牛込区史」タグアーカイブ

善国寺(写真)大正12年

文学と神楽坂

 大正12年、東京市公園課は「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」を出版し、その74は肴町の善国寺を撮った写真です。写真帖の発行日は5月1日で、同年9月の関東大震災の直前でした。

毘舍門天

 1頁前の説明文は「日蓮宗池上本門寺末である。文禄麴町に創建し、寛政年間此地に移る。僧日惺の開祖で日蓮宗録所である。本尊毘門天の縁日寅の日には賽者熱閙繁昌を極めて居る」

寺末 まつじ。本山の支配下にある寺院
文禄 1592年から1596年まで
麴町 東京都千代田区西部の地名。皇居の半蔵門から西にのびる新宿通り(甲州街道)をはさんで東西に広がる。
寛政 1789年から1801年まで
日惺 にっせい。安土桃山時代の日蓮宗の僧。
録所 そうろく。一般に寺院を統轄し、人事をつかさどる僧職名
 しゃ。梵語の音写。舎利とは仏陀の遺骨のこと
賽者 さいじん。神社仏閣に参詣する人。
熱閙 ねっとう。ねっどう。人がこみあって騒がしいこと。

 ほぼ同じ画角の牛込区史(昭和5年)掲載の写真と比べながら詳しく見ます。
 境内を囲む石囲いには1本ずつ寄進者の名が刻まれています。左右の門柱にはアーチ状に樹木を透かし彫りにした飾りがあります。中央の灯籠型の門灯は「◯門」か「◯川」と読めます。アーチは牛込区史にも見えますが、戦災で失われたようです。門柱と石囲いは戦後の昭和46年、再建まで使われました(ID 8299)。
 門柱の前には一対の屋根付き提灯。右は「大毘沙門天」、左は同じものが横を向いていて「(奉)納」。この提灯は石囲いの中に立つ柱で支えており、「牛込区史」にもあるので常設のもの思われます。
 境内に入りましょう。5列の石畳が本堂に通じ、その両側に背の高い灯籠が4灯ずつ。左右対称ではなく互い違いに配置されています。灯籠の下に碍子がいしらしきものがあるので電球だったでしょう。この灯りは牛込区史では中央一列の傘型照明に変わっています。
 正面の賽銭箱の左右の隅には「牛込」と小さく切り文字がありますが、中央の大きな字は判読できません。上から本坪鈴ほんつぼすずが垂れています。本堂は入母屋屋根で、破風が正面を向いています。
 手前の石畳の左右にも別の建物があり、本堂の右にも大きな屋根が見えます。木は裸になっているものもあり、この写真は冬か初春でしょう。

善国寺参道の石畳

文学と神楽坂

 地元の方が善国寺参道の石畳という随筆を送ってくれました。「毘沙門さまの写真を見ていて発見があったので、まとめました」と、地元の方。

 かつての善国寺の境内は未舗装で、大きな敷石を並べて参道にしていました。全体の様子は新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の ID 8271-ID 8272(昭和44年頃)が分かりやすいようです。正門から本堂に続く参道と、西側の脇門から庫裏に続く道、あとは境内各所を結ぶ敷石です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

『牛込区史』(臨川書店、昭和5年)と、中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社、昭和46年)に掲載されている戦前の写真は、正門から本堂までずっと5列の石が敷かれています。

東京都旧区史叢刊「牛込区史」臨川書店。昭和5年、昭和60年復刻版。

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

 この敷石は戦後も使われたと想像されます。ID 9503(昭和20年代後半)には、昭和26年(1951年)に再建された木造の毘沙門堂(本堂)が写っています。参道の石畳が、途中でよじれたようになっている部分があります。良く見ると手前から途中までの石敷は5列。よじれたような部分から先は石のサイスが大きくなり、本堂との間は4列です。再建本堂が戦前より小規模で、堂前まで石畳を伸ばしたのかも知れません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503 神楽坂 毘沙門天

 昭和44年(1969年)頃、ID 8245も同様に本堂手前の敷石は4列です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 本堂は、昭和46年(1971年)にコンクリート造で建て替えられ、規模も大きくなりました。この時に敷石を改めたと思われます。昭和54年1月のID 11830では幅の異なる石が左右対称に敷かれ、さらに境石に挟まれている様子が分かります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 同時期のID 11833では、毘沙門横丁の石囲いに立てかけるように石材が写っています。これが撤去した古い敷石である可能性が高いです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11833 神楽坂5-37 善国寺の横の道

 その後、参道の石畳は敷石6列に改められ、少し全体の幅も広くなったようです。また境内は北西側の側の遊園部分を除いて舗装されて現在に至ります。いつ舗装されたかは分かりませんが、境内にあった駐車場を毘沙門横丁側に移した時か、正門を今の赤い山門に変更した平成6年(1994)かもしれません。

舗装 アスファルト舗装です。

善国寺の舗装


神楽坂1丁目(写真)昭和5年頃 ID 9378

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9378は、昭和5年頃「牛込見附(現在は神楽坂下)」交差点近くから神楽坂1丁目などをねらい、また、この写真は東京市牛込区役所蔵版「牛込区史」(昭和5年3月31日、590-1頁)に出ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9378 神楽坂

 写真のキャプションでは……

  神樂坂の今昔 現在
 近時矢來より牛込見附の處、道路整備し就中見附より肴町に至るあたり、獨り毘沙門の縁日と云はず四時散策の人が絶へない。兩側店舗の家並みは落付きを見せ、そこに一鮎の情味さへ漂はせ神樂坂特有の氣分のみなぎつてゐる處、山の手方面には他にその類例がない。

牛込見附 これは「牛込見附」(現在の神楽坂下)交差点。
就中 なかんずく。その中でも。とりわけ。
肴町 現在の神楽坂5丁目

 紅白テープで巻かれた柱が坂下から坂上まで覆い、これは昭和10年に撮られた別の写真でも見られます。また、右2本目の柱に道路を照らす電灯もあると思います。「神楽坂通 善國寺」とも無理して読めるのぼり旗も沢山でています。
 電柱(電信電話柱)1本に数十本の架線がでています。多重通信はまだなく、1回線で電線1つが必要だったからです。
 前面に路面電車が走り、さらに左側には電力を供給する架線柱が見え、下を向いておそらく電灯が2つです。
 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」(平成9年)によれば、昭和5年、交差点「牛込見附」から上に向かって右手は「赤井足袋店、田中謄写堂、萩原傘店、山田屋文具、斉藤洋品店、みどりや、紀の善寿司」、左手は「寿徳庵菓子、畔柳氷店、伊勢屋乾物、翁庵そば、須田町食堂、東京堂洋品、陶仙亭中華」があったといいます。はっきり分かるのは右の角の赤井足袋店(足袋形の白地看板)、左の角の寿徳庵菓子(「大福」の看板)だけです。
 電柱の間から見える「名〇」の看板はID 7641と比べると赤井の隣と思われます。また寿徳庵の左には「古老の記憶」「私のなかの東京|野口冨士男」などによれば「娘義太夫の定席『琴富貴』」があったとありますが、残念ながら分かりません。寿徳庵前の電柱には「西條医院」(若宮町)と別の病院の広告が見えます。
 また右側の坂の中腹、ひときわ大きい入母屋屋根の3階建ては「場所的に佐和屋ではないか」と地元の人。

神楽坂1丁目(昭和5年頃)
  1. 電柱看板「西條醫院」「醫院」
  2. 寿徳庵(大きな看板「大福」)
  1. 赤井足袋店。足袋形の白地看板と看板「名」

善国寺(写真)昭和45年 ID 8299-ID 8300

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8299とID 8300を見ましょう。撮影は1970年(昭和45年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。
 ではID 8299を最初に見ていきましょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8299 善国寺

 季節は冬で、歳末セール中。歩道にはみ出す形で吊り屋根があり、提灯に「夢の歳末市福引所」とあります。
 正門の中の左側の小屋には「神楽坂通り商店会 福引所 入口」。餅花飾りに重なるようにたくさんの小さな電球が見えます。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。
 福引き所の中にはガラガラと回す多角形の箱(正式名称は「新井式回転抽選器」)があり、壁には上位当選者の貼り紙らしきものも見えます。
 門柱と石囲いはすすけていて、破損も目立ちます。昭和5年刊の「牛込区史」(臨川書店)の写真と比べると、門柱は戦前のままの焼け残り、石囲いは手直しをしたように見えます。石囲いの柱の寄進者の名前ははっきりと見えませんが、拡大すると丸い紋の下に2-3文字が多いので、おそらくは芸妓の名でしょう。
 少なくとも右側の壁の窪みは戦前の写真にはありません。窪みのさらに右には水抜きと思われる穴があり、その上には何か書かれた石版がはめていますが、詳細は不明。
 石囲いの向こうは石造の滑り台(児童遊園)です。
 手前の左側には車道と歩道を区分する1本のガードパイプ、右側は何もありません。

ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。

ビタ明治牛乳

 次はID 8300で、正門の右にある脇門を写しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8300 善国寺

 女性が花を売る準備をしています。この露天の花売りは「ほんの数年前、平成が終わる頃まで続いていました」と地元の方。門内の左側にある棚のようなものはID 8271-8272と比べると児童遊園の砂場の日よけです。
 門脇には大きい字で書かれた看板「易占 毘沙門天 易断所 藤墳蕙秀 電話 2〇〇 2769番」との6本線(こう)。さらに右側の7字で書かれた看板はこの写真では読めませんが、田口政典氏の「毘沙門天遠景」の看板には「橘田耳鼻咽喉科」。門の両脇の花屋も分かります。
 歩道にはガードフェンスがあり、車道に小型トラック「いらない水枕 アイスノン」「柴崎医療器KK」。その後ろは日産サニー。
 街灯には「神楽坂通り」、提灯「〇〇歳末市」と餅花飾り。ワイヤーが左右に伸びて提灯5個が下がっています。ただ細いワイヤーには電線が見えないので、提灯が夜に光ることはなかったと思われます。

易占 えきせん。算木さんぎ筮竹ぜいちくを用いてする易の占い。
易断 えきだん。易による占い。運勢、吉凶を判断する
 け。えきで占った結果あらわれるかたち。陰と陽とを示す二種のこうがあり、これを三つ組み合わせたけん・離・震・そんかんごんこんは基本の八卦
 こう。えきを組み立てている横画。陽爻と陰爻の二種がある。
水枕 みずまくら。後頭部の冷却に用いる枕の一種。氷枕こおりまくらは氷を使う。

郷土落穂集

文学と神楽坂

「新宿郷土研究」第5号(新宿郷土研究会、昭和41年)に「郷土落穂集」という多分事実を集めたものがあります。どこかに原典があるはずです。たとえば「牛込区史」、各種新聞の縮刷版などです。事実1件は部分的にはわかっています。あと1件は残念ながらわかりませんでした。では「郷土落穂集」です。

新宿郷土研究第5号

 郷 土 落 穂 集

避病院第1号と牛込衛生会  牛込には、中川忠純を会長とする牛込衛生会というのがあった。これによって、明治19年(1886)全国的に流行したコレラ病の発生に際して、升本喜兵ヱら9氏が共同病院設立委員になって建設に活躍したものである。この結果区内78カ町のうち43カ町の賛同、625円の寄附金によって弁天町132番地いまの団地アパート附近に平屋カヤぶきの共同病院を設立したのである。これにコレラ病の患者を多数収容して、伝染病の予防に貢献をしたのであるが、明治27 年(1894)2月廃止したのである。

 牛込区役所「牛込区史」(昭和5年、復刻版は臨川書店、昭和60年)の「第八章 現代の牛込区(下)」「第二節 各種団体」「(3)牛込区衛生会」で、「牛込区衛生会は、明治19年8月14日市内にコレラ病の大流行を見た時、共同病院を設立した……」と書いています。442頁では

明治28年。東京実測図。上は132番地、下は134番地

 なお前記の共同病院に関しては、左記の記録がある。
 一、建 設 明治19年。
 一、建設地 弁天町134番地。
 一、建設費 1620円66銭は区内43ヶ町1901戸より寄附。
 一、地所坪数 634坪。
 一、建 坪 90坪6合5勺。(十畳室四、三畳室十二、湯殿二、物置二、死亡室一、渡り椽9坪5勺)
 一、処分 明治27年売却。(此金額717円88銭)

 本会は本区内の衛生の普及を図る目的で、以内居住者及び関係者を以て組織し、毎月十銭を年二回に拠って出する者を通常会員とし、一時に十円以上醵出する者を終身会員とし、別に会長の推薦による特別会員の定めがある。

 なお、「牛込区史」と「郷土落穂集」では建設地(弁天町132番地対134番地)と建設費(625円対1620円)の点で違っています。多分「牛込区史」が正しいと思います。

避病院 ひびょういん。伝染病患者を隔離収容した病院。伝染病法は平成11年(1999)に廃止し、感染症法に変わった。感染症法の避病院もなくなった。
中川忠純 東京府組織で第4期(明治16年8月8日から20年9月7日まで)の牛込区長は中川忠純氏でした。
渡り椽 渡り縁。母屋と離れを繋ぐ渡り廊下

矢来の酒井邸の爆裂  この間『東京新聞』(9月8日付)の「幕末の東京」に淀橋水車小屋の爆発事件を取りあげていたが、牛込矢来の酒井邸の爆裂事件は書かれていないので誌してみよう。
 嘉永6年(1853)6月米国使ペリー浦賀に来たるの報は、太平の夢を破った。これより先幕府は急遽海防をゆるがせにできぬとあって、西洋式の火薬の製造を始めた。
 牛込矢来下の酒井修理太夫の下屋敷においても、火薬を製造中、水車の心棒の過熱で大爆発を起し、これに従事した者の手足が、往来まで飛び散るという大惨事があった。こうした事故は、技術の未熟から新宿区内では、淀橋、他区では、板橋、世田ガ谷にも時を前後して同様な大爆発事件があった。黒船到来ということで、いかに当時幕府が、あわてたかを物語ることができよう。

 依然原典は追及中。「牛込区史」や新宿歴史博物館の「酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷」(平成22年)ではありませんでした。

爆裂 爆発して破裂すること。
9月8日 多分、昭和41年