この神楽の由来は区の標柱では
- 坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから(江戸名所図会、大日本地名辞書)
- 津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから(江戸名所図会、新編江戸志)
- 若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから(江戸名所図会、江戸鹿子)
- この坂に赤城明神の神楽堂があったから(望海毎談)
がありますが、どれがいいのか、江戸時代にもうわからなくなっています。ほかにも
- 市谷八幡の祭礼に、神輿は牛込御門前の端の上に止まり、神楽を奏したから(江戸砂子)
- 軽子坂にあわせてかくら坂になった(新宿区教育委員会「新宿区文化財」)
- 穴八幡の旅所がここに来る以前から、祭礼のときはこの場所で神楽を行っていた。その後、穴八幡の旅所ができて、さらに神楽をおこなうので神楽坂と呼んだ(牛込町方書上)。あるいは
- 築土明神は揚場坂で御輿が重くなり、この地に供物を備え神楽を行い、揚場坂は神楽坂といった(牛込町方書上)
- 猿楽練習説(神楽坂界隈20周年記念号、みずのまさを)
- 「かぐら」は高く聳えているものを見上げるときに命名する。断崖のこと。(班目文雄「神楽坂は神楽に非ず」『ここは牛込、神楽坂』)
- カミクラ坂(カミは神、クラは谷・崖)だったのが江戸弁でミがなくなった。
ここで御旅所とは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に神輿を鎮座しておく場所。神輿が本宮から旅して仮にとどまるところです。穴八幡の御旅所は、毘沙門天とは遠くない場所にありました。(ただし穴八幡の正確な位置は地図によって違います)。この『江戸名所図会』の前半10冊は天保5年(1834)、後半10冊は天保7年に書かれています。
寛政1789年
文政1818年
ここは渡辺功一氏の後を追いかけ、7番が一番よさそうですが、しかし、(単数か複数の)誰が「祭礼のときは神楽を行っていた」のかはわかりません。まあ、仕方ないのですが。