初代・水谷八重子|芸術座

文学と神楽坂

 水谷八重子は、1905年8月、東京市牛込区神楽坂で時計商の松野豊蔵・とめの次女として生まれ、5歳のときに父親が死亡、母とともに名妓だった姉と義兄、編集者の水谷(みずたに)竹紫(ちくし)のもとに住みこんでいます。竹紫氏(本名は武)は島村抱月氏が芸術座をつくる際に中心的な役割を果たしていました。

水谷八重子 芸術座の園遊会

 1914年(大正3年、9歳)、芸術座に『内部』で出演、1916年(大正5年、11歳)には帝劇公演『アンナ・カレーニナ』で松井須磨子氏演じるアンナ役の息子役で出演しました。

 自書の『芸 ゆめ いのち』(1956年、白水社)では

芸術座の旗上げ公演は、この年の九月、有楽座で行われました。出し物はメーテルリンクの『内部』と『モンナ・ヴァンナ』がとりあげられることとなりました。そして、この『内部』が、意外にも私の舞台出演のキッカケとなりました。
『内部』は、舞台の正面に窓を飾りつけ、外の群衆の動きや表情で、部屋の中の出来ごとを見せるという酒落れた芝居でしたが、その群衆の子役をやらされたのです。
 もちろん、義兄がその話をもちかけてきました時は、「嫌よ」と、かぶりをふったのですが、いろいろなだめすかされ、とどのつまりは、黙って抱かれているだけでよいからということで、やっとうなずきました。もっとも、子供の泣き声をきくと、とたんに不機嫌になる義兄だけに、これまで殆んど口をきいたことのない仲でしたが、その義兄が笑顔をみせて私に話しかけるのが珍しくもあり、つい興味も手つだって、出ることを約束したようにも思われます。しかし、二、三度お稽古につれて行かれるうち、私にどうしてもセリフをいわせて、舞台の効果をだそうとしたらしく、初日の舞台があく前になって、「見えないから、どいてよ!」というセリフを大声で言うように申し渡されました。恥かしかったせいもありましょうが、子供心にも約束が違うといって、とうとう楽の日まで言わずじまいでした。相当の強情ッぱりでもあったようです。
 私の初舞台は、正式には大正五年九月、帝劇で『アンナ・カレニナ』のセルジーをやったことになっていますが、実際はこの『内部』でした。この芝居で、松井須磨子さんや沢田正二郎さんにお目にかかりましたが、お二人とも毎日、奪いあうようにして私の顔の拵えをして下さいました。また群衆の一人に秋田雨雀先生が出演なさっていたのを記憶しております。先生は『内部』の翻訳者で、文芸部に席をおいておられましたが、人手が足りないため、出演なされたそうです。みるからにお優しそうな、小柄な方でした。

有楽座 明治41年12月1日に開場し、大正12年9月1日の関東大震災で焼亡。日本最初の全席椅子席の西洋式劇場。現在は有楽町のイトシアプラザ(ITOCiA)が建つ。坪内逍遥らの文芸協会、小山内薫らの自由劇場、池田大伍らの無名会、島村抱月らの芸術座、上山草人らの近代劇協会ほか、新劇上演の拠点になったことなどで知られる。

 1970年の『私の履歴書』(日本経済新聞社)では

「内郎」のけいこ中、室内のベッドで、他の恐怖を待つ屋外に、村人が集まってくるシーンがある。群衆の一人に子供かほしい、との希望が出た。結局、近くで遊んでいた私がかり出された。もちろん台詞はない。かわいそうとあって、「見えないからどいてよ」のひとことを与えられたのを思い起こす。
 これが私の舞台へ出た最初である。が、初舞台は、二年後、芸術座の帝劇公演、トルストイ作「アンナ・カレーニナ」の子役セルジーということにしている。というのは、「内部」の場合、役の名とてなく、その場に居合わせてのを場だったのだか、セルジーは違う。脚色の松居松葉(のち松翁)先生が私の出演を祝って、母親アンナとかれんな子供との別離場面を、特に一景書きたしてくれたのであった。

 平成7年『ここは牛込、神楽坂』の第5号で、娘・水谷良重氏と聞き手・竹田真砂子氏は『神楽坂談話室。水谷良重』による座談会を載せています。

水谷 その抱月、須磨子一座の「アンナ・カレーニナ」のアンナの息子役のセルジーというのが(水谷八重子氏の)正式な初舞台だったようです。そのときは竹久夢二さんがお人形の絵を書いてくださって、それを手拭に染めて配ったとか。

 残念ながら竹久夢二氏の「お人形の絵」はどんなものなのか分かりません。そこで、氏の「人形の絵」を調べました。参考までにこんな絵があるそうです。

 1923年(大正12年、18歳)9月1日の関東大震災を迎えます。

 かれこれ一ト月もたったでしょうか。九月一日のお昼ころです。裏庭に近い墓地の蝉の声をきくともなくききいっていますと、だしぬけに、ガラガラと屋鳴りがおこりました。思わずおフトンを頭からかぶりましたが、屋鳴りはやまず、その上にこんどは上下にゆれて、まるで船の難破を思わせるように激しくなってきます。余りのこわさに「お母さーん」「アーちゃま!(姉の愛称)」と叫びましたが、実は大きな声も出ず、ハネおきて柱や障子づたいに台所から裏庭へとびだしました。病床に長く寝ていましたので起き上れなかったのですが、驚いて立ち上ったわけです。墓地のそばに寝間着のままで、ちぢこまっておりますところに、母と姉が「よく起き上がれたね」といいながら血の気のひいた姿で、家からとびだしてきました。二人ともおびえながらも、私をかばうようにして、成行をぼう然と見守っておりましたが、ここで過ごした数刻は、本当にこの世の最後の阿修羅場かと思われました。幸いに私の家は無事でしたが、私の寝床にはいつのまに落ちましたか、屋根を打ちぬいて、一抱えもある墓石が落ちていました。これには二度びっくりしてしまいました。こうした騒ぎのなかを、友田さんがご自分の小石川のお家が焼け落ちたのにもかまわず、私がどうしているだろうと、お見舞に来て下さいました。(『芸 ゆめ いのち』)

 数日後、牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。

 義兄が私をつれて、神楽坂中腹、牛込会館の屋上にあがったのはいつだったろうか。日数のたっていなかったことだけは確かである。神田、日本橋、下谷にかけて、見わたすかぎり、蕭条とした焼け野原、痛ましいながめに、胸が熱く締められた。感情の激しい義兄竹紫は「日本はどうなるだろう」と、ひとこともらしたあとで「八重子、しっかりしよう。この会館が残っているかぎり、芝居はやれるよ」と言った。その目に涙のにじんでいたことを忘れない。(『私の履歴書』)

『ここは牛込、神楽坂』第5号で水谷八重子氏の「神楽坂の思い出」では、編集者註として

 古老の話などによると水谷八重子さんは、もと通寺町35(現神楽坂6丁目)、駿河屋さん(昔は油屋でいまは模型の店)の横を入ったところとのことなので、横寺町は記憶違いでしょうか。

大正11年東京市牛込区

 大正11年の地図では通寺町35は赤の場所です。地図上では確かにここが通寺町35になるのですが、しかし「現神楽坂6丁目の駿河屋さん」は通寺町64(緑色)になります。通寺町35か、通寺町64か、どちらかが間違えています。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項によれば、氏の住所は大正6年頃~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年頃~15年頃は通寺町61(上図で青色)になっています。

 大正12年に関東大震災が起こっていますから、通寺町35ではなく、水谷竹紫氏は実際には通寺町61にいたのでしょう。現在も住所としては同じでです。「現神楽坂6丁目の駿河屋さんの横を入ったところ」が正しいと、住所も通寺町61が正しいのでしょう。

 それからは、義兄は文字通りに日夜奔走しまして、十月十七日から一週間の公演の日取りをきめました。出演者は花柳章太郎、小堀誠、石川新水、藤村秀夫さん等、新派の“新劇座”の方たちが中心で、そのなかに私も加えて頂きました。
 牛込会館は寄席をひとまわり大きくした程度の小屋で、舞台は間口が三間半、奥行も二間くらいのものでしたが、何しろ震災後、はじめての芝居でしたので、千葉や横浜あたりからもかけつけられたお客さんがあって、大へんな盛況でした。
 出し物は『大尉の娘』、『吃又の死』のほかに、瀬戸英一さんの『夕顔の巻』がでました。私は『ドモ又の死』と『夕顔の巻』の雛妓に出演いたしました。衣裳など何一つありませんので、私や義兄の着物はもちろん、神楽坂の芸者さんからもいろいろお借りして問にあわせました。
 楽屋で顔をつくりながら、ふと窓の外をながめますと、入口から遙か牛込見付まで延々と坂に行列をつくったお客さんが、たちつくしておられました。開場後、はみでたお客さんのなかには、「横浜から歩いてきたのだからみせてよ」と、入口で嘆願している方もあり、いまさら芝居とお客さんの結びつきの深さを感じさせられました。
 一方、この公演の成功で自信を得ました義兄は、私を中心に“芸術座”再興の肚をきめて、一路その準備をすすめて行きました。(『芸 ゆめ いのち』)

 ここでは「牛込見付」ですから神楽坂下に人が流れています。神楽坂上に流れたような日もありました。下では「肴町」、これは「神楽坂上」に流れて行っています。

 牛込会館での初日を待ちかねて集まってきた観衆は、中腹から坂上の昆沙門様前を越し、肴町の電車通り近くまで列を作った。会場は、高級寄席のような建物だったので、収容人員も、すしづめにしで、五百人も入れたらギリギリだったろう。(『私の履歴書』)

 1924年(大正13年)、義兄の水谷竹紫が第二次芸術座を創立し、その中心メンバーとして活躍します。


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