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善国寺(写真)平成22年 ID 13351

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13351は平成22年(2010年)3月に、神楽坂4丁目にあるちんざんしゃもんてんぜんこくを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13351 神楽坂毘沙門天

 車道はアスファルト舗装、側溝はL型で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色で意味は「駐車禁止」。歩道もアスファルトのインターロッキング(interlocking)ブロック舗装。
 街灯は戦後4代目で、水銀と高圧ナトリウムの2つのランプ。この街灯は令和4年に更新され、古い街灯が本堂前の境内灯として再利用されました。続いて三角コーンがあり、次の標柱の内容はここで解説しています。
 石囲いは無地で、左端に「毘沙門寄席」の看板があります。ちなみに神楽坂毘沙門寄席の第一回は2005(平成17)年11月、22年7月では50回以上だそうです。看板は「七日の出演者」、<昼席 十三時半開場 十四時開演>は五街道彌助、三遊亭遊雀、柳家喜多八、<仲入り>、松旭斉 美智 美登、柳家花緑。<夜席 十八時開場 十八時半開演>古今亭菊六、金原亭馬遊、柳家さん喬、<仲入り>、三遊亭小円歌、林家たい平。下に行って<十三日の出演者 出演順>春風亭一之輔、入船亭扇辰、柳亭市馬、林家正楽、古今亭菊之丞、立川らく次、三遊亭白鳥、古今亭志ん輔、柳亭小菊、立川志らく、<十四日の出演者 出演順>柳家三之助、桃月庵白酒、林屋正雀。その右側に白と青のポスターが2枚、「墓地売出中」と読めます。門前を歩く人は背広、ダウンジャケット、上着を手に持った人などで、肌寒かったと想像します。
 赤い山門は平成6年(1994)に作られたものです。梁の間に「毘沙門天」「善國寺」の提灯が多数。左側の門柱には「毘沙門天」、右側の門柱は「善國寺」と銘板「神楽坂興隆会」。
 山門を潜り、境内にはいると 左の青銅色の屋根は浄行菩薩。境内灯は街灯とは違い、傘と円筒形の照明でした。本堂前の2体の石虎(右は阿形あぎょう、左は吽形うんぎょう)。その右に読めない看板、さらに右には石虎を描いた絵馬やおみくじを結ぶ棚があり、さらにその上は藤棚で、境内はアスファルト舗装されています。さらに右、門脇の石囲いの中はしだれ桜ですが、こちらもシーズン前です。
 最後は本堂(左、おみく[じ]と読める)と庫裏くり(右、住職や家族の住む場所)です。本堂と庫裏とは渡り廊下でつながっています。また庫裏の受付でおみくじが買えます。

神楽坂で「毘沙門寄席」を旗揚げ|三遊亭金翁

文学と神楽坂

 三遊亭金馬(4代目)氏が「金馬のいななき」(朝日新聞。2006年)の中で、昭和46年、毘沙門寄席という落語会を立ち上げたと書いています。金馬(現在は三遊亭金翁きんおう)氏は令和で唯一の戦中入門の落語家です。1970年『淀五郎』で芸術祭賞優秀賞受賞。ほかに古典落語の演目では『薮入り』『茶の湯』、正月しか口演しない『七草』など。生年は昭和4年(1929年)3月19日、没年は令和4年8月27日。

 昭和46年(1971)10月に神楽坂の「毘沙門寄席」を旗揚げしました。
 神楽坂をあがっていったところの左側にあります毘沙門天、ご縁日で有名なお寺さんで、正確には鎮護山善国寺と言います。文禄4年(1595)に創建された大変に歴史のあるお寺で、神楽坂のシンボル的存在ともいえます。
 この毘沙門さまの本堂が昭和46年に再建されまして、建物の半地下の部分に40畳ほどのホールができたのです。地元の商店街のみなさんが、ここのホールを利用して、寄席を開いてみたら、と発案されまして、私のところへ話がきたのです。
 商店街のみなさんとは以前から親しくしていましたので、すぐに実行することにしました。
 神楽坂は、毎月、五の付く日が毘沙門さまの御縁日で人出があります。
 そこで、5日、15日、25日の三日間、定期的に落語会を開くことにしたのです。名付けて「毘沙門寄席」。
 ところが、お寺のホールであろうと、定期的な興行をするとなると、消防署や保健所の許可が必要になります。その手続き――申請や運営管理――がなかなか煩雑でしてね。ご住職を煩わせるのは申し訳ないので、私か責任者になって興行をはじめることにしました。
 商店街の皆さんは、座布団、引き幕、のぼりなどを用意してくれまして、準備はととのいました。
建物の半地下の部分 「神楽坂伝統芸能―神楽坂落語まつり」から

 のぼり。旗の一種。長辺の一方と上辺を竿にくくりつけるもの

 5の付く日は毎月3回ありますから、まず5日は本牧亭で続けていた創作落語会をここに引っ越して、開くことにしました。
 15日は、若手中心の勉強会。
 25日は、私の独演会「金馬いななく会」をネタ下ろし中心に開くことにしました。
 私はこの3回の興行の責任者、プロデューサーでもあり、しかも会は10日おきにやってくるのです。まったく若かったからできたのでしょうね。
 毘沙門寄席の運営に関しては、家族にもいろいろ助けてもらいました。
 かみさんが、収支一切を管理してくれまして、出演料の支払いから、入場税の納付などを受け持ってくれました。当時の入場税の制度というのは大変に面倒で、あらかじめ官許の切符を購入して、それが何枚売れました、何枚残りました、と事後に届けなくてはならないのです。かみさんはよくやってくれました。
 また、簡単な売店を設けまして、そこで煎餅や飴なんかを売りました。これは娘の役で、いい小遣い稼ぎになったようです。
本牧亭 1857年(安政4年)、江戸上野広小路に軍談席(=講釈場)本牧亭を開場。1876年(明治9年)に閉場し、代わりに鈴本亭(後の鈴本演芸場)が同じ上野に作られた。1950年(昭和25年)、鈴本演芸場の裏に、本牧亭は再建。日本で唯一の講談専門の席で「講談バス」を走らせたり、「講談若い人の会」を開くなどして、多くの講談師や愛好家を育て、講談の普及発展に大いに貢献した。2011年9月24日閉場。
官許 かんきょ。政府から民間の団体または個人に与える許可。落語などについては、現在興行場法で決められています。港区みなと保健所の「興行場法の手引」では

 昭和48年のお正月には初席を6日間、毘沙門さまでやりました。初席に関しては落語協会に協力してもらいまして、なるべく賑やかなメンバーを揃え、私がトリをとりました。
 ただ、お客様の動員に関しては苦戦しましたね。先に人形町末広のときにもお話ししましたが、神楽坂も夜間人口が少なくなってしまい、夜に町をぶらぶらしているような人があまりいないのです。
 元日など、昔の商店街は夜明かしで商売をしていたものですが、いまは店を閉めて、どこかに行ってしまう。商店もビルになり、主人が通いでやってくる――。小地域での寄席というものが成り立ちにくくなっているのですね。
 私は神楽坂をスピーカーを持って歩きまして、
「今晩は毘沙門寄席があります。どうぞいらしてください」
 なんて宣伝をして回りましたが、効果があったかどうか。
 興行の赤字分に関しては、私か背負いました。必要経費と、出演者にたいする最低限の出演料を用意しました。
 定例の会の中では、私の独演会「金馬いななく会」が比較的、安定した動員をしていました。毎回、2席のネタ下ろしを原則にしていましたので、軽めのものと、どっしりした噺と、1席ずつ。人情噺や世話噺もやりまして、圓生師匠から「髪結かみゆい新三しんざ」を教わって上演したこともあります。
初席 正月、元日から10日まで行なわれる興行
トリ 寄席で最後に出演する人。出演料は、最後に出る主任格の真打が全て受け取り、芸人達に分けていた。演者の最後を取る(真を打つ)ことや、出演料を取るところから、最後に出演する人を「トリ」と呼ぶようになった。
人形町末広 東京都中央区日本橋人形町三丁目の寄席。1970年(昭和45年)1月、日本芸術協会(現:落語芸術協会)の定席興行である正月二之席(11日から20日まで)をもって閉場。
髪結新三 かみゆいしんざ。人情噺。日本橋に材木商の白子屋があり、娘のお熊は婿を迎えたが、実は別の男性と良い仲になっていた。そこで店に出入りする髪結いの新三は一計を謀り、お熊をだまし、誘拐して、白子屋から金を奪い取ろうとする。新三の家主の長兵衛が白子屋のため、その折衝を引き受ける。長兵衛は30両を白子屋からもらい、お熊を送り返し、15両を新三の前に置いた。新三は不満を言うと「わからねぇやつだ。鰹は半分もらったよ」と再び同じことを繰り返す。新三は気が付いて「鰹だけではないんですか」、「当たり前だろう。これだけ口利きしたんだ」。おまけに滞った店賃5両を取り上げる強欲ぶりに、さすがの新三もぐうの音も出ない。20両と片身の鰹を下げて帰る長兵衛を黙って見送るしかない新三であった。

 昭和50年代のいつごろだったか……「創作落語会」をやめまして「なかよし会」と改称、金馬・円歌三平柳昇といったメンバーで各人がやりたい噺をする会にしました。
 それにしても、「創作落語会」は昭和37年の発足から20年弱は続いたわけです。
 毘沙門寄席は、昭和56年に終わりました。
 ちょうど10年続けたわけで、まあ、切りもよいところでした。
円歌 三遊亭圓歌(3代目)。生年は1932年1月10日、没年は2017年4月23日。出身地は東京都向島
三平 林家三平(初代)。生年は1925年11月30日、没年は1980年9月20日。出身地は東京都台東区根岸。
柳昇 春風亭柳昇(5代目)。生年は1920年10月18日、没年は2003年6月16日。出身地は東京都武蔵野市

神楽坂演芸場(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂演芸場(えんげいじょう)は神楽坂3丁目にありました。

牛込町誌 第1巻(大正10年)「神楽坂演芸場」

 坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。

駐車場

駐車場

 360°カメラでは…

 この駐車場は「神楽坂演芸場」があったところです。場所はここです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。戦後まで営業したという噂(『新宿区の民俗』、新宿歴史博物館、平成13年)もありますが、戦災で終わったという説(吉田章一『東京落語散歩』平成9年、メディカピーシー、吉田章一『神楽坂まちの手帖』第13号)の方が有力でしょう。昭和20年4月13日、空襲でなくなり、1952年、『火災保険特殊地図』では何も残らず、1960年、住宅協会の『新宿区西部』では、夜警員詰所になっています。

 講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演ずる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などの色ものが有名でした。

『新宿区の民俗』によれば、「二階建ての建物で一五〇席ほどあった。他の二館は木戸銭が三〇から五〇銭であったのに対し、演芸場は七〇銭とった。他の館よりきれいで芸者衆もよくきていた」と書いてあります。
 写真も残っています。柳家金語楼(きんごろう)などが有名人でした。

 なお、新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)には

 大久保孝氏は『ここは牛込、神楽坂』第3号の「懐かしの神楽坂」で『その路地の奥に』を書き、

神楽坂演芸場
 本多横丁の手前、盛文堂という本屋と宮坂金物店の間の道を入るとすぐに「神楽坂演芸場」があった。ここは芸術協会の砦であったから、金語楼、柳橋、柳好(先代)、金馬、小文治、桃太郎などが出ており、講談では一竜斎貞山、大島伯鶴、神田伯竜、小金井芦州など、その他色ものでは、新内の富士松宮古太夫など。
 後年好きになった、桂文楽、三遊亭円生、古今亭志ん生は落語協会の所属なので、聞いていない。
 金語楼はもっぱら兵隊もの。貞山は義士外伝。貞山の息子が府立四中にいたので、中学でも彼の談を聞いたものである。柳好はまだ「がまの油」くらいで、得意の「野ざらし」をやったのは、四十過ぎであったろう。三平の父親の林家正蔵は頭のてっぺんから声を出して、「相撲見物」とか「源平盛衰記」をやった。春風亭柳橋の養子さんは兄の友人で、赤城さんの近くに住んでいたが、この人は「時そば」を脚色した「支那そばや」をやっていた。
 暮は客が入らないので、木戸銭を十銭にしたが、あまり入らない。でも金語楼が怪しげな日本舞踊をやったり、柳橋が座ぶとんをひっくりかえして、紙をめくって次の出演者を知らせたり、お茶をだしたりするのがおかしかった。
 正月になると、木戸銭は一円になり、惣出は良いが、まくらもそこそこにひっこんでしまうのは、いただけなかった。でもやっと稼ぎ時になったのだから仕方あるまい。

 中村武志氏が「神楽坂の今昔」(毎日新聞社刊『大学シリーズ 法政大学』昭和46年)に書き、

 坂の左側の宮坂金物店の角を曲がった横丁に、神楽坂演芸場があって、講談、落語がかかっていた。当時は、金語楼が兵隊落語で売り出していて、入場料を一円二十銭も取られた覚えがある。お客は法政や早稲田の学生が多いので、三語楼は、英語入りの落語をあみだして、これも人気があった。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

神楽坂の通りと坂に戻る場合


鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館

文学と神楽坂

 神楽坂五丁目の柳水亭は、明治時代は講釈席の鶴扇亭、大正に入ると色もの席の柳水亭、関東大震災の翌年、大正13年(平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』展望社、2007年)には勝岡演芸場になり、さらに活動写真の東宝映画館となり、そのまま戦争になるまで続きました。

 今和次郎編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年)では

 手踊りや浪花節席の柳水亭は今の勝岡

と書いています。

「ここは牛込、神楽坂」第3号の河合慶子氏は「肴町界隈のこと」で

 寺内へ入る横丁までの割合大きい一棟は、階上が勝岡演藝場(映画館になったのは後のこと)、階下は何件かに仕切られ、理髪店、写真屋、奴軒と云う洋食屋、横丁を隔てて分厚いこんにゃくで有名な「神楽おでん」、棒丑さんとか、中華の永利軒とつづく。
 階上の芝居小屋は地方廻りの劇団中心で、中でも女役者ばかりの「坂東勝治」一座が評判だった。年配の座長が立役専門で「浜松屋」でも「直侍」でも何でもこなす藝達者、よく見に行った。夏場は客席のうしろの窓が開け放しで、私の家の物干しから舞台が見えるので、結構只見をきめ込んだこともある。芝居がハネると化粧のまま浴衣を引っかけた連中が銭湯へ行く。子供心にそれが面白くて、時間を見計らって、お風呂に行ったものである。

「ここは牛込、神楽坂」第6号の丸岡陶苑の岡崎弘氏は「明治の神楽坂のこと、話そうか」で

 肴町の家のそばには鶴扇亭という寄席があって、そこは講談専門。後で柳水亭と名前が変わって落語をやるようになり、その後、勝岡演芸場になって、はじめて二階建ての演芸場になってね。ここでは先代の金馬や談志が落語をよくやっていた。家しか電話がないから、そこの人が講釈師に、先生早く来てくださいとかよく電話しに来るの。うちは電話貸してるから、しょっちゅう行ってたね。そりゃ文句は言えねえや。おれは座敷の一段高いところに座っちゃうもんだから、やな顔をして。でも何も言えねえ。電話借りてるから。子供心に知ってんだ。でもわざとじゃない。下の方だとよく見えねえからね。落語も講談も好きだから年中聞いたよ

 正岡容氏の『随筆 寄席囃子』(古賀書店、1967年)では

 柳水亭はその後、勝岡演芸場となって晩年の若水美登里などの安芝居の定席となり、のち東宝系の映画小屋となってしまったが、電車道に沿って二階いっぱいに客席のある寂しい小屋だった。かてて加えてひどい大雨の晩だったので、お客はせいぜい二十何人くらいしか来ていなかった。定刻の六時になると文字どおりの独演会で、奴さん、前座もつかわず、ノコノコ高座へと上がってきた。そうして、近所の牛込亭や神楽坂演芸場(かみはく)の落語家たち(ついこの間まで彼自身もその仲間だった)の独演会のやり口を口を極めて罵り、自分のような、この、こうしたやり方こそがほんとうの独演会なのだとまず気焔を上げた。今の奴らは一人っきりでひと晩演るだけの芸がないのだというようなこともしかしながら言ったように覚えている。聴いていてへんに私はうれしくなった、恋ある身ゆえ、なにを聴いてもしかくうれしかったのかもしれない。

電車道 大久保通りです。
奴さん 日本太郎です。

『まちの想い出をたどって』第1集の「肴町よもやま話①」(2007年)によれば、昭和5年、隣から火事が出て、勝岡演芸場は焼失し、神楽坂に向いていた十銭ストアや機山閣も焼けたといいます。勝岡演芸場は東宝に売られ、昭和15年ごろに中村メイコなどが映画館として新装開店を行ったようです。以下は「肴町よもやま話①」を一部引用したものです。なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「山下さん」は山下漆器店店主。「馬場さん」は万長酒店の専務です。

相川さん 昭和五年十月十五日、忘れもしないね、肴町の在郷軍人が伊豆の大島へ行くんで、それで六時の集合だというふれで、私も行くんだ。中河さんだの、薮蕎麦さんだの、「やっこ軒」だの、そういった連中がみんな在郷軍人の格好でお揃いで行こうじやないかって相談していて、その明け方、火事になった。
山下さん どこが火元?
相川さん 火元はね、河合さんのすぐ隣の「はんこ屋」がありまして、小さな床店でそこで寝られないんだ。その隣に「本田」っていう電気屋さんがあった。電気のお湯を沸かす棒ですね、あれを桶の中に入れてやっていたら、たまたま桶が水漏れしちやったの。それで寝てて知らなかった。火になってはじめてうちの人が気がついて、命からがらみんな飛び出した。
山下さん それが焼けちゃって、あの演芸場まで(火が)行ったの?
相川さん そうそう。そこの電気屋さんとの間に路地がありまして、「勝岡演芸場」(注。今のつくば3号館↓の付近っていうのがあったんです。どさ回りの役者が浪花節だとかやる定席(じょうせき)があった。それが隣から火が出て、下の方は便所なもんだから、火が上の方へ行っちゃって。
馬場さん 勝岡演芸場がそれで焼けたんですか。
相川さん 火が全部天井に入っちゃった。下の床店になっている鈴木っていう写真機屋さん、それから田中っていう床屋さん、それからいまの袋町の八百屋さん(注。現在の袋町の「八百美喜」さん)、それから曲がってすぐやっこ軒って西洋料理の安い店があった。それがみな罹災者なの。焼けなくても水漏りで。忘れもしません。昭和五年の十月十五日。私は行くつもりになって支度をしていたんだから。六時の集合だから、明け方でしよ。
馬場さん あとでまた勝岡演芸場ができていたじゃない。
相川さん 焼けちゃって、勝岡演芸場の経営者はおばあさんだから、「そんな資金はないよ。復興の見込みはないし、もう私も年だからやめる」っていうんで、砧にあった東宝のPCL、あれにそっくり売った。店子は残って、最初は(映画館に店を出す)約束したんだけど、設計がまずい、防火法にふれる、二階だけで映画館をやるわけにはいかない、ということでみんなどけられちやった。

柳水亭

中河 中河電気の店主です。ここは現在五丁目の神戸牛と和食の店「新泉」に変わっています
薮蕎麦 現在、五丁目の「とんかつさくら」に変わりました
やっこ軒 おそらく洋食屋の奴軒だと思います
床店 とこみせ。商品を売るだけで人の住まない店
八百美喜 袋町の八百屋さんは2016年に変わって「肉寿司」になりました
東宝のPCL 1933-37年、P.C.L.(Photo Chemical Laboratory)映画製作所ができました。東宝の前身の1社です

 では鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館の現在の場所を確認しましょう。

「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年新宿区教育委員会より

「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年新宿区教育委員会より

hanko 本田

 場所はこの辺りですが、間違えています。上の「古老の記憶による関東大震災前の形」では、柳水亭のに一本の道があり、また、神楽おでんは柳水亭の下(南)にあります。一方、正しいのは、下の大正元年の『地籍台帳・地籍地図』で、鶴扇亭のに一本の道があります。鶴扇亭は肴町12-1に当たりました。

鶴扇亭

 岡崎弘氏と河合慶子氏の「遊び場だった『寺内』」では、こちらの絵の上下は反対向きですが(つまり北の方が下向き)、鶴扇亭の北に道路があり、神楽おでんの南に鶴扇亭があります。これが正しく、さらに「肴町よもやま話」や野口冨士男氏の「私のなかの東京」でも正しいようです。つまり、鶴扇亭の上側(北側)に一本の道があったのです。

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 なお、新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』を調べると、大正15年の東京演芸場組合名簿では勝岡演芸場は肴町13になっています。また、昭和5年の『牛込全図』で、肴町13は下の通りです。
昭和5年の柳水亭

 一方、これが違う場合もあります。左下の昭和12年の都市製図社の火災保険特殊地図では、肴町12にあったと思います。昭和27年(右下)も五丁目12で13ではないと思います。

昭和12と27

「神楽坂まちの手帖」第10号に河合雅一氏は「わたしの神楽坂落語」を書いています。

 牛込肴町、現在の神楽坂五丁目むかしやの隣に、「柳水亭」という席がありましたが、後に「勝岡演芸場」という席になり、その後映画館になりました。私はここで長谷川一夫の「伊那の勘太郎」を見た記憶があります。
この場所は戦後六十年たっていますが、大きな普請をしておりませんので、寄席の入口のタイトルの名残が現在でも残っております。ちなみにこの場所から二十メートル先に、柳家金語楼のプロダクションがありました。そして愛車のジープが時々止まっておりました。

 下は現代の地図です。つくば3号館は神楽坂5丁目10番地なので、勝岡演芸場はつくば3号館と違っていると思います。もっと道路に近くあったようです。

 そこで大胆にも下で書くと、赤色で囲った場所(神楽坂五丁目13番地)が柳水亭や勝岡演芸場などでしょうか。

柳水亭の推定図

柳水亭の推定図。1990年の航空地図

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座
神楽坂の通りと坂に戻る場合


わが馴染みの横町|色川武大

文学と神楽坂

色川武大 色川武大氏が書いた「わが馴染みの横町 神楽坂」(『東京人』、1988年6月)です。

 氏は小説家で、昭和36年「黒い布」で文壇にデビュー。昭和52年「怪しい来客簿」で泉鏡花文学賞、昭和53年「離婚」で直木賞。また阿佐田哲也の筆名で「麻雀(マージヤン)放浪記」などのギャンブル小説も出しています。生年は昭和4年3月28日なので、この文章は59歳に書かれたものです。

 神楽坂は、震災で下町の盛り場が焼失したために賑やかになり、ターミナルの西方移動で新宿が勃興するまでの短期間、盛り場としてスポットライトが当ったらしい。私は昭和四年、牛込矢来町の生まれだから、盛りの頃の神楽坂を眺めて育ったことになる。
 その頃は、建物は小ぶりだが、白木屋高島屋、デパートが二つもストア風の出店を出しており、毎晩夜店が並び、車馬は通行止めだった。雑踏で道が埋まっていたといっても今の人は誰も信用しない。本当に、昭和に入ってからは街の変転が烈しくて、その変転の中で育った私自身、往時が夢のようだ。

震災 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に 起きた関東地方の地震とそれに続いた災害
矢来町 色川氏は矢来町80番に住んでいました。赤の地域で、矢来町80番の中には家屋が数軒あります。矢来町80
白木屋 しろきや。 東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。 かつて日本を代表した百貨店。 1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
高島屋 たかしまや。「神楽坂界隈の変遷」で新宿区教育委員会は「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で「震災直後高島屋十銭ストアーになった」とかいてあります」。以前は本屋の機山閣でした。
高島屋
「まちの想い出をたどって」第2集によれば

相川さん 三角堂の隣が「機山閣」という本屋さん。そこへ十銭ストアができた。
  神楽坂に高島屋があった
山下さん 『高島屋』が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいつちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。

 現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」です

 カーブして津久戸の方に抜ける現大久保通りも、ストレートな大通りではなくて、市電がぎしぎしいいながら人家の中にわけ入っていったような記憶がある。いったいに道幅を拡げていた時期で、江戸風な小道が整理され、改正道路と称する舗装道路になっていった。改正される前のたたずまいがなつかしいのだけれど、私などの年齢では具体的な記憶がすくない。
 北町と肴町の間にある坂のあたりは、両側が崖のようになっていて、袋町の方面に昇る蛇段々という曲りくねった段々があった。ここは蝉とりの名所で、ひときわなつかしいが、今は何の風情もない舗装の坂道だ。往時のあの泥道というものは、ぬかるむと始末がわるいが、下駄に適合していた。舗装になって、下駄では頭に響いて歩きにくい。私は下駄が好きだから、泥道の柔らかさがなつかしい。
 夏の夜は、浴衣を着て親に手をひかれ、矢来の方から出て、夜店を眺めながら坂下まで散歩し、外濠のほとりで涼んだり、ボート遊びをしたりして、また同じ道を戻ってくる。なんということはないが、当時、恰好のリクリエーションだった。花火屋のおばさん、玉蜀黍売りの婆さん、古本の店、詰将棋、バナナ売り、盆栽屋、皆はっきりと顔が浮かんでくる。坂上の熊公焼きは特に有名だったが、単なるあんこ(、、、)巻きだ。

改正道路 明治時代から大正時代の都市計画を市区改正と呼んでいました。 東京市は道路幅員が狭く、上下水道など都市基盤の整備が遅れ、 大火も起こりました。改正道路とは市区改正で整備した新しい 道路のことです。
蛇段々 岩戸町の11番地と12番地で挟まれた南方が高い道路。鳥居秀敏氏が書いた「袖摺坂(そですりざか)って本当はどの坂?」(『まちの想い出をたどって』第二集)で「蛇段々」について書いています。
「蛇段々」というのをご存知の方いらっしゃいませんか? 私が愛日小学校を卒業したのは昭和十一年ですが、そのころまだS字状の広い車道の坂道はありませんでした。昭和十六年の地図を見てください。袖摺坂この地図の「町」の字のあるところが十一番地で小高い丘があり、隣の十二番地はレベッカビルです。そして十一番地と十二番地の間に細い道がありますね。この細い道を入りますと高い崖に突き当たります。高さ六メートル以上ある急な崖です。そこで左に曲がって斜めに登っていきます。そして登りきるとまた右へ曲がる細道があってそれを出ると南部さんの前に出ます。これが私の子供のころ蛇段々といわれていた細道です。学校の帰りに時々寄り道をしてこの蛇段々を下りて帰るというのが一つの楽しみでもありました。蛇段々という名前はおそらく坂でないところも含めて、うねうねと曲かっていますから、蛇を連想したのではないかと思います。しかしこの蛇段々は子供たちだけの呼び名で大人は袖摺坂と吁んでいたのかどうか、その点を私は知りません。しかし後ほど細かく申しますように、これが先ほどの新撰東京名所図会や御府内備考に書いてある地形とぴったり一致するのです。そのことから私はこの蛇段々が袖摺坂であったと、九十九パーセント確信しています。蛇段々
 これは蛇段々の模型です。十一番地と十ニ番地の間から登ります。すると相当急な高さ六メートル以上の崖に突き当たりますから真直には上れません。そこでその斜面を斜めに登ります。そしてまた右に曲がると南部さんの家の前に出ます。袋町も、北町も、多少大久保通りに向かって緩い傾斜をしていましたが、岩戸町の辺りはほとんど平担です。このあたりの台地は関東ローム層、いわゆる赤土ですから滑りやすい。仮に袋町の方から下りていったとします。崖縁を左に曲がりますと当然左側は高台です。それから右側は垣根かどうかは分かりませんが、十八メートルの間に六メートルも下るかなりの急な坂です。ですから滑らないように段々を作った。「岸地に雁木を設け折廻はしたる急峻の坂なり」という表現はこれにぴったり一致するわけです。
 蛇段々と袖摺坂とは同じなのか? 私は違うと思っています。これは別に書きます。
熊公焼き あんこ巻きのことです。細かくはここに

 では、これが終わりです。

 それ以上に名物的存在は、肴町電停前にいつも居る初老の人物で、古びた学帽をかぶり書生姿に高下駄。一定時間になるとカランコロン下駄の音を響かせ、通りを往復する。乞食ともちがうし浮浪者でもない。人々は親しみの眼でこの人物を眺めていた。世の中がのんびりしていてあの頃はこういう風物詩的な人物がよく居たものだ。
 戦災で残らず焼け、復興もおそく、長いこと、都心部の見捨てられた街と化していたが、最近歩いてみると、ここもビルラッシュ。至るところで建築の音がきこえてくる。古くからの老舗も、この変革の嵐の前にひとたまりもないのかどうか。
 裏通りの花柳界は、道筋だけは変らないが、内容は大きくさま変りしているらしく、三味線の音など絶滅し、カラオケと麻雀の音ばかり空疎にきこえてくる。
初老の人物 誰だか、わかりません。

牛込亭|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

「牛込亭」って正確にはどこにあったのでしょうか?

通寺町の発展

島崎藤村等「大東京繁昌記 山手篇」(昭和2年)。加能作次郎の「早稲田神楽坂」「通寺町の発展

神楽坂まちの手帖』の平松南編集長は

そのころ神楽坂には演芸場が5つもあり、6丁目の安養寺うらの「牛込亭」もまた落語と講談の専門館であった。

と書き、吉田章一氏の『神楽坂まちの手帖』第10号の「牛込亭の番組と芸人たち」では、

話を牛込亭に戻しますと、神楽坂から大久保通を過ぎて、すこし先の右側、路地の奥にありました。できたのは明治10年頃といわれ、初めは持ち主を名を取って「岩田亭」と呼びました。明治後半になって相撲の親方の武蔵川が買って「牛込亭」にしました。
 関東大震災には焼けませんでしたが、芸人が焼け出されて集まらないためか一時は講談や浪曲を掛けていました。その後落語を中心とする色物席に戻り、現在の落語協会の前身である東京落語協会所属の寄席になりました。ときどきは浪曲も掛けていたようです。定員は200人足らずでした。
 牛込亭は戦災で焼失しなくなりました。

ここは牛込、神楽坂』6号で丸岡陶苑・岡崎弘氏の「町の宝もの」では

寺町の牛込亭にもよく行った。牛込亭に入るとこに秋山って塗物屋があって、こっち側はあとで帽子屋ができて。いま、たこ焼きがあるでしょ、あのあたり。あそこに細い道があって、突き当りが寄席でね。

 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』では

神楽坂上より矢来町に向かってすぐ、通寺町の通り右側に木戸口があり、その突き当たりの路地おくに牛込亭があった。

 赤城神社の氏子町一覧「とおりてらまち」の説明です。

また娯楽場として九番地に寄席牛込亭(明治十年十月設立)、十一番地に常設活動写真文明館が(明治四十五年一月建立)ある。

 しかし、大正15年の東京演芸場組合では、牛込亭は「通り寺町」になっています。右は昭和5年の地図です。

通り寺町昭和5年
 1978年の三遊亭圓生の『圓生 江戸散歩』(集英社)では

飯田橋方面から来れば柳水亭の前を通って交差点を右に曲がると、そこから家数にして十四、五軒ほど行き路地を右側に入って十メートルぐらい行って突当たりが牛込亭の木戸口でした。

 これから考えられるものは

通り寺町昭和5年2

 牛込亭という場所は今では道路になるのか、道路に近い場所ではなかったのでしょうか。8番地は戦後になってからそこを貫く道路ができます。『円生江戸散歩』という本で円生は牛込亭の地図を書いていますが、この牛込亭の反対側、通寺町と岩戸町の道路は川喜田屋横丁の通りです。川喜田屋横丁の反対側に道路がでてきます。すると橙の丸で囲んだ場所あたりでしょうか。

牛込亭

 その後、昭和12年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)を見ました。こうなっています。

昭和12年、牛込亭

牛込亭。昭和12年「火災保険特殊地図」(都市製図社)

 現在の地図で予想する寄席とまったく同じです。やはり道路で寄席は上下2つに分けているのですね。

 牛込亭は色物(いろもの)が主体でした。これは講談、義太夫、落語、浪花節などの本来の演芸とすると、それ以外の漫才,音曲,奇術,紙切り,曲芸,声帯模写などをさして色物というようです。

『神楽坂まちの手帖』第10号「神楽坂落語祭」59頁では、ある日の演芸は14人が出ています。講談が1人、落語は6人、残りの7人は、笑話、楽語、物まね、奇術、浮世節、能歌舞、新内を行いました。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座
白銀公園 瓢箪坂 駒坂 川喜田屋横丁 神楽坂5丁目 成金横丁
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