青葡萄③|尾崎紅葉

文学と神楽坂

      (二)
自分(じぶん)(かど)()ると駈出(かけだ)した。寺町(でらまち)往来(わうらい)納涼(すゞみ)士女(ひと)()るやうで、撞着(つきあた)りさうでならぬから、()岩戸(いはと)(ちやう)()れて、一直線(いつちよくせん)(みち)(いそ)いだ、気圧(きあつ)(ひく)く、()すやうな暑熱(あつさ)銀砂子(ぎんすなご)ほど(ほし)はあるが、渠泥(どぶどろ)引攪旋(ひつかきまは)したやうな(そら)(くら)さに、西北(にしきた)雲間(くもま)から薄紫(うすむらさき)電光(いなづま)(しきり)(ひらめ)いては、道端(みちばた)の「ゆであづき」の赤行燈(あかあんどん)(あたり)()える。
一町(いつちやう)ばかりの砂礫道(じやりみち)蹂躪(ふみにぢ)つて、黒白(あやめ)()かぬ芥坂(ごみざか)駈上(かけあが)つた。大信寺(だいしんじ)横町(よこちやう)(やみ)(さぐ)つて、倉皇(そゝくさ)長屋門(ながやもん)(はい)ると、はや跫音(あしおと)聞着(きゝつ)けて、春葉(しゆんえう)(しよく)()つて玄関(げんくわん)()つてゐた。
(かれ)(かほ)()ると(ひと)しく
西木(にしき)如何(どう)した。」  と(たづ)ねると、
(おく)四畳半(よでふはん)。」  と案内(あんない)した。
玄関側(げんくわんわき)八畳(はちでふ)()にははや蚊帳(かや)()つてある。これは祖父母(そふぼ)寝所(ねどころ)である。(しか)両箇(ふたり)とも(つぎ)()(ひたひ)(あつ)て、憂愁(いうしう)満面(まんめん)(あふ)れてゐた。
開放(あけはな)した(えん)(さき)から(すゞ)しい(かぜ)蚊帳(かや)(そよ)いで、(まくら)(かよ)(むし)()(きこ)える。平生(いつも)(には)正面(しやうめん)百日紅(さるすべり)(えだ)燈籠(とうろう)()るのが、今夜(こんや)(やみ)で、葉越(はごし)(ほし)(かず)()えるばかり。台所(だいどころ)には三分心(さんぶしん)玻璃燈(ランプ)黯澹(あんたん)として、(をんな)どもの(さゝや)(こゑ)がする。(さい)乳児(ちのみ)とは午後(ひるすぎ)から生家(さと)へ行つて、留守(るす)であるから、家内(かない)森閑(しんかん)として()()えたやう。祖父母(そふぼ)自分(じぶん)()ると、這出(はいいづ)るやうに左右(さいう)から詰寄(つめよ)せて、西木(にしき)大変(たいへん)だよ。如何(どう)だらうねえ。と(ひど)(あわ)てゝゐた。自分(じぶん)()ちながら、
心配(しんぱい)することは()いよ。」
言捨(いひす)てゝ、(えん)折曲(をりまが)つて、正面(つきあたり)一間(ひとま)(とびら)()けた。
取片附(とりかたづ)いた四畳半(よでふはん)片隅(かたすみ)に、(ちや)染返(そめかへ)した木綿(もめん)更紗(さらさ)二布(ふたの)蒲団(ぶとん)()いて、(すそ)(はう)手織(ており)柳条(じま)木綿(もめん)掻巻(かいまき)(たく)して、(それ)細削(ほそこ)けた(すね)()せて、有松絞(ありまつしぼり)浴衣(ゆかた)兵児帯(へこおび)()いて、背面(うしろむき)(まくら)(はづ)しかけて、気怠(けたる)さうに秋葉(しうえう)(よこた)はつてゐた。

寺町。通寺町と横寺町の2つを指しています。どちらも涼みの客が多くなっていたのでしょう。
織る。いろいろなものを組み合わせ、一つのものを作り上げる。
撞着。どうちゃく。つきあたること。ぶつかること。
つと。ある動作をすばやく、または、いきなりする。さっと。急に。不意に。
岩戸町。右図を。
銀砂子。ぎんすなご。銀箔(ぎんぱく)を粉にしたもの。絵画や蒔絵(まきえ)などで使う。
ゆであづき。ゆであずき。あずきをゆでてうす甘く味つけしたもの。煮あずき。
一町。約109メートル。
黒白。あやめ。文目。模様。色合い。
辨かぬ。あやめもわかず。文目も分かず。暗くて物の区別もつかない。
芥坂。ごみ坂。五味坂がありますが、おそらく右図の赤矢印で示す坂を指しているのでしょう。
大信寺。新宿区横寺町43番地にある浄土宗の大信寺。本尊は阿弥陀如来像。号は金剛山如来院。
横町。おそらく寺の南東部から北西部にかけて横町があったのでしょう。
倉皇。そうこう。蒼惶。落ち着かない。あわてる。「そそくさ」は、落ち着かず、せわしなく振る舞う。あわただしい。「そそくさと帰る」
長屋門。長屋を左右に備えた門で、伝統的な門形式の一つ。尾崎紅葉の借り家も非常に簡単な長屋門でした。
秉る。とる。手に持つ。しっかり持つ。
斉しく。ひとしく。二つ以上の物事の間に、性質や状況で同一性がある。よく似ている。
奥の四畳半に。以上は右図の家の場所でわかります。これはこの地図から書きました
鳩める。あつまる。あつめる。鳩首(きゅうしゅ)は、鳩が首を寄せ集めるように、人々が集まり額を寄せ合って相談すること。
憂愁。うれえ悲しむこと。気分が晴れず沈むこと。
椽。和風建築で、部屋の外側につけた板張りの細長い床の部分。
百日紅。サルスベリ。ミソハギ科の落葉中高木。
燈籠。とうろう。灯籠。灯明を安置するための用具。
三分心。幅が1cm弱のランプの芯。
黯澹。暗澹。薄暗くはっきりしない。
婢。ひ。女の召使い。下女。はしため。
森閑。しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている。
染返す。そめかえす。染め返す。色があせてきたものを、もとの色または別の色に染め直す。
木綿更紗。ポルトガル語のsaraçaから。木綿地に、人物・花・鳥獣などの模様を多色で染め出したもの。室町時代末にインドやジャワなどから南蛮船で運ばれて来て、日本でも生産したもの。
二布。ふたの。二幅。並幅の倍の幅。
手織。ており。手織り。動力を用いず手織り機などで布を織ること。
柳条。しま。縞。織物模様の一種。洋服地のストライプに当たる。筋とも。
掻巻。綿入れの夜着。
襞。ひだ。衣服の細い折り目。
細削ける。「こける」は動詞の連用形に付いて、その動作が盛んに長く続いて行われる意味を表す。「痩せこける」は「やせて肉が落ちる」「ひどくやせる」
有松絞。名古屋市緑区有松・鳴海付近で産する木綿の絞り染め。
兵児帯。和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。

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