丸屋跡

文学と神楽坂

神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では丸屋跡について次のように話が進みます。なお、「相川さん」は大正二年生まれで、棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務です。足袋の丸屋と万長酒店は5丁目7番地でした。丸屋の場所はこれぐらいでしょうか?

神楽坂5丁目 マルヤ
「肴町よもやま話①」から 新宿区教育委員会『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」
馬場さん 相馬屋さんがあって、「万長」さんがあって、「マルヤ」という樽屋さんがあって。樽屋さんはずっと裏まであったんですか?

この対談では「マルヤ」は樽屋「たるや」になっていますが、昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」と新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、「マルヤ」は足袋屋「たびや」になっています。おそらく聞き取りによる「肴町よもやま話」よりも、古老達や郷土研究会による足袋屋「たびや」の方が正しかったのでしょう。

相川さん いや、そうじやないですよ。曲がっているんですよね。いくらもないんですよ。
馬場さん 昔、うちの台所が半地下みたいになってましてね、それで、向こう側に玄関があって。
相川さん 通り(注)に面した玄関でしょう。それに木戸があった。その木戸でマルヤさんはおしまいです。だから奥行きはそんなにないんですよ。注。現在の勧信とauの横丁が寺内に入る横丁
馬場さん じゃあ、うちは玄関が?
相川さん もう三尺あったわけ。そこに玄関があったんですよ。
馬場さん うちで裏を直しだのはいつごろだったんですか?
相川さん オイドのおばちゃんが嫁いでくる前ですよ。あれかできあかってからお嫁に来たんだから。おばちゃんが嫁いでくるについてあそこを手入れしたんですよ。なぜって裏がね、いまの敏夫さん(当時のご主人)の住まい、藏の泥が落っこちてしょうがない。それとネズミが出てしょうがないっていうんで、蔵の土を全部落っことして、今度は板張りにして、その上にトタンをはったですよ。蔵ん中にね。ネズミが(こも)を食べてしょうがないんですよ。そのときに中の改造をしたんです。お店の後ろのお座敷のところなんか、みんな改造したんですよ。
馬場さん 奥の離れは、築地のマイナスロウの部屋とおんなじに造れって左官屋さんにやらせてね。
相川さん 階段を下りると、下と二階があって、小粋なうちでしたね。寺内に入ってからすぐ右のところに裏木戸がありましたね。土間は玉石だったですね。

オイド。東京方言で「尻」の意味。韓国では土地のオイド(烏耳島)のこと。
菰。こも。マコモを粗く編んだむしろ。現在はわらを用いることが多い。こもむしろ。
マイナスロウ。意味不明です。

その後、戦後、昭和27年には倉庫になり、30年頃にはなくなりました。
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