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牛込郷愁

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込うしごめ郷愁ノスタルジヤ」です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、起きました。

 なお、最後の「なつかしい店だ」と次の「こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう」は同じ段落内です。長すぎるので2つに分けて書きました。

 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈(けんとう)がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
スウハイ 崇拝。敬い尊ぶこと。
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
センチメント 感情。情緒。感傷。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
 酒に添えるものの総称。一般に魚類。酒席の座興になる話題や歌舞のことも。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう。相馬そうま! 御存知でしょう有名な紙屋だ。当時僕たちはこゝで原稿紙を買った。僕と國木田くにきだ虎男とらお獨歩どっぽの長男)と、平野威馬雄いまおヘンリイビイブイというアメリカ人で日本の勲章を持っている人のせがれ)と三人で、相馬屋へ行ったことがある。五百枚ずつ原稿紙を買った。お金を払おうとした時に僕たちに原稿紙包みを渡した小僧さんが、奥から何か用があって呼ばれた。咄嗟とっさに僕が「ソレッ」と言った(あゝ、ツウといえばカア、ソレッと言えばずらかり、昔の友達は意気があいすぎていた)。三人の姿は店から飛び出ていた。金はあったのだ。払おうとしたのだ。嘘ではない、計画的ではない。ひょッとの間に魔にとりつかれたのだ(ベンカイじゃありませんぞ)。僕は包みを抱えたまゝ、すぐ隣の足袋屋の横を曲がった。今この足袋屋は石長いしなが酒店の一部となってなくなっている。大きなゴミ箱があった、フタを開けてみると、運よくゴミがない、まず包みをトンと投げこみ、続いて僕も飛びこんだ。人差し指で、ゴミ箱のフタを押しあげて、目を通りへむけたら、相馬屋という提燈ちょうちんをつけた自転車が三台、続いて文明館のほうへ走って行った。折を見はからって僕は家へ帰った。もうけたような気がしていたら翌日國木田が来て、「だめだ、お前がいなくなったので待っていたら、つかまってしまッたぞ。割前わりまえをよこせ」と取られてしまった。苦心して得だのは着物についたゴミ箱の匂いだけだッた。相馬屋の原稿用紙はたしかにいゝ。罪ほろぼしに言っているのではない。
 まだある。二十一、二の時分に神楽館かぐらかんという下宿にいた。白木屋の前の横丁を這入ったところだ。片岡鐵兵てっぺいことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎かわさき備寛びかん間宮まみや茂輔もすけ、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

国木田虎男 詩人。国木田独歩の長男。「日本詩人」「楽園」などに作品を発表。詩集は「鴎」。ほかに独歩関係の著作など。生年は明治35年1月5日、没年は昭和45年。享年は満68歳。
平野威馬雄 詩人。平野レミの父。父はフランス系アメリカ人。モーパッサンなどの翻訳。昭和28年から混血児救済のため「レミの会」を主宰。空とぶ円盤の研究や「お化けを守る会」でも知られた。生年は明治33年5月5日、没年は昭和61年11月11日。享年は満86歳。
ヘンリイビイブイ ヘンリイ・パイク・ブイ。Henry Pike Bowie。裕福なフランス系アメリカ人。米国で日米親善や日系移民の権利擁護に貢献し、親日の功で、生前に勲二等旭日重光章を贈与。
ずらかる 逃げる。姿をくらます。
ベンカイ 弁解。言い訳をする。言いひらき。
石長酒店 正しくは万長酒店です。サトウハチローからが間違えていました。
意気があう 「意気」は「何か事をしようという積極的な心持ち、気構え、元気」。「息が合う」は「物事を行う調子や気分がぴったり合う」
割前 それぞれに割り当てた額
アイアンソルジャー おそらく鉄兵を鉄と兵にわけて、英語を使って、鉄はアイアン(iron)、兵士はソルジャー(soldier)としたのでしょう。
まげる 曲げる。品物を質に入れる。「質」と発音が同じ「七」の第二画がまがることからか?
たもと 袂。和服の袖で袖付けより下の垂れ下がった部分。

春月[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

春月

現在は三菱東京UFJ銀行の一部

 春月はそば屋さんでした。明治より古くから営業し、終戦後も、しばらくは営業して、たとえば、昭和27年、都市製図社の火災保険特殊地図ではやっていますが、昭和30年代には空き地になり、昭和35年には三菱銀行になります。場所は三菱東京UFJ銀行の一部です。地図はここです。

 歌舞伎役者の三代目中村仲蔵氏が書いた『手前味噌』(昭和19年)で、弘化4(1847)年9月には

 挑灯の用意すれど蝋燭を買ふ家なく、四辺は屋敷町ゆゑ、探らぬばかりにして、牛込山伏町より神楽坂の通りへ出る。ヤレ嬉しやと春月庵といふ蕎麦屋へ這入り、蕎麦を喰ふ。それより堀端へ出で、順路猿若町の自宅へ帰る時に、四ツなりし。お千賀、お紋も留守中の難渋さぞかしと、互ひに難儀話に時を移し、我れ土産は少しだがといって金十両出す。女ども涙を飜して大悦び、その夜は足を延ばして緩々旅の労れを休めけり。

 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

春月――毘沙門並びの角店。二階に座敷もある立派なそば屋ですが、時勢は喫茶を一諸にさせてゐます。

 子母沢寛氏の『味覚極楽』(昭和32年、インタビューは昭和2年、他も同じ)「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」では

牛込神楽坂の「春月」もいい。もり、ざるそば、何んでもいいが、あのうちの下地に特徴がある。この方の通人にいわせると、そばは下地をちょっぴりとつけて、するすると吸い込むものだというけれども、私は矢張り下地を適当につけて、囗八分目に入れて行くのがいいと思っている。

 以上は竹内薫兵氏の話ですが、これを受けて子母沢寛自身も「寸刻の味」を書いています。

 神楽坂の「春月」は書生の頃から久しく通った。はじめ何んの気なしに入ったらうまい。通っている中に気がついたのだが、よく天ぷらだの何んだの、吸タネでお酒をのんでいる人が大変多い。大抵行く度にこういう人を見る。天ぷら、五目、鴨なん(、、)というようなものの下地だけをとって酒をのんでいる。後ちに酒のみの先輩にこれを話したら「酒というものは蕎麦でのむと大層うま味が減るものだ、だから蕎麦屋では大抵飛切り上等のものを置く、酒のみは酒をのむためにここへ入る。蕎麦をとっても酒をのみ終えてから御愛想に食う位のものだ。吸タネで酒をのむなどはところがら粋な奴が多いのだろうし、酒も余っ程いいのを出しているな」といった。

 また、子母沢寛氏の『味覚極楽』の「四谷馬方蕎麦 彫刻家 高村光雲翁の話」の高村光雲氏は

 麻布永坂の「更科」、池の端の「蓮玉座」、団子坂の「薮そば」はその頃から有名で、神楽坂の「春月」は二八そば随一のうまさだなどといわれたものだ。

 二八そばとは2x8=16銭で食べさせたそばのこと。あるいは、うどん粉とそば粉の割合を2対8でつくったそば。また、そば粉2、うどん粉8の割合でつくった下等なそば。この二八そばの語源はほかにもいろいろあります。

 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第4号の「語らい広場」では

『手前味噌』の中に見つけた神楽坂のこと
 昆沙門様の隣、三菱銀行の角地に銀行ができるまで「春月」といふそばやさんがありました。戦前からあったお店だったと思ひますが、その頃のことはおぼえてゐません。昭和二十年代、まだ麺類外食券なんてものが必要だった時代(そんなこともあったのです)に、随分よく通ったものです。きりっとした、いはゆる小股の切れ上がったといふお内儀さんがいかにも江戸前といふ感じで、いつも和服で店内を切り廻してゐました。銀行の進出で消えてしまひ残念な思ひがしたことをおぼえてゐます。はやった店だったのに。

田邊孝治