵衛を自宅に招いて風呂に入れ、裸になったところを搦め取り殺害したという話も伝えられています。
 この事件は武士こ対する町人の抵抗を示すものとして、のちに芝居や講談で美化され人気を博し人々によって語り継がれてきています。しかし幡随院長兵衛の事蹟や伝記については確実な資料が乏しく彼の経歴は不明なところが多いのです。

歌舞伎では、これを元にして「幡随院(ばんずい)長兵衛(ちょうべえ)精進(しょうじん)俎板(まないた)」や「極付(きわめつき)幡随(ばんずい)長兵衛(ちょうべえ)」などを作りました。

この一平荘が建っていた場所は殺害があった水野屋敷が建っていた場所だと言われました。しかし、渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』が正しいのです。水野屋敷が建っていた場所はこの本によれば別で、西神田1丁目11番地なのです。しかし、殺害の場所、西神田1丁目11番地は現在なく、西神田小学校も西神田コスモス館になりました。まあ、水道橋に近いところで殺害し、ここ神楽坂や袋町ではなかったと覚えておけばいいでしょう。