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筑土八幡神社(写真)庚申塔 昭和44年 ID 8256, 8257, 8291, 8296

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256、8257、8291、8296は筑土八幡神社の庚申塔こうしんとうと周辺の写真です。昭和44年ごろとしていますが、陽差しの違いなどからすべてが同日の撮影ではないと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256 筑土八幡神社 庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8257 筑土八幡神社 庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8291 筑土八幡神社庚申塔

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8296 筑土八幡神社庚申塔

 庚申信仰については、目黒区「歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰」は……

 庚申こうしん信仰は暦のうえで、60日ごとにある庚申かのえさるの日に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教え(中略)。人の体内には、三尸さんしと呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった

 庚申塔は新宿区の区指定有形民俗文化財であり、区は……

 寛文四年(1664)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186センチ、黒褐色安山岩。最上部に日月、中央部に雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がって実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。牡猿の左手首及び牝猿の顔面の破損は昭和20年の戦災によるといわれている。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、貴重である

 石造いしぞう鳥居の左側に庚申塔の説明板があります。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財

庚申塔こうしんとう  この石段を上った右側にあります。
         指定年月日 平成九年三月七日
 寛文四年(一六六四)に奉納された舟型ふながた光背型こうはいがた)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月にちげつ、中央部には一対の雌雄しゆうの猿と桃の木を配する。右側のおす猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側のめす猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
   平成九年五月
新宿区教育委員会

 下に男女名10人が刻まれていて、さらにその下には水鉢みずばちがあり、その両脇に花立用の穴があります。
 右に注連しめなわをかけた御神木のイチョウ。このイチョウについては……

イチョウの葉は水分を多く含む。落葉した黄葉でさえ、落葉焚きができないほどだ。かつての建造物が、木と紙の本体に、檜皮や萱など燃えやすい屋根材で出来ていたことを考えれば、背が高く元気の良いイチョウが火災による輻射熱を遮り、火の粉を含んだ風も遮り、防火壁の役目を果たした。

 ID 8257では右端に百度ひゃくどいし。これは百度参りをする時に標識する石のこと。
 左後にある境内社の宮比みやび神社。鳥居をくぐると、上には見えていない本坪鈴ほんつぼすずと、そこから垂れた紐。境内にある説明板では……

 宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめの みこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治40年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和37年に再建したものである。こちらは宮殿の平安を守る女神である、大宮おおみやの売命めのみことをお祀りしています。

筑土八幡神社(写真)昭和44年 ID 8255-8256

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255-8256は筑土八幡神社の写真です。撮影時期は「昭和44年頃か」(1969年頃)と不正確です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255 築土八幡神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8256 築土八幡神社 庚申塔

 ID 8255について、左手には神輿みこしを格納する神輿みこしくら。その奥には見えないが純米大吟醸「白鷹」の積み樽。明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛は倉庫に白鷹を発見し、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
 境内に駐車車両。筑土八幡の表参道は石の階段。しかし、正面左手の裏参道では車は通行可。
 正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。拝殿は昭和20年の戦災で焼失しましたが、昭和38年、氏子の浄財で再建。拝殿前には1810(文化7)年に奉納された狛犬2匹。左は口を閉じた吽形うんぎょう、右は口を開いた阿形あぎょうの狛犬。
 右には社務所。その前に見えませんが、神楽を奏する神楽かぐら殿でん。これも見えない宮比神社。注連しめなわをかけた銀杏が見え、前にある百度ひゃくどいしは百度参りをする時に標識する石。またも見えない庚申塔こうしんとう。右で見切れている手水舎ちょうずやの一部。一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。
 ID 8256は庚申塔こうしんとう。目黒区「歴史を訪ねて 目黒の庚申信仰」は、「庚申こうしん信仰は暦のうえで、60日ごとにある庚申かのえさるの日に行われる信仰行事で、中国の不老長寿を目指す道教の教え(中略)。人の体内には、三尸さんしと呼ばれる虫がいて、庚申の日の夜、人が眠ると、この虫が体内から抜け出し、その人の行状を天帝に知らせに行く。知らせを受けた天帝は、行いの悪い人の寿命を縮めてしまうというのだ。そこで、長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように、庚申の日は、一日中眠ってはならない。この教えが、庚申信仰へとつながっていった」。この庚申塔では、猿1匹は桃の実を取り、別の1匹は手に持っており、下に男女名10人が刻まれていました。

筑土八幡神社|由緒①

文学と神楽坂

 筑土八幡神社は新宿区筑土八幡町2-1にある、今や小さい小さい神社です。

 戦前の神社は昭和20年の戦災で焼失しました。

築土山に鎮座す。明治5年村社に列せられた。東京市公園課。東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯。大正12年

 しかし、「田村虎蔵先生顕彰碑」を始め、登録有形文化財の「石造鳥居」、指定有形民俗文化財の「庚申塔」があり、文化財となると巨大な空間です。

 まず筑土八幡神社の由緒について。天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した「江戸名所図会」では

築土八幡宮 津久土明神の宮居に竝ぶ地主の神にして、別當は天台宗松霊山無量寺と号す。祭神応神天皇、神功皇后、仲哀天皇、以上三座なり。相傳ふ、嵯峨天皇の御宇、この地に一人の老翁住めり。常に八幡宮を尊信す。或時、當社の御神、この翁が夢中に託して、永くこの地に跡を垂れ給はんとなり、老翁奇異の思ひをなす、その翌日一松樹の上に、瑞雲ずいうん靉靆あいたいして、旌旗はたの如くなるを見る。(松霊山の号こゝにおこると云ふ。)時に一羽の白鳩來つて、同じ樹間このまにやどる。郷人さとびと翁が霊夢を聞きて、直ちにこの樹下きのもと瑞籬みずがきめぐららして、八幡宮とあがむ、遙の後慈覺大師東國遊化ゆうげの頃、傳教大師彫造し給ふ所の阿彌陀如来を本地佛とし、小祠を經始けいしす、其後文明年間、江戸の城主上杉朝興ともおき、社壇を修飾し、此地の産土神とすといふ。(或ふみにいふ、當社の地は往古管領上杉時氏の壘[トリデ]の跡にして、時氏の弓箭ゆみやを以て八幡宮に勸請なし奉ると云々)


[現代語訳]津久戸明神と並ぶ土地の神で、別当は天台宗松霊山無量寺という。祭神は応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱。伝承によると、嵯峨天皇の時代、この地に一人の老人がいた。常に八幡宮を信仰していたが、ある時、当社の神が老人の夢に現れ、永くこの地に自らの跡を残すように告げた。翌日、松の木の上に瑞雲がたなびき旗のように見えた。松霊山の山号は、これに由来する。この時 一羽の白鳩が飛んで来て松の枝にとまった。里人たちは老人の夢の話を聞き、松の木の下に玉垣をめぐらして八幡宮として祀った。その後、慈覚大師が東国遊歴の頃、伝教大師が彫った阿弥陀如来を本地仏として祠が建てられ、さらに文明年間(一四六九~八七)江戸城主上杉朝興が社殿を整え、この地の鎮守とした。一説に、この場所は昔、関東管領上杉時氏の城館があり、時氏の弓矢を八幡宮に奉納したという。(多くは新宿区歴史博物館『江戸名所図会でたどる新宿名所めぐり』平成12年から)

御宇 ぎょう。帝王が天下を治めている期間。御代
瑞雲 ずいうん。めでたいことの起こるきざしとして現れる雲。祥雲
靉靆 あいたい。雲のたなびくさま。雲の厚いさま。
旌旗 せいき。はた。のぼり。軍旗
瑞籬 ずいり。神社などの玉垣。みずがき。

江戸名所圖會。東京都立図書館

「江戸名所図会」の上図では、筑土八幡は右、築土神社は左の神社です。現在は右側の筑土八幡しか残っていません。左側の築土神社は千代田区九段に移動し、かわって小玉製作所やカトリックの修道院などがやって来ました。

筑土八幡(右)と筑土神社(左)

筑土八幡(右)と筑土神社(左)。東京市編纂「東京案内」(裳華房、明治40年、1907年)

筑土八幡と筑土神社(現在).

筑土八幡とカトリックの修道院(現在).

新撰東京名所図会」第42編(東陽堂、1906)では

 筑土八幡神社は筑土八幡町七番地卽ち筑土山に鎮座す。表門は石柱にて銅製の注連をかけ。石磴中段に石の鳥居あり。筑土八幡神社と題する銅額を掲ぐ。享保十一年丙午建る所にして。從四位下行豊前守丹治眞人黑田直邦と銘せり。山上に株の松あり。千年松といふ株の遺蘖なりとて。ここにも注連を張りぬ。社殿は土蔵造りにて。格天井。拝殿には大なる弓とうつぼとを掛け右の方に獅子頭を安じ。筑土八幡神社の扁額を打たり。殿前の石獅には文化七庚午年八月吉日。石燈篭には寛政十二庚申八月十五日とあり。左には梅右には櫻を植へぬ。

[現代語訳]筑土八幡神社は筑土八幡町七番地、つまり周辺の高台を「筑土山」といったが、ここに鎮座している。表門は石柱で銅製のしめなわをかけ、石段の中段には石の鳥居がある。筑土八幡神社という銅額を掲げている。銘は、享保十一年、従四位下行豊前守の丹治眞人黒田直邦。山上に株の松があり、千年松という株がでている。ここにもしめなわを張っている。社殿は土蔵造りで、天井は格天井、拝殿には大なる弓と矢を掛け、右の方に獅子頭をおいた。筑土八幡神社の横長の額がある。殿前の石獅には1810年8月吉日、石燈篭には1800年8月15日と書いてある。左には梅、右には桜を植えた。

山本松谷画「明治東京名所図会」(講談社、1989)

山本松谷画「明治東京名所図会」(講談社、1989)

石磴 せきとう。石段。石の多い坂道。
中段 今も下から48段目
享保十一年 1726年
黒田直邦 上野沼田藩主。寛文6年(1666年)生れ。享保8年(1723年)奏者番。同20年(1735年)3月歿。享年は70歳
遺蘖 蘖は切り株や木の根元から出る若芽。余蘖。
格天井 太い木を井桁いげた状に組み、上に板を張った天井
 えびら。矢を入れて右腰につける武具。うつぼ(靫・空穂・靭)は矢を携帯する筒状の容器。
扁額 門戸や室内に掲げる横に長い額
文化七庚午年 1810年
寛政十二庚申 1800年

 境内には由来も書いてあります。

      筑土八幡神社由来
 昔、嵯峨さが天皇の御代(今から約1200年前)に武蔵国豊嶋こおり牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁かいた。ある時、翁の夢の中に神霊しんれいが現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそはへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現われて松の梢にとまった。翁はこのことを里人さとびとに語り神霊の現われたもうたことを知り、すぐに注連しめなわをゆいまわして、その松をまつった。
 その後、伝教でんぎょう大師だいしがこの地を訪れた畤、この由を聞いて、神像を彫刻してほこらに祀った。その時に筑紫つくしの宇佐の宮土をもとめていしずえとしたので、筑土つくど八幡はちまん神社と名づけた。
 さらにその後、文明年間(今から約500年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地の産土うぶすな神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。
 現在、境内地は約2200平方米あり、昭和20年の戦災で焼失した社殿も、昭和38年氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、筑土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽河岸・神楽坂四丁目・神楽坂五丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。
 御祭神
   応神天皇
   神功皇后
   仲哀天皇
 大祭
   九月十五日

宮比神社由来
 御祭神は宮比神みやびのかみ大宮売命おおみやのめのみこと天鈿女命あめのうずめのみことともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治40年に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和37年に再建したものである。

筑土八幡神社|文化財②

文学と神楽坂

 筑土八幡神社の文化財の説明です。神社に入る前の坂を登り終える途中で、鳥居が見えてきます。写真のような石造りの鳥居です。
 鳥居の左側に説明板があります。

文化財愛護シンボルマーク新宿区登録有形文化財 建造物

石造いしぞう鳥居とりい

         所 在 地 新宿区筑土八幡町二ー一
         指定年月日 平成九年三月七日
 石造の明神型みょうじんがた鳥居とりいで、享保十一年(一七二六)に建立された区内で現存最古の鳥居である。高さ三七五センチ、幅四七〇センチ、 三五センチ。
 柱に奉納者名と奉納年が刻まれており、それにより常陸ひたち下館しもだて藩主はんしゅ黒田豊前守ぶぜんのかみ直邦により奉納されたことがわかる。

文化財愛護シンボルマーク新宿区指定有形民俗文化財

庚申塔こうしんとう  この石段を上った右側にあります。
         指定年月日 平成九年三月七日
 寛文四年(一六六四)に奉納された舟型ふながた光背型こうはいがた)の庚申塔である。高さ一八六センチ。最上部に日月にちげつ、中央部には一対の雌雄しゆうの猿と桃の木を配する。右側のおす猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側のめす猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
   平成九年五月
新宿区教育委員会

明神型 柱や笠木など主要部材に照りや反りが施された鳥居。
庚申塔 庚申信仰でつくった石塔。江戸時代に流行った民間信仰で、庚申の日の夜には、長寿するように徹夜した。細かくは「道ばたの文化財 庚申塔」を参考に。
舟形光背 ふながたこうはい。仏像の光背(仏身からの光明)のうち、船首を上にして舟を縦に立てた形に似ている光背。

 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

34、珍らしい庚申塔
      (筑土八幡町七)
 筑土八幡境内には珍らしい庚申塔がある。高さ約1.5メートル、巾約70センチの石碑で、碑面にはオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。一猿は立って桃の実をとろうとしているところ、一猿は腰を下ろして桃の実を持っており、アダムとイブとを思わせるものである。下の方には、判読できないが、十名の男女名が刻まれている。
 寛文四年(1664)の銘が刻んであり、縁結びの神とか、交通安全守護神として、信仰が厚かった。
 またこの庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。そのような話が作られたのは、矢来町の正雪地蔵と同じように、袋町や天神町に正雪が住んだことから結びつけたものであろう(52参照)。
 庚申塔の研究家清水長輝は、これは好事家が幕末につくったものではないかといっている。
 その理由として、庚申塔としては余りにも特異であり、猿と桃との結びつきは元祿からと思われること、年号を荒削りの光背に彫ることは、普通はあり得ないこと、などをあげている。この庚申塔は、もと吉良の庭内にあったものを移したというが、廃寺になった白銀町の万昌院にあったものではないかという。
 「参考」新宿郷土研究第一号  路傍の石仏

由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。江戸へ出て塾を開き楠流軍学を講義して門弟は多数。1651年徳川家光の死に際し、幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企図。事前に露見し駿府で自殺。
清水長輝 おそらく清水長輝著「庚申塔の研究」(大日洞、1959年)でしょう。
光背 こうはい。仏身から発する光明を象徴化したもの。後光ごこう 、円光、輪光などともいう。
万昌院 明治40年の 郵便局「東京市牛込区全図」ではまだありました。(下図の赤丸)

万昌院 東亰市牛込區全圖 明治40年1月調査 郵便局