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神楽坂3丁目(写真)縁日 昭和41年 ID 12272-12273

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 12272とID 12273を見ましょう。撮影は1966年(昭和41年)。街灯には巨大な蛍光灯があります。「縁日」は神社仏閣と縁のある日で、普段以上に御利益があるとされました。毘沙門天の縁日は、戦前は寅(寅毘沙)と午の日の10日に2度でしたが、戦後の昭和29年7月から毎月5日の夜店が出店し、やがて月3回になり、屋台の夜店で賑わいました。なお、ID 12280と12282も同じ縁日の風景です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12272 神楽坂毘沙門天の縁日

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12273 神楽坂毘沙門天の縁日

 ID 12273のすぐ隣にID 12272の屋台があったと考えます。ID 12272はピンクや赤い色の弁当箱ややかんが売られていて、おそらく、ままごと用でしょう。ID 12273ではたこやきを売っています。「関西名物」「岡村屋」の文字が見えます。
 人間は多く外套を着ています。またID 12273では「たこやき」の「た」の上、ID 12272でも少し離れた街灯にクリスマスの飾りがあります。12月なのでしょう。
 ID 12272には質店の電柱看板「質 倉庫完備 取扱丁寧 大久(保)」、細かく「神楽坂中程マーサ美容室横入」があり、最後に住所「神楽坂3-7」があります。神楽坂3-7とは三菱UFJ銀行の神楽坂支店と完全に一致しています。なお、2007年に無電柱化を行い、電柱は一切なくなりました。明るさを修正すると、向こう側の4丁目の商店の看板が見えます。右から順に「福屋不動産部」、隣は判読できませんが、形状からして日本法令の「届け用紙」の看板で、福田屋文具店でしょう。その次は「尾(澤薬局)」です。他に電柱看板「小野眼科」も見えます。

 ID 12273には電柱看板「中河電気 神楽坂」があり、消火栓看板「カメ(ラ)」もあります。右上に「(COF)FEE + CAKE」と書かれています。これは住宅地図のスゴオ菓子店で、三菱銀行の反対側にあったようです。なお、これらの看板は、やや後の時代のID 101(昭和44年)と照合すると確認できます。おそらく街灯を挟むような形で、図示した位置に屋台が出ていたと思われます。

101’ 三丁目

神楽坂1丁目(写真)美観街 平成2年 ID 95

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 95は、平成2年(1990年)10月19日位に神楽坂1丁目を撮ったものです。電柱はまだあり、無電柱化はまだです。

 街灯は1970年代のものから更新されています。左右にバーが突き出し、道路側はバーの上、歩道側はバーの下に6角形のランタン型の灯りがついています。
 その下にも左右にアーム(この用語は日本照明工業会規格によっています。訳すと横木でしょうか)があります。これは催事の時に告知や飾りを下げるものです。以前の街灯では、ススキや笹のような形状の飾り(神楽坂3丁目(写真)昭和54年 ID 87)を斜めに差し込むパイプがあり、季節ごとに街を彩っていましたが、これはなくなりました。
 この写真では左右のアームに「毘沙門天 おえしき」「十月十四日」と書いた提灯がぶら下がっています。おえしきは御会式と書き、日蓮宗の各寺で、日蓮の忌日(10月13日)に営まれる、宗祖報恩の法会です。さらに下のアームの「神楽坂」は常設の金属製のものでした。
 商店街の名前を示す大きな標識ポールも一新されています。向かって右が「神楽坂」左が「かぐら坂」とあり、「美観街」はなくなりました。

1990年 住宅地図。

「軽い心」の跡には複合商業施設の「カグラヒルズ」が建ちました。カグラヒルズの竣工は1982年です。看板が出ている丸和証券は1970年代には通りの向かい側にあったので(神楽坂1丁目(写真)昭和54年 ID 85、ID 86)こちらに移転したのでしょう。

神楽坂1丁目(平成2年)
  1. 電柱看板「 大久保
  2. 清水衣裳店
  1. 薬ヒグチ。ヘアケア。
  2. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店。CABIN たばこ。
  3. 地下鉄 飯田町駅
  4. 不二家。ペコちゃん。
  5. あんみつ 紀の善
  6. 床屋のサインポール
  7. 丸和証券。英会話(カグラヒルズ)

階段の話|神楽坂

文学と神楽坂


 神楽坂の坂に江戸時代には階段があったが、明治になると普通の坂になったという話です。
 平成22年、新宿歴史博物館「新修 新宿区町名誌」によれば、神楽坂は
神楽坂は江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。
 明治四年(一八七一)六月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとって神楽かぐらちょうとしたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。
 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、特に関東大震災以降、東京における有名な繁華街であった。大正一四年(一九二五)坂が舗装された。神楽坂のこの道は毎朝近衛兵が皇居から戸塚の練兵場(現在の学習院女子大学)に行く道で、軍馬の通り道であった。舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、二年ほどして御影石に筋を入れた舗装に変わった。
 また、石川悌二氏は『江戸東京坂道事典』で……
 やはりむかしは相当な急坂であったのを明治になって改修したもの。明治13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。

  牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。

 また神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」では……(なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人で、大正二年生まれ。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。「佐藤さん」は亀十パン店主です。)

相川さん 古い資料を見ると、昔の神楽坂ってのは階段だったらしいね。
山下さん 牛込見附から上かってくる方ですね。
相川さん 商店街ができるからってんで階段を坂にしたら、えらい坂が急勾配になったんで、「車力も辛い神楽坂」っで歌ができたくらいなんです。それを天利さん(注)ショウジロウさんって区会議長をやった人が、ハンコを関係各機関からもらって、区のお金を使って坂を下げたんです。下げたら今度は下の方から苦情が来て。坂を下げて勾配をずうっと河合さんの方までもってくる予定で設計図はできていた。ところがあんまり喧喧囂囂(けんけんごうごう)で収まりがつかなくなって、それでピタッとやめたんで、天利さんの前のところだけグッと上がっちやった。あれが忘れ形見だ。注:菱屋さんの先代店主
佐藤さん そういえばそうですね。最後のいちばん登りきるところが基点(起点?)なんですね。
馬場さん 自分の家の前に来ちゃった。ヘヘヘ。
相川さん 「工事中止」ってんでね。ということは、坂下の方の店(本道?)は階段じゃないとお店へ入れない。階段の商店街になっちゃうのはまずいってんで、それであそこでピシッと切った。歩いていてもわかるでしよ? 上がりきったな、と思うと、またグッと上がる。それがちょうど天利さんの前へ来ていた(笑)。区会議長やってる時分に天利さんはお釈迦様(注)の後ろへうちを買い足して、ご隠居しちゃったんです。
(注)弁天町にある宗相寺
馬場さん ああ、弁天町のね。
相川さん そのあと工事を引き受けたのが、上州屋の旦那なんです。

車力も辛い神楽坂 「東雲のストライキ節」をもじったもので、替え歌は「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」から。本歌の歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」。明治後期の1900年頃から流行し、廃娼運動を反映した。
 上州屋は5丁目の下駄屋で、以降は藪そば、ampm、最後はとんかつさくらに変わります。
 同じく2010年(平成22年)の西村和夫氏の『雑学 神楽坂』によれば…

 江戸期は階段が作られるほど急な神楽坂だったが、明治になって何回となく改修され、工事の度ごとに緩やかになっていった。階段がいつなくなったのかわからないが、明治の初めと考えて間違いはなさそうだ。
 坂上は明治10年代に平坦にされたが、坂下は勾配をそのままにして先に商店街が出来てしまった。傾斜した道路の店があったのでは商売がやりづらいと、サークルKの先、当時糸屋を営んでいた菱屋が中心になって牛込区役所に働きかけ、坂を剃り勾配を緩くした。ところが、工事が進むにつれて坂上の商店ほど道との高低差が広がり、再び埋め直すという笑えぬ失敗があったという。こんな苦労を何度も繰り返し、神楽坂は今の勾配になったようである。
 芸者新道の入口の傾斜はそのままにされたので階段が作られて、手すりがないと上がれないような急坂が現在まで残り、昔の神楽坂の急勾配の様子をうかがわせる。

『神楽坂おとなの散歩マップ 』で洋品アカイの赤井義松氏は(この店はなくなりました)
 よく注意して歩くと、「さわや」さんの前あたりで坂が緩くなってる。で、またキュッと上がってる。あれは急傾斜を取るために、あそこで一段、ちょっとつけたわけです。
 中村武志氏も『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)で同じ話を書いています。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物の佐和屋あたりに、昔は段があった

段があった 陶柿園と「さわや」の前にある縁石を比べます。

陶柿園とさわやの縁石

江戸名所図絵の牛込神楽坂

江戸名所図絵の牛込神楽坂

 江戸時代の(だん)(ざか)については、天保年間に斎藤月岑氏が7巻20冊で刊行した『江戸名所』「牛込神楽坂」では10数段の階段になっています。
 なお、この画讃の上には『月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり』と書いています。
 また平成14年(2002年)になってから電線もなくなりました。