上宮比町」タグアーカイブ

神楽坂3丁目(写真)店舗 昭和27年 ID 4792~94

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4792~4794は、昭和27年(1952年)に神楽坂3丁目などを撮ったものです。ほぼ同時期の写真としては、神楽坂2丁目のID 28、ID 29、ID 30神楽坂5丁目のID 24-27があります。
 ただID 30に見える「火の用心」の横幕がID 4792~4794にはありません。またメトロ映画の手前に建築中の建物があり、これは他の写真と照合すると1丁目の「志乃多寿し」と思われます。この場所はID 28とID 30では平屋です。わずかにID 4792~4794の方が新しいと写真と思われます。
 メトロ映画の開場は昭和27年(1952年)1月元日、パチンコマリーの開店は昭和28年(1953年)です。どちらもその間の撮影ですが、わずかにID 4792~4794の方が後(新しい)と思われます。
 まん丸の街灯は電笠もなく、1本につき一つだけで、簡素です。翌年の昭和28年には鈴蘭灯の時代が始まり、さらに昭和36(1961)年には巨大蛍光灯がでてきます。柱上変圧器もありますが、いかにもほっそりとして、電線も少ないようです。車道は普通で、Oリングはなく、地面に凸凹もありません。歩道板横3枚ぐらいの歩道は車道と高さがほとんど同じです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4792 神楽坂通り マスダヤ前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4793 神楽坂通り マスダヤ前

 ID 4793 では、中央の電気店(マツダの看板)の前あたりで歩道が車道側に大きく傾斜しているのが見て取れます。これは神楽坂通りの急坂を緩くするため、車道を削った戦前の工事のなごりです。こうした建物は、建て替え時に車道にあわせて路盤を掘り下げるようです。長い時間をかけて、坂をなだらかにしているのです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4794 神楽坂通り 助六前

神楽坂3丁目(昭和27年)
  1. こちらを見る男性の背後に4字
  2. 「クラボウ スキー毛糸 販売店」(菱屋
  3. 吊り広告「寿し」(万平)
  4. 電柱広告「キネフチ」
  5. ピアノ。広告「ピアノ。オルガン」(福島ピアノ)
  6. マツダ眞空管。〇〇電気工事。(竹谷電気工事)
  7. パーマネント(マーサ美容室)
  8. 神楽坂仲通り
  9. 電柱看板「旅館 碧運」
  10. 数軒おいて(凸型の建物)(ニューイトウ靴店)
  11. (建築中)(パチンコマリー)
  1. 山田屋洋傘
  2. MASUDAYA。マスダヤ独特の月末奉仕 大価價市 半額
  3. (せともの)(丸岡陶苑)
  4. 高橋商店(かばん)
  5. 🐘おもちゃ
  6. 土地と家屋➥
  7. パチ(ンコ)
  8. 路地(見番横丁
  9. 電柱広告「産婦人科 加藤医院」「久我犬猫病院」
  10. 空地(後の「レストラン花菱」)。「麻雀」「とんかつ」
  11. 印章 ゴム印 愛信堂 岡田印房 山桜名刺(戦前、愛信堂は上宮比町=現・神楽坂4丁目でした)
  12. 助六
  13. 龍公亭
  14. (建築中)
  15. パー(マ)(正面に「〇 Beauty Salon」。ビデパーマ)
  16. 薬局(消炎鎮痛薬「サロメチール」)(山本薬局)
  17. 神楽坂仲坂
  18. せともの。太陽堂。6字。
  19. 看板「みや」
  20. 電柱広告「 買入 大久保」「床屋のサインポール(管理髪館)」
  21. 牛(豚)肉(ますだ肉店)
  22. 仁丹(薬局)
  23. 〔✇に似たマーク〕
  24. 看板〔温泉マーク〕玉

本多横丁(写真)昭和7年 ID 96

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 96は、本多横丁の入り口を撮ったものです。資料は「若宮八幡祭礼神輿、本田横町角」で備考は「1932年」、つまり昭和7年の貴重な写真です。「角」は近くに四つ角や三つ角があるという意味です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 96 若宮八幡祭礼神輿、本田横町角

 道路は何もなく、歩道と車道もわかりません。
 さて、以降は上半分の解説ですが、地元の方の考えを100%いれています。神輿は神楽坂通りを走っています。

 1はナナメ渦巻きの床屋のマーク(サインポール)で、理容所を示します。2の看板は右横書きで「理島豊」と読めます。豊島理髪店は「大東京繁昌記|早稲田神楽坂01」に出てきます。3もサインポールと同じデザインで、おそらく豊島理髪店の突き出し看板でしょう。
 4はお祭りの御神酒所と思われます。輿こしは神様が氏子の地域を回う乗り物で、神輿が地域で休憩する場所を神酒みきしょと言います。よしずのようなもので囲われていて、しめ飾りや提灯らしきものも見えます。
 この場所は神楽坂(戦前は神楽町)3丁目で、若宮八幡の氏子地域です。本多横丁を挟んで、この写真の奥側の4丁目(戦前は上宮比町)は筑土八幡の氏子になります。ふたつの神社は現在、1週間程度の間をおいて秋祭りをします。戦前も同じように日を違えていたでしょう。

本多横丁 戦前

 5は神楽坂通りの街灯です。神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)に出てくる【K】【L】と同じものの下側だけ写っているようです。まだ歩道が十分に整備されておらず、街灯は店の近くに立っていました。神輿の金鵄が柱を隠しているようです。
 6も街灯ですが、5の街灯とは形状も、また街灯の向き違います。これは本多横丁の入り口の両側の街灯だからでしょう。特筆すべきは、この戦前の街灯の形状が、終戦から間もないすずらん通り=本多横丁の写真の街灯と酷似していることです。鋳物製と思われるので、焼け残って再利用されたかも知れません。
 7は「天〇 㐂作」と読めます。牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第5号の「戦前の本多横丁」によれば「天ぷら・喜作」という高級店があったそうです。その案内広告ではないでしょうか。また、この広告が貼ってある板壁の家は神楽坂3,4丁目(写真)大正~昭和初期に写っている竹川靴店と思われます。
 8は仮名の「し」に見えますが、神輿の屋根の角にある巴字型の飾りと思います。
 9は「本〇所」のように読めます。「本多横丁」や「神楽坂」と面白いけれど、さすがに違うようです。
 最後に、地元の方に提供して頂いた写真を添えておきます。5~6歳と思われる子供が「上宮比」のお祭りのはっぴを着て、頭には「神」の手ぬぐいをはちまきにしています。撮影は昭和8-9年ごろということで、ID 96とほぼ同時期です。

上宮比はっぴ

尾澤豐太郎翁追想録|尾澤豐念会 1932年

文学と神楽坂

 尾沢翁追想録編纂会の『尾沢豊太郎翁追想録』(尾沢豊念会、1932年)は新宿歴史博物館図書閲覧室だけにあります。国立国会図書館にはなく、他でもないでしょう。
 尾沢薬店は神楽坂4丁目の郵便局や隣のカフェ・ベローチェ神楽坂店がある場所にありました。

 かうしての店員生活は19歳の春まで續いたのであつた。
       宮比町開業時
 牛込神樂坂も現在のやうに花柳界もなく、勿論、早稲田大學や共他の學校もなかつた。それ故に粋なつぶし島田の藝妓のなまめかしい姿も見られず、隊をなした學生達の散歩姿も見られず、附近は多く武家屋敷のあとで、たゞところ/”\に商家が竝び、淋しい町であつたころだ。明治8年7月21日、毘沙門天前の牛込區上宮比町一番地に、翁は獨立して藥種賣藥業を開業することになつた。店員として、たゞ一人大西橘三氏が、翁の下で働くことになつた。たとへ筑土本店の附近に開業したとはいへ、創業の苦難はやはり味はねばならなかつた。艱難辛苦を嘗めながら翁の活動力は愈々漲つて奮闘は績けられた。

尾沢薬局

 尾沢豊太郎のこと
つぶし島田 芸者衆に特に好まれた粋筋の髪型。髷の中央部が凹んで潰れている。

つぶし島田

薬種 やくしゅ。薬の材料。調剤前の薬品。主として、漢方薬の原料。
売薬 ばいやく。薬を売ること。あらかじめ製造、調合して市販する薬を売ること。
艱難辛苦 かんなんしんく。つらい目や困難な目にあって苦しみ悩むこと。たいへんな苦労
愈々 いよいよ。持続的に程度が高まるさま。ますます。より一層。
漲る みなぎる。力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる。

 現在、翁の最後に殘した事業としての東京醫藥株式會社が、小石川音羽町に在るのが、妙な奇綠でもあるが、翁が明治12年、23歳の時、最初の事業に着手したのも小石川音羽町7丁目であつた。そこに翁は司藥場の技師であつた某氏と諮り製藥所を設けて、エーテルを製造し叉神樂坂の自宅構内で蒸餾水、杏仁水ギブス林檎酸鐵丁幾等の製造に従事した。これ等の藥品製造に從事したのは恐らく我が邦では最初であつた。翁、去つて今や13年、翁以外にこの藥品製造の動機を聞くべく人もない。何事に依らず慧限な、先見的な翁のことであつたから何等かの大きな動機があつた筈であるが、その術もない。翁は夫等の製造した藥品類を日本橋本石町の藥種問屋中村瀧次郎商店から市場に販賣したのであつた。

 これら薬品の効能はあるのでしょうか。1846年(弘化3年)にアメリカ・ボストンの歯科医がエーテル吸入麻酔を発見します。また、全身麻酔は1804年(文化元年)華岡青洲氏が行いました。明治12年は1879年なので、吸入麻酔は十分できたと思います。蒸留水、鎮咳薬・去痰薬の杏仁水もできたはず。骨折の固定に石膏(ギプス)を応用することは1852年、フランスの軍医が始めて行ない、これもできたはずです。リンゴ酸鉄チンキは不明ですが、やはり鉄剤でしょうか。

司薬場 輸入薬品の検査のために明治政府が設立した官立の薬品検査機関。
製薬所  医薬品を製造する場所
エーテル 尾沢豊太郎氏はエーテルの製造に初めて成功した。一般的には、エチルエーテルのことで、現在は麻酔剤として用いる。
杏仁水 きょうにんすい。アンズの種子からとる杏仁油を除いたものを水蒸気蒸留し、留液にアルコールと水を加えたもの。苦味と芳香があり、鎮咳ちんがい薬・去痰薬として用いる。
ギブス 骨折の患部を固定する石膏。
林檎酸鉄 りんご酸鉄。効能は不明だが、やはり貧血か?
丁幾 チンキ。生薬をエチルアルコールやエチルアルコールと精製水とで浸出した液剤
慧限 けいがん。物事の本質を鋭く見抜く力。炯眼けいがん
先見 物事がおこる以前に見抜くこと。

 その頃また別に牛込區新小川町に渡邊某と製藥所を設け、煙草の葉から炭酸カリの製造をもやつてゐた。
 明治14年には種々の自家製劑を發賣し、そのなかには販賣政策としてイボ・ホクロ取りのやうな、その頃としては珍奇な賣藥を販賣して印象を強め宣傳さした、そして東京中に漸く神樂坂尾澤藥舗の名が擴がり、尾澤に行けば、どんな藥もあるといはれた。當時に於いてイボやホクロとりのやうな藥品を販賣するといふのも、實に珍らしいことで、翁がかやうな美容に関する皮膚病藥にまで着眼したことは、良く人心の機微を掴んだものであると思はざるを得ない。
炭酸カリ 炭酸カリウム。天然には木灰中に存在し、水で抽出したものが灰汁あくといい、漂白・洗浄に用いられた。カリセッケン、硬質ガラス、医薬などの原料、染色、漂白、洗浄などに使用する。
イボ・ホクロ取り 1917年、「売薬製法全書」(川崎近雄編、艸楽新聞社、大正6年)の「全治水」の広告。

明治17年には翁は(中略)、こんどは肝油の販賣に着目した。その頃に外國品で鶴日の出印肝油が輸入されてゐたが、我が邦で肝油製造に從事するといふことなどは思ひも寄らぬことであつたが、翁は逸早く肝油に眼をつけたのであった。傅手を求めて北海道小樽色内町の西川といふ人から鱈肝油を取寄せ、これを精製して、大阪道修町の藥種問屋日野九郎兵衛氏のところから發賣したのである。そしてこの肝油に鷹印の商標をつけた。外國品の鶴日の出印を鷹摑みにして驅逐する意味からであつた。(中略)
 明治22年には蜂蜜の衞生試驗を受け、蜂蜜を小詰として營養劑、ならびに調味料として製造販賣した。營養劑としての蜂蜜は昨今、盛んに流行してゐるが、翁は當時早くもこれに着眼してゐたのである。
肝油 魚の肝臓からとる脂肪油.ビタミンAやビタミンDに富む。
鶴日の出印 鷹印の商標 不明
営養剤 栄養剤。栄養の不足を補うための薬剤

 この年(明治28年)の四月には日淸戦役は、我が軍の勝利に歸し、淸國の全權李鴻章と講和條約を締結し、臺灣は完全に我が領土となつた。條約の上では領土となつたが、尚臺灣の蕃族叛旗を飜すので、畏くも北白川宮能久親王が親征し給ひ、明治29年4月には全く全島を平定されたのである。(中略)
 翁は、また臺灣に偉大なる事業を卒先して目論んだ。明治の新聞界の大先輩である故岸田吟香翁、實業界に雄飛した工學博士故久米民之助氏と共に製氷會社の設立を計畫したのであった。(中略)
 臺灣に於ける事業家としての翁の面目は遺憾なく發揮されて、あらゆる方面に、その活動力は機敏に働いたが、みないづれも成功してゐた。製氷の如きも、我が邦の先駆を爲すもので今日の隆々たる大日本製氷株式會社は臺灣製氷の後身に當る

李鴻章 中国清末の政治家。安徽省合肥出身。日清戦争の敗北で失脚。
臺灣 台湾。
蕃族 ばんぞく。未開の民族
叛旗を飜す はんきをひるがえす。謀反を起こす。反逆する。そむく。
北白川宮能久親王 きたしらかわのみや よしひさ しんのう。幕末ー明治時代の皇族、軍人。日清戦争には近衛師団長として出兵、台湾支配の指揮にあたり、同地で病没。生年は弘化4年2月16日、没年は明治28年10月28日。享年は49歳。
大日本製氷株式會社 和合英太郎は1890年、青山製氷所が設立したが、1892年3月には廃業となる。1897年、日本の採氷業のパイオニアである中川嘉兵衛が、東京・本所に機械製氷を設立。青山製氷所で働いた経験から、和合英太郎も、発起人のひとりとして参画。製氷工場の支配人兼技術師となる。1907年、東京製氷と合併。1919年、東洋製氷と合併、日東製氷を設立。28年、老舗・龍紋氷室と合併。これを機に、社名を大日本製氷と改称。さらに日本食料工業、日本水産、帝国水産統制などと合併、現在はニチレイ(日冷)。
後身に當る 違います。中川嘉兵衛や和合英太郎は無数の会社と合併し、おそらくその1つが台湾製氷だったのでしょう。

 夏など單衣を着て、鞭々たる腹を突き出し、恰度、上野公園の西郷隆盛の銅像そつくりといふ恰好をして店頭に立ち、多くの店員を指揮して、『いらつしやいまし』『ありがたうございます』と一々客に言葉を掛けてゐる光景は、神樂坂で尾澤が名物であつた如く、この光景もまた名物たるを失はなかつた。この何事にも拘泥せすに熱心に努力する態度が大勢の店員に輿へた無言の敎訓は偉大なるものであつた。
単衣 ひとえ。一重に仕立てられた衣服の総称。6月や9月の、季節の変わり目によく着る。
鞭々たる 正しくは「便々べんべん」。腹部の肥満した様子。太鼓腹をしている
拘泥 こうでい。あることを必要以上に気にしてそれにとらわれること

神楽坂の中心

文学と神楽坂

 地元の方から「神楽坂の中心」というエッセイを頂きました。

 大正から昭和初期の神楽坂が最も栄えた時代、その中心は毘沙門さま周辺の3丁目から4丁目(旧・上宮比町)、5丁目(旧・肴町)にかけてだったそうです。表通りに石造りの立派な店が多く、裏にキメ細かな路地と賑やかな花町が広がっていました。

 当時の坂の中腹から下は、通り沿いこそ店が並んでいたものの、裏通りは住宅や倉庫、学校などが主だったようです。「古老の記憶による震災前の形」で1-2丁目の裏道の路地が描かれていないのも、坂下の「紀の善」が昔は職人相手の店だったのも、「田原屋」毘沙門天の隣で大いに栄え、兄弟店が少し離れた場所にあったのも、こうした表れのように感じます。


古老の記憶による震災前の形 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年に出ています。インターネットでみることも可。
職人相手の店 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号の冨田冨江氏の「神楽坂昔がたり」「紀の善と牡丹屋敷」では
 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは30人頼むとか、さようは雨だから5人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂では代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。

 江戸時代の商売は江戸城に薬草を届け、明治から戦前までは寿司、戦後は甘味処です。職人相手の店といえないと思います。
田原屋 毘沙門天の側は5丁目で長男、兄弟店は3丁目で3男がやっていました。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号「お便り投稿交差点」の奥田卯吉氏の「おれも江戸っ子、神楽坂」では
 神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた(中略)
 時代の先端をゆく父たちは、五丁目の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。次男は通寺町(現神楽坂6丁目)の成金横丁で小さな洋食屋を出した。特定の有名人等を相手にした凝った味で知られる店だった。
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。

 戦後も毘沙門さまが中心だという意識は残っていました。神楽坂の夜店は「5の日の縁日」として限定的に復活し、昭和50年頃まで続いたと記憶します。しかし露店が並んだのは藁店から見番ぐらいがせいぜいで、坂下に賑わいは及びませんでした。1丁目の商店会会員は、そのことが不満だったそうです。

 様相が変わったのはビルが建ち、多くの貸店舗ができはじめた頃でしょう。飯田橋駅に近い坂下と、地下鉄東西線の神楽坂駅に近い6丁目(旧・通寺町)の店や事務所の家賃が、毘沙門さま周辺より高くなる「逆転現象」がおきました。

「神楽坂上」の位置づけが戦前・戦後で変わったことも影響していると思います。現在の神楽坂上の交差点から牛込北町にかけては戦前、牛込区役所(現・箪笥町特別出張所)を中心としたビジネス街で、牛込の中心と目されていたそうです。しかし戦後、区役所が新宿に移り、さらに地域交通の大動脈だった大久保通りの都電が撤去されると、一転して「不便な場所」「陸の孤島」になってしまいました。相対的に、飯田橋駅に近い坂下の価値が上がったのです。

 毘沙門さまの場所は飯田橋駅と神楽坂駅の中間で、ある意味「中途半端」です。坂下に比べると人通りも少ない。中心とは言いにくくなってしまいました。

 とはいえ新たな変化も芽生えています。近年、神楽坂がメディア等で紹介されて人気が高まった結果として、昔より広い範囲が「神楽坂」と認識されるようになりました。都営大江戸線の牛込神楽坂駅が坂上に開業したことも、それを後押ししています。今日、神楽坂として括られる範囲には、矢来町筑土八幡町中町南町まで含まれることがあります。しかし、さすがに区が違う千代田区富士見町は入りません。

 新しい広域の神楽坂の中心は、やはり毘沙門さまになるのではないでしようか。

限定的に復活 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007年)では「戦後は、縁日の出店がままならずにしばらくその火が消えていたが、昭和33年7月に、商店街の尽力で毘沙門の境内と門前に縁日がめでたく復活し、毎月5の日に開かれている」
地下鉄東西線の神楽坂駅 現在、地下鉄の飯田橋駅、神楽坂駅、牛込神楽坂駅があります。

千代田区富士見町 千代田の北西部に位置し、富士見一丁目と二丁目になる。


正式に神楽町から神楽坂に|昭和26年

文学と神楽坂

 新宿区「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(新宿区教育委員会、昭和51年)では…

 神楽坂とは、国鉄飯田橋駅九段口から、牛込台地に上る坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代からあった名称である。

 歴史博物館「新修 新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(平成22年、新宿歴史博物館)では

 JR飯田橋駅西口から、牛込台地に上る坂で、坂下から大久保通りまでは江戸時代から神楽坂という名称で呼ばれていた。
 明治4年(1871)6月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとって神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 しかし昭和20年(1945)の空襲で、焼け野原と化した。昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり(東京都告示第347号)、北の赤城神社入り口まで名称統一され、四・五・六丁目ができた。
 この町名変更に当たって、関係町民からも町名を神楽坂に統一する陳情書が区議会に提出された。その理由は、下宮比町と上宮比町が混同されやすいこと、肴町は隣区の肴町と誤認されやすい等が挙げられた(昭和30年新宿区史)。
隣区の肴町 文京区駒込肴町と混同したのでしょう。現在は文京区駒込肴町ではなく、文京区向丘1丁目か2丁目になります。

 実際の陳情書は昭和30年「新宿区史」766頁に書いてあります。以下は旧漢字を新漢字に書き換え、読みにくい漢字を平仮名に変えた等をしたものです。

     陳  情  書
 江戸名所図絵や江戸砂子などに残る古き牛込村は、丘陵起伏する武蔵野の一部、往昔は放牧の地であったとさえ、ある記錄は伝えている。徳川時代に入ってようやく人煙を増すに至ったものの『神楽坂』と『牛込』との限界はすこぶる不明確のまま、その名のみ人々の意識の中に深く刻まれて今日に及び明治初期の行政区画によって丁目と町名とは一応整ったが、

  坂上に下宮比町としばしば混同される上宮比町がありこれに接して隣区肴町と誤認され易き牛込肴町が横たわり更に西方へ数丁通寺町が伸びている 等

捕捉に苦しむ所が多い。これがため行政区画とは別に肴町、上宮比町、通寺町等の住民は、数十年来『神楽坂通り』と云う総称を用い、大衆もまたこれを肯定して日常の要務を弁じている。殊に通寺町の如きは戦災に遭って全町焼土と化するや、直ちに『大神楽坂商店街』と誇示するに至った。神楽坂より六、七丁をへだたった通寺町においてさえかくの如き実状であるため、関係町民と他区域より来訪する人々とが日常の生活上や取引上幾多の煩雑不利を招きつつあるとは枚学にいとまなき所、どこよりどこまでが神楽坂か何人も明答すること能わざるのが現実である。
 数百年来、あまねく知られた名を慕ふのは人情の常、その名を襲用して宣伝価値の昂揚を図るは商業者として当然の帰結、神楽町、上宮比町、肴町、通寺町等に居住する区民が行政区画上の町名を斥け、現実に即した『神楽坂何丁目』と左記の通り町名改称を熱望するに到った事は全く自然の趨勢であり土地発展の永久的対策というも断じて過言ではありませぬ。しかもこれが実現の暁、利便を享受するものはひとり関係住民のみでない事も瞭かであります。
 神楽坂附近一帯の堅実な復興と発展とを期し、あわせてひろく都民相互間の利益をもたらす本件実現のため、何卒格別の御明鑑を仰ぎ、一日も速かに御採択願度くひたすら御願申上げます。
 さらに関係各町住民の連署を以て陳情致します。
 (変更前の町名)    (変更後の町名)
  神楽町 一丁目     神楽坂一丁目
  同   二丁目     神楽坂二丁目
  同   三丁目     神楽坂三丁目
  上 宮 比 町     神楽坂四丁目
  肴     町     神楽坂五丁目
  通  寺  町     神楽坂六丁目
昭和25年  月  日

往昔 おうせき。過ぎ去った昔。いにしえ。往古。
人煙 人家から立ち上る煙。転じて、人の住む気配。

 これを受けて昭和26年5月、正式の町名になりました。

通称牛込“神楽坂”で親しまれる地域は行政上の正式町名とは違っているのでこれを通称通りとすることになり28日の区議会にかけて可決すれば5月1日からつぎの通り呼ぶ(カッコ内は旧町名)
 神楽坂一-三丁目(神楽町一-三丁目)神楽坂四丁目(上宮比町)神楽坂五丁目(肴町)神楽坂六丁目(通寺町)
読売新聞 1951年=昭和26年2月27日




兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

神楽坂|大東京案内(2/7)

前は大東京案内(1/7)です。

神楽坂の表玄関は、省線飯田(いいだ)(ばし)駅。裏口に当るのが市電肴町(さかなまち)停留場。飯田橋駅を、牛込見附口へ出て、真正面にそそり立つやうな急坂から坂上までの四五丁の間が所謂(いわゆる)神楽坂(かぐらざか)の盛り場だが、もう少し詳しく云へば、神楽町上宮比(かみみやび)肴町岩戸町通寺町(とおりてらまち)等々で構成(こうせい)され、この最も繁華(はんくわ)な神楽坂本通り(プロパア)は神楽町、上宮比町、肴町の三町内。さうしてその中心は、(おと)にも高い毘沙門(びしやもん)さま。その御利益(ごりやく)もあらたかに、毎月寅と午の日に立つ縁日(えんにち)書き入れの賑ひ。

省線 現在のJR線。1920年から1949年までの間、当時の「鉄道」は政府の省、つまり鉄道省(か運輸通信省か運輸省)が運営していました。この『大東京案内』の発行も昭和4年(1929)で、「省線」と呼んでいました。

肴町

大正12年、牛込区の地形図。青丸が肴町停留場


市電 市営電車の略称で、市街を走る路面電車のこと。
肴町停留場 市営電車の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」四つ角)で、大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。
神楽町 現在の神楽坂1~3丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
上宮比町 現在の神楽坂4丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
肴町 現在の神楽坂5丁目。昭和26年に現在の名前に変わりました。
岩戸町 大久保に向かい飯田橋からは離れる大久保通り沿いの町。神楽坂通りは通りません。以上は神楽町は赤、上宮比町は橙、肴町はピンク、通寺町は黄色、岩戸町は青色に書いています。
通寺町 現在の神楽坂6丁目です。昭和26年に現在の名前に変わりました。

昭和5年 牛込区全図から

昭和5年 牛込区全図から

プロパア proper。本来の。固有の。
善国寺 ぜんこくじ。善国寺は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の毘沙門天は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
書き入れ 帳簿の書き入れに忙しい時、商店などで売れ行きがよく、最も利益の上がる時。利益の多い時。

ショウウインドーの(まばゆ)さ、小間物店、メリンス店、(いき)な三味線屋、下駄傘屋、それよりも(うるさ)いほどの喫茶店、(うま)いもの屋、レストラン、和洋支那の料理店、牛屋(ぎゆうや)、おでんや、寿司屋等々、宵となれば更に露店(ろてん)數々(かずかず)、近頃評判の古本屋、十銭のジャズ笛屋、安全カミソリ、シヤツモヽ引、それらの店の中で、十年一夜のやうなバナナの叩き売り、それらの元締なる男が、また名だゝる 若松屋(わかまつや)近藤某(こんどうぼう)

小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの。
メリンス スペイン原産のメリノ種の羊毛で織った薄く柔らかい毛織物。同じ物をモスリン、muslin、唐縮緬とも。
牛屋 牛肉屋。牛鍋屋。
露店 ろてん。道ばたや寺社の境内などで、ござや台の上に並べた商品を売る店。
ジャズ笛屋 ジャズで吹く笛。トランペットなどでしょうか。
シヤツモヽ引 「シャツ・パンツ」の昔バージョン。
元締 もとじめ。仕事や集まった人の総括に当たる人。親分。
名だたる なだたる。名立たる。有名な。評判の高い。
若松家 「神楽坂アーカイブズチーム」編『まちの想い出をたどって』第4集(2011年)で岡崎公一氏が「神楽坂の夜店」を書き

神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私か振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家かあり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一冢)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた

 若松家はテキヤの1つだったのでしょう。なお、テキヤとは的屋と書き、盛り場・縁日など人出の多い所に店を出し商売する露天商人のことです。

文学と神楽坂

竹久夢二|神楽坂

文学と神楽坂

筒井筒直言
 1905年(明治38年)6月18日(20歳)、夢二の最初の絵「勝利の悲哀」が「直言」(「平民新聞」の後継)に掲載されました。世に出た夢二の最初の作品のコマ絵です。白衣の骸骨と泣いている丸髷の女が寄り添う姿で、日露戦争の勝利の悲哀を描いています(左図)。 一方、「中学世界」増刊号には竹久夢二の投稿挿絵「筒井筒」が出ます(右図)。1905年10月(21歳)、竹久夢二は『神楽坂おとなの散歩マップ』によると、神楽坂3丁目6番地の上野方に住んだといいます。『竹久夢二 子供の世界』(龍星閣 1970)の『夢二とこども』で長田幹彦氏は

 “東京の街から櫟林の多い武蔵野の郊外にうつらうと云ふ、大塚の或淋しい町で”と、いうのは、当時、明治三十八年十一月号の『ハガキ文学』に、絵葉書図案が一等で当選して居り、その図版の傍に印刷されて″小石川区大塚仲町竹久夢二″というのがあるから、明治三十八年頃大塚にいたことのあるのはたしかである。掲載の前月の十月には、“神楽坂町三ノ六上野方ゆめ二”という手紙を出しており、翌々月の十二月の『ヘナブリ倶楽部』二号には“詩的エハガキ交換希望”として名前が出ているが、その住所は“東京淀橋柏木一二八竹久夢二”となっている。まことにめまぐるしい転々さである

 江戸時代、3丁目6番地はもともとは松平家の敷地で、大きさは他の敷地(1番地など)と比べて10倍以上もありました。しかし、翌月はもう場所が変わっています。実際に下宿はこれから何回も変えています。

 1907年(明治40年)1月(22歳)、竹久夢二はたまき(戸籍上は他満喜)24歳と結婚して「牛込区宮比(みやび)(ちょう)4に住んだ」と書いている本が多いようです。しかし、明治、大正時代には宮比町はありません。(今もありません。全くありません)。

 あるのは(かみ)宮比町と(しも)宮比町の2つです。台地上を上宮比町、台地下を下宮比町と呼んでいました。昭和26年、上宮比町は神楽坂4丁目になります。下宮比町は変わらず同じです。

 新宿区の『区内に在住した文学者たち』では「上宮比町であるか下宮比町であるかは不詳」と書いています。一方、けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』では「竹久夢二がたまきと結婚し下宮比町に住む」と書いています。三田英彬氏の 『〈評伝〉竹久夢二 時代に逆らった詩人画家』(芸術新聞社、2000年)では

 二人は二ヶ月余り後に結婚する。夢二が彼女の兄夫婦を訪ね、結婚の申し込みをし、許しを得たのは明治四十年一月。牛込区宮比町4に住んだ。たまきによると「神楽坂の横丁下宮比町の金さん」という職工の家の2階の6畳を借りたのだ。

 実際に岸たまきも「夢二の想出」(『書窓』 昭和16年7月)でこう書いています。

 当時夢二は神楽坂の横町下宮比町の金さんという造弊の職工に通い居る息子のある頭の家でした。二階の六畳に一閑張の机が一つあるきりの室でした。

 では、上宮比町四はないのでしょうか。明治40年4月7日、夢二氏は「府下荏原郡 下目黒三六六 上司延貴様」に葉書をだして(二玄社『竹久夢二の絵手紙』2008年)

四月七日 さきほどは突然御じゃま いたし御馳走に相成候 奥様へもよろしく御伝へ 下され度候  上宮比町四   幽冥路

 と書いています。 神楽坂3丁目6番地と上宮比町四と下宮比町四については、下図を。結局、上宮比町がいいのか、下宮比町がいいのか、どちらもよさそうで、本人は上宮比町、妻は下宮比町と書いています。わからないと書くのがよさそうです。

 明治41年(1908)2月(23歳)、長男虹之助が生まれます。 明治42年5月(24歳)、たまきと戸籍上離婚。12月15日(25歳)には、「夢二画集」春の巻を出版。これがベストセラーになります。

 明治43年6月(25歳)、大逆事件関係者の検挙が続く中で、夢二は2日間、警察に拘束。警察から帰るとすぐに有り金を持って、九十九里方面に逃避します。 明治44年1月(26歳)、大逆事件で幸徳秋水らが処刑され、夢二はあちこち引越しをくりかえしています。そのころ自宅兼事務所兼仕事場として牛込東五軒町に住んだこともあります。竹久夢二自書の『砂がき』では

 その頃私は江戸川添の東五軒町の青いペンキ塗りの寫眞屋の跡を借りて住んでゐた。恰度前代未聞の事件のあつた年で、平民新聞へ思想的な繪をよせてゐたために、私でさへブラツク・リスト中の人物でよくスパイにつけられたものだつた。夢に出て來る「青い家」は、たしか東五軒町の家らしい。その家は恐らく今もあるだらう。夢の中の橋は、大曲の白鳥橋だと思はれる。

明治40年夢二がいた場所 一番上の赤い四角が東五軒町の一部です。江戸川添なので、川のそばにあったのでしょう。

 その下は下宮比町4です。

 その下で最小の長四角は上宮比町4です。

 最後の赤い多角形は神楽坂3丁目目6番地で、ここは巨大です。