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牛肉店『いろは』と木村荘平

文学と神楽坂

地元の方からです

 明治期に通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった牛肉店『いろは』について、このブログの記事を補完する目的で調べました。
『いろは』は今で言うチェーン店で、経営者は木村荘平でした。荘平は明治期に成功した経済人で、後に政治家になりました。彼の事業はヱビスビール(現・サッポロビール)や、都内の火葬場を取り仕切る東京博善として今に続いています。荘平は京都生まれ、家は三田にあり、必ずしも牛込と縁のあった人ではありません。
 明治37年12月22日、荘平は自らを代表社員とし、「牛馬魚料理および販売営業」を目的とした「いろは合資会社」を設立します。すでにある牛肉店を法人化したものです。官報告示の登記に以下が記されています。
   第十八支店 牛込区通寺町1番地
   金五百圓 有限(社員) 牛込区通寺町1番地 平林さわ
 荘平は愛人に店を経営させ、多くの子をなしたとされるので、そのひとりが牛込にいたのでしょう。
 では『第十八いろは』は、どこにあったのでしょうか。
 東京市及接続郡部地籍地図上卷(大正元年)の通寺町を見ると、左端に変則的な土地があり、「一ノ二」と読めます。「一ノ一」はありません。
「一ノ二」は、東京市及接続郡部地籍台帳 1によれば、わずか2.74坪です。とても建物の建つ広さには思えません。しかし、かつてはもう少し広かったのです。明治東京全図(明治9年)を見ると、肴町(現・神楽坂5丁目)に近い場所に三角形の通寺町1番地があります。

明治東京全図 明治9年(1876)

 ここが『第十八いろは』の場所でした。加能作次郎氏が「今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所」と書いていることとも符合します。
 土地が狭くなってしまったのは、明治の市区改正で現在の大久保通りが作られたためです。1番地の多くが、道路に変わってしまいました。
 明治37年の「風俗画報」新撰東京名所図会第41編(東陽堂)『第十八いろは』の写真は、現在の神楽坂5丁目から6丁目方向を撮影したものです。この写真は明治39年と説明がありますが、実際にはその2年以上の昔のようです。写真は左手から日が差して影を落としています。左の家並みの先、影のない場所が、明治26年に先行して「道幅八間」に拡幅した道と思われます。
 写真は奥に行くと通りの幅が狭くなっており、これも当時の地図に一致します。狭くなったあたりに屋台『手の字』があったでしょう。

第18いろは。明治39年は間違いで、正しくは明治37年。

第十八いろは(新宿区道路台帳に加筆)

 大久保通りの開通は明治40年ごろ。つまり写真のすぐ後に『第十八いろは』はなくなったと思われます。
『ここは牛込、神楽坂』第18号の「明治40年前後の記憶の地図」は、大久保通りを描いたために『いろは』の場所が分かりにくくなってしまったのでしょう。地図1
 経営者である木村荘平には『木村荘平君伝』(著者は松永敏太郎、錦蘭社、明治41年)という伝記があり、『第十八いろは』の写真もありますが不鮮明で見えません。
 この伝記によれば

世人はいろは四十八字に因み市内に四十八カ所の支店を設置せられるもくろみで命名されたるやに伝えているが、事実はさようではなくて君(荘平)はいろはの書を学び学をなすのはじめである。(中略)牛肉店の開始は畜産事業拡張の手始めである。深き意味ではないと言うていた。

とあります。
 荘平の死去は明治39年4月27日。「いろは合資会社」の代表には長男の木村荘蔵が就任しましたが、放漫経営で倒産に追い込まれたようです。
 また息子のひとり、木村荘八は思い出を記し、そこに第八支店(日本橋)のスケッチが残っています。