筑土八幡神社の文化財の説明です。神社に入る前の坂を登り終える途中で、鳥居が見えてきます。写真のような石造りの鳥居です。
鳥居の左側に説明板があります。
明神型 柱や笠木など主要部材に照りや反りが施された鳥居。
庚申塔 庚申信仰でつくった石塔。江戸時代に流行った民間信仰で、庚申の日の夜には、長寿するように徹夜した。細かくは「道ばたの文化財 庚申塔」を参考に。
舟形光背 ふながたこうはい。仏像の光背(仏身からの光明)のうち、船首を上にして舟を縦に立てた形に似ている光背。
芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では
34、珍らしい庚申塔 (筑土八幡町七) 筑土八幡境内には珍らしい庚申塔がある。高さ約1.5メートル、巾約70センチの石碑で、碑面にはオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。一猿は立って桃の実をとろうとしているところ、一猿は腰を下ろして桃の実を持っており、アダムとイブとを思わせるものである。下の方には、判読できないが、十名の男女名が刻まれている。 寛文四年(1664)の銘が刻んであり、縁結びの神とか、交通安全守護神として、信仰が厚かった。 またこの庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。そのような話が作られたのは、矢来町の正雪地蔵と同じように、袋町や天神町に正雪が住んだことから結びつけたものであろう(52参照)。 庚申塔の研究家清水長輝は、これは好事家が幕末につくったものではないかといっている。 その理由として、庚申塔としては余りにも特異であり、猿と桃との結びつきは元祿からと思われること、年号を荒削りの光背に彫ることは、普通はあり得ないこと、などをあげている。この庚申塔は、もと吉良の庭内にあったものを移したというが、廃寺になった白銀町の万昌院にあったものではないかという。 「参考」新宿郷土研究第一号 路傍の石仏 |
清水長輝 おそらく清水長輝著「庚申塔の研究」(大日洞、1959年)でしょう。
光背 こうはい。仏身から発する光明を象徴化したもの。後光 、円光、輪光などともいう。
万昌院 明治40年の 郵便局「東京市牛込区全図」ではまだありました。(下図の赤丸)
てくてく 牛込神楽坂
運営者様
はじめまして。
神楽坂のタウン誌「かぐらむら」の編集をしております、石丸と申します。
時には弊誌を引用してくださっているようで、ありがとうございます。興味深く読ませていただき、勉強させていただいております。
この度、次号96号(2・3月号)の特集にて、「てくてく 牛込神楽坂」様をご紹介させていただきたいと考えております。
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