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柿の木横町

蜂屋柿

文学と神楽坂

 揚場町と下官比町との間を柿の木横町と呼んでいました。その南角、つまり、おそらくブックオフがある所(下図)に、柿が一本立っていました。市電ができる時に、つまり明治38年(1905年)以前に、この柿は伐採されましたが、ほかの蜂屋柿の写真を見ても、この柿の実は、かぞえ切れないほどの量だったと思います。
 東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では

●柿の木横町

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 かき横町は揚場町と下官比町との境なる横町をいふ。其の南角に一株の柿樹あるを以て名く。現今其の下に天ぷらを鬻げる小店あり。柿の木●●●と稱す此柿の樹は色殊に黒く。幹の固り三尺餘高さ三間半。常に注連縄を張りあり。
柿の木横町一に澁柿横町●●●●ともいふ。この樹澁柿を結ぶを以てなり。相傳へて云ふ。徳川三代の將軍家光公。この柿の枝に結びたる實の赤く色づきて麗しきを。遠くより眺望せられ。賞美し給ひしより。世に名高くなりたりと。但この樹のある處は舊幕臣蜂屋●●何某の邸にて。何某いたくこの樹を愛したり。後世此樹に結ぶ實と。同種類の柿の實を蜂屋柿●●●といふとあり。因て嘉永五年の江戸の切繪圖を檢するに。蜂屋半次郎と見ゆ。即ち其の邸宅の跡なりしこと明かなり。

昭和5年「牛込区全図」


[現代語訳]柿の木横町は揚場町と下官比町との境の横町である。その南角に一株の柿の木があり、これが名前の由来である。現在、この下に天ぷらを揚げる小さな店ができている。この柿の木は色は殊に黒く、幹の周りが1メートル以上、高さは6.4メートル。絶えずしめ縄を張っている。
柿の木横町一番地は渋柿横町ともいう。この木は渋柿を作るためだ。言い伝えられてきた話だが、徳川家光三代将軍が、この柿の枝になった実が赤く色づき麗しいと、遠くから眺めて賞美し、これで世の中に名高くなったという。この木の生えた場所は、かつての幕臣蜂屋氏の邸で、氏はいたくこの樹を愛したという。後世にこの木に結ぶ実と同種類の柿の実を蜂屋柿といっている。そこで嘉永五年の江戸切絵図を調べると、蜂屋半次郎という名前が見えた。すなわち、その邸宅の跡とは明らかだったという。

鬻ぐ ひさぐ。ひさぐ。売る。商いをする。
注連縄 一般的には聖域を外界から隔てる結界として使う縄
相伝 代々受継ぐこと。代々受伝えること。
蜂屋柿 はちやがき。柿の一品種。岐阜県美濃加茂市蜂屋町原産の渋柿。果実は長楕円形で頂部がとがる。干し柿にする。

 新宿歴史博物館の「新修新宿区町名誌」(平成22年)でも同様な説明があります。

揚場町(中略)  また、下宮比町との間を俗に柿の木横丁といった。この横丁の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があり、神木としてしめ縄が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る実が美しいのを遠くから見て、賞賛したので有名になり、そのことから名付いたという。この柿は旗本蜂屋半次郎の敷地内にあったもので、蜂屋柿ともいったが、ここが蜂屋柿の名称発祥地といえる。蜂屋柿は渋柿なので、渋柿横丁ともいった。この柿の木は、外堀通りに市電(のちの都電)が敷設される時に道路拡張が行われ、伐り払われたという(町名誌)。

蜂屋柿の名称発祥地 現在の名前は岐阜県の蜂屋町から来たもので、違うと思います。
外堀通りに市電(のちの都電)が敷設 Wikipediaによれば、明治38年(1905年)に、外濠線東竹町(竹町)から神楽坂(神楽坂下)までが開業。

 夏目漱石氏の『硝子戸の中』21では、「柿の木横町」が出てきます。

 彼等は築土つくどりて、かきよこ町から揚場あげばて、かねて其所そこ船宿ふなやどにあつらへて置いた屋根やねぶねに乗るのである。

牛込停留場と停車場

 停留場と停車場、簡単には駅。でもこの2つ、どう違うの。

停留場は路面電車、市電、都電

 現在も都電が停車し、客が乗降する場所は停留場と呼びます。バスではバスの停留になります。

停車場は鉄道(省鉄、国鉄、JR線など)

 こちらは停車場。簡単に言えば、駅。しかし、昔は停留所と停車場、この2つを正確に言わないと分からなかったのです。

ちなみに見附は

 なお、見附とは江戸城の外郭に構築された城門のこと。牛込見附も江戸城の城門の1つで、この名称は城門に番所を置き、門を出入りする者を見張ったことに由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。

 しかし、この牛込見附という言葉は、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)も指し、さらにこの一帯も牛込見附と呼びました。大正時代や昭和初期には「牛込見附」は飯田駅に近い所にあった「城門」ではなく、神楽坂通りと外堀通りの4つ角で、市電(都電)の「牛込見附」停留所の周辺辺りを「牛込見附」と呼んだほうが多かったと思います。

鉄道

昔の「牛込駅」。線路が変に曲がっていますが、牛込駅があったため

神楽坂|大東京案内(2/7)

前は大東京案内(1/7)です。

神楽坂の表玄関は、省線飯田(いいだ)(ばし)駅。裏口に当るのが市電肴町(さかなまち)停留場。飯田橋駅を、牛込見附口へ出て、真正面にそそり立つやうな急坂から坂上までの四五丁の間が所謂(いわゆる)神楽坂(かぐらざか)の盛り場だが、もう少し詳しく云へば、神楽町上宮比(かみみやび)肴町岩戸町通寺町(とおりてらまち)等々で構成(こうせい)され、この最も繁華(はんくわ)な神楽坂本通り(プロパア)は神楽町、上宮比町、肴町の三町内。さうしてその中心は、(おと)にも高い毘沙門(びしやもん)さま。その御利益(ごりやく)もあらたかに、毎月寅と午の日に立つ縁日(えんにち)書き入れの賑ひ。
肴町

大正12年、牛込区の地形図。青丸が肴町停留場

省線 現在のJR線。1920年から1949年までの間、当時の「鉄道」は政府の省、つまり鉄道省(か運輸通信省か運輸省)が運営していました。この『大東京案内』の発行も昭和4年(1929)で、「省線」と呼んでいました。
市電 市営電車の略称で、市街を走る路面電車のこと。
肴町停留場 市営電車の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」四つ角)で、大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。
神楽町 現在の神楽坂1~3丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
上宮比町 現在の神楽坂4丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
肴町 現在の神楽坂5丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
岩戸町 大久保に向かい飯田橋からは離れる大久保通り沿いの町。神楽坂通りは通りません。以上は神楽町は赤、上宮比町は橙、肴町はピンク、通寺町は黄色、岩戸町は青色に書いています。
通寺町 現在の神楽坂6丁目です。昭和26年に現在の名前に変わりました。

昭和5年 牛込区全図から

昭和5年 牛込区全図から

プロパア proper。本来の。固有の。
善国寺 ぜんこくじ。善国寺は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の毘沙門天は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
書き入れ 帳簿の書き入れに忙しい時、商店などで売れ行きがよく、最も利益の上がる時。利益の多い時。

ショウウインドーの(まばゆ)さ、小間物店、メリンス店、(いき)な三味線屋、下駄傘屋、それよりも(うるさ)いほどの喫茶店、(うま)いもの屋、レストラン、和洋支那の料理店、牛屋(ぎゆうや)、おでんや、寿司屋等々、宵となれば更に露店(ろてん)數々(かずかず)、近頃評判の古本屋、十銭のジャズ笛屋、安全カミソリ、シヤツモヽ引、それらの店の中で、十年一夜のやうなバナナの叩き売り、それらの元締なる男が、また名だゝる 若松屋(わかまつや)近藤某(こんどうぼう)

小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの。
メリンス スペイン原産のメリノ種の羊毛で織った薄く柔らかい毛織物。同じ物をモスリン、muslin、唐縮緬とも。
牛屋 牛肉屋。牛鍋屋。
露店 ろてん。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
ジャズ笛屋 ジャズで吹く笛。トランペットなどでしょうか。
シヤツモヽ引 「シャツ・パンツ」の昔バージョン。
元締 もとじめ。仕事や集まった人の総括に当たる人。親分。
名だたる なだたる。名立たる。有名な。評判の高い。

若松家 「神楽坂アーカイブズチーム」編『まちの想い出をたどって』第4集(2011年)で岡崎公一氏が「神楽坂の夜店」を書き

神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私か振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家かあり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一冢)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた

若松家はテキヤの1つだったのでしょう。なお、テキヤとは的屋と書き、盛り場・縁日など人出の多い所に店を出し商売する露天商人のことです。

文学と神楽坂