ポール

文学と神楽坂

 現在、神楽坂5丁目2~3番地という地籍はありませんが、本来の2番地はおそらく昭和初期の大和屋から小谷野モスリンまでの地域で、現在のフランスのパンづくりの老舗ポール(Paul)等の神楽坂テラスです(現、1番地2)。3番地はおそらく「貯蔵銀行」「東洋電動」「うを匠」などの地域。4番地は昭和12年でもありません。なお、相馬屋は5番地でした。

 大和屋から小谷野モスリン店までの比較的広い場所が集まって神楽坂テラスになりました。神楽坂テラスの場所はここ。

 神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では……。なお、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「佐藤さん」は亀十パン店主。(現、Miss Urbanのところで営業中)(当方の注。Miss Urbanもなくなり、「おかしのまちおか」になっています)

神楽坂5丁目(1)

神楽坂5丁目2番地(大和屋から小谷野モスリンまで)。

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馬場さん それで、漆器屋(大和屋)さんのあとに(当方の注。5丁目2番地)、「つくし堂」っていうお菓子屋さんが入ったのね。
相川さん 戦争で焼かれてからいなくなっちやってね。焼かれるまではいましたよ。その隣がね、額縁屋さんとブロマイドを売っていたうちがありましてね、そのあとすぐに「神楽屋」というメリンス屋さんがありましてね、それがちょうど。
馬場さん 「魚金」のとこだ。
相川さん 三尺の路地がありまして、奥に「吉新(よしん)」という割烹店があった。
佐藤さん ああ、魚金さんの奥の二階家だ。
馬場さん 戦後はね。いまの勧信(注)のところまでつなかっているとこだ。(注)この勧信は現在の百円パーキング
佐藤さん じやあ、魚金さんのところの路地は戦前からずっとあったんですか?
相川さん ああ、あったね。魚金さんの手前、勧銀さんに寄ったところに「小谷野モスリン店」ってモスリン屋さんがありましてね。

吉新については出口競氏の『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)で

區役所前の吉熊(よしくま)は今は無慘や、代書所時計店等に()してゐるが、区外の人々にも頷かれる有名な料理屋でかつては一代の文星紅葉山人が盛んに大尽を極めこんだことが彼の日記にも仄見える。此店の営業中慣例のやうに開かれた早稲田系統の諸会合も今は其株を吉新(よししん)にとられてしまつた。

と書かれています。こちらは「よししん」と読むようです。
「神楽屋メリンス」について、大宅壮一氏は『モダン層とモダン相』(大鳳閣書房、昭和5年、1930年)の1章「神楽坂通り」を書き

神楽坂の通りを歩いていて一番眼につくのは、あの芸者達がお詣りする毘沙門様と、その前にあるモスリン屋の「警世文」である。この店の主人は多分日蓮凝りらしく、本多合掌居士を真似たような文章で「思想困難」や「市会の醜事実」を長々と論じたり、「一切の大事の中で国の亡ぶるが大事の中の大事なり」といったような文句を書き立てた幟りを店頭に掲げたりしているのを道行く人が立停って熱心に読んでいるのは外では一寸見られない光景である。これが若し銀座か新宿だとすると、時代錯誤であるのみならず、又場所錯誤でもあるが、神楽坂だとそういう感じを抱かせないばかりか、その辺りの空気とびつたり調和しているようにさえ見えるのである。

現在の店舗、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」、昭和12年と昭和27年の「都市製図社」「火災保険特殊地図」、1960年の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)、住宅地図(昭和55年)を加えると、こうなります。上州屋から東京貯蓄までの5店舗が、現在の3店舗に減っています。




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