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牛込の文士達➆|神垣とり子

 泰三は文士のだれ彼を辛辣に評していた。よくまああんな毒舌があの小男の口から出るかと思うくらいだ。葛西善蔵さえも「田舎っぺい」とやっつけたらしい。それにしてはよく若い者が集った。お節句には文学青年が集って泰三が郷里から持って来た獅子噛み火鉢にさざえを入れて、めいめい具を足して壷焼きにして食べた。お酒は茅場町白雪の支配人の池田みのるが2升ぶら下げてきた。この連中は集れば銀座をのすより京橋の裏通りや横町のうまいもんやを歩き、甚兵衛で「くさや」の干物を買ってきたり「酒盗」を買ってきてくれた。その頃猫が7匹もいて、くさやは、赤いけどあべこべの名をつけた「くろ」には大好物のものであった。「ちび」というのは一番大きくてアスパラガスの鍵をあけると一目散に飛んでくるので不思議だった。味淋ぼしを、それもよくかんでごはんにまぜてやる役に早稲田の学生で、泰三の隣村の村長の次男坊があたった。はじめて横寺町の家を訪れた時、「ちまき」をうんとこさともってきた坊主頭の男の子で「どうもう児」と名をつけた。それが近所の下宿から泰三の所へころがりこんで猫の食事係となった。「みりんぼしを噛んでいてよく食べたもんですよ、とてもうまかった」と何十年かたってから聞いて思わず苦笑した。

郷里 相馬泰三氏は現在の地域で、新潟県新潟市南区の生まれです。
獅子噛み火鉢 「獅噛火鉢」が正しい。しかみひばち。獅噛みを足や把手にとりつけた金属製の丸火鉢。
茅場町 東京都中央区の地名。日本橋茅場町一丁目から日本橋茅場町三丁目まで。
白雪 おそらく兵庫県伊丹市の小西酒造では? 「山は富士 酒は白雪」がそのキャッチフレーズ。
池田みのる 名前があまりにも普通なので探すことはできません。
のす 勢いや力を伸ばす。発展させる。
京橋 明治11年から昭和22年までの東京市京橋区。現在は中央区南部。

1878年東京15区

甚兵衛 不明。現在、新橋駅にある甚兵衛の開店は3~40年前。ここでは約100年前に開店していたので、違います。
くさや 魚からつくる塩干しの一種。伊豆七島の特産物。特有の臭みがある。
酒盗 しゅとう。魚の内臓を原料とする塩辛
くろ 猫の名前です
 いわし。マイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシの海水魚の総称
味淋ぼし 味醂干。みりんぼし。魚の干物の一種。魚を開き醤油や砂糖、みりんなどを合わせたタレに漬け込んで味付けし、乾燥する。
ちまき 餅菓子の一種。笹や竹の皮などで巻き、い草で三角形に縛ってつくる。

 バスケットに原稿を入れて島田清次郎の向うを張るつもりらしい新潟の質屋の伜が上京して横寺町の泰三のところへおちついた。同郷のよしみでたずねてきたおとなしい少年で「豚児をよろしく」と親から添え手紙をもってきたのでみんなが「質やのトントン」ということにして、今もって「トントン」で通っている。
 神楽坂で現金の一番あるのが坂の途中の焼芋やだといわれていた。一番月給の多いのは牛込郵便局長さんだというので折があった時きいたら「95円」だというので少いと思った。うちではいくら人の出入りが多いとはいえ、家賃は17円の二階だが北町の岩瀬肉店へ15円、出入りの魚やが10円、八百やが10円、映画、寄席、芝居が7円くらい、ほかにオザワ水文紀の善など。横寺町に新居をもった年の暮に残金2円50銭で大笑いをした。佐倉炭が1俵2円の頃だったかしら。「今日は帝劇、明日は三越」の頃で、帝劇の入場料が最高4円で牛込駅から坂を上って横寺町までの入力車が50銭だった。

豚児 自分の子供をへりくだっていう語。豚の子。
坂の途中の焼芋や 焼芋屋は、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」ではなく、『露店研究』でもありません。
岩瀬肉店 昭和12年の火災保険特殊地図では、新宿区北町に同じ名前はありませんでした。
佐倉炭 千葉県佐倉地方に産するクヌギからつくる炭。上質で、茶の湯などに用いられる。

 無一物主義で通していた泰三も、結婚したらお宗旨を変えてしまった。というより私の浪費癖がそうさせたのだろう。「クルイロフ」の「乞食の財布」を捨てなければならない時が来た。長谷川時雨女史が経営している鶴見の旅館「花香苑」に原稿を書きに出かけたり、越後寺泊りに冬の日本海の荒波を見に行ったりするのに疲れて来た。泰三は誰にも相談しないで郷里に帰った。広津和郎葛西善蔵は鎌倉へ住みつき、秋庭俊彦等々力に農園を始めてメロンを作ったりしていた。その秋に関東大震災があったが焼けなかった神楽坂は前にも増して賑やかになった。その賑わいに文士たちが一役買っていたことも事実だった。

無一物 むいちもつ。何もないこと。何も持っていないこと。
主義 常にいだく主張、考えや行動の指針
宗旨 しゅうし。自分の主義・主張・趣味。好みのやり方や考え方。
クルイロフ イワン・クルイロフ。Иван Андреевич Крылов。19世紀ロシアの劇作家、文学者。庶民の日常語を用いて、不道徳、社会悪、農奴制による罪悪を風刺した。生年は1769年2月13日、没年は1844年11月21日。
乞食の財布 豊島与志雄、高倉輝訳「世界童話集」(アルス、昭和3年)ではコマ番号110-111が「不思議な財布」として出ています。この財布、1日に1枚ずつ中で金貨を生んでくる。でも、使えない。財布を川でなくすと、はじめて金貨を使える。主人公は900枚金貨を持っていて、使わずに、死亡しました。
花香苑 はなかえん。大正14年、横浜市鶴見区に長谷川時雨氏が田舎料理の旅館「花香苑」を開いた。
越後 佐渡を除いて新潟県の全域にあたる地域
寺泊り 固有名詞として、新潟県長岡市の地名。日本海に面し、漁業が盛んで、古くは佐渡へ渡る重要な港として栄えた。他寺の僧や参詣人が泊まる、寺の宿舎は宿坊(しゅくぼう)といいます。おそらく固有名詞のほうでしょう。
等々力 とどろき。東京都世田谷区と神奈川県川崎市中原区の地名
関東大震災 大正12年(1923年)9月1日11時58分頃に発生。

牛込の文士達⑥|神垣とり子

 秋田雨雀水谷竹紫小寺融吉――画家の小寺健吉の弟――も神楽坂組だった。小寺の一番末の弟が中村伸郎となった。小寺一家は伊藤熹朔一族と同じくみんなそれぞれの道に進んだ幸福な者たちで融吉の妹も歌人の山田邦子の弟と一緒になった。
 その妹は女子大生の頃よく神楽坂へきたものだ。小寺融吉は森律子に「真聞の手古奈」を書いて帝劇に上演して名が出ると鶴見の花月園で子供芝居をして朝日新聞が後援した。可愛いい女の児をつれて神楽坂へお茶を飲みにつれ歩いていた。その中に水谷八重子の従妹の水の座清美瀬川京子飯島綾子菊沖みえ子が小学二年三年のおかっぱ姿で融吉について町をさわいで泳いでいた。

小寺融吉 民俗芸能・舞踊研究家。早稲田大学英文科卒業。歌舞伎舞踊と民俗芸能の研究に専念し、大正11年「近代舞踊史論」を刊行。昭和2年、折口信夫、柳田国男らと民俗芸術の会を結成し、昭和3年、雑誌「民俗芸術」を創刊。生年は明治28年12月8日、没年は昭和20年3月29日。享年は満51歳。
小寺健吉 洋画家。文展入選。大正12年と昭和2年に各々一年余り渡仏。昭和3年「南欧のある日」で帝展特選。風景画が多く、温和で穏やかな作風を示した。生年は明治20年1月8日。没年は昭和52年9月20日。享年は満90歳。
中村伸郎 俳優。岸田国士、久保田万太郎、三島由紀夫、別役実ら劇作家の作品に多く出演。生年は明治41年9月14日。没年は平成3年7月5日、享年は満82歳
伊藤熹朔 いとうきさく。舞台装置家。東京美術学校洋画科卒業。築地小劇場公演『ジュリアス・シーザー』の装置でデビュー以来、日本における舞台装置の先駆者として、新劇、歌舞伎、新派、舞踊、オペラなど、手がけた装置は4000点にのぼる。生年は明治32年8月1日。没年は昭和42年3月31日、享年は満67歳
山田邦子 閨秀歌人。旧姓が山田、結婚後は今井邦子。明治42年、文学を志して上京。「アララギ」の同人だが、島木赤彦が死亡後『明日香』を主宰。生年は明治23年5月31日、没年は昭和237月15日。享年は満58歳
森律子 帝劇女優。第一期生。喜劇女優として人気があった。生年は明治23年10月30日、没年は明治23年10月30日。享年は満70歳。
真聞の手古奈 ままのてこな。真聞は千葉県市川市の町名で一丁目から五丁目まで。手古奈は万葉集に歌われた美女で、多くの男性に慕われても、寄り添うことはなく、真間の入り江に身を投げたという。
鶴見の花月園 神奈川県横浜市鶴見区にあった遊園地、開園は大正3年。動物園、噴水、花壇、ブランコ、「大山すべり」や「豆汽車」などのアトラクションの施設があった。閉園は昭和21年。
水の座清美 みずのやきよみ。女優。宝塚音楽歌劇学校を経て、昭和30年、東宝に入社。喜劇映画を中心に脇役として活躍した。叔母に初代水谷八重子。生年は大正5年8月18日、没年は不詳。
瀬川京子 飯島綾子 菊沖みえ子 3人とも不明

 世田谷から秋庭俊彦が女房をつれてきて暗い世田谷へなかなか帰りたがらなかったので横寺町へとめた。チェホフの話、モスコウの芸術座緞帳の「かもめ」の図案を表紙にして「奇蹟」が誕生した話をしてくれた。秋庭俊彦は品川東海寺で大きくなったとか、旧姓中山孝明天皇を暗殺した一味のつながりで東海寺へ預けられたそうな、俊彦をみんなが俊彦坊主(しゅんげんぼうず)などといっていたのはその為だ。
 福永渙太子堂あたりにいて時たま神楽坂へきて、にぎりなどに舌鼓をうっていた。道玄坂宮益坂も淋しくて神泉弘法湯があって飲み屋がわずかにあるだけだし、新宿も宿場の名残りで、何といっても神楽坂の比では無かった。かといって銀座は普段着ではいかれないし、店だってー流の店ばかりで裏通りにも有名な袋物屋や菓子やばかりなので山の手の野暮には縁遠く、広津が「ウーロン茶」にこって通いつめたりしたのは異例だった。


モスコウの芸術座 モスクワ芸術座。Московский Художественный Академический Театр。モスクワの劇場,劇団名。 1898年スタニスラフスキーらが創設。リアリズム演劇を確立し、世界の演劇界に多大な影響を与えた。
緞帳 どんちょう。厚地の織物でつくった模様入りの布。劇場の舞台と観客席とを仕切る垂れ幕。
奇蹟 同人雑誌。1912年9月から13年5月の9冊。早稲田大学文科出身の舟木重雄、広津和郎、谷崎精二、光田穆、葛西善蔵(聴講生)、相馬泰三らが創った。自然主義の影響を強く受けた。
品川東海寺 とうかいじ。品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派の寺院
旧姓中山 明治天皇の生母は中山慶子氏だった。
孝明天皇 明治天皇の父。天然痘患者として死亡したが、毒殺説もある。生年は1831年7月22日(天保2年6月14日)、没年は1867年1月30日(慶応2年12月25日)。享年は満35歳。
福永渙 フクナガキヨシ。詩人、翻訳家、小説家。二六新報、万朝報に入社し、日本女子高等学院などで教職に就いた。明治45年。詩集「習作」、大正9年、小説集「夜の海」を刊行。翻訳にもデュマの「椿姫」など多数ある。
太子堂 東京都世田谷区の地名。東急電鉄の三軒茶屋駅、西太子堂駅がある。
道玄坂 渋谷駅ハチ公口前から目黒方面に南西に上がる坂道
宮益坂 渋谷駅から青山通り(国道246号)に東に上がる坂道神泉 京王井の頭線沿線の駅
弘法湯 京王井の頭線・神泉駅の南にあった「弘法湯」。1979年まで営業し、現在は「アレトゥーサ渋谷」ビル。
ウーロン茶 ウーロン茶を飲ませる喫茶店として一般的には、明治38年頃、尾張町二丁目(現、銀座五~六丁目)に開店した「台湾喫茶店」ですが、はたして広津和郎を本当に虜にしたのか不明です。

 実業の世界をやってる野依秀市が「女の世界」というのをやっていて、そこの記者に芳川と井上というのがいていろいろゴシップを書いていた。宮地嘉六が自称アメリカ伯の山崎今朝也とやって来た。宮地嘉六がお祝のハガキをくれたが何も知らない男で終りに御丁寧にも鶴亀・鶴亀と重ね文句が書いてあった。鶴と亀をお目出たいと思ったらしいが世間並では悪い時取り消しにつかうものだ。「婦人公論」の波多野秋子が独身者みたいな顔をして作家に原稿を書かせるのも有名だった。「読売」の平井ます子、「」の真壁光子、「婦女界」の太田菊子も10人並の器量だった。中央公論から嶋中雄作が原稿をとりにきて、その頃にしては珍らしく赤いネクタイをしていたのが神楽坂へお茶をのみにいっても目立った。袴をはいた半沢三郎が嶋中雄作の代りにきて神妙に座っていたが、これが諏訪三郎になった。淑女画報から佐藤鐘一が写真を集めにやってきたりした。

実業の世界 野依秀市は石山賢吉と「三田商業界」を創刊、明治41年「実業之世界」と改称、さらに「実業の世界」と改称し、昭和60年まで出版した。
野依秀市 のよりひでいち。ジャーナリスト、政治家。慶応義塾商業在学中に石山賢吉と「三田商業界」を創刊、明治41年「実業之世界」と改称して社長に。「右翼ジャーナリスト」といわれた。浄土真宗に帰依して「真宗の世界」などを刊行。昭和7年、自民党の衆議院議員。生年は明治18年7月19日、没年は昭和43年3月31日。享年は満82歳。
女の世界 大正4年に発行。それ以外は不明。
宮地嘉六 みやちかろく。小説家。小学校中退後、労働運動に目ざめ、文学を志して上京。9年日本社会主義同盟に参加。労働文学者として活躍した。生年は明治17年6月11日、没年は昭和33年4月10日。享年は満74歳。
山崎今朝也 正しくは山崎今朝弥(けさや)。弁護士、社会主義者。1900年、明治法律学校を卒業し,03年、渡米。社会主義運動に関係し、労働争議や借家争議などの裁判事件の弁護をした。戦後は松川事件、三鷹事件の弁護人として活躍。生年は明治10年9月15日、没年は昭和29年7月29日。享年は満76歳。
鶴亀・鶴亀 不吉なことを見たり聞いたりしたときに縁起直しに言う語。
婦人公論 創刊は大正5年。女性たちに身近で切実なテーマに扱っている。
波多野秋子 中央公論社の『婦人公論』記者。有島武郎の愛人で、軽井沢の別荘で心中した。生年は1894年、没年は1923年6月9日。
読売 読売新聞
平井ます子 不明
 都新聞。創刊は明治17年「今日新聞」。明治21年の「みやこ新聞」から明治22年、「都新聞」に改称。昭和17年、國民新聞と合併し「東京新聞」に
真壁光子 日本女子大中退。大正14年、入社し、家庭面を手伝った。なお、磯村春子のほうが有名
婦女界 明治43年、同文館が創刊、大正2年からは婦女界社が編集発行。昭和18年、発行を停止。
太田菊子 女性の「婦女界」編集長。この時代、女性の編集長は非常に珍しかった。
中央公論 明治20年、『反省会雑誌』として創刊。明治32年に『中央公論』と改称。
嶋中雄作 出版者・編集者。中央公論社社長。生年は明治20年2月2日、没年は昭和24年1月17日。享年は満63歳。
半沢三郎 諏訪三郎 筆名は諏訪三郎。本名は半沢成二。小説家。「中央公論」の記者。大正13年「応援隊」で文壇に登場。川端康成らの「文芸時代」の同人。婦人小説や通俗小説で活躍。生年は明治29年12月3日、没年は昭和49年6月14日。享年は満77歳。
淑女画報 博文館が大正元年に創刊。大正12年に廃止。
佐藤鐘一 不明。須藤鐘一では? 須藤氏は小説家で、博文館の「淑女画報」の編集主任が長い。大正7年「白鼠を飼ふ」で文壇に。生年は明治19年2月1日、没年は昭和31年3月9日。享年は満70歳。

 武林夢想庵と渡仏を前提として結婚したという婦人記者中平文子が、年増の化粧のもの凄さでのして歩いていたのには呆れた。歌舞伎新報から山本紫房という年若い記者がきていろいろ話の結果市川松蔦の従弟で母親同志が姉妹で、大久保の家を帝大の異人さんに貸して本町入江町へ越したが、その異人さんがラフカデオファーン小泉八雲で驚いたといっていた。

武林夢想庵 たけばやし むそうあん。小説家、翻訳家。ドーデの翻訳を通じて大正ダダイズムの先駆けとなる。大正9年、中平文子と結婚し渡仏、以後離婚にいたる放浪生活を「性慾の触手」「飢渇信」などに描く。戦後は共産党に入党。生年は明治13年2月23日、没年は昭和37年3月27日。享年は満82歳
中平文子 大正9年、武林無想庵と結婚、パリにわたる。昭和9年、離婚し、10年、ベルギー在住の貿易商宮田耕三と契約結婚。戦後は自伝や旅行記を執筆。生年は明治21年7月21日、没年は昭和41年6月25日。享年は満77歳。
歌舞伎新報 演劇雑誌。明治12年2月創刊,通巻1669号を数えて平成9年3月に廃刊。
山本紫房 不明
市川松蔦 しょうちょう。歌舞伎俳優。明治29年、初代市川左団次の門弟となり、明治45年、2代目市川松蔦を襲名。2代目左団次の妹と結婚。立女形が得意で、女形より一層女性に近い演技を工夫した。生年は明治19年9月23日、没年は昭和15年8月19日。
本町 渋谷区、中野区、さらに本町はまだあるという。
入江町 墨田区の本所・入江町では?
ラフカデオファーン 小泉八雲 パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。作家、文芸評論家、英語教師。国籍はイギリス。英国陸軍軍医の父親とシチリア島生まれの娘との間に生まれ、幼い頃、父親の生家アイルランドのダブリンに移った。1869年渡米し、新聞記者に。1876年、ニューオーリンズに移住。1890年、通信員として来日。1896年、日本に帰化し、小泉八雲と改名。生年は1850年6月27日、没年は1904年9月26日。享年は満54歳

牛込の文士達➂|神垣とり子

文学と神楽坂

 いよいよ相馬泰三氏がでてきます。この文章を書いた神垣とり子氏は彼の美貌の妻でしたが、あっという間に、人形芝居の青年と一緒になり、相馬とは離婚しました。

 「直し」と繩のれんのかかった居酒屋飯塚横寺町にあったが、その横寺町に相馬泰三いた。牛込警察のおまわりさんの独身寮の隣りで、筋向い聚英社という出版屋があって新潮社も近かったことから文士が原稿の持ち込みにきたり前借りしにやってきて留守だと寄り道をしていった。
 近くの都館には早稲田の学生がかなり多く下宿をしていた。渋沢栄一庶子だと自称する学生は赤くなったので養家先の名古屋の家から出されてきていた。高丘子爵御曹子もいた。泰三は弟子が多いというより若い友達が多かった。都館の連中も遊びに来たが誰一人、手土産をもってくる人もいなければ、又それを気にする人もなかった。宇野浩二葛西善蔵の弟子だという間宮茂輔鎌倉ハムをどっさりもって来たのは例外で当時出入していた女子大生に気があったらしい。

直し 直し味醂。なおしみりん。焼酎に味醂をまぜた酒。焼酎よりも甘くて弱い。なおし。直し酒。なおしざけ。腐りかけた酒や下等な酒を加工して、普通の酒のように直したもの。
繩のれん 一本の横竹に縄を幾筋も並べ垂らして、簾の代用としたもの。店先に繩のれんを下げたところから居酒屋・一膳飯屋などのこと。
いた 相馬泰三の住所は横寺町36でした。

横寺町36

筋向い 道や堀を隔てて斜め前方。
聚英社 聚英閣が正しい。
渋沢栄一 実業家、子爵。新政府では大蔵大丞。欧州を巡遊後、実業界に入り、第一国立銀行、初の私鉄日本鉄道会社、王子製紙など五百余の会社を設立。生年は天保11年2月13日。没年は昭和6年11月11日。享年は満92歳。
庶子 民法の旧規定で、父が認知した私生児。
赤くなった 酒を飲むと顔が赤くなったのでしょうか。
高丘子爵 たかおかししゃく。公家。藤原北家支流の閑院流。家格は羽林家
御曹司 おんぞうし。貴族や上流武家の子弟で、まだ独立せず親の邸内に部屋を占めて居住する者
鎌倉ハム 食肉加工品のハムのブランドの一つ。複数の業者が製造販売する。1874年(明治7年)、イギリス人技師ウィリアム・カーティスが神奈川県鎌倉郡で畜産業を始め、横浜市で外国人に販売する。1884年(明治17年)、地震で工場が出火、消火作業に行った近隣住民の恩義に報いるべく製法を伝授し、カーティスの妻の奉公元である大庄屋齋藤の満平へ1887年に製法を売却した。

 間宮は慶応ボーイなので銀座組だけど静岡の久根銅山に或る夏出かけ泰三の兄が何かの課長をしていたのでその縁故で出入する様になった。初め本名の真言を使っていたが泰三が「川原茂輔って代議士がいるぞ、なかなか優秀らしいから君も改名しろ」といわれたので真言をやめて茂輔といったが間もなく四国の阿多田島へ燈台守りになって東京を去った。というのはその女子大生に「升田屋」(今の寿海寿美蔵時代)に似ているといわれていい男ぶっていたが、仕事も職もなく居候ばかりしてもいられないので、四国くんだりまで流れていったのだ。鰯くさい土地の娘といい仲になったという噂も聞いたがやっぱりお江戸がなつかしく独りで上京してきた。そうして葛西善蔵広津和郎の鎌倉の先輩のところへ行ったり、上京して三十間堀の「万力屋」炭店――昔新橋七人組――の君太郎の弟丹羽一郎の所へ行ったりして相変らずの居候暮しだった。

久根銅山 くねどうざん。静岡県浜松市天竜区の鉱山。産出物は銅、黄鉄鉱など。
真言 間宮茂輔の本名は「間宮真言(まこと)」
川原茂輔 実業家、政治家。佐賀県政界・実業界で活躍。佐賀日日新聞社長など歴任。明治25年以来、衆院議員当選10回。昭和4年、衆院議長。生年は安政6年9月15日、没年は昭和4年5月19日。
阿多田島 あたたじま。 広島県大竹市の瀬戸内海の島。有人島。間宮茂輔氏の「三百人の作家」(五月書房、1959)によれば、実際は香川県高松市の男木島(おぎじま)に渡りました。
升田屋 市川寿美蔵(すみぞう)。歌舞伎役者の名跡。屋号は初代と二代目は不詳、三代目は大見屋から成田屋、以後五代目まで成田屋、五代目以降は升田屋。
寿海 1886–1971。五代目の養子。旧名は市川高丸、市川小満之助、市川登升(升田屋)、六代目市川壽美蔵(升田屋)、三代目市川壽海(成田屋)でした。
寿美蔵時代 六代目市川寿美蔵(升田屋)から三代目市川寿海(成田屋)に変わっています。
噂も聞いた 実際に間宮茂輔氏は正式に島の娘と結婚しています。
三十間堀 三十間堀川。さんじっけんほりかわ。中央区にかつて存在した河川
新橋七人組 明治後期から大正前期、新橋の半玉(芸者見習い)のなかで、優れた半玉を選ぶもの。白井権八氏の「美人大学いろ手帳」(美人大学社、大正3年)では、新七人組は小万こまん、その子、里千代さとちよ小奴こやっこ君太郎きみたろう春枝はるえ元香もとかと書かれています。
君太郎 清松家君太郎。六代目尾上菊五郎夫人になりました。

新橋七人組 君太郎(左)と小奴 https://twitter.com/FlowerSaphiret/status/614617463766974464/photo/1

 丹羽一郎の妹がやっていた鎌倉の雪の下の旅館で間宮と丹羽は風呂番などしていたこともあった。しかし相変らず神楽坂へは女子大生の顔を見に泰三の所へきていた。彼女が東大の学生と熱くなり近く結婚するという頃彼女の母親がうちの娘は裾まわしを痛めますとよくこぼした。「恋愛してほっつき歩くからですよ」といってやりたかった。素寒ピンの間宮より伏見の呉服やの息子の方が親の気にいって結婚してしまった。
 神楽坂へは渋谷から舟木重雄兄弟がよく散歩にきたが間宮茂輔は馴染めないようだった。そのくせ泰三の所ではあぐらをかいたりしていた。
 各務虎夫北村喜八守随憲治の東大組と名古屋の伊藤丑之助、高丘子爵の御曹子、越後の大地主の息子、大阪の正弁丹後の弟などの早稲田派と外語の平野静男が合流して横寺町の泰三の家はいつも人の出入りが多くて賑やかだった。

裾まわし あわせの着物の裾部分の裏布。江戸末期、吉原の芸者衆は裾を長く引きずる風習があり、足元で裾が広がり裏が見え、見栄えが良かったといいます。また、裾は非常に痛みやすいところです。
素寒ピン 素寒貧。すかんぴん。貧乏で何も持たないこと。まったく金がないこと
舟木重雄 早稲田大学文学科の「高等遊民」。広津和郎・葛西善蔵らと文芸同人雑誌「奇蹟」を創刊し、その編集兼発行人。作家・島田清次郎は舟木重雄の妹芳江をホテルに監禁している。生年は1884年、没年は1951年。
各務虎夫 各務虎雄か。かがみとらお。国文学。生年は1900年。没年は1984年
北村喜八 演出家、劇作家、翻訳家。東京帝国大学英文科卒。1924年、築地小劇場に参加。昭和25年、国際演劇協会(ITI)日本センターを設立し、26年理事長に就任。生年は明治31年11月17日、没年は昭和35年12月27日
守随憲治 しゅずいけんじ、近世日本文学研究者、東京大学教養学部名誉教授。生年は明治32年3月10日、没年は昭和58年2月7日。
伊藤丑之助 早稲田大学の学生運動を主導。若くして死亡した。
正弁丹後 明治二十六年「法善寺横丁 正弁丹吾亭」の誤植でしょうか。正弁丹吾亭は日本料理の料亭です。なお広島の「正弁丹吾」もあるようで、昭和35年創業、まったく無関係です。
平野静男 大正~昭和時代の平野静男はわからず、平野静雄はいるようですが、有名な人ではありません。

 葛西善蔵なんか朝っぱらから来て飲んだり食べたりした上、電車賃をねだっていた。「水文」なんかでおごられて帰りに「女房と牛は三日目にぶんなぐれ」なんて暴言をはいていた。泰三が金なにがしかを渡してやると、
「泰三、お前はがま口を二つもっていて、俺に銭をよこす時は少ない方をざらっと掌にのっけてよこす、ずるい奴だ」
 泰三は善蔵にそういわれても顔をしかめるだけで怒らなかった。新潮社の会計の中根駒十郎を葛西善蔵は「駒十郎,役者のような名をつけて、吉良になったり由良になったり」といったが傑作の一つだろう。善蔵は青森の碇ケ関の生まれで方言がひどく、お茶碗が「おつやわん」だったり浅虫が「あんじゃむし」で東京もんは面くらう。その調子で出版屋に前借りの金策に来て断われた時
  二百十日や危病神、鬼の子孫の高利貸、
  暗い暗い腹へった、行燈なめたら舌焼いた
とよれよれの袴姿で身振りおかしく、しらふで踊る恰好が淋しそうで気の毒だった。その癖少しお金がはいると、「直し」と筆太に5尺位の看板にかかれた飯塚の繩のれんをくぐっていい気げんになり、泰三の家へ来て「赤とんぼ」をおどる。
 赤とんぼ 赤とんぼ 羽根がなければ赤とんがらし
 赤とんがらし 赤とんがらし 羽根が生えれば赤とんぼ

碇ケ関 いかりがせき。地名。青森県平川市碇ケ関。
浅虫 あさむし。青森県の浅虫温泉のことでしょうか?
赤とんぼ 風雅遁走!から引用すると「芭蕉の弟子の其角がつくった『あかとんぼ はねをとったら とうがらし』という句を、師芭蕉みずから『とうがらし はねをつけたら あかとんぼ』と訂正したというエピソードが残っている。その時、芭蕉は言ったというのである。『それじゃ、俳句とはいえん。おまえはトンボを殺してしまっている』」

牛込の文士達➀|神垣とり子

文学と神楽坂

「牛込の文士達」(新宿区立図書館資料室紀要4神楽坂界隈の変遷、新宿区立図書館、 昭和45年)を書いた神垣とり子氏は1899年(明治32年)に新宿の貸座敷「住吉楼」の娘として生まれた江戸っ子で、美貌であっても、気性は激しく、浪費家で、しかも、相馬泰三氏の元妻。この2人、大正9年に結婚して、しばらくして横寺町の小住宅を借りていました。しかし、この結婚は長続きできず、大正12年頃、離婚します。ただし、相馬氏が死亡した直前の昭和27年に再会し、亡くなるまで神垣とり子氏は傍にいました。
 これは大正10~12年頃の世界です。

  牛込の文士達
火事はとこだい
「牛込だい」
「牛込のきん玉丸焼けだい!」
 牛込というと明治、大正時代の東京の子供達は、こういって噺し立てるほど、牛込の牛宿は芝の高輪車町辺の牛宿と共に有名だった。そして両方とも近所に飲み屋や小料理屋があり賑わったものだ。牛込の神楽坂は表通りが商店、裏通りは花柳界で、昔の牛込駅から入力車にのるとかなりの坂道なので車力が泣いたといわれた。「東雲のストライキ節」をもじって
「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」と替唄が出来た。
 毘沙門さまの本堂の鈴が鳴り出し、お百度道の石だたみに芸者の下駄の音が一段と冴えてくると毘沙門横丁の角のそばやの春月で「イラッシャイ」  ふらりっとはいるお客が気がつくと一羽のオームがよく馴らされていていうのだ。「もり」「かけ」 5銭とかいてあるので、もりかけを注文して10銭とられた上、もりの上からおつゆをかけて袴を汚した早稲田の学生の逸話もあった。その学生達にとりまかれて着流しのいわゆる「文士」連がいた。

火事はとこだい 昭和一桁に生まれた人はよく唄った「かけあい」言葉、「ハヤシ」言葉、地口じぐち歌、ざれ歌。地口とはしゃれで、諺や俗語などに同音や発音の似た語を使って、意味の違った文句を作ること。たとえば〈舌切り雀〉を〈着た切り雀〉という。
牛宿 牛の牧場のこと。神楽坂には大宝律令で牛の牧場が開けて以来の歴史があります。701年(大宝元年)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧ぎゅうまき」という牧場が設置、飼育舎「乳牛院」が建てられたという。古代の馬牧が今日都内に「駒込」「馬込」の地名で残されているが、古代の牛牧では「牛込」に当てはまるという。
高輪車町 高輪牛町。たかなわうしまち。牛町。市ヶ谷見附の石垣普請の時、重量運搬機の牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋木村清兵衛を中心とする牛持人足を呼び寄せて材木や石類の運搬に当たらせた。工事終了後、この町での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えた。「車町」(通称牛町)とよぶ。
車力 大八車などで荷物を運ぶのを職業とする人や荷車
東雲のストライキ節 東雲節、しののめ節、ストライキ節。明治後期の1900年ころから流行した流行歌はやりうたのひとつ。代表的な歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」
お百度 病気平癒や念願成就のため社寺に参りて、その境内の一定の距離をはだしなどで100回往復し、そのたびに拝する軽い苦行
もり 従来のつゆに浸して食べること。一説には高く盛りあげるから。
かけ 「おそばにつゆをぶっかけて食べ始める」から「ぶっかけそば」転じて「かけ」
着流し はかまや羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり。

 大正の初めから神楽坂は「文士の街」になった。そうして山の手随一のさかり場だった。肴町を中心にして文なし文士は「ヤマモト」で5銭のコーヒーと、ドーナツで2時間もねばりおかみさんの大丸まげにみとれていた。
 雑司ヶ谷の森から木菟みたいに毎晩やってくるのは秋田雨雀で、雨が降ると見えないのは雨傘がないからだろうなんていわれていた。秋田雨雀は小柄な人なつっこい童顔でだれかれに愛想よく挨拶をしてゆく。「土瓶面なあど精二」とは、印度の詩入ラビンドラナート・タゴールが来朝して若い男女が話題にしたのをもじってつけた名で、谷崎精二潤一郎の弟でいい男だと己惚れていたが履物が江戸っ子のわりには安ものらしくすりへって、そり上げた額の青さとは似ても似つかぬものだった。矢来町を通って弁天町からやってくるのだから下駄もへってしまうのだろう。「」(このしろ)みたいに妙に青っぼい着物ばかり着ている細田民樹が五分刈りの頭でヒョコヒョコと歩いていた。

大丸まげ  既婚女性の代表的な髪型。丸髷の大きいもの。

大丸髷

雑司ヶ谷 東京都豊島区の町名。池袋から南に位置する。
木菟 みみずく。フクロウ科のうち羽角(うかく、いわゆる「耳」)がある種の総称。
土瓶面なあど精二 「ドビンメンナード・精二」と名前をつけたわけです。
ラビンドラナート・タゴール インドの詩人、思想家、作曲家。1913年、ノーベル文学賞を受賞。1916年から1924年まで5回来日。生年は1861年5月7日、没年は1941年8月7日。
弁天町 谷崎精二は大正8年頃から昭和元年頃までは弁天町6に住んでいました。
 このしろ。ニシン科の海水魚。全長約25センチ。約10センチのものをコハダという。
細田民樹 早稲田大学英文科卒。大正2年「泥焔」を「早稲田文学」に発表。島村抱月らの称賛をえ、早稲田派の新人に。兵役の体験を大正13年に「或兵卒の記録」、昭和5年「真理の春」として発表。プロレタリア文学の一翼を担った。大正10年から12年頃まで北町41の大正館。生年は明治25年1月27日、没年は昭和47年10月5日。

 都館という下宿やの三階に広津和郎が女房と暮していた。くたびれているが栗梅色縫紋の羽織着てソロリとしていた。親爺の柳浪お下りだといっていたがシャレタ裏がついていたっけ。ルドルフ・バレンチノにどこか似ているといわれていたが、本物が聞いたら泣きべそをかくだろうけど文士の中ではともかくいい男だった。宇野浩二葛西善蔵と歩いていると贅六や田舎っぺと違っていた。
 詩人の生田春月白銀町豆腐やの露地裏のみすぼらしい、二階に住んでいた。名とはあべこべの花世女史とー緒にいた。この花世女史が、油揚げを買ってる姿をよく見た。女弟子らしいデパートの女店員が二階にいた。これもだらしのない姿で、裾まわしがきれて綿が出ていても平気で神楽坂を散歩していた。「帯のお太鼓だけが歩いている」なんて背のひくい花世女史の陰口を長谷川時雨をとりまく女たちがいっていたが、花世はむしろ媚をうって男の詩人仲間を娼婦的に泳ぎまわる彼女らを見くだしていた。

栗梅色 くりうめいろ。栗色を帯びた濃い赤茶色。#8e3d22。#8e3d22
縫紋 ぬいもん。刺繍ししゅうをして表した紋。
ソロリ 静かにゆっくりと動作が行われるさま。そろそろ。すべるようになめらかに動く。するり
お下り おさがり。客に出した食物の残り。年長者や目上の人からもらった使い古しの品物。お古。
ルドルフ・バレンチノ サイレント映画時代のハリウッドで活躍したイタリア出身の俳優。生年は1895年5月6日.没年は1926年8月23日。
贅六 ぜいろく。関東の人が上方かみがたの人をあざけっていう語]
豆腐や 『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)の「新宿・神楽坂暮らし80年②」で水野正雄氏は白銀町を描き、豆腐屋は現在の交番に当たるといいます。

白銀町・豆腐屋

花世 生田花世。いくたはなよ。大正から昭和時代の小説家。大正2年、平塚らいてうの「青鞜せいとう」同人となり、昭和3年「女人芸術」誌の創刊に参画した。夫の生田春月の死後「詩と人生」を主宰。生年は明治21年10月15日。没年は昭和45年12月8日。享年は満82歳。
裾まわし 裾回し。すそまわし。着物の裾部分の裏布をいう。
お太鼓 おたいこ。女帯の結び方の一種。年齢,未婚既婚を問わず最も一般的な結び方

[名所名店]

明治の子供|新宿区役所

文学と神楽坂

 新宿区役所編「新宿区史・史料編」(昭和31年)で佐久間徳太郎氏が話した「古老談話」です。

  佐久間 德太郎      中町三六
 佐久間さんは明治21年生れであるから、かれこれ5,60年に亘って神樂坂を知つておられる。佐久間さんのお母さんが、坂の近くで「末吉」という料亭を開いていたので、其處で子供の時代を過したわけである。
 神樂坂の特徴と云うべきものに、毘沙門天緣日があつた。最初は寅の日だけであつたが、明治中頃から午の日も緣日になった。境内にはそんなに大掛りな芝居などかゝらなかったが、源氏節などやる小屋掛が建つた。芝居を見に行こうとすれば、水道橋の東京齒科醫科大學の辺にあつた三崎座というのへ出掛けた。こゝは女役者で、近邊の女連が見物に行った。木戸錢は五錢であった。神樂坂の芸者屋はかたまつてあつたのではなく、其處此處に離れてあつた。芸者が店から客の所へ行き帰りするのに、着飾つた着物のつまをとつて坂を行く姿が、商店の内から坐つて眺められたし、歩行者の眼を樂しませてくれた。これは一寸他の所では見られぬ光景で、神樂坂の情緒ともいうべきものであった。
縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
源氏節 明治時代、名古屋を中心に流行した浄瑠璃の一派。明治期末は衰退。
小屋掛 こやがけ。芝居や見世物のための小屋をつくることや、その小屋。
三崎座 東京神田三崎町にあった。一般の劇場で女性だけの歌舞伎(女芝居)を興行した。
東京歯科医科大學 東京歯科医学院でしょう。明治34年、校舎を神田三崎町に移転。昭和21年、東京歯科大学(旧制)設置を認可。
木戸銭 興行を見物するために払う入場料。見物料。
褄を取る 裾の長い着物のつまを手で持ち上げて歩く。褄とは着物のすその左右両端の部分。

 又神樂坂の坂も特別なものだった。「車力はつらいね」と唄われた如く、坂の登り降りに車力は苦労をした。車というのは、くね/\と折れ曲るようにして登るのが樂なのだが、神樂坂はそれが出來ない。かまぼこ型に真中がふくれ上つていたからだ。その為に車を店の中を突込んでしまう恐れがある。其頃の車は荷車か人力車であったが、坂の下に「立ちん棒」というのが立つていて、頼まれて荷車の後を押した。「立ちん棒」というのはれつきとした商売で車が上つてくると「旦那押しましようか」と後押しをして登りつめると一錢か二錢頂戴する。此の商賣は日露戰争頃まで見られたという。又人力車で坂の下まで來た人は一旦降りて、車が坂を登り切るまで一緒に歩かねばならなかった。こういうのは東京で珍しく、九段坂はそうであつたが他には知らないという。
車力 しゃりき。大八車などをひいて荷物の運搬に従事する人。
唄われた如く 「東雲のストライキ節」をもじったもので、替え歌「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」から。本歌の歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」。明治後期の1900年頃から流行し、廃娼運動を反映した。
かまぼこ形かまぼこ型に真中がふくれ上つていた 昔は道路全体が上を凸に曲げられ、かまぼこ形でしたが、昭和12年には、それほどのたるみはなく、道路の左右にはどぶ板が置かれるようになり、かまぼこ形ではなくなりました。

 経済的に豐かでない人々の子供達は、小學校を出た位で働かねばならなかつた。働き場所というのは、加賀町にある秀英舎(大日本印刷株式會社)とか、後樂園にあつた砲兵工廠であった。雜用に雇われて賃金を貰い、自分で働いて家計の足しにすると共に、小使も少し持つていた。
 子供達の通う學校は、市立の赤城小學校、愛日小學校でもう一つ私立の竹内尋常高等小學校というのがあり、文部省の補助金を受けていたので、校名の上に代用の字がついていた。此の學校の生徒には亂暴者が多く、赤城小學校や愛日小學校の生徒との闘いには絶對に強く、集團的に喧嘩をしかけたりした。佐久間さんは此の學校に通つた。生徒は總數八百名位で、此處の生徒は袴なぞはいてなく、皆つくしんぼみたいな恰好で、風呂敷包で通學した。袴をはくのは元旦とか天長節の祭日位だけであった。神樂坂六丁目にあった勸工場で、袴は四十五錢から五十錢位で買えた。
 昔は簡單にお酌になれたし、今みたいに許可など必要なかった。それに場所が神樂坂に近いとあつて、生徒の中にはお酌になっている者がいた。彼女は學校に来て勉強しているのだが、習字の時間になると御太鼓に墨をつけられるといつて、白い紙をかぶせていた。綺麗にしているから誰も墨をつけて汚す者はいないのだが、きまつてそうしていた。所で彼女は小學校の生徒であるが、お酌でもあるから何時お客があるか分らないので、箱屋が教室の外で待つている。そして知らせがあると生徒ではなくなつて、お酌として授業を止めて歸つて行く。今からでは一寸考えられないのだが、當時はそれがり前のように思われていた。
加賀町 市谷加賀町。新宿区の町名。牛込第三中学校や大日本印刷などが見られる。

市谷加賀町

市谷加賀町

秀英舎 1876年、日本で最初の本格的印刷企業。個人経営。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。
工廠 こうしょう。旧陸海軍に所属し、兵器・弾薬などの軍需品を製造・修理した工場。
竹内尋常高等小学校 尋常高等小学校とは旧制小学校で、尋常小学校と高等小学校の課程を併置した学校。修業年限は、初め尋常4年、高等2~4年。その後、尋常6年、高等2年。竹内小学校はここ
代用 明治40年(1907)3月以前に、公立小学校にすべての児童を就学させられない特別な事情のあるとき、市町村内か町村学校組合内につくられた私立の尋常小学校。代用私立小学校。
つくしんぼみたいな恰好 「つくしの形の恰好」。わかりませんが、「刈上げの髪は目立ち、あとはやせている」でしょうか。
天長節 第二次大戦前の天皇誕生日。大戦後は「天皇誕生日」と改称
勧工場 百貨店やマーケットの前身。一つの建物で、日用雑貨、衣類などの多種の商品を陳列し、定価で販売した。
お酌 東京では半玉はんぎょくの異称。まだ一人前として扱われず、玉代ぎょくだいも半人分である芸者。
箱屋 客席に出る芸者の供をして、三味線などを持って行く男。はこまわし。はこもち。箱丁。
箱屋 「当」の旧字体

 神樂坂近邊には寄席が幾つかあつた。坂の中途、助六という下駄屋のある邊に若松亭というのがあつた。これは浪花節の定席で雲右術門とか虎丸など一流の者が來て居り、丸太で仕切った特別席には常連が多かつた。それより少し上に娘義太夫石本亭があつた。娘義太夫は大流行で東京専門學校のフアン連中が、娘義太夫の人力車にくつついて寄席のはしごをした程だった。色物では藁店にあつた藁店亭で、仲々の新感覺をみせていた。お盆には圓朝牡丹燈龍も聞けた。通寺町の細い道の突當りには、男義太夫の牛込亭があり、淺太郎とか三味線松太郎というのがいた。
 坂の中途にはまだ石垣などがあり、其の上にイソベ溫泉という風呂屋があった。櫻の木が植えてあってその下に赤い毛氈を敷いた緣臺が置かれて、そこに坐つて茄小豆をたべ甘酒を飲む事も出来た。そういう悠長さが佐久間さんの子供の時分にはあつた。だから花柳界ものんびりしていた。後立てで金を出すだけの旦那もいた。帳場は女が主體になつてやつており、金錢の淸算も無頓着な所があった。横寺町には明治三十六年まで尾崎紅葉が住んで居り、神樂坂は多く文士連中の遊び場であった。
若松亭 知りませんでした。
浪花節 浪曲。三味線の伴奏で独演し、題材は軍談・講釈・物語など、義理人情をテーマとしたものが多い。
娘義太夫 女性の語る義太夫節。義太夫節とは浄瑠璃の一流派で、原則として1場を1人の太夫が語り、1人の三味線弾きが伴奏する。
石本亭 まったく知りませんでした。
東京専門学校 早稲田大学の前身。明治15(1882)年、創立。35(1902)年、早稲田大学と改称。
藁店亭 おそらく袋町の和良店亭でしょう。明治21年頃、娘義太夫の大看板である竹本小住が席亭になり、24年に改築し「和良店亭」と呼びました。
円朝 幕末~明治時代の落語家。怪談噺、芝居噺を得意として創作噺で人気をえた。生年は天保10年4月1日、没年は明治33年8月11日。享年は満62歳。
牡丹燈龍 牡丹灯籠。ぼたんどうろう。三遊亭円朝作の人情噺「怪談牡丹灯籠」の略称。お露の幽霊が牡丹灯籠の光に導かれ、カランコロンと下駄の音を響かせて恋しい男のもとへ通う。
牛込亭 神楽坂6丁目の落語と講談の専門館。詳しくは牛込亭について。
イソベ温泉 野口冨士男氏は温泉山と呼んでいたようです。
茄小豆 ゆであずき。茹でた小豆。砂糖などをかけて食べる。
後立て 「後ろ盾」は「陰にあって力を貸し、助ける事や人」。「後立て」は「かぶと立物たてもののうち、後方につけたもの。」

 佐久間さんは神樂坂で旦那・先生・兄さん等と呼ばれた人だったが、若い頃は家の商賣を嫌って世帶を持ち始めた頃は、袋町で下宿生活をしていた。淸榮館という下宿屋で隣の部屋には、小説家の宇野浩二氏が母親と共に暮して居り、時々彼の彈く三味線の音が聞えて来た。それでやはりこれも小説家の廣津和郎氏が時々顏を見せていた。
 其の頃の新宿は「新宿まぐその上に朝の露」と川柳に唄われる程で、新宿驛も貧弱なものであり、驛前に掛茶屋が三、四軒あった。神樂坂が明治の頃は、山の手隨一の繁榮を誇つた街であった。
 佐久間さんは大正十五年に、牛込區議會議員となり、現在は新宿區の名誉職待遇者となつている。
清栄館 宇野浩二氏は白銀町の都築、神楽坂の神楽館、袋町の都館にいたことはわかっています。清栄館にいたというのは知りませんでした。本当でしょうか。
新宿まぐその上に朝の露 至文堂編集部の「川柳江戸名所図会」(至文堂、昭和47年)にはでていません。江戸時代の古川柳「誹風柳多留」を索引で調べても、ありませんでした。「朝の露」は「朝、草葉に置いた露」で、はかない人生のたとえに用いる場合も。
掛茶屋 道端などによしずなどをかけて簡単に造った茶屋。茶店。
 「当」の旧字体。

牛込郷愁

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込うしごめ郷愁ノスタルジヤ」です。話は牛込区の(みやこ)館支店という下宿屋で、起きました。

 なお、最後の「なつかしい店だ」と次の「こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう」は同じ段落内です。長すぎるので2つに分けて書きました。

 牛込牛込館の向こう隣に、都館(みやこかん)支店という下宿屋がある。赤いガラスのはまった四角い軒燈(けんとう)がいまでも出ている。十六の僕は何度この軒燈をくぐったであろう。小脇にはいつも原稿紙をかゝえていた。勿論(もちろん)原稿紙の紙の中には何か、書き埋うずめてあった。見てもらいに行ったのである。見てもらいには行ったけど、恥ずかしくて一度も「(これ)を見てください」とは差し出せなかった。都館には当時宇野浩二さんがいた。葛西(かさい)善蔵(ぜんぞう)さんがいた(これは宇野さんのところへ泊まりに来ていたのかもしれない)。谷崎(たにざき)精二(せいじ)さんは左ぎっちょで、トランプの運だめしをしていた。相馬(そうま)泰三(たいぞう)さんは、襟足(えりあし)へいつも毛をはやしていた、廣津(ひろつ)さんの顔をはじめて見たのもこゝだ。僕は宇野先生をスウハイしていた。いまでも僕は宇野さんが好きだ。当時宇野先生のものを大阪落語だと評した批評家がいた。落語にあんないゝセンチメントがあるかと僕は木槌(こづち)を腰へぶらさげて、その批評家の(うち)のまわりを三日もうろついた、それほど好きだッたのである。僕の師匠の福士幸次郎先生に紹介されて宇野先生を知った、毎日のように、今日は見てもらおう、今日は見てもらおうと思いながら出かけて行って空しくかえッて来た、丁度どうしても打ちあけれない恋人のように(おゝ純情なりしハチローよ神楽(かぐら)(ざか)の灯よ)……。ある日、やッぱりおず/\部屋へ()()って行ったら、宇野先生はおるすで葛西さんが寝床から、亀の子のように首を出してお酒を飲んでいた。さかなは何やならんと横目で見たら、おそば、、、だった。しかも、かけ、、だった。かけ、、のフタを細めにあけて、お汁をすッては一杯かたむけていた。フタには春月しゅんげつと書かれていた。春月……その春月はいまでも毘沙門びしゃもん様と横町よこちょうを隔てて並んでいる。おそばと喫茶というおよそ変なとりあわせの看板が気になるが、なつかしい店だ。

牛込牛込館都館支店 どちらも袋町にありました。神楽坂5丁目から藁店に向かって上がると、ちょうど高くなり始めたところが牛込館、次が都館支店です。

牛込館と都館支店

左は都市製図社「火災保険特殊地図」昭和12年。右は現在の地図(Google)。牛込館と都館は現在ありません。

軒燈 家の軒先につけるあかり
襟足 えりあし。首筋の髪の毛の生え際
スウハイ 崇拝。敬い尊ぶこと。
大阪落語批評家 批評家は菊池寛氏です。菊池氏は東京日日新聞で『蔵の中』を「大阪落語」の感がすると書き、そこで宇野氏は葉書に「僕の『蔵の中』が、君のいふやうに、落語みたいであるとすれば、君の『忠直卿行状記』には張り扇の音がきこえる」と批評しました。「()(せん)」とは講談や上方落語などで用いられる専用の扇子で、調子をつけるため机をたたくものです。転じて、ハリセンとはかつてのチャンバラトリオなどが使い、大きな紙の扇で、叩くと大きな音が出たものです。
センチメント 感情。情緒。感傷。
木槌を腰へぶらさげて よくわかりません。木槌は「打ち出の小槌」とは違い、木槌は木製のハンマー、トンカチのこと。これで叩く。それだけの意味でしょうか。
 酒に添えるものの総称。一般に魚類。酒席の座興になる話題や歌舞のことも。
かけ 掛け蕎麦。ゆでたそばに熱いつゆだけをかけたもの。ぶっかけそば。

 こゝまで書いたから、もう一つぶちまけよう。相馬そうま! 御存知でしょう有名な紙屋だ。当時僕たちはこゝで原稿紙を買った。僕と國木田くにきだ虎男とらお獨歩どっぽの長男)と、平野威馬雄いまおヘンリイビイブイというアメリカ人で日本の勲章を持っている人のせがれ)と三人で、相馬屋へ行ったことがある。五百枚ずつ原稿紙を買った。お金を払おうとした時に僕たちに原稿紙包みを渡した小僧さんが、奥から何か用があって呼ばれた。咄嗟とっさに僕が「ソレッ」と言った(あゝ、ツウといえばカア、ソレッと言えばずらかり、昔の友達は意気があいすぎていた)。三人の姿は店から飛び出ていた。金はあったのだ。払おうとしたのだ。嘘ではない、計画的ではない。ひょッとの間に魔にとりつかれたのだ(ベンカイじゃありませんぞ)。僕は包みを抱えたまゝ、すぐ隣の足袋屋の横を曲がった。今この足袋屋は石長いしなが酒店の一部となってなくなっている。大きなゴミ箱があった、フタを開けてみると、運よくゴミがない、まず包みをトンと投げこみ、続いて僕も飛びこんだ。人差し指で、ゴミ箱のフタを押しあげて、目を通りへむけたら、相馬屋という提燈ちょうちんをつけた自転車が三台、続いて文明館のほうへ走って行った。折を見はからって僕は家へ帰った。もうけたような気がしていたら翌日國木田が来て、「だめだ、お前がいなくなったので待っていたら、つかまってしまッたぞ。割前わりまえをよこせ」と取られてしまった。苦心して得だのは着物についたゴミ箱の匂いだけだッた。相馬屋の原稿用紙はたしかにいゝ。罪ほろぼしに言っているのではない。
 まだある。二十一、二の時分に神楽館かぐらかんという下宿にいた。白木屋の前の横丁を這入ったところだ。片岡鐵兵てっぺいことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎かわさき備寛びかん間宮まみや茂輔もすけ、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

国木田虎男 詩人。国木田独歩の長男。「日本詩人」「楽園」などに作品を発表。詩集は「鴎」。ほかに独歩関係の著作など。生年は明治35年1月5日、没年は昭和45年。享年は満68歳。
平野威馬雄 詩人。平野レミの父。父はフランス系アメリカ人。モーパッサンなどの翻訳。昭和28年から混血児救済のため「レミの会」を主宰。空とぶ円盤の研究や「お化けを守る会」でも知られた。生年は明治33年5月5日、没年は昭和61年11月11日。享年は満86歳。
ヘンリイビイブイ ヘンリイ・パイク・ブイ。Henry Pike Bowie。裕福なフランス系アメリカ人。米国で日米親善や日系移民の権利擁護に貢献し、親日の功で、生前に勲二等旭日重光章を贈与。
ずらかる 逃げる。姿をくらます。
ベンカイ 弁解。言い訳をする。言いひらき。
石長酒店 正しくは万長酒店です。サトウハチローからが間違えていました。
意気があう 「意気」は「何か事をしようという積極的な心持ち、気構え、元気」。「息が合う」は「物事を行う調子や気分がぴったり合う」
割前 それぞれに割り当てた額
アイアンソルジャー おそらく鉄兵を鉄と兵にわけて、英語を使って、鉄はアイアン(iron)、兵士はソルジャー(soldier)としたのでしょう。
まげる 曲げる。品物を質に入れる。「質」と発音が同じ「七」の第二画がまがることからか?
たもと 袂。和服の袖で袖付けより下の垂れ下がった部分。

矢来町|文士罷り通る

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。これは「江戸の名残り」の「矢来町」。

文士罷り通る
 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。

矢来町 下図を参照

名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。
発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 下図を参照

学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治20年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、24年からほぼ10年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治36年3月、本郷区千駄木町へ居を構えた。
竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて18歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正2年のことであった。
矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮


三百人の作家③|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「神楽坂生活序曲」です。

 そのいっぽう神楽館では、広津を中心に、片岡長田島田、わたしなどが一室に膳をならべて食事をとるような一種の共同生活がつづいていた。食事や雑談にはいろんな雑誌の編集者をはじめ、それぞれの友人たちが絶えずくわわった。たとえば片岡鉄兵のところへは横光川端なども訪ねて来たが、彼等の往来はのちに新感覚主義の運動が展開される土台づくりであったのかも知れない。
 当時の神楽坂はまだ旧東京のおちつきと、花柳界的な色彩とが、自然に溶け合い、一筋の坂みちながら独特の雰囲気があった。フルーツ・パーラーの田原屋や、坂下のコーヒー店に坐っていると、初々しいほど頬のあかい水谷八重子が兄夫婦に守られながら通って行く。初々しい八重子はせいぜい二十一か二であったろう。そうかとおもうと、新劇俳優の東屋三郎が歩いている。後に三宅艶子と結婚した画家の阿部金剛が、パラヒン・ノイズだとわたしたちが蔭で綽名をつけた愛人とならんで散歩している。同じく画家の上野山清貢が、水野仙子との仲に出来た赤ん坊を半纒ぐるみにおぶって通って行く。貧乏で、牛ばかり描いていたこの画家は、作家でもあった愛妻と死別したあとの哀しみを文字どおりの蓬頭垢面にかくしているようにみえた。(上野山かあのころおンぶしていた赤ん坊も、健在ならばすでに四十近いのではあるまいか)
 神楽坂はまた矢来の新潮社へいく道すじでもあって、「文士」の往来が絶えなかった。雑誌「新潮」の編集者として、「中央公論」の滝田檽蔭としばしばならび称された中村武羅夫や、同じく「新潮」の編集者であった水守亀之助‥‥一名「ドロ亀さん」などが、よく通った。容貌魁偉の中村武羅夫がわたしにはひどくこわいものにみえてならなかった。
 矢来に住んでいる谷崎精二が、夕方になると、細身のステッキを腕にひっかけて、そろりそろりと神楽坂に現われる。同じく矢来在住の加能作次郎もおじさん風の姿をみせた。佐々木茂索はその頃まだ時事新報の文芸部にいたが、これも矢来に住んでおり、渋い和服の着流しに、やはりステッキを持ち、草履ばきという粋なかっこうであさに晩に通って行く。色白なメガネの顔に短い囗ひげを立てた佐々木茂索には、神楽坂の芸者で血みちをあげているのがいた。
矢来に住んでいる 谷崎精二氏や加能作次郎氏、佐々木茂索氏は矢来町に住んでいたのでしょうか。現在、わかる限り、谷崎精二氏や加能作次郎氏は確かに矢来町の近傍に住んでいましたが、矢来町には住んでいないようです。浅見淵氏の『昭和文壇側面史』を読むと、佐々木茂索氏では若いときに「矢来町の洋館に住んでいた」と書かれていますが、ここも天神町でした。

長田重男 芸術社の幹部。鎌倉の旅館「海月」の息子。英語が巧く、久米正雄や里見弴を知っていた。
島田 芸術社の番頭。他は不明。
三宅艶子 小説家、評論家。三宅恒方の長女。画家阿部金剛と結婚、阿部艶子名で執筆し、離婚後は三宅姓。昭和33年随筆集「男性飼育法」を発表、ユニークなタイトルで女性の人気をよんだ。生年は大正元年11月23日、没年は平成6年1月17日。享年は満81歳。
阿部金剛 あべこんごう。洋画家。阿部浩の長男。岡田三郎助にまなぶ。フランスでビシエールに師事し、藤田嗣治らの影響をうける。以後、超現実主義的な作品を発表。生年は明治33年6月26日、没年は昭和43年11月20日。享年は68歳。
パラヒン・ノイズ パラヒンはParaffin。現在のパラフィン。蝋紙とも。パラフィン紙とは、紙にパラフィンを塗り、耐水性を付与した紙。甲高い声なのでしょうか。
新感覚主義 横光利一、川端康成、片岡鉄兵、中河与一、稲垣足穂らの、大正末~昭和初期の文学流派。自然主義リアリズムから解放し、新しい感覚と表現技法、翻訳小説と似た新奇な文体が特徴。
蓬頭垢面 ほうとうこうめん。乱れた髪とあかで汚れた顔。身だしなみに無頓着なこと。
 

三百人の作家②|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「鎌倉建長寺境内」です。
 間宮茂輔氏は小説家で、「不同調」の同人から「文芸戦線」、ナップ(全日本無産者芸術連盟)に加わり、昭和8年に投獄され、10年、転向して出獄。12年から「人民文庫」に長編「あらがね」を連載し、第6回芥川龍之介賞候補に選出。戦後は民主主義文学運動や平和運動の推進に努めました。

 当時、相馬泰三は、牛込横寺町の、叢文閣書店の斜向いに新婚の夫人と住んでいた。才色兼備の夫人‥‥神垣とり子については後でふれる機会があるかもしれない。ともかくわたしは相馬家の常連みたいになって、そこの二階でいろんな作家たちに紹介された。
 或る日もわたしが遊びに行っていると、三人の作家が訪ねて来たが、頭髪のもじゃもじゃな背の低い醜男が菊池寛であり、おじさんみたような感じで顔に薄いの残つている人が加納作次郎であり、いちばん若い、五分刈の、紺ガスリを着た眼光のするどい人が広津和郎であった。三人は小説家協会という相互扶助の団体を創立するため相馬泰三を勧誘に来たのである。いうまでもなくこの小説家協会が発展して戦前の文芸家協会になり、戦争ちゅうはさらに変身して日本文芸報国会となったことはだれでも知っているが、その出発に当って菊池、広津、加納その他の人びとが、足をはこんで一人ずつ勧誘して歩いた努力は記憶されていいことだろう。
「そう‥‥そんなものがあれば便利だろうし、べつに無くても差支えはないだろうね」
と、相馬が一流の皮肉な答えかたをしたのをわたしはおぼえている。
 英訳ではあるが、チェーホフの飜訳紹介で功績のある秋葉俊彦にも同じ二階でひきあわされた。わたしなど新潮社版の秋葉訳でチェーホフに取りついたようなものである。有名な東海寺(品川)の住職でもあるこの人には、だれが考えたものか、アキーバ・トシヒコーフという巧い綽名があった。
 谷崎精二には神楽坂の路上で紹介された。すでに早大の講師か教授かであったこの作家は、兄の潤一郎とはちがい、見るから真面目そうであったが、駄じゃれの名人であり、矢来の奥から細身のステッキをついて現われ、神楽坂をよく散歩していた。しかし下町生れの東京児らしいところもないではなく、いつもぞろっとした風に和服を着流し中折れをちょいと横に被った長身が、何か役者のような印象であった。

叢文閣書店 大正7(1918)年から、この書店は神楽坂2-11にありました。それ以前にはよくわかりませんが、恐らく間違えています。横寺町にあった書店は文海堂(28番地、緑色)か聚英閣(43番地、青色)でした。

住んでいた 住所は横寺町36。上図で赤色。
神垣とり子 生年は1899年(明治32年)。貸座敷「住吉楼」の娘。相馬泰三氏の別れた妻。相馬氏が死亡する直前に再会し、亡くなるまで傍にいました。
紺ガスリ 紺絣。紺地に絣を白く染め抜いた模様か、その模様がある織物や染め物。耐久性があるので仕事着や普段着に普及。
小説家協会 1921年、発足。
文芸家協会 1926年、発足。小説家協会と劇作家協会が合併してできたもの。文学者の職能擁護団体。戦時中は日本文芸報国会で吸収。1945年、日本文芸家協会として再発足。
日本文芸報国会 1932年(昭和7年)内閣情報局の指導の下に結成。戦意高揚、国策宣伝が目的。45年、終戦直後に解散。
秋葉俊彦 詩人として文壇に。大正の初めから中頃までにチェーホフの諸短篇を訳し、名訳者と。
ぞろっと 羽織・袴をつけない着物だけの姿で
着流し 袴や羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり
中折れ 中折れ帽子。中折れ帽。山高帽の頂を前後にくぼませてかぶるフェルト製の紳士帽。

神楽坂考|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。
 林原耕三氏が書かれた『神楽坂今昔』の川鉄の場所について、困ったものだと書き、また、泉鏡花の住所、牛込会館、毘沙門横丁についても書かれています。

-49・4「群像」
 さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
 明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。
 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。

東京理科大学 地図です。理科大マップ

 坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。
 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。

パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
肴町二十二番地 明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
明治28年の肴町22番地
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。

 ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。
 坂の中途右側には水谷八重子東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がそのである。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。
 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。

 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。

 慶三(けいざう)はどんな藝者(げいしや)とお(きやく)だか見えるものなら見てやらうと、何心(なにごころ)なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱(めかくし)(つき)出てゐたが、此方(こちら)真暗(まつくら)向うには(あかり)がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴(ふしあな)が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強(くつきやう)と、(のぞき)機關(からくり)でも見るやうに片目を押當(おしあ)てたが、すると(たちま)ち声を立てる程にびつくりして慌忙(あわ)てゝ口を(おほ)ひ、
 「お干代/\大變だぜ。鳥渡(ちよつと)來て見ろ。」
四邊(あたり)(はゞか)る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。
 隣の話聾(はなしごゑ)先刻(さつき)からぱつたりと途絶(とだ)えたまゝ今は(ひと)なき如く(しん)としてゐるのである。お千代は(しばら)く覗いてゐたが次第に息使(いきづか)(せは)しく胸をはずませて来て
「あなた。罪だからもう止しませうよ。」
()(まゝ)黙つて隙見(すきま)をするのはもう氣の毒で(たま)らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を(こら)して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに()一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角(とかく)する中に慶三もお千代も何方(どつち)からが手を出すとも知れず、二人は眞暗(まつくら)な中に(たがひ)に手と手をさぐり()ふかと思ふと、相方(そうほう)ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合(だきあ)つた。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑪

文学と神楽坂

 朝日坂を引き返して神楽坂とは反対のほうへ進むと、まもなく右側に音楽之友社がある。牛込郵便局の跡で、そのすぐ先が地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口である。余計なことを書いておけば、この駅のホームの駅名表示板のうち日本橋方面行の文字は黒だが、中野方面行のホームの駅名は赤い文字で、これも東京では珍しい。
 神楽坂口からちょっと引っこんだ場所にある赤城神社の境内は戦前よりよほど狭くなったようにおもうが、少年時代の記憶にはいつもその種の錯覚がつきまとうので断言はできない。近松秋江の最初の妻で『別れたる妻に送る手紙』のお雪のモデルである大貫ますは、その境内の清風亭という貸席の手伝いをしていた。清風亭はのちに長生館という下宿屋になって、「新潮」の編集をしていた作家の楢崎勤は長生館の左隣りに居住していた。

神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。(略)その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

朝日坂 北東部から南西部に行く横寺町を貫く坂
音楽之友社 音楽出版社。本社所在地は神楽坂6-30。1941年12月、音楽世界社、月刊楽譜発行所、管楽研究会の合併で設立。音楽之友
牛込郵便局 通寺町30番地、現在は神楽坂6-30で、会社「音楽之友社」がはいっています。
神楽坂口 地下鉄(東京メトロ)東西線で新宿区矢来町に開く神楽坂駅の神楽坂口。屋根に千本格子の文様をつけています。昔はなかったので、意匠として作ったはず。
神楽坂口
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。鎌倉時代の正安2年(1300年)、牛込早稲田の田島村に創建し、寛正元年(1460年)、太田道灌により牛込台に移動し、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔が現在地に移動。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めました。

別れたる妻に送る手紙 家を出てしまった妻への恋情を連綿と綴る書簡体小説
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷やその業
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。
或屋敷 「ある屋敷」というのは新潮社の初代社長、佐藤義亮氏のもので、今もその祖先の所有物です。佐藤自宅

  広津和郎の『年月のあしおと』の一節である。和郎の父柳浪『今戸心中』を愛読していた永井荷風が処女作(すだれ)の月』の草稿を持参したのも、劇作家の中村吉蔵が寄食したのもその家で、いま横丁の左角はコトブキネオン、右角は「ガス風呂の店」という看板をかかげた商店になっている。新潮社は、地下鉄神楽坂駅矢来町口の前を左へ行った左側にあって、その先には受験生になじみのふかい旺文社がある。

今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描きます。
簾の月 この原稿は今でも行方不明。荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものではないかという。
コトブキネオン 現在は「やらい薬局」に変わりました。なお、コトブキネオンは現在も千代田区神田小川町で、ネオンサインや看板標識製作業を行っています。やらい薬局と日本風呂
ガス風呂 「有限会社日本風呂」です。現在も東京ガスの専門の店舗、エネフィットの一員として働き、風呂、給湯設備や住宅リフォームなど行っています。「神楽坂まちの手帖」第10号でこの「日本風呂」を取り上げています。

 トラックに積まれた木曽産の丸太が、神楽坂で箱風呂に生まれ変わる。「親父がさ、いい丸太だ、さすが俺の目に狂いはないなって、いつもちょっと自慢げにしててさあ。」と、店長の光敏(65)さんが言う。木場に流れ着いた丸太を選び出すのは、いつも父の啓蔵(90)さんの役目だった。
 風呂好きには、木の風呂なんてたまらない。今の時代、最高の贅沢だ。そう言うと、「昔はみんな木の風呂だったからねえ。」と光敏さんが懐かしむ。啓蔵さんや職人さん達がここ神楽坂で風呂桶を彫るのを子供の頃から見て育ち、やがて自分も職人になった。

新潮社 1904年、佐藤義亮氏が矢来町71で創立。文芸中心の出版社。佐藤は1896年に新声社を創立したが失敗。そこで新潮社を創立し、雑誌『新潮』を創刊。編集長は中村武羅夫氏。文壇での地位を確立。新潮社は新宿区矢来町に広大な不動産があります。新潮社
旺文社 1931年(昭和6年)、横寺町55で赤尾好夫氏が設立した出版社。教育専門の出版社です。

旺文社

 そして、その曲り角あたりから道路はゆるい下り坂となって、左側に交番がみえる。矢来下とよばれる一帯である。交番のところから右へ真直ぐくだった先は江戸川橋で正面が護国寺だから、その手前の左側に講談社があるわけで、左へくだれば榎町から早稲田南町を経て地下鉄早稲田駅のある馬場下町へ通じているのだが、そのへんにも私の少年時代の思い出につながる場所が二つほどある。

交番 地域安全センターと別の名前に変わりました。下図の赤い四角です。
矢来下 酒井家屋敷の北、早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。

矢来下

矢来下

江戸川橋 えどがわばし。文京区南西端で神田川にかかる橋。神田川の一部が江戸川と呼ばれていたためです。
護国寺 東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の大本山。
講談社 こうだんしゃ。大手出版社。創業者は野間清治。1909年(明治42年)「大日本ゆうべん(かい)」として設立
講談社榎町 えのきちょう。下図を。
早稲田南町 わせだみなみちょう。下図を。
馬場下町 ばばしたちょう。下図を。

 矢来町交番のすこし手前を右へおりて行った、たぶん中里町あたりの路地奥には森田草平住んでいて、私は小学生だったころ何度かその家に行っている。草平が樋口一葉の旧居跡とは知らずに本郷区丸山福山町四番地に下宿して、女主人伊藤ハルの娘岩田さくとの交渉を持ったのは明治三十九年で、正妻となったさくは藤間勘次という舞踊師匠になっていたから、私はそこへ踊りの稽古にかよっていた姉の送り迎えをさせられたわけで、家と草平の名だけは知っていても草平に会ったことはない。
 榎町の大通りの左側には宗柏寺があって、「伝教大師御真作 矢来のお釈迦さま」というネオンの大きな鉄柱が立っている。境内へ入ってみたら、ズック靴をはいた二人の女性が念仏をとなえながらお百度をふんでいた。私が少年時代に見かけたお百度姿は冬でも素足のものであったが、いまではズック靴をはいている。また、少年時代の私は四月八日の灌仏会というと婆やに連れられてここへ甘茶を汲みに来たものだが、少年期に関するかぎり私の行動半径はここまでにとどまっていて先を知らなかった。
 三省堂版『東京地名小辞典』で「早稲田通り」の項をみると、《千代田区九段(九段下)から、新宿区神楽坂~山手線高田馬場駅わき~中野区野方~杉並区井草~練馬区石神井台に通じる道路の通称》とあるから、この章で私が歩いたのは、早稲田通りということになる。

中里町 なかざとちょう。下図を。
住んで 森田草平が住んだ場所は矢来町62番地でした。中里町ではありません。

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

本郷区丸山福山町四番地 樋口一葉が死亡する終焉の地です。白山通りに近くなっています。何か他の有名な場所を捜すと、遠くにですが、東大や三四郎池がありました。
一葉終焉
岩田さく 藤間勘次。森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生でした。
榎町 えのきちょう。上図を。
宗柏寺 そうはくじ。さらに長く言うと一樹山(いちきさん)宗柏寺。日蓮宗です。
お百度 百度参り。百度(もう)で。ひゃくどまいり。社寺の境内で、一定の距離を100回往復して、そのたびに礼拝・祈願を繰り返すこと。
灌仏会 かんぶつえ。陰暦4月8日の釈迦(しゃか)の誕生日に釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。花祭り。
甘茶 アマチャヅルの葉を蒸してもみ乾燥したものを(せん)じた飲料
東京地名小辞典 小さな小さな辞典です。昭和49年に三省堂が発行しました。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑨

  文学と神楽坂

 以前には坂下が神楽町、中腹が宮比(みやび)、坂上が肴町で、電車通りから先は通寺町であったが、現在ではそれらの町名がすべて消滅して、坂下が神楽坂一丁目で大久保通りを越えた先の通寺町が神楽坂六丁目だから、のっぺらぼうな感じになってしまった。が、住民は坂下から大久保通りまでを「神楽坂通り=美観街」として、以前の通寺町では「神楽坂商栄会」という別の名称を採択している。排他性のあらわれかもしれないが、住民感覚からは当然の結果だろう。寺町通りにも戦前は夜店が出たが、神楽坂通りは肴町――電車通りまでという思い方が少年時代の私にもあった。『神楽坂通りの図』も、寺町通りにまでは及んでいない。

神楽町 下図で神楽町は赤色。
宮比町 下図で上宮比町は橙色。
肴町 下図で肴町はピンク。
電車通り 大久保通り。路面電車がある通りを電車通りと呼びました。
通寺町 下図で通寺町は黄色。なお青色は岩戸町です。

昭和5年 牛込区全図から

昭和5年 牛込区全図から

神楽坂通り 現在は神楽坂1~5丁目は「神楽坂通り商店会」です。
神楽坂商栄会 現在は6丁目は「神楽坂商店街振興組合」です。
電車通りまで 本来の神楽坂は神楽坂一丁目から五丁目まで。

 寺町通りの右角は天台宗の🏠安養寺で、戦前から小さな寺院であったが、そこから軒なみにして七、八軒目だったろうか、右角に帽子屋のある路地奥に寄席の🏠牛込亭があった。私の聞き違いでなければ、藤枝静男から「あそこへ私の叔母が嫁に行っていましてね」と言われた記億がある。だから自分にも神楽坂はなつかしい土地なのだというような言葉がつづいたようにおぼえているが、広津和郎はその先の矢来町で生まれている。そのため『年月のあしおと』執筆に際して生家跡を踏査したとき、彼は《肴町の角に出る少し手前の通寺町通の右側に、「🏠船橋屋本店」という小さな菓子屋の看板を見つけ》て、《子供の時分から知っている店で、よくオヤツを買いに来た》ことを思い出しながら店へ入ると、《代替りはして居りません。何でも五代続いているそうでございます》という店員の返事をきいて《大福を包んで貰》っているが、私も些少の興味をもって外から店内をのぞいてみたところ、現在では餅菓子の製造販売はやめてしまったらしく、セロファンの袋に包んだ半生菓子類がならべてあった。日本人の嗜好の変化も一因かもしれないが、生菓子をおかなくなったのは、寺町通りのさびれ方にも作用されているのではなかろうか。

軒なみ 家が軒を連ねて並び建っていること。家並み。並んでいる家の一軒一軒。家ごと。
セロファン セルロースを処理して得られる透明フィルム。

 矢田津世子『神楽坂』の主人公で、もと金貸の手代だった五十九歳の馬淵猪之助は通寺町に住んで、二十三歳の妾お初に袋町で小間物店をひらかせている。お初は金だけが目当てだし、自宅にいる女中の(たね)は病妻の後釜にすわることをねらっているので、猪之助は妻に死なれていとおしさを感じるといった構想のものだが、矢田はどの程度に神楽坂の地理を知っていたのか。猪之助は袋町へお初を訪ねるのに、寺町の家を出て≪肴町の電車通りを突っき》つたのち、《毘沙門の前を通》って《若宮町の横丁》へ入っていく。そのあたりもたしかに袋町だが、料亭のならんでいる毘沙門横丁神楽坂演芸場のあった通りの奥には戦前から現在に至るまで商店はない。袋町とするなら藁店をえらぶべきだったろうし、藁店なら寺町から行けば毘沙門さまより手前である。小説は人物さええがけていれば、それでいいものだが、『神楽坂』という表題で幾つかの地名も出てくる作品だけに、どうして現地を歩いてみなかったのかといぶかしまれる。好きな作家だっただけに、再読して落胆した

『神楽坂』 昭和5年、矢田津世子氏は新潮社の「文学時代」懸賞小説で『罠を跳び越える女』を書き、入選し、文壇にデビュー。昭和11年の「神楽坂」は第3回芥川賞候補作に。
小間物 こまもの。日用品・化粧品などのこまごましたもの
寺町 神楽坂六丁目のこと
通り この横丁に三つ叉通りという言葉をつけた人もいます
袋町 袋町はここです。袋町商店はない藁店をえらぶ  商店はありませんが、花柳界がありました。商店がないが花柳界はある小説と、商店や藁店があるが花柳界はない小説。しかも表題は『神楽坂』。どちらを選ぶのか。あまり考えることもなく、前者の花柳界があるほうを私は選びます。

1990年、六丁目の地図1990年、六丁目の地図

安養寺 牛込亭 船橋屋 よしや せいせん舎 木村屋 朝日坂 有明家
 船橋屋からすこし先へ行ったところの反対側に、🏠よしやというスーパーがある。二年ほど以前までは武蔵野館という東映系の映画館だったが、戦前には文明館といって、私は『あゝ訓導』などという映画――当時の言葉でいえば活動写真をみている。麹町永田町小学校の松本虎雄という教員が、井之頭公園へ遠足にいって玉川上水に落ちた生徒を救おうとして溺死した美談を映画化したもので、大正八年十一月の事件だからむろん無声映画であったが、当時大流行していた琵琶の伴奏などが入って観客の紅涙をしぼった。大正時代には新派悲劇をはじめ、泣かせる劇や映画が多くて、竹久夢二の人気にしろ今日の評価とは違ってお涙頂戴の延長線上にあるセンチメンタリズム顕現として享受されていたようなところが多分にあったのだが、一方にはチャップリン、ロイド、キートンなどの短篇を集めたニコニコ大会などという興行もあって、文明館ではそういうものも私はみている。

紅涙 こうるい。女性の流す涙。美人の涙
新派悲劇 新派劇で演じる人情的、感傷的な悲劇。「婦系図」「不如帰」「金色夜叉」など
センチメンタリズム 感傷主義。感性を大切にする態度。物事に感じやすい傾向
顕現 けんげん。はっきりと姿を現す。はっきりとした形で現れる
享受 きょうじゅ。あるものを受け自分のものとすること。自分のものとして楽しむこと
チャップリン、ロイド、キートン サイレント映画で三大喜劇王。
ニコニコ大会 戦前から昭和30年代まで、短編喜劇映画の上映会は「ニコニコ大会」と呼ぶ慣習がありました。

 文明館――現在のよしやスーパーの先隣りには老舗のつくだ煮の🏠有明家が現存して、広津和郎と船橋屋の関係ではないが、私も少年時代を回顧するために先日有明家で煮豆と佃煮をほんのわずかばかりもとめた。
 そのすこし先の反対側――神楽坂下からいえば左側の左角にクリーニング屋の🏠せいせん舎、右角に食料品店の🏠木村屋がある。そのあいだを入った一帯は旧町名のままの横寺町で、奥へ行くといまでも寺院が多いが、入るとすぐはじまるゆるい勾配の登り坂は横関英一と石川悌二の著書では🏠朝日坂または旭坂でも、土地にふるくから住む人たちは五条坂とよんでいるらしい。紙の上の地図と実際の地面との相違の一例だろう。

木村屋 正しくは「神楽坂KIMURAYA」。『神楽坂まちの手帖』第2号で、「創業明治32年菓子の小売から始まり、昭和初期に屋号を「木村屋」に。昭和40年代に現在のスーパー形式となり、常時200種が並ぶワインの品揃えには定評がある」と書かれています。「スーパーKIMURAYA」の設立は昭和34年(1959年)。法政大学キャリアデザイン学部の「地域活動とキャリアデザイン-神楽坂で働く、生活する」の中でこう書かれていました。現在のリンクはなさそうです。

―キムラヤさんは、初めはパンとお菓子をやられていたんですね。
 それは、明治ですね、焼きたてのパンを売ってたからものすごく売れたんですね。スーパーじゃなくて、パン屋をやりながらお菓子を売っていました。お菓子のほうがメインだったんです。その頃、焼きたてのパンなんて珍しくてね、パンをやるんだから銀座のキムラヤさんと同じ名前でいいんじゃないかって「キムラヤ」ってなったわけで、銀座のキムラヤさんとは全く関係ありませんからね(笑)

私のなかの東京|野口冨士男|1978年➆

文学と神楽坂

 また、毘沙門前の🏠毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいだにある横丁の正面にはもと大門湯という風呂屋があったが、読者には🏠本多横丁🏠大久保通りや🏠軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、🏠毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

田原屋 せんべい 毘沙門横丁 尾沢薬局 相馬屋紙店 藁店 武田芳進堂 鮒忠 大久保通り

4.5丁目

逍遥 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。
白山 はくさん。文京区白山。山の手の花柳界の1つ
遭遇 そうぐう。不意に出あう。偶然にめぐりあう

 神楽坂通りにもどると、善国寺の先隣りは階下が果実店で階上がレストランの🏠田原屋である。戦前には平屋だったのだろうか、果実店の奥がレストランであったし、大正時代にはカツレツやカレーライスですら一般家庭ではつくらなかったから、私の家でもそういうものやオムレツ、コキールからアイスクリームにいたるまで田原屋から取り寄せていた。例によって『神楽坂通りの図』をみると、つぎのような書きこみがなされている。

(略)開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門六代目先々代歌右ヱ門松永和風水谷八重子サトー・ハチロー加藤ムラオ(野口註=加藤武雄と中村武羅夫?)永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生が京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅川清吉氏の“手紙”から)


 麻布の龍土軒国木田独歩田山花袋らの龍土会で高名だが、顔ぶれの多彩さにおいては田原屋のほうがまさっている面があると言えるかもしれない。夏目漱石が、ここで令息にテーブル・マナーを教えたという話ものこっている。


観世元滋 戦前の観世流能楽師。生年は1895年(明治28年)12月18日。没年は1939年(昭和14年)3月21日。
羽左ヱ門 市村羽左衛門。いちむら うざえもん。歌舞伎役者。十五代目の生年は1874年(明治7年)11月5日、没年は1945年(昭和20年)5月6日。
六代目 六代目の中村歌右衛門でしょう。なかむらうたえもん。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日。没年は2001年3月31日。
歌右ヱ門 五代目の中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は1866年2月14日(慶応元年12月29日。没年は1940年(昭和15年)9月12日。
松永和風 まつながわふう。長唄の名跡。
加藤ムラオ 加藤武雄中村武羅夫の2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。
万竜 まんりゅう。京都ではなく東京の芸妓。明治40年代には「日本一の美人」の芸妓と呼ばれたことも。生年は1894年7月。没年は1973年12月。
龍土軒 明治33年、麻布にあるフランス料理。田山花袋、国木田独歩などが使い、自然主義の文学談を交わした龍土会が有名。
 いまも田原屋の前にある🏠尾沢薬局が、その左隣りの位置にカフェー・オザワを開店したのは、震災後ではなかったろうか。『古老の記憶による震災()の形』と副題されている『神楽坂通りの図』にもカフェー・オザワが図示されているので、震災前か後か自信をぐらつかせられるが、その店はげんざい🏠駐車場になっているあたりにあって、いわゆる鰻の寝床のように奥行きの深い店であったが、いつもガラス戸の内側に白いレースのさがっていたのが記憶に残っている。
 記憶といえば、昭和二年の金融恐慌による取附け騒ぎで、尾沢薬局の四軒先にあった東京貯蓄銀行の前に大変な人だかりがしていた光景も忘れがたい。その先隣りが紙屋から文房具商になった🏠相馬屋で目下改築中だが、人いちばい書き損じの多い私は消費がはげしいので、すこし大量に原稿用紙を購入するときにはこの店から届けてもらっている。

震災前 関東大震災が起きたときには神楽坂は全く無傷でした。なかには震災後の場所もありえると思います。
鰻の寝床 うなぎのねどこ。間口が狭くて奥行の深い家のたとえ
駐車場 カフェー・オザワは、4丁目にある店舗です。1978年の住宅地図ではカフェー・オザワはタオボー化粧品に変わています。その左側の「第1勧信用組合駐車場」ではありません。
 相馬屋の前にある坂の正式名称は🏠地蔵坂で、坂上の光照寺地蔵尊があるところから名づけられたとのことだが、一般には🏠藁店(わらだな)と俗称されている。そのへんに藁を売る店があったからだといわれるが、戦前右角にあった洋品店の増田屋がなくなって、現在ではその先隣りにあった🏠武田芳進堂書店になっている。また、左角に焼鳥の🏠鮒忠がある場所はもと浅井という小間物屋で、藁店をのぼりつめたあたりが袋町だから、矢田津世子の短篇『神楽坂』はそのへんにヒントを得たかとも考えられるが、それについてはもうすこしあとで書くほうが読者には地理的に納得しやすいだろう。
 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店亭という小さな寄席があった。映画館の🎬牛込館はその二、三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五十年九月三十日発行の「週刊朝日」増刊号には、≪明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。早川雪洲の主演作や、岡田嘉子山田隆哉と共演した『髑髏(どくろ)の舞』というひどく怖ろしい日本映画のほか、多くの洋画を私はここでみている。映画好きだった私が、恐らく東京中でもいちばん多く入場したのは、この映画館であったろう。その先隣りに、たしか都館といった木造三階建ての大きな下宿屋があったが、広津和郎が自伝的随想『年月のあしおと』のなかで≪社員を四人程置≫いて出版社を主宰していたとき関東大震災に≪出遭った≫と書いているのは、この下宿屋ではなかったろうか。そのなかには、片岡鉄兵もいたと記されている。

色物 色物寄席。落謡、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席。色物寄席がそのまま現在の寄席になりました。
風俗画報 風俗画報の「新撰東京名所絵図」第42編(東陽堂、明治39年)では「袋町ふくろまちと肴町の間の通路を藁店わらだなと稱す。以前此邊にわらを賣る店ありしかば、俚俗りぞくの呼名とはなれり」と書き、「藁店」を出しています。
早川雪洲早川雪洲 はやかわ せっしゅう。映画俳優。 1909年渡米、『タイフーン』 (1914) の主役に。以後米国を中心に、『戦場にかける橋』など多くの映画や舞台に出演。生年は明治19年6月10日。没年は昭和48年11月23日。87歳。
山田隆哉 文芸協会の坪内逍遥に師事、演劇研究所の第1期生。松井須磨子と同期に。岡田嘉子と共演の「出家とその弟子」が評判に。昭和11年、劇団「すわらじ劇園」に参加。生年は明治23年7月31日。没年は昭和53年6月8日。87歳。
髑髏の舞 1923年(大正12年)製作・公開。田中栄三監督のサイレント映画

漱石山房の推移2

文学と神楽坂

 浅見淵氏が書いた『昭和文壇側面史』(講談社、昭和43年)の「漱石山房の推移」のその2です。

下宿屋と早稲田派
 こんなことを書きだしたのは、その頃は好況時代で、従ってインフレで、下宿代など、一、二年のうちに倍近くあがったものの、とにかく下宿屋全盛時代で、古い下宿屋がまだたくさん残っていて、神楽坂界隈の古い下宿屋には、文士たちのエピソードじみたものが少なからず語り伝えられたり、近所にその旧居がそのまま原型をとどめていたりしたことを指楠したかったからである。ぼくは神楽坂を中心に随分下宿屋を転々したが、牛込矢来にあった若松館という、会津藩の家老の娘あがりの婆さんが経営していた古ぼけた下宿屋には鏡花斜汀の泉兄弟がかつて下宿していたというし、くだっては外語仏語科時代の大杉栄がここから外語へ通っていたというので、ぼくが下宿した時にも外語の連中が大勢下宿していた。そこへは下宿しなかったが、松井須磨子が首をくくった横寺町にあった芸術座倶楽部が、やはり下宿屋になっていた。出版を始めて武者小路全集を出していた広津和郎氏も、神楽坂の横丁の三階建ての下宿屋に、大勢の社員たちと一緒にたむろしていた。
 下宿屋文学の代表的なものは、芝公園で野垂れ死にした藤沢清造の「根津権現裏」である。また、芥川竜之介などは、早稲田派の文士は下宿屋で煮豆ばかり食っているから、唯美的な作品が生まれないのだと皮肉を飛ばしていた。それほど、大正末期までは、下宿屋というものが天下を風靡していた。ところが、やがて世界不況が襲来するに及んで、アパートや貸し間、引いては食堂の氾濫となり、下宿屋は慌ててどんどん下宿代をさげだしたか、しだいに衰微を辿るに到った。
若松館 大正11年、東京旅館組合『東京旅館下宿名簿』によれば、井上まさ氏が経営するこの下宿は矢来町3大字山里55号にありました。しかし、この場合、山里のうち55号がどこにあるのかわかりません。
外語仏語科 旧外語の校地は一ツ橋通町1番地(現千代田区一ツ橋2丁目)に置かれました(一ツ橋校舎)。下図の右下、赤い四角は当時の外語を示します。左側は矢来町なので、市電がないと大変です。

矢来町と外語仏語科(現在は如水会館)

矢来町と外語仏語科(現在は如水会館)

芸術座倶楽部 正しくは芸術倶楽部です。
下宿屋 神楽館です。
下宿屋で煮豆 志賀直哉氏の「沓掛にて―芥川君のこと」では

 早稲田の或る作家に就て芥川君が「煮豆ばかり食つて居やがつて」と云つたと云ふ。これは谷崎君に聞いた話だが一寸面白かつた。多少でも貧乏つたらしい感じは嫌ひだつたに違ひない。

 この「ある作家」について、琉球大学の教育学部教育実践総合センター紀要15号で小澤保博氏は

 芥川龍之介は、「MENSURAZOILI」(「新思潮」大正六年一月)で文学作品判定器械なる装置を登場させる事で、坪内道遥退職後に自然主義文学、社会主義文学の牙城となった「早稲田文学」を槍玉に挙げている。
「しかし、その測定器の評価が、確だと云ふ事は、どうして、決めるのです。」
「それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパツサンの『女の一生』でも載せて見れば、すぐ針が最高価値を指しますからな。」
 これは、当時早稲田系の代表的な同時代作家、広津和郎「女の一生」(「植竹書院」大正二年十月)に対する芥川龍之介の皮肉である。志賀直哉「沓掛にて」(「中央公論」昭和二年九月)で回想されている芥川龍之介の発言で「煮豆ばかり食つて居やがつて」と潮笑されれている早稲田派の作家というのは、言うまでも無く広津和郎の事である。

 早稲田派の単数の「ある作家」では広津和郎なのでしょう。一方、水守亀之助氏の『わが文壇紀行』では「連中」と複数です。

「早稲田の連中は下宿屋で煮豆とガンモドキばかり食わされていたんだからね」と、芥川が冷嘲したのは、当時知れわたった話だ。

 どちらにしても自然主義を標榜する早稲田グループに対する皮肉でした。

衰微 勢いが衰えて弱くなること。衰退

なぜ、小説家の収入は大正八年に劇的に急増したのか

山本芳明

文学と神楽坂

 山本芳明氏が書いた『カネと文学 日本近代文学の経済史』です。

 氏は学習院大学教授で近代文学研究者。生年は1955年です。

 第一章 大正八年、文壇の黄金時代のはじまり

 一、あがる原稿料
 なぜ、岩野泡鳴の収入は、大正八年に劇的に急増したのだろうか。
 その原因として、第一にあげるべきなのは、原稿料の高騰である。大正八年四月に総合雑誌「改造」、六月に「解放」が創刊されたのを契機として、コンテンツを確保するために、原稿料が上昇したのである。
 小説家の広津和郎の回想によれば、「『改造』『解放』等が原稿料を余計出したので、どこの雑誌も原稿料を急激に値上げし始めた。これもこの年の特徴であった。参考のために自分の原稿料の上り方を書いて見ると、大正六年に『中央公論』にはじめて書いた時は一円であり、その後『文章世界』に書いたら六十銭、『新潮』は七十銭、『太陽』が八〇銭、そんな工合合で大正七年まで来たのに、大正八年になって、『改心』が一円八〇銭、『解放』が二円出したので、次ぎに『中央公論』に書いたら、『改造はいくら出しましたか』と滝田氏(注:号は樗陰。「中央公論」編集長)は訊ねた上で、今までの一円を二円にした。それまでは原稿料の値上げは、十銭とか、二十銭とか宛であったのに、それからは五十銭、一円の値上げとなり、大正十二年の震災前に五円になった。その後、少しずつ値上りして、八円という時代が十年以上続き、大東亜戦争の始まる少し前頃、十円になった。これは私の貰った原稿料で、他の人気作家は、もっとずっと払って貰っていたかも知れないと思う。」(「六十二 大正八年という年」『年月のあしおと』昭38・8刊 引川は平1・5刊の中央公論社普及版全集第12巻による)ということになる。

 つまり、原稿料は40枚で400円になりました。年に10作をつくると、4000円です。さらに近松秋江氏がこう書いていると山本芳明氏はいいます。

碌々(ろくろく)学校もやらない島田清次郎が僅かに二十二か三歳で、一挙にして数万円の印税を()得たなどは、漸く十八九歳の前垂れ掛けの小僧でも(うま)く一つ当れば一夜にして、(たちま)ち、巨富を成すことの出来る相場師仲間以外にはとても見られぬ図である」(「年の暮文士貧富論」「時事新報」大11・12・21)。
 近松が、浅薄な「文運の降盛」の代表者として言及した島田清次郎は、「本年二十三歳の島田君の預金が川崎銀行に五万円◇尚続々その『地上』第一部乃至第三部から上って来る月々の印税千円を下らず」(「書架の前」「読売新聞」大10・11・20)といったゴシップが流れるほどの流行作家だった。島田については、後に詳しく述べるが、黄金時代を代表する作家の一人といっていいだろう。大正文学の代表的な作家といえば、芥川龍之介志賀直哉のような短編小説を得意とする作家たちが思い浮かぶ。しかし、実際のところ、黄金時代を支えた重要な文学作品=商品は、島田清次郎の『地上』シリーズを代表とする書き下ろし長編小説だったのである。
 近松は、島田のような若造に『巨富』を得させる「文運の隆盛」の浅薄さを、昔気質の文士らしく嘆いているかのようだ。しかし、彼の本当の悩みは別のところにあった。彼を困らせていたのは、「初めて税務署から決定書をさし付けて来た」ことだった。貧乏で売っていた近松も「文運の降盛」のおかげを被っていたのである。こうした税金をめぐるトラブル(?)はこの時期の重要な文壇ゴシップだった。
 たとえば、上司小剣は「著作物に対する不定の報酬は課税の目的物となるべきや」(「読売新聞」大9・11・30)という文章で、[従来六百円]だったのに、「先月末品川税務署から三千円の決定書を送られ」「再審査を請求しても間に合わんので」、税金を「其のまま二回納め」たという体験と、税務署の関心が作家に突然向けられたことの困惑を語っていた。
 ちなみに、大正九年の内閣総理大臣の月給は千円、東京府知事の年俸は六千円、国会議員の年額報酬は三千円、第一銀行の大卒の初任給は四五円から五〇円、小学校教員の初任給(諸手当を含まない基本給)は四〇円から五五円だった。そばは八から一〇銭、味噌は二八銭、醤油は八四銭である。
 まさに、作家たちは成金となったのである。

贏つ かつ。勝つ。克つ。相手より優位な立場を占める。競争相手を負かす。勝利を得る。

 小説家の年収は10作で、四千円。国会議員の年額報酬は三千円。小説家たちは成金になりました。


 もうひとつ、出版ジャーナリズムが出てきたものも別の理由です。杉森久英氏の「天才と狂人の間」(河出文庫)の解説で川村湊氏は

 しかし、杉森久英氏が指摘しているもう一つの、〈島田清次郎現象〉すなわち『地上』ブームの要因がある。それはほかでもなく、この頃に出版社主導型の大衆ジャーナリズムが拡大したということである。二十歳の無名青年の長篇小説が、いくら生田長江の強力な推輓があったとしても、当時すでに文芸物の出版社として定評を得ていた新潮社から大々的に出版されることは、おそらく数年前にはほとんど考えられなかったことだ。社内の賛否両論を抑え、出版を決裁したのは社長の佐藤義亮だったという。彼は出版人としての商売人的なカンによって、この小説は売れると踏んだのだろう。無名であり、新人であり、若いからこそ、「現代」にアッピールする。新聞に大きく広告を出し、自社系出版物にも大きく広告を打ち「堂々二千枚の大長篇ということ」「著者がまだ二一歳の年少作家だということ」を強調し、「島田清次郎」という名前を一般読者、大衆層に向けて記憶させ、浸透させようとしたのである。(もっとも成功しなかった場合のことも考え、第一部「地に潜むもの」の印税はなしというように、細心な商売人根性も見せている。)
 つまり、島田清次郎は「新潮社」という出版ジャーナリズムによって作られた「文壇の寵児」なのであって、それは尾崎紅葉の門下から泉鏡花小栗風葉が、漱石門下から芥川龍之介森田草平が新進作家として登場してくるといった、明治・大正文壇の新人作家の登場の仕方とは異質であり、異端的なものであったのである。

推輓 すいばん。車を()したり引いたりすること。転じて人を推挙すること

新潮社社長の佐藤義亮氏が書いた『出版おもいで話』(1936年)では

島田清次郎氏の『地上』
「多少ながらいいものをもっているようです。会ってやって下さい」
 という意味の生田長江氏の紹介状を持って、きわめて謙譲で、無口な青年が、私を訪ねて来た。それが島田清次郎氏であった。大正八年の春のことである。
 持って来た原稿を、社の二、三の人たちに読んでもらった。相当見られるというのと、いや、大したもんじゃないという、二様の意見だった。結局冒険して出すこともなかろうとの説に帰したが、私が読んでみると、なるほど稚拙な点は否めないが、しかもどこか不思議な迫力があり、いい意味の大衆性をもっているので、未練があって棄てかねる。で、初めの方を二、三度読みかえして見てから、とうとう出すことに決め、郵便で出版承諾の旨を言ってやると、彼は飛んで来た。非常な喜び方だったことはいうまでもない。
 この時の素朴な感謝に溢れた彼と、後の傲岸(ごうがん)無比な彼とが同一人であったということは、今考えても不思議なくらいである。
 かくして、『地上』第一巻が生まれた(大正八年六月)。
 初版は三千部刷ったが、初めの売行きは普通だった。それが二十日ばかり経ってから俄然売れ出し、徳富蘇峰翁や堺枯川氏などの激賞をきっかけに、各新聞雑誌における評判は、文字どおり嘖々(さくさく)たるものであった。十版、二十版と増刷して、発売高は三万部に達した。
 つづいて『地上』第二巻を出したが、これも初版一万部が、たった二日間で売れ尽す盛況であった。
 この奇蹟以上の売行きに、あの謙虚寡黙だった青年が私に向かって、
「自分の小説が、これほど世に迎えられようとは実際思っていなかった。それにしても、第二巻などはあまり売れ過ぎるように思う。これは恐らく、政友会で買い占めをやっているのであろう。現代日本の人気者は、政友会出身の内相原敬であるが、今や新しく一世の人気を贏ち得ようとする者に小説家島田清次郎がある。これは政友会の堪え得るところでない。で、政友会はこの上、島田清次郎を民衆に知らしめないために、ひそかに『地上』の買い占めをやっているに相違ない……。」
と語った。これには私も、すこしヘンだぞと思わざるを得なかった。
 第三巻は、本が出来てから初めて読んで、その支離滅裂さに驚き、すこしへんだぞと思った予感が、まさに的中して来たことを情けなく思った。それでも初版の三万部は事なく消化されてしまった。
 第四巻の出版にはかなり躊躇されたが、騎虎の勢どうにもならないで出した。やはり相当に売れた。
「日本の若き文豪が、民意を代表して欧米各国を訪れるのである」と豪語して、海外漫遊に出かけたのはその頃であるが、あちらで奇矯な振舞いをして、在留の同胞に殴られたという噂をしばしば耳にした。
 帰ってからは、あの「島清事件」だ。一遍にぴしゃんと凹まされてしまって、彼は再び起つことが出来なかった。
 盛名を馳せた人で悲惨な末路を見せるものは珍しくないが、彗星のように突如現われて四辺を眩惑し、わずか両三年にして、また、たちまち彗星のように消え去った、島田清次郎の如きは、恐らく空前にして、絶後というべきであろう。

嘖々 ほめること
政友会 立憲政友会。明治33年(1900)伊藤博文が旧自由党系の憲政党を吸収して結成し、5・15事件の後に衰退し、昭和15年(1940)解党。
内相 ないしょう。内務大臣のこと
贏ち得る かちえる。努力の結果として得る。
騎虎の勢 きこのいきおい。虎に乗った者は、降りると虎に食べられてしまうので、乗り続けるしかない。一度勢いがついてしまうと、途中でやめることが出来ないたとえ

島田清次郎3|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂


巷間に伝わる噂話

 この聚英閣は、広津和郎氏の名著のほまれ高い処女評論集「作者の感想」や、宇野浩二の処女作集「蔵の中」なども出していたが、主人は海軍主計中佐あがりの禿げ頭のズブのしろうとであった。従って、出版も出たとこ勝負で、あまりもうかっていなかったようだった。そこで、島田清次郎が新潮社からつぎつぎと「地上」の続篇を出して人気の絶頂にあったとき、幾たびか足を運んで、やっと「早春」とかいう感想集の原稿にありつき、当時はそれを徳としていたのである。そんな因縁もあって、たまたまぼく達が聚英閣を訪れたとき、どういう風の吹きまわしか、たぶん聚英閣の細君が快活な気まぐれ屋だったからであろう、清次郎を座敷にあげていたのだ。
「地上」が出たのは、ぼくが早稲田に入った年である。それで、さっそく買って読んだが、当時のぼくにして、なんだか概念的で詰まらなかった。が、杉森氏の前記の長篇に、堺利彦が「地上」の発売と共に「時事新報」紙上に書いた推賞文が紹介されているが、一般の人気もまた、その感銘が堺利彦の指摘しているところと一致していたからだろう。
“著者の中学校生活、破れた初恋、母と共に娼家の裏座敷に住んだ経験、或る大実業家に助けられて東京に遊学した次第、其の実業家の妾との深い交りなど、悉く著者の「貧乏」という立場から書かれた、反抗と感激と発憤との記録である”
 ところで、島田清次郎の没落は、その線香花火的な早熟性とあいまって、変質者だったことが大きく影響していたように思われる。人気作家さなかの渡米船上での外交官夫人への接吻強要、徳富蘇峰紹介の逗子養神亭における帰朝直後の海軍少将令嬢監禁事件、新聞紙上に大きく叩かれたこれらの事件のほかにも、パリの街娼たちと遊んでは奇怪な振舞いに出、彼女たちから嘲笑を買っていたという話を、当時パリに行っていた岡田三郎だったか、洋画家の林倭衛だったかに聞いた覚えがある。
 また、のちに徳田秋声の「恋愛放浪」という中篇小説集を読むと、その中に、題名を忘れたが、地方新聞に連載したものらしい島田清次郎を取扱った作品があり、共に金沢出身という同郷関係で、秋声が前から何彼と清次郎の面倒を見てやっていたところ、有名になると急に対等的な横柄な口をききだしたことや(これは室生犀星も書いている)、秋声に見せた清次郎自身の書いた家の設計図に、得体の知れぬ密室があったことなどを挙げ、やはり清次郎の変質性を指摘していた。

作者の感想 1920年(大正9年)に書いた広津和郎氏の第一評論集
蔵の中 1919年(大正8年)に出し宇野浩二氏のた処女作集で、「近松秋江論(序に代へて)」、「蔵の中」、「屋根裏の法学士」、「転々」、「長い恋仲」をまとめたもの。
主人 発行者は後藤誠雄です。小田 光雄氏が書いた『日本古書通信』の「古本屋散策(54)。聚英閣と聚芳閣」では「聚英閣の本は三冊持っているが、一冊は勝峯晋風編の『其角全集』で菊判箱入り、千ページをこえる大冊であり、刊行は大正十五年、発行者は後藤誠雄となっている。(中略)(後藤誠雄の)出版物はとても「ズブのしろうと」の企画とは考えられず、優れた編集者が存在したのであろう。それでなければ、国文学、近代文学、社会科学といった多岐にわたる企画はたてられなかっただろう。」と書かれています。私もそうだと思います。
早春 1920年、島田清次郎氏の18歳~20歳の断章や詩をあつめたもの。
時事新報 福沢諭吉が1882年3月1日に創刊した日刊紙。「独立不羈、官民調和」を旗印とする中立新聞として読者の支持を集め、大正の中期まで日本の代表的新聞でした。
早熟性 肉体や精神の発育が普通より早いこと
変質者 異常で病的な性質や性格
渡米 島田清次郎は1922年(大正11年)、新潮社の薦めで船でアメリカ、ヨーロッパをまわる旅に出発しました。
外交官夫人 風野春樹氏が書いた「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」(本の雑誌社、2013年)によれば、相手は23歳の森島鷹子氏。夫は森島守人氏で、東京帝国大学を出たエリート外交官。朝日新聞は「渡米文士の失敗」という見出しで、キスを強要し、事務長から譴責をうけたと報じています。
逗子養神亭 徳富蘆花や国木田独歩など、当時の文人が利用した海岸沿いの高級旅館
令嬢監禁事件 大正12年、島田清次郎氏が海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。その後、島田氏は令嬢を脅迫監禁し、金品を強奪したという容疑が持ち上がり、警察は島田氏を拘引、事情聴取を行った。舟木家は監禁事件として訴えたが、令嬢の手紙が決め手となり、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり、告訴は取り下げ。この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎は凋落した。
中篇小説集 「恋愛放浪」、「無駄道」、「解嘲」の3篇が入っています。
作品 前の2篇が無関係なので、「解嘲」でしょう。ここで、解嘲の意味は「かいちょう」、または「かいとう」で、人のあざけりに対して弁解することです。
対等的 「解嘲」にはありません。「横柄な口」の例として、室生犀星は、《後に「地上」が出版され、新潮社で会ったが彼は挨拶をしないで傲岸に頭をタテに振るのであった。自分は不用意な気持であり鳥渡(ちょっと)(あき)れたか其後明かに彼とは口を利かなかった》と書いています。
密室 徳田秋声氏の「解嘲」によると「彼自身の創意になった一二の密室が用意されてあることであった。彼は自分の声名を慕ってくる女の群を想像してゐた。そして其の女達の特殊なものを引見する場所が、その密室であった。
「こゝへは誰も入れないんだ。どんな親友でも入れないやうにしておくんだ。」彼はさう言って少し赤い顔をして微笑してゐた。」と書かれています。

大震災②|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂

 いっぽう、神楽坂の横丁の植木垣のつづいたもの静かな屋敷町に、医院の跡を買って銀座のプランタンが進出して来たりもした。このプランタンは近年文春クラブの面倒を見ていた洋画家の松山省三氏(前進座河原崎国太郎の父)の店で、銀座で開店している時には、正宗白鳥小山内薫吉井勇なども現われ、また「荷風日記」などにも屢〻出てくる。最近故人となった文春社長の佐佐木茂索がまだ「時事新報」の文芸記者を勤めていた時代で、茂索は当時新潮社の通りの突き当たりの矢来下にあった、兄さんの経営する骨董屋の別棟の洋館に住んでいたと思うが、プランタンが神楽坂に引越してくると、目立つその常連の一人となっていた。また広津和郎氏などもよく姿を見せ、みんなは別室で麻雀の卓を囲んでいたようだった。その時分はまだ麻雀クラブなど無い時代だった。この二人に限らず、広津、佐佐木氏たちの年代の作家たちが、大勢出入りして人目を惹いていた。ぼくが徳田秋声の愛人の山田順子をはじめて見たのもここだった。なかなかの北国美人だったが、秋田なまりが気になった。その時分はカクテルが流行した時分で、ここの一杯三十銭のマンハッタン・カクテルというのが口当りがよくて評判になり、早稲田の文科生なども大勢通っていた。

屋敷町 岩戸町二十四番地で、川喜田屋横丁と呼んでいます
カフェープラントンプランタン Café Printemps。飲食店。1911年(明治44年)、銀座に開業し、「日本初のカフェ」。喫茶店とはいえ、洋食がメニューの中心。料理はソーセージ、マカロニグラタンなど珍しいメニューや「焼きサンドイッチ」など。関東大震災後の1、2年間は牛込岩戸町二十四番地に。戦争中は休業状態、1945年(昭和20年)3月、建物疎開で店は取壊されました。
文春クラブ 文春クラブは文春地下にあったクラブ。作家や職員用に作ったものでしょう。
前進座 昭和6年(1931年)に歌舞伎界の因襲的な制度に反発して松竹を脱退した中村翫右衛門、河原崎長十郎、市川荒次郎を中心に結成された劇団。古典歌舞伎のみならず、現代劇、大衆演劇、児童演劇など多くのジャンルの演劇作品を上演。
河原崎国太郎 5代目。1909―90。本名松山太郎。洋画家松山省三の子。2世市川猿之助の門に入り、市川笑也(えみや)と名のり、劇団前進座の結成に参加。1932年(昭和7)5代目国太郎を襲名。前進座の(たて)女方(おやま)(女形の中で、最高位の俳優)として活躍。
荷風日記 『断腸亭(だんちょうてい)日乗(にちじょう)』のこと。永井氏は1917年(大正6年)9月16日から、死の前日、1959年(昭和34年)4月29日まで日記をつけていました。
時事新報 福沢諭吉が1882年3月1日に創刊した日刊紙。当時の東京の政論新聞は自由党、改進党、帝政党の機関紙の全盛時代でしたが、「独立不羈、官民調和」を旗印とする中立新聞として、大正の中期まで日本の代表的新聞。「日本一の時事新報」と称しました。 本社は東京日本橋区
マンハッタン矢来下 酒井家屋敷の北側の早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。
マンハッタン・カクテル Manhattan cocktail. 通称カクテルの女王。ライ・ウイスキーなどを2、スイートベルモットを 1、アンゴスチュラビターズ数滴で作ります。色は琥珀色(ブラウン)

盛り場文壇盛衰記|川崎備寛

文学と神楽坂

 川崎備寛氏が書いた「盛り場文壇盛衰記」(小説新潮。1957年、11巻9号)です。「山の手の銀座」は関東大震災から2、3年の間、神楽坂を指して使いました。神楽坂が「山の手の銀座」になった始まりと終わりとを書いています。

 たしか漱石の「坊つちやん」の中に、毘沙門さまの縁日に金魚を釣る話がでていたとおもうが、後半ぼくが神樂坂に下宿するようになつた頃でも毘沙門天の縁日は神樂坂の風物詩として残つていて、その日になるとあちらの横町、こちらの路地から、藝者たちが着飾つた姿でお詣りに来たものである。その毘沙門天と花柳街とを中心とした商店街、それが盛り場としての神樂坂だつたのだが、山ノ手ローカル・カラーというのであろうか、何となく「近代」とは縁遠い一郭を成している感じで、表通りはもちろんのこと、横町にはいってもどことなく明治時代からの匂いが漂つているようであつた。銀座のような派手な色彩や、刺戟的な空氣はどこにも見られなかつた。

 と一歩遅れた神楽坂の光景が出てきます。神楽坂が「山の手の銀座」になるのは、まだまだ先のことです。

坊っちゃん 夏目漱石の小説。 1906年『ホトトギス』に発表。歯切れのよい文体とわかりやすい筋立て。現在でも多くの読者がいます。
毘沙門 善国(ぜんこく)()は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の()沙門(しゃもん)(てん)は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
風物詩 その季節の感じをよく表しているもの
藝者 宴席に招かれ、歌や踊りで客をもてなす者
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
盛り場 人が寄り集まるにぎやかな場所。繁華街<
山ノ手 市街地のうち高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西のこと。四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりです。
ローカル・カラー その地方に特有の言語・人情・風習・自然など。地方色。郷土色
一郭 同じものがまとまっている地域

 ところが、少し大袈裟だがこの街に突如として新しい文化的な空気が(誇張的にいえば)押し寄せるという事件がおこつた。それは大正十二年の関東大震災だつた。銀座が焼けたので、いわゆる文化人がどつとこの街に集まつて來たからである。文壇的にいえば震災前までは、神樂坂の住人といえばわずかに袋町都館という下宿に宇野浩二氏がおり、赤城神社の裏に三上於莵吉氏が長谷川時雨さんと一戸をもつているほかは、神樂館という下宿に廣津和郎氏や片岡鐡兵氏などがいた程度だつたが、震災を契機に、それまでは銀座を唯一の散歩または憩いの場所としていた常連は一時に神樂坂へ河岸を替えることになつたのだ。しかし何といつても銀座に比べると神樂坂は地域が狭い。だから表通りを散歩していると、きつと誰か彼かに出会う。立話しているとそこへまた誰かが來合わせて一緒にお茶でものむか一杯やろうということになる。そんなことはしよつちゆうあつた。郊外に住んでいるものも、午後から夕方にかけて足がしぜんと神樂坂に向くといつた工合で、言って見れば神樂坂はにわかに銀座の文化をすっかり奪つたかたちだつたのだ。

 つまり「山の手の銀座」はここででてくるのです。「山の手の銀座」は関東大震災の直後に生まれたのですが、繁栄の中心地は2~3年後には新宿になっていきます。

関東大震災 大正12年(1923)9月1日午前11時58分に、相模(さがみ)湾を震源として発生した大地震により、関東一円に被害を及ぼした災害。
銀座 東京都中央区の地名。京橋の南から新橋の北に至る中央通りの東西に沿う地域で、日本を代表する繁華街
文化人 文化的教養を身につけている人
袋町 行き止まりで通り抜けできない町。昔はそうだが、今では通り抜けできる。
都館 みやこかん。宇野浩二氏が大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「都館」から撤去し、上野桜木町に家を、本郷区菊坂町に仕事場を設けました。いつ「神楽館」から「都館」に変わったのは不明です。関東大震災になったときに宇野浩二氏はこの辺りにはいませんでした。
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。上野国赤城山の赤城神社の分霊を早稲田弦巻町の森中に勧請、寛正元年(1461)牛込へ遷座。「赤城大明神」として総鎮守。昭和二十年四月の大空襲により焼失。
三上於莵吉 『区内に在住した文学者たち』では、大正8年に赤城下町4。大正8年~大正10年は矢来町3山里21号。大正12年は中町24。昭和2年~昭和6年3月は市谷左内町31です。下の図では一番上の赤い図は赤城下町4、左の巨大な赤い場所は矢来町3番地字山里、一番下の赤が中町24です。
赤城下町
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。転じて飲食や遊びをする場所<

 もっと話を聞きたい。残念ながらこれ以上は神楽坂は出てきません。話は宇野浩二氏になっていきます。ここであとは簡単に。

 ぼくは震災前は鎌倉に住んでいたが、その頃でも一週間に一度や二度は上京していた。葛西善藏氏は建長寺にいたので、葛西氏に誘われて上京したり、自分の用事で上京したりした。葛西氏の上京はたいてい原稿ができたときか、または前借の用事のことだつたようだ。そういう上京のあるとき、葛西氏が用事をすました後、宇野浩二氏を訪問しようというので、ぼくがついて行つたことがある。それは前に書いた袋町の都館である。宇野氏はその頃すでに處女作「藏の中」以後「苦の世界」など一連の作品で文壇的に押しも押されもせぬ流行作家になつていたので、畏敬に似た氣持をもつて訪ねたのは言うまでもなかつた。行つて見ると、ありふれた古い安普請の下宿で、宇野氏の部屋は二階の隅つこにあつたが、六疉の典型的な下宿の一室であるに過ぎず、これが一代の流行作家の住居であるかと一種の感慨に打たれたことであつた。しかもその部屋には机もなく、たしか座蒲團もなくて、ただ壁の隅つこに一梃の三味線が立てかけてあるだけであつた。葛西氏はそれでもなんら奇異の念ももたないらしく暫らくのあいだ二人でポソポソと話をしていたが、傍で聞いていたとこでは、何でもその日は宇野氏の新夫人が長野縣から到着する日だとかで、新夫人というのは宇野氏の小説に夢子という名前で出ている諏訪の人だということを、後で葛西氏から聞いたが、そのとき見た一梃の三味線が、いまでもはっきりとぼくの印象に残つている。

建長寺 鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。葛西氏は大正8年から4年間塔頭宝珠院の庫裏の一室に寄宿し、『おせい』などの代表作を書きました。
安普請 あまり金をかけずに家を建てること。そうして建てた上等でない家。
新夫人 大正9(1920)年、芸者である小竹(村田キヌ)が下諏訪から押しかけてきて宇野浩二氏と結婚しました。
夢子 大正8(1919)年、上諏訪で知り合った田舎芸者の原とみを指しています。無口で小さい声で唄を歌い、幽霊のようにすっと帰っていきました。夢子と新夫人とは違った人です。

 後は省略し、最後の結末を書いておきます。

 いずれにしても、すべては遠い昔の想い出として今に残る。『不同調』の廢刊と前後して、廣津氏の藝術社も解散していたが、廣津氏は武者小路全集の負債だけを背負つて間もなく大森に移つて行つた。もうその頃は佐佐木茂索氏もふさ子さんとの結婚生活にはいって矢来から上野の音樂學校の裏のあたりに新居を構えていたし、都館のぬしのように思われていた宇野浩二氏も、とうの昔に神樂坂から足を洗って上野櫻木町の家に引越してしまつていた。有り觸れた言葉でいえば「一人去り、二人去り」したのである。こうして神樂坂は再び、明治以来の神樂坂にかえつたのであつたが、それが今回の戦災で跡方も無くなろうとは、その當時誰が豫想し得たであろうか。
 先日ほくは久しぶりに神樂坂をとおつてみたが、田原屋は僅かに街の果物やとして残り、足袋の「みのや」、下駄の「助六」、「龜井鮓」、おしるこの「紀の善」、尾澤藥局、またぼくたちがよく原稿用紙を買った相馬屋山田屋など懷しい老舗が、今もなお神樂坂の土地にしがみついて、飽くまで「現代」のケバケバしい騷音に抵抗しているのを見たのである。

(了)

田原屋など 昔からの店舗が出ています。一応その地図です。赤い場所です。クリックすると大きくなりますが、あまり大きくはなりません。右からは山田屋、紀の善、亀井(すし)、助六、尾沢薬局、田原屋、相馬屋、みのやです。地図は都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和27年)です。

P

不同調 大正14年7月に創刊。新潮社系の文学雑誌で、「文藝春秋」に対抗しました。中村武羅夫、尾崎士郎、岡田三郎、間宮茂輔、青野季吉、嘉村磯多、井伏鱒二らが参加。嘉村の出世作『業苦』や、間宮の『坂の上』などが掲載。昭和4年終刊。
藝術社 1923年(大正12年)32歳。広津和郎氏は上村益郎らと出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版。しかし極端に凝った造本で採算が合わなくなり、また上村益郎は使い込みをして大穴を開け、出版は失敗。借金を抱えましたが、円本ブームの波に乗り、無事返済。
武者小路全集 武者小路実篤全集は第1-12巻 (1923年、大正十二年)で、箱入天金革装、装丁は岸田劉生、刊行の奥付には「非売品」で予約会員制出版でした。
戦災 戦争による災害。第2次世界大戦の後です。