弥勒|稲垣足穂

文学と神楽坂

 昭和15年、稲垣足穂氏の書いた「弥勒みろく」です。氏は異質の新感覚派の小説家で、昭和12年から昭和20年まで、牛込区(現新宿区)横寺町の東京高等数学塾で暮らしていました。

 結局要求は容れられ、その日の正午まえには、再び元の横寺町へ帰ることができた。青い一廓、青い焔の爆発のようにあちらこちらに噴出した樹々の他に、家のも、内科医院の建物も、用水樽も、申し合わしたようにに青ペンキが塗られていた。只江美留には、人に貰った青い背広がすでに失くなり、これはもう戻ってこないという事情があった。この時にもヒルティー紳土助勢を買って出て、青アパートの横の小路の突当りにある、古い、巨きな空箱のような建物へ話をつけてくれた。私立幼稚園だったが、反対側には「東京高等数学塾」という札が懸かっていた。二方に窓が付いている二階六畳のすぐ下が墓地で、朱塗の山門と本堂が向うにあって、木魚の音が聞えていた。朝になると、子供たちが先生お早うございますと云いながら集つてきて、裏庭でブランコが軋り出す。やがてピアノの音につれて、足踏みと合唱が始まる。階上広間の机と椅子が積上げてある所では、絶えずチョークの音がしていた。同宿の物理学校の学生や受験準備中の者が、黒板に図形を引いているのだった。幼稚園を経営している中年婦人のお父さんが塾長で、もう八十歳だということであったが、見たところは六十にもなっていないようだった。「とにかく俗人じゃないね」と最初の日にその姿を見た友人が洩らしたが、この言葉はいろいろな機会において江美留の前に立証され出した。このK先生は毎朝五時に起きると、水を満した大形バケツを両手にさげて、幾回も廊下づたいに洗面所まで運ぶ。それから教室脇の私室のテーブルに倚りかかって、見台に載せた独逸語の原書に向っているが、その足許の火鉢には年じゅう炭は認められない。夜の九時頃、この老数学者が勝手元でひとりで食事をしているのを、薬罐の水を汲みに行ったついでに見た者があった。「それが煮焚きした、つまり湯気を立てているようなものじゃないんだ」と報告者は先生のおかずについて告げた。「冷たい煮豆のような、それが何であるか判らぬような皿が前に置いてあった」

 東京高等数学塾はここにありました。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。東京高等数学塾は赤色で

黄色は東京高等数学塾だった現在の建物。


一廓 いっかく。ひと続きの地域。
 ひさし。家屋の開口部の上にあり、日除けや雨除け用の小型屋根。
江美留 えみる。主人公の名前
すでに失くなり 質草として取られ
もう戻ってこない 質草の所有権がなくなる。流れた。
ヒルティー カール・ヒルティ(Carl Hilty)。1833年-1909年。スイスの下院議員。著名な文筆家。敬虔なキリスト教徒。著者は『幸福論』『眠られぬ夜のために』など。
ヒルティー紳士 ヒルティが大好きな男性。『弥勒』によれば「ヒルティー愛読家には、彼の方から初めて話しかけたのであるが、その紳士は以前、江美留の学校とは隣り合せの神戸高商に籍を置いて、ボートの選手だったのだそうである。それは江美留が中学初年生であった頃に当る。そしてこの時分、紳士の念頭には、元町の「三つ輪」の鋤焼の厚いヒレ肉と「福原」の芸者遊びしかなかったが、その後は本を読むことと仕事の上に向けられた。仕事とは曖昧であるが、それはまたそれでよい、そんなふうなものだと紳士は云った。それで昔の仲間は今日では殆ど重役級にあるらしかったが、本人は別に何をやってきたわけでもなく、今はこの縄暖簾で上酒の徳利を煩けているのだった。」この「縄暖簾」は飯塚酒場のことで、横寺町にありました。
助勢 手助けすること。加勢。
 いらか。屋根の頂上の部分。屋根やねがわら
山門 寺院の門。かつての寺は多く山上にあったから。
木魚 もくぎょ。経を読む時にたたく木製の仏具。禅寺で合図に打ち鳴らす魚板ぎょばんから変化したもの。
足踏み 立ち止まったまま両足で交互に地面や床の同じ所を踏むこと
見台 けんだい。書物をのせて読む台。書見台の略。
勝手元 かってもと。台所。台所のほう。
薬罐 やかん。薬缶。中に水を入れ湯を沸かす調理器具。右図を。

弥勒|稲垣足穂” に1件のフィードバックがあります

  1. 森 ショータ

    稲垣足穂”弥勒”の長年の愛読者です。この近隣に何度か足を運びましたが、果たして高等数学塾はどこにあったのだろうと、あれこれ想像するしかありませんでした。これで場所がよくわかりました。次回の散歩が楽しみです。素晴らしい資料を、心から御礼申し上げます。

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