神楽坂・新宿|大宅壮一

文学と神楽坂

ちなみに大宅壮一氏が書いた昭和26年4月の「サンデー毎日」の『歓楽街五十年史』のうち「神楽坂・新宿」でも全く同じ光景が出てきます。昭和の時代、20年経っても、神楽坂は「盛り場の仲間入りもできないほどのさびれ方」になっていました。

 山の手方面の代表的歓楽街というよりも、二流の芸者町として知られていた神楽坂が、銀座の繁栄を奪ったかのような様相を呈したのは、大震災で焼け残ったおかげである。
 それだけではなく、ここには電車が通っていないし、道路もたいして重要ではないので、燈ともしごろ車馬一切が通行止めとなり、そのために、極めて安全で快適なプロムナードとして喜ばれた。夜はおびただしい人出で、銀座から移ってきたカフェープランタンへ毎晩のように通ってくる文人たちの間に混じって、お座敷着姿の芸者がつまをとって歩く光景は、当時の神楽坂でないと見られないものだった。
 牛込演芸館文明館牛込亭柳水亭などのほかに、牛込会館があって、ここではまだういういしかったころの水谷八重子の踊りや、いまはソ連で対日放送をやっているとかいう岡田嘉子の舞台姿も、よく見られたものだ。横町には松井須磨子が首をくくった芸術座の跡があり、それが後にアパートになって、一時、私もそこに住んだことがある。
 一流の洋食を食わせた田原屋オザワ、菓子の紅屋、縄のれんの飯塚などなど、名前をいえば思い出す人も多いと思うが、それらも、戦前すでに統制で影が薄くなり、姿を消したものが多い。特に戦後の神楽坂は、歓楽街どころか、盛り場の仲間入りもできないほどのさびれ方である。

褄をとる

燈ともしごろ 日が暮れて、明かりを点し始めるころ
プロムナード 散歩道。遊歩道。
カフェープランタン 岩戸町二十四番地(現在は岩戸町一番地)にありました。
つまをとる 褄を取る。芸者が裾の長い着物の褄を手で持ち上げて歩く。

神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。映画館と寄席

牛込会館 牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 柳水亭 牛込亭 文明館
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