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神楽坂?(写真)昭和20年代 「祭風景」 ID 13794-99

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13794からID 13799までの写真を見ましょう。撮影時期は昭和20年代で、題名は「祭風景」です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13794 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13795 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13796 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13797 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13798 祭風景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13799 祭風景

 私には難しいので、地元の方はどう見ているのでしょうか。

 紅白幕のテントの中に、たくさんの僧侶が座っています。僧侶を取り囲む人々は肩袈裟をして「団扇太鼓」(「法華の太鼓」)を手にしているので、日蓮宗のイベントでしょう。地面はおそらく舗装されておらず、後方は隣家との間に木塀があります。大きなフラッシュのカメラで祭を記録しています。ID 13794の賽銭箱を拡大すると「日光ホテル」の墨書があります。
 別のテントには烏帽子や天冠をかぶった子どもらが稚児行列の出番を待っているようです。秋のイベントである日蓮宗の「お会式」と思われます。
 この写真が神楽坂と結びつくかどうか。毘沙門天善國寺は日蓮宗で「お会式」を挙行しますが、ID 13794の賽銭箱と木塀の位置関係やID 13799の本堂は違うようです。
 地下鉄神楽坂駅から少し離れた榎町の宗柏寺(矢来のお釈迦さま)も日蓮宗で、秋に「お会式」があります。民家に囲まれて奥まった場所に本堂があります。こちらのイベントだった可能性があります。

団扇太鼓 うちわだいこ。円形の枠に1枚の膜を張った太鼓。日蓮宗・法華宗などが多く、通称「法華ほっけの太鼓」

お会式 おえしき。日蓮門下の諸派で日蓮の命日の10月13日等にあわせて行われる法要

神楽坂(写真)昭和20年代 ID 13793

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」に「神楽坂付近か」として写真ID 13793があります。撮影時期は昭和20年代です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13793 神楽坂付近か

 奥には家があり、屋根の左側はあまり長くはなく、下がり棟が始まっています。前の2軒とはほぼ直角になり、10段内外で奥の家のほうが高くなっています(高さで2~3m)。前の2軒同士の間隔は30cmもないようですが、しかし、ゼロではなさそうです。一番前の家にはひょうたんの絵が型抜きされています。
 ではこれとよく似た場所を探しましょう。都市製図社の『火災保険特殊地図』しか残っていません。探していくとクランク坂だと……と書いてきましたが、実は『火災保険特殊地図』は正しいのですが、昭和27年ではなく、昭和12年を探していました。大間違いです、はい。クランク坂も大間違いで、改めて探しています。では、地元の方はどう考えるのかは……。

 ID 13793の場所は分かりません。ただ360度VRカメラで「クランク坂」を数えると15段あります。1段は16-18cm(20cmだと急すぎる)ので、「クランク坂」の高低差は2.5mくらい。この写真の段差は人の背丈や軒より低いので「クランク坂」とは違うように思います。
 階段を上がったところに門灯(裸電球)がついています。この路地は袋地で、階段は突き当たりの家のもののように感じます。同時代と思われるID 1379113792に比べて路地が未舗装で雨水用の側溝がないのも、路地が行き止まりで整備されていないためかも知れません。
 地形的には「かくれんぼ横丁」の突き当たりなど、裏道の袋地の奥が1mくらい高くなっている場所がいくつかあります。特定は出来ませんが、そうした路地の写真ではないかと思います。

料亭「松ヶ枝」(写真)昭和20年代 ID 13791

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13791は「昭和20年代 神楽坂付近か」とあり、時代と場所を特定していません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13791 神楽坂付近か

 右手は毘沙門横丁の今はなき料亭「松ヶ枝」だと考えています。写真の道路の突き当たりは一段高く、手前に来るほどゆっくりと低くなっています。この地形は現在も同じで、奥の親子連れの向こうの塀は若宮町の料亭街です。
 都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年によれば、カメラはおそらく赤丸に置き、写真を撮ったのでしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

 さて、以下は地元の方の説明です。

 向かって左の奥の塀の木戸は人間には大きすぎて、自動車のための駐車場でしょう。手前の潜り戸は別の店の入り口で、花街らしい黒塀が続いています。これに対して右は土塀で、腰高まで貼り石の化粧があります。これが松ヶ枝の塀で、格式の高さが写真からも分かります。
新宿区史・昭和30年」の3枚目は、ちょうど反対側から撮った写真です。黒塀の潜り戸は同じですが、駐車場の木戸は4枚になっています。
 それ以外にも、いくつか違いがあります。ID 13791の松ヶ枝の塀から棒が飛び出し、そこに笠のついた電球が見えます。また左の駐車場の角にもボール状の灯りがあります。街灯が十分に整備されておらず、私設の外灯で来店客に便宜を図っていたと思われます。
 またID 13791の土塀はコンクリートで塗り固めたような外観ですが「新宿区史・昭和30年」では肩高より上を白い漆喰で塗っていて、貼り石との間に化粧していない壁が出ています。ここは後の時代のID 11841ではすっかり貼り石で覆われます。
 ID 13791の中央手前には、うっすらと丸い下水のマンホールが見えます。舗装はしているようですが、かなり荒れています。左手前には側溝のようなものがチラりと見えます。一方「新宿区史・昭和30年」では松ヶ枝の側に側溝を掘り、小さな石橋を架けていますが、これはID 13791には見えません。雨が降った時は、黒塀の前の少しくぼんだ部分を雨水が流れていたでしょう。
「新宿区史・昭和30年」の写真は同じ昭和20年代に撮影しているはずですが、ID 13791の方が古い時代と思われます。
潜り戸 門の扉や壁などに設けられた、背の低く幅のせまい小さな戸のこと
黒塀 黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。黒い塗装は渋墨しぶずみ塗といって、日本古来の伝統技術で柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもの。防虫・防腐・防湿効果があるため建物の化粧として用いられた。
貼り石 建造物の壁に薄い石
化粧 建物の表面に、白など、見栄えのする色の塗料を塗ること

神楽坂5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID 13174、ID 13176、ID 13178、ID 13180

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13174、ID 13176、ID 13178、ID 13180はカメラを神楽坂交差点(現・神楽坂上交差点)付近に置き、東向き(神楽坂下方向)に撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13174 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13176 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13178 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13180 神楽坂歩行者天国

「神楽坂」交差点(現「神楽坂上」交差点)があり、その交差点の上に信号機があり、信号機には背面板はないようです。神楽坂通りを横断する横断幕「楽しい情緒豊かな歩行者天国」が、左端の標識ポール「神楽坂」につながっています。この標識ポールは昭和20年代に坂上と坂下につくられたもので、坂下は昭和35年頃までに撤去されましたが、坂上はこの写真の時点でもまだ健在でした。寺内横丁の先には「神楽坂通り/美観街」が見えます。さらに遠くの「神楽坂通り/美観街」も見えます。
 交差点に面して「車両通行止 日曜・祝日の 12ー18 牛込警察署長」というバリケード看板が出ています。これは現在の歩行者天国の実施時間(12:00-19:00)とは異なります。当時は夏季と冬季で実施時間を変えていました。よく見るとバリケード看板の「18」のところに貼り紙の跡がみえます。
 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。昭和50年のID 9781など、他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

「神楽坂」交差点・神楽坂5丁目→3丁目(昭和48年)
  1. (車両進入禁止)
  2. ▶道路標識(駐車禁止)0-12 (区間内)
  3. 標識ポール「神楽坂」と横断幕「楽しい情緒豊かな歩行者天国」
  4. (歩行者横断禁止)
  5. 店舗(菊岡三味線店
  6. 店舗(明治牛乳販売所)。店頭に「明治」と書かれた牛乳ビンのコンテナが山積み
  7. 突き出し看板「(大)和田」 壁面看板「大和田」鰻焼(割烹)
  8. 店舗(リード商会)
  9. タカミ(洋品店
  10. 神楽坂通り/美観街
  11. (東洋)飯店
  12. (恵比寿精肉)
    ――寺内横丁
  13. 日本盛 ニホンザカリ 特約店 万長 Bireley’s(酒店)
  14. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街」

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 「メガネ」の看板 (タイヨウ)
  2. カーブした矢印らしき照明広告 (「木」偏 パチンコ山水林)
  3. 東電(の)サービスステーション  新宿区神楽坂 
  4. 道路標識の反対側
  5. 神楽坂通り/美観街
  6. 中河電気
  7. 丸越(下図)
  8. 日本酒まつり 鮒(忠)
  9. (パチン)コおおとり。花輪
  10. 善國寺
  11. ▶公衆電話ボックス
  12. 三菱銀行

丸越質店。神楽坂6丁目8。1974年

住宅地図。1974年

善国寺(写真)昭和20年代後半 ID 9503

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503は、昭和20年代後半、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503 神楽坂 毘沙門天

 善国寺は昭和20年5月25日夜半から26日早朝にかけて大空襲で焼失、昭和26年、木造の毘沙門堂が再建されました。昭和46年に今の本堂を建てています。
 ID 8245は昭和44年(1969年)頃の写真ですが、違いは確かにあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 前の写真(ID 9503)では鴨居の高さを神前幕で覆っています。賽銭箱は同じ場所にありますが、ID 9503では中央に文様がひとつです。
 向かって左側には礎石の上に防火用と思われる水盤があります。屋根の雨樋の降水を受ける位置にあるようです。また「毘沙門天」の石碑の右側は柵で若木を保護しているように見えます。
 ID 8245では賽銭箱は別のもので「奉納 神楽坂振興会」と書いてあります。鈴紐すずのおが垂れ、本坪鈴ほんつぼすずを鳴らすようになっています。
 正面左右には一対の境内灯が立ち、向かって右側に文化財の木札があります。水盤はなくなり、境内灯の足元に撤去した礎石や壊れた石囲いらしきものがまとめて置いてあります。「毘沙門天」の石碑の右側は藤棚になっています。

神楽坂5丁目(写真)昭和20年代後半 ID 9495

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9495は、昭和20年代後半に神楽坂5丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9495 神楽坂

 よく似た写真としてはID 24-27ID 5189が挙げられます。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯です。車道は平坦で、歩道はありますが現在よりかなり狭いようです。右側は家のすぐ前に街灯が立っていてます。自転車に隠れているので正確な形状は不明です。衣服は冬用で、全員が長袖で、大人男性はオーバーコートを着ています。大売出ののぼりと風に吹かれたような紅白幕、松の木のような飾りがあります。また左端には門松が1対、写っています。年末の売り出し時期でしょうか。門松があるのはID 9507も同様で、同じ時期に写真を撮ったのでしょう。

神楽坂5丁目(坂上→神楽坂上交差点)
  1. 「ノーブル 西澤商店」(菓子)
  2. 小路(地蔵坂、藁店
  3. 看板に隠れた店。地図によれば書店の「武田芳進堂」で、庇の上の切り文字はなんとなくそう読めます。
  4. 楕円形の突き出し看板。地図によれば「中河電機」。看板は「ナショナルラジオ」のようです。
  5. 電柱看板「川島歯科 入口」「加藤(産婦)人科 医院」(袋町7番地)
  6. 電柱看板「耳鼻咽喉科 鷹〇医院」。「山ぐち」は袋町に(下図)。
  7. 通りを越えて「協和銀行」
  1. 紙(相馬屋)。(全店) 大売出。神(楽坂)
  2. 空地
  3. 万長酒店
  4. スピーカー。つっかえ棒
  5. 中(華)料理 源〇
  6. 全店 大売出。
  7. 巨大な標識ポール「神楽坂」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂5丁目(写真)昭和20年代後半 ID 24-27

文学と神楽坂

 昭和20年代後半の神楽坂5丁目で写真4枚で、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 24~27を見ていきます。歩道には濃淡の2色があり、縁石があっても歩道と車道はほぼ同じ高さになるようです。
 なお、地元の方に多大な助言をもらいました。この半分以上は地元の方の言葉です。

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館 ID 24

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館 ID 24

 坂上の神楽坂5丁目です。右側には文房具屋の「相馬屋」があります。さらに空き地をはさんで「万長酒店」。左から差し込む一条の光は「地蔵坂」(あるいは「藁店」)を通ってやってきました。「電燈電力工事」は「火災保険特殊地図」だと「中河電機」です。街灯は神楽坂1丁目(写真)昭和20年代後半 ID 21, 23と同じ簡素なものです。電柱看板「歯科川島」は藁店にありました。

昭和27年 火災保険特殊地図

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館。ID 25

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館 ID 25

 これも同じですが、右端に石積みがあります。これは空襲で焼け落ちた東京貯蓄銀行の外壁と思われます。住宅地図などによると、倉庫として使われた後に日本勧業信用組合(現・第一勧業信用組合)の本店に建て替えられました。現在は神楽坂TNヒルズです。


神楽坂上付近 。新宿歴史博物館。ID 26

新宿歴史博物館 ID 26 神楽坂上付近

「ノーブル 西澤商店」がはっきり見えます。藁店の東側の「西沢菓子」が「ノーブル」という昔風の菓子を売っています。左から光る道は地蔵坂(藁店)です。神楽坂通りの右側で、最初に出てくる2階建ての店舗は万長酒店でしょう。その奥の1階建ての建物は倉庫。それから肉の恵比寿亭につながります。


神楽坂上付近 。新宿歴史博物館。ID 27

 道路の左側の「ナカガワ」は「中河電機」。別の看板「電燈電力工事」もあります。その奥の店舗は近江屋ですが、これは見てもわかりません。道路の右側は「万長酒店」と倉庫。「牛豚肉」の下に恵比寿亭が書いています。パチンコがさらに奥にあります。

神楽坂1丁目(写真)昭和20年代後半 ID 21, 23

文学と神楽坂

 昭和20年代後半の神楽坂1丁目で写真3枚を見ていきます。どれも新宿歴史博物館にあり、牛込橋からの写真です。なお、地元の方に多大な助言をもらいました。この半分以上は地元の方の言葉です。

[A]新宿区史。新宿区役所。昭和29年

新宿区史・昭和30年

[A]新宿區史(昭和30年)

 最初の[A]の1枚は、「新宿區史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)に出ていますが、何年に撮影したのかはこれではわかりません。メトロ映画で上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」という映画で、ともに公開日は昭和29年です。この写真は「区成立30周年記念 新宿区史」(新宿区役所、昭和53年)でも同じものを使っていて、これは「昭和29年ころ」と書いてあります。一応、これは昭和29年ごろだとしましょう。ちなみにメトロ映画は現在はドラッグストア「マツモトキヨシ」にかわっています。なお、街灯は鈴蘭灯で、信号機はゼブラ柄の背面板があります。


[B]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 21

[B]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 21

[B]については、神楽坂の左側の大きな「神楽坂」の標識ポールがあります。街灯は上にひとつ、下に2つの電球があり、鈴蘭灯です。メトロ映画の「肉体の冠」の日本の公開は昭和28年。併映はおそらく「奇襲作戦命令」で、日本の公開は昭和26年。これから昭和28年には鈴蘭灯があったと考えます。右端に電柱看板があり、拡大しないとわかりませんが、5丁目の「リード商会」の広告があります。リード商会の場所は道路拡幅のため多くはなくなり、一部はセブンイレブンになりました。神楽坂の右側の壁に「茶」と書いてあり、これは昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では「東京圓茶」(新字体では「東京円茶」)になっています(現在は不二家)。現在のモスバーガーの場所には「清水衣裳店」(現在の千代田区の「清水衣裳店」)がでています。なお、IDは新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID(identification、証明番号)です。


[C]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 23

[C]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 23

[C]同じく神楽坂入口から坂上を見ています。標識ポールは同じですが、信号機はありません。おそらく[B]よりさらに昔の時代でしょう。ポールの下に『塵に咲く花』の広告が見えます。昭和26年11月、日本公開です。右側の電柱広告「ナカノ」は坂上の中野ボタン店(現・ブロンクス)。この広告の下に電球ひとつの簡素な街灯が見えます。左側の看板は「あなたは/右側を/通って下さい」「この道路は歩行者の/模範右側交通路/であ〇〇〇/交通事故を〇〇〇/皆様の御協力を願います」