春着|泉鏡花⑥

文学と神楽坂

 はゝあ、怪談くわいだんりたさに、前刻さつきたぬき持出もちだしたな。――いや、あへうではない。
 ふものか、のごろわたしのおともだちは、おばけとふとまゆひそめる
 口惜くやしいから、紅葉先生こうえふせんせい怪談くわいだんひとかせよう。先生せんせい怪談くわいだんきらひであつた。「いづみが、またはじめたぜ。」そのたゞひとつの怪談くわいだんは、先生せんせいが十四五のとき、うらゝかなはる日中ひなかに、一人ひとり留守るすをして、ちやにゐらるゝと、臺所だいどころのおへツつひえる。……へツつひかどに、らくがきのかにのやうな、ちひさなかけめがあつた。それがひだりかどにあつた。が、陽炎かげろふるやうに、すつとみぎかどうごいてかはつた。「たゞそれだけだよ。しかしいまでも不思議ふしぎだよ。」とのことである。――ねこまどのぞいたり、手拭掛てぬぐひかけをどつたり、へツつひかにつたり、ひよいとさいつてたやうである。はるだからお子供衆こどもしう――に一寸ちよつと……ばけもの雙六すごろく。……

[現代語訳] ははあ、この怪談をやりたくて、さっき狸を持出したな。――いや、全然違う。
 どういうものかわからないが、このごろ私のおともだちは、おばけというと眉をひそめる。
 くやしいから、紅葉先生の怪談をひとつ聞かせてみよう。先生も怪談はきらいであった。「泉が、またはじめたぜ。」そのただひとつの怪談は、先生が十四、五の時、うららかな春の日中に、ひとりで留守をしていたが、茶室にいると、台所のかまどが見える。……かまどの角に、らくがきで書いた蟹のやうな、小さな割れ目があつた。それが左の角にあった。が、陽炎にのるように、すっと右の角へ動いた。「ただそれだけだよ。しかし今でも不思議だよ。」とのことである。――猫が窓を覗いたり、手拭掛けが踊ったり、かまどの蟹がはったり、ひょいとさいころを振って出でたようである。春から子供衆に――ちょっと……化け物すごろくだ。……

敢えて。特に取り立てるほどの状態ではないことを表す。必ずしも。打消しを強める。少しも。全く。
眉を(ひそ)める。他人の嫌な行為に不快を感じて顔をしかめる。眉根を寄せる。
竈。かまど。へっつい。 土・石・煉瓦などでつくった、煮炊きするための設備。上に釜や鍋をかけ、下で火をたく。
かけめ。欠け目。欠目。不足した目方。減量。欠けて不完全な部分。
陽炎。かげろう。春、晴れた日に砂浜や野原に見える色のないゆらめき。大気や地面が熱せられて空気の密度が不均一になり、通過する光が不規則に屈折するため見られる現象。
賽。さい。さいころとも。立方体に1〜6の目を刻み、すごろくや賭博等に用いる遊具。
化け物双六。双六は紙面を多数に区切って絵を描いたものを用いる。化け物双六は絵に化け物が書いてある。数人が順にさいを振って、出た目の数だけ区切りを進み、早く最後の区切り(上がり)に達した者を勝ちとする遊び

 なき柳川春葉やながはしゆんえふは、よくつみのないうそつて、うれしがつて、けろりとしてた。――「按摩あんまあ……はありツ」とたちまみつきさうに、霜夜しもよ横寺よこでらとほりでわめく。「あ、あれはね(按摩あんま)とつてね、矢來やらいぢや(いわしこ)とおんなじに不思議ふしぎなかはひるんだよ」「ふう」などと玄關げんくわん燒芋やきいもだつたものである。花袋くわたい玉茗ぎよくめい兩君(りやうくん)が、そちこち雜誌類ざつしるゐえたころ、よそからかへつてるとだしぬけに「きみ、いてたよ。――花袋くわたいふのは上州じやうしう或大寺あるおほでら和尚をしやうなんだ、花袋和尚くわたいをしやう僧正そうじやうともあるべきが、をんなのために詩人しじんつたんだとね。玉茗ぎよくめいふのは日本橋室町にほんばしむろまち葉茶屋はぢやや若旦那わかだんなだとさ。」

[現代語訳] 亡き柳川春葉は、よく罪のない嘘をいって、うれしがって、けろりとしていた。――「按摩あ……鍼っ」と急にかみつくように、霜の降る夜、横寺町の通りでわめく。「あ、あれはね(ほえ按摩)といってね、矢来じゃ(鰯こ)とおなじで、不思議の中へはいるんだよ」「ふう」などと玄関でやきいもを食べた時にいったものだ。田山花袋太田玉茗の二人の名前が、あちこちの雑誌類にみえた時も、よそから帰ってくるとだしぬけに「きみ、聞いてきたよ。――花袋というのは群馬県のある大寺の和尚なんだ。花袋和尚。僧正ともあるべき人が、女のために詩人になったんだとね。玉茗というのは日本橋室町の葉茶屋の若旦那だとさ。」

上州。じょうしゅう。上野(こうずけ)国の別名。群馬県のほぼ全域。
葉茶屋。はちゃや。茶の葉を売る店。

このひとのいふのだからあてにはらないが、いま座敷ざしきうけの新講談しんかうだん評判ひやうばん鳥逕子てうけいしのおとうさんは、千石取せんごくどり旗下はたもとで、攝津守せつつのかみ有鎭いうちんとかいて有鎭ありしづとよむ。村山攝津守むらやませつつのかみ有鎭ありしづ――やしき矢來やらい郵便局いうびんきよく近所きんじよにあつて、鳥逕てうけいとはわたしたち懇意こんいだつた。渾名あだなとび鳥逕てうけいつたが、厚眉こうび隆鼻りうびハイカラのクリスチヤンで、そのころ拂方町はらひかたまち教會けうくわい背負しよつてつた色男いろをとこで……おとうさんの立派りつぱ藏書ざうしよがあつて、わたしたちはよくりた。――そのおとうさんをつてるが、攝津守せつつのかみだか、有鎭ありしづだか、こゝが柳川やながはせつだからあてにはらない。その攝津守せつつのかみが、わたしつてるころは、五十七八の年配ねんぱい人品ひとがらなものであつた。つい、そのころもんて――あき夕暮ゆふぐれである……何心なにごころもなく町通まちどほりをながめてつと、箒目はゝきめつたまちに、ふと前後あとさき人足ひとあし途絶とだえた。そのとき矢來やらいはうから武士ぶし二人ふたりて、二人ふたりはなしながら、通寺町とほりてらまちはうへ、すつととほつた……四十しじふぐらゐのと二十はたちぐらゐの若侍わかざむらひとで。――るうちに、郵便局いうびんきよくさかさがりにえなくなつた。あゝ不思議ふしぎことがとおもすと、三十幾年さんじふいくねんの、維新前後ゐしんぜんごに、おなじとき、おなじせつ、おなじもんで、おなじ景色けしきに、おなじ二人ふたりさむらひことがある、とおもふと、悚然ぞつとしたとふのである。
 これすこしくものすごい。……
 初春はつはることだ。おばけでもあるまい。

[現代語訳] この人がいうのだからあてにはならないが、いま宴会でうけのいい新講談で、評判も高い鳥径子のお父さんは、千石取りの旗下で、摂津守、有鎮(ゆうちん)とかいて有鎮(ありしづ)とよむ。村山摂津守の有鎮で――その邸宅は矢来の郵便局の近所にあって、鳥径は私たちにとっては懇意だった。渾名を鳶の鳥鎮といったが、眉は厚く鼻は高く、ハイカラのクリスチャンで、そのころ払方町の教会をしょってたった色男で……お父さんの立派な蔵書があって、私たちはよく借りた。――そのお父さんを知っているが、摂津守なのか、有鎮なのか、ここが柳川の説だからあてにはならない。私の知っている頃は、その摂津守は、五十七八の年配で、人柄もよく、その話では、その頃、門へでて――秋の夕暮である……なんの心構えもなく町通をながめて立っていると、箒で地面を掃いた町に、ふと前後の人足がとだえた。その時、矢来の方から武士が二人やってきて、二人で話しながら、通寺町の方へ、すっと通った……四十ぐらいの人と二十ぐらいの若侍だった。――すると、みるうちに、郵便局の坂を下がってみえなくなった。ああ不思議なことがあると思いだすと、三十余年の前にも、維新前後に、同じ時間、同じ時期、同じ門で、同じ景色に、同じ二人の侍を見たことがある、と思うと、ぞっとしたというのである。
 これはいささか、もの凄い。……
 初春のことだ。おばけでもあるまい。

座敷。宴会の席。酒席。また、酒席での応対。
新講談。講談の様式と題材を採り入れて、最初から書き言葉で表現した物語。大正2年、講談社の『講談倶楽部』が掲載した。のちに大衆文学に推移した。
摂津守。せっつのかみ。大阪府北中部の大半と兵庫県南東部。
忽ち。たちまち。非常に短い時間のうちに動作が行われる様子。すぐ。即刻。突然、ある事態が発生する様子。にわかに。急に。にわかに。急に。
払方町の教会。右図を参照。
箒目。ほうきめ。箒で地面を掃いたあとの模様。
悚然。しょうぜん。竦然。恐れて立ちすくむ様子。こわがる様子。慄然(りつぜん)。 少しく。わずかに。すこし。いささか。

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