文豪の素顔|森鴎外(7)

文学と神楽坂

 きちんと二十分お邪魔をして、それから千駄木の裏坂を根津権現
の方へおりていつた。もう夕暮れで、あの崖下の町はすつかりたそ
がれかかつてゐる。豆腐屋のラッパがあつちでも、こつちでも聞え
て、吹く風も寒々としてゐる。
 とある横丁の角を曲ると、そこに二階建ての、こぢんまりした下
宿屋がある。ずらりと並んだ二階障子に赤黄い灯がともつて、樹影
からすけてみえる崖上の灯影の重なりをみてゐると、旅にゐるやう
な情趣と哀愁が限りなく湧いてくる。
「ねえ、杢さん。あすこにみえてゐるあの灯が鷗外先生のお書斎ぢ
やないですか。」と、いふと、杢さんは脊丈のびをして、
「さうだ。あれメートルの書斎だ。わりに近くみえるね。」
「僕、この下宿へ移つて来ようかしら。」といふよりも早く、もう
僕の決断はたちどころに極つていきなり入口の硝子戸をあけて入る
と、髪の毛のふさふさしたおかみさんか応対に出てくる。二階の四
畳半が賄つきで、月十一円五十銭だといふ。幸ひ千朶山房の真下に
窓があいてゐる部屋なので、私は一も二もなくその場で契約をきめ
てしまつた。玄関の土間へつッたつて待つてゐた杢さんの大学生姿
が、きつとおかみさんの信用をかつたのであらう。僕一人だつたら、
或は断わられたかもしれなかつた。何にしろもう十二月にかからう
といふのに、寸のつまつた一枚、よれよれになつた繩のやうなボ
ロ兵児帯といふ僕のかつかうは、決して、見よい風態ではなかつた。
三寸以上もある長髪を蓬々とちぢらして頬骨のつッぱつた血色のよ
くない顔に、鉄ぶちの眼鏡をかけてゐようといふのであるから、ど
うみたつてヤクザな文学青年か、雑誌ゴロ以上にはふめなかつた。
根津権現 ネズゴンゲン。根津神社。東京都文京区根津にある神社。地図では緑色で描いてあります。
千朶山房と根津神社

千朶山房(赤い矢印)と根津神社(緑)

賄つき 賄い付き。まかないつき。下宿・寮などで、食事も付いていること
千朶山房 せんださんぼう。1年2か月ほど暮らし、地名である千駄木に由来して「千朶山房」と呼びました。また夏目漱石もここに居を構え、このときは「猫の家」と言われています。この家屋は愛知県犬山市にある「明治村」に移築、公開されています
あわせ。裏地のある和服。10月から5月までの間に着るもの
兵児帯 へこおび。男子、子供用の帯。並幅の布を胴に2、3重に回し、うしろで結ぶ。
蓬々 ほうほう。髪やひげがのびて乱れているさま
ゴロ 「ごろつき」の略。あちこちをうろついて他人の弱みにつけこんで嫌がらせをする悪者のこと
ふむ 前もって見当をつける。見積もりや値ぶみなどをする

文学と神楽坂

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