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足立屋と岡田常次郎氏、東京シティ信用金庫

文学と神楽坂

地元の方からです

 足立屋は岩戸町2番地にあった呉服商です。経営者は岡田常次郎氏でした。常次郎氏の名は、日本紳士録(交詢社、明治25年)や高額納税者番付『栄誉鑑』(有得社、明治23年)などに出てきます。
 人事興信録(大正4年、再録は名古屋大学)でプロファイルを見ると

  •  安政元年(1854) 埼玉県生まれ 東京府平民岡田德兵衛の養子
  •  明治十八年六月分家 呉服太物商を營み屋號を足立屋と呼ふ

 1901年(明治34年)発行の『日本之名勝』3版に記事と店の写真があります。それによると…

初代徳兵衛は…万延元年(注・1860)、地を今の所に卜して商店を開きしが、当時牛込は都下にありても最も辺僻の域に属し…ことに維新の革命に際し、御家人、徒士ら皆去って顧客の大半を奪わるるに至りしも…百難を排除し 今日の盛運を見る。
二代はすなわち今の常次郎にして…ますます業務を拡張して今は区内有数の店舗なり。
(新字新かなで適宜省略)

 つまり初代徳兵衛が苦労して店を軌道に乗せ、養子である常次郎氏が大きくしたのでしょう。
 牛込区史(昭和5年)によれば、常次郎氏は明治25年から大正2年にかけ、3度にわたって区議会議員を務めました。
 また東京市及接続郡部地籍台帳 1(明治45年)によれば、常次郎氏は牛込区内に25筆・3781.68坪(約12,400㎡)の宅地を所有していました。商売が順調だったことが想像できます。

東京市及接続郡部地籍台帳 1(明治45年)

 常次郎氏は大正9年(1920)に隠居し、家督を長男に譲ります。長男は襲名して2代目常次郎となりました。足立屋呉服店としては3代目です。

 その後、2代目常次郎氏の事業に変化が起きます。大正14年、牛込柳町に本店のある「有限責任信用組合第一金庫」の常務理事に名を連ねます。

 また昭和2年、日本紳士録31版には「足立電話店/岩戸町3番地」として登録されます。
 ちょうど関東大震災後の東京の復興期で、洋装化も進み、旧来の呉服商以外に多角化を図ったのかも知れません。
 さらに昭和4年、日本紳士録33版では「足立屋両替店・債権売買業/岩戸町2番地」になります。この頃に初代から続いた呉服商を廃業したと思われます。
 昭和5年、大衆人事録 第3版(帝国秘密探偵社、昭和5年)には「つとに呉服商を営みしが、現時足立屋と称し両替並びに債券売買業を営む」とあります。
 以後、2代目常次郎氏は岩戸町2番地で金融業に従事します。昭和9年、帝国信用録 第27版では「証券売買・貸地業」。昭和11年、日本紳士録 40版では「信用組合第一金庫常務理事・足立屋両替店・債券売買」。昭和16年2月、足立屋証券株式会社を設立し代表取締役に就任します。
 一方、信用組合第一金庫は政府主導の戦時統合で「帝都信用組合」に改組されます。本店は相変わらず牛込柳町で、組合長も信用組合第一金庫と同じです。2代目常次郎氏は理事のひとりでした。
 市谷柳町の帝都信用組合旧本店は焼け残り、平成時代まで使われました。

帝都信用組合旧本店。「かがり火」から現在はセブンイレブンとマンション

 しかし組合を改組した「帝都信用金庫」の本店は、岩戸町2番地の足立証券本社・2代目常次郎の屋敷の跡地に建設されました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9492 大久保通り 神楽坂五丁目付近(現牛込神楽坂駅付近)

 帝都信金は2000年(平成12年)に再編されて東京シティ信用金庫になりました。現在も、かつて足立屋のあった岩戸町2番地に神楽坂支店があります。