神楽おでん」タグアーカイブ

鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館

文学と神楽坂

 神楽坂五丁目の柳水亭は、明治時代は講釈席の鶴扇亭、大正に入ると色もの席の柳水亭、関東大震災の翌年、大正13年(平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』展望社、2007年)には勝岡演芸場になり、さらに活動写真の東宝映画館となり、そのまま戦争になるまで続きました。

 今和次郎編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年)では

 手踊りや浪花節席の柳水亭は今の勝岡

と書いています。

「ここは牛込、神楽坂」第3号の河合慶子氏は「肴町界隈のこと」で

 寺内へ入る横丁までの割合大きい一棟は、階上が勝岡演藝場(映画館になったのは後のこと)、階下は何件かに仕切られ、理髪店、写真屋、奴軒と云う洋食屋、横丁を隔てて分厚いこんにゃくで有名な「神楽おでん」、棒丑さんとか、中華の永利軒とつづく。
 階上の芝居小屋は地方廻りの劇団中心で、中でも女役者ばかりの「坂東勝治」一座が評判だった。年配の座長が立役専門で「浜松屋」でも「直侍」でも何でもこなす藝達者、よく見に行った。夏場は客席のうしろの窓が開け放しで、私の家の物干しから舞台が見えるので、結構只見をきめ込んだこともある。芝居がハネると化粧のまま浴衣を引っかけた連中が銭湯へ行く。子供心にそれが面白くて、時間を見計らって、お風呂に行ったものである。

「ここは牛込、神楽坂」第6号の丸岡陶苑の岡崎弘氏は「明治の神楽坂のこと、話そうか」で

 肴町の家のそばには鶴扇亭という寄席があって、そこは講談専門。後で柳水亭と名前が変わって落語をやるようになり、その後、勝岡演芸場になって、はじめて二階建ての演芸場になってね。ここでは先代の金馬や談志が落語をよくやっていた。家しか電話がないから、そこの人が講釈師に、先生早く来てくださいとかよく電話しに来るの。うちは電話貸してるから、しょっちゅう行ってたね。そりゃ文句は言えねえや。おれは座敷の一段高いところに座っちゃうもんだから、やな顔をして。でも何も言えねえ。電話借りてるから。子供心に知ってんだ。でもわざとじゃない。下の方だとよく見えねえからね。落語も講談も好きだから年中聞いたよ

 正岡容氏の『随筆 寄席囃子』(古賀書店、1967年)では

 柳水亭はその後、勝岡演芸場となって晩年の若水美登里などの安芝居の定席となり、のち東宝系の映画小屋となってしまったが、電車道に沿って二階いっぱいに客席のある寂しい小屋だった。かてて加えてひどい大雨の晩だったので、お客はせいぜい二十何人くらいしか来ていなかった。定刻の六時になると文字どおりの独演会で、奴さん、前座もつかわず、ノコノコ高座へと上がってきた。そうして、近所の牛込亭や神楽坂演芸場(かみはく)の落語家たち(ついこの間まで彼自身もその仲間だった)の独演会のやり口を口を極めて罵り、自分のような、この、こうしたやり方こそがほんとうの独演会なのだとまず気焔を上げた。今の奴らは一人っきりでひと晩演るだけの芸がないのだというようなこともしかしながら言ったように覚えている。聴いていてへんに私はうれしくなった、恋ある身ゆえ、なにを聴いてもしかくうれしかったのかもしれない。

電車道 大久保通りです。
奴さん 日本太郎です。

『まちの想い出をたどって』第1集の「肴町よもやま話①」(2007年)によれば、昭和5年、隣から火事が出て、勝岡演芸場は焼失し、神楽坂に向いていた十銭ストアや機山閣も焼けたといいます。勝岡演芸場は東宝に売られ、昭和15年ごろに中村メイコなどが映画館として新装開店を行ったようです。以下は「肴町よもやま話①」を一部引用したものです。なお、「相川さん」は棟梁で街の世話人。大正二年生まれ。「山下さん」は山下漆器店店主。「馬場さん」は万長酒店の専務です。

相川さん 昭和五年十月十五日、忘れもしないね、肴町の在郷軍人が伊豆の大島へ行くんで、それで六時の集合だというふれで、私も行くんだ。中河さんだの、薮蕎麦さんだの、「やっこ軒」だの、そういった連中がみんな在郷軍人の格好でお揃いで行こうじやないかって相談していて、その明け方、火事になった。
山下さん どこが火元?
相川さん 火元はね、河合さんのすぐ隣の「はんこ屋」がありまして、小さな床店でそこで寝られないんだ。その隣に「本田」っていう電気屋さんがあった。電気のお湯を沸かす棒ですね、あれを桶の中に入れてやっていたら、たまたま桶が水漏れしちやったの。それで寝てて知らなかった。火になってはじめてうちの人が気がついて、命からがらみんな飛び出した。
山下さん それが焼けちゃって、あの演芸場まで(火が)行ったの?
相川さん そうそう。そこの電気屋さんとの間に路地がありまして、「勝岡演芸場」(注。今のつくば3号館↓の付近っていうのがあったんです。どさ回りの役者が浪花節だとかやる定席(じょうせき)があった。それが隣から火が出て、下の方は便所なもんだから、火が上の方へ行っちゃって。
馬場さん 勝岡演芸場がそれで焼けたんですか。
相川さん 火が全部天井に入っちゃった。下の床店になっている鈴木っていう写真機屋さん、それから田中っていう床屋さん、それからいまの袋町の八百屋さん(注。現在の袋町の「八百美喜」さん)、それから曲がってすぐやっこ軒って西洋料理の安い店があった。それがみな罹災者なの。焼けなくても水漏りで。忘れもしません。昭和五年の十月十五日。私は行くつもりになって支度をしていたんだから。六時の集合だから、明け方でしよ。
馬場さん あとでまた勝岡演芸場ができていたじゃない。
相川さん 焼けちゃって、勝岡演芸場の経営者はおばあさんだから、「そんな資金はないよ。復興の見込みはないし、もう私も年だからやめる」っていうんで、砧にあった東宝のPCL、あれにそっくり売った。店子は残って、最初は(映画館に店を出す)約束したんだけど、設計がまずい、防火法にふれる、二階だけで映画館をやるわけにはいかない、ということでみんなどけられちやった。

柳水亭

中河 中河電気の店主です。ここは現在五丁目の神戸牛と和食の店「新泉」に変わっています
薮蕎麦 現在、五丁目の「とんかつさくら」に変わりました
やっこ軒 おそらく洋食屋の奴軒だと思います
床店 とこみせ。商品を売るだけで人の住まない店
八百美喜 袋町の八百屋さんは2016年に変わって「肉寿司」になりました
東宝のPCL 1933-37年、P.C.L.(Photo Chemical Laboratory)映画製作所ができました。東宝の前身の1社です

 では鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館の現在の場所を確認しましょう。

「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年新宿区教育委員会より

「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」昭和45年新宿区教育委員会より

hanko 本田

 場所はこの辺りですが、間違えています。上の「古老の記憶による関東大震災前の形」では、柳水亭のに一本の道があり、また、神楽おでんは柳水亭の下(南)にあります。一方、正しいのは、下の大正元年の『地籍台帳・地籍地図』で、鶴扇亭のに一本の道があります。鶴扇亭は肴町12-1に当たりました。

鶴扇亭

 岡崎弘氏と河合慶子氏の「遊び場だった『寺内』」では、こちらの絵の上下は反対向きですが(つまり北の方が下向き)、鶴扇亭の北に道路があり、神楽おでんの南に鶴扇亭があります。これが正しく、さらに「肴町よもやま話」や野口冨士男氏の「私のなかの東京」でも正しいようです。つまり、鶴扇亭の上側(北側)に一本の道があったのです。

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 なお、新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』を調べると、大正15年の東京演芸場組合名簿では勝岡演芸場は肴町13になっています。また、昭和5年の『牛込全図』で、肴町13は下の通りです。
昭和5年の柳水亭

 一方、これが違う場合もあります。左下の昭和12年の都市製図社の火災保険特殊地図では、肴町12にあったと思います。昭和27年(右下)も五丁目12で13ではないと思います。

昭和12と27

「神楽坂まちの手帖」第10号に河合雅一氏は「わたしの神楽坂落語」を書いています。

 牛込肴町、現在の神楽坂五丁目むかしやの隣に、「柳水亭」という席がありましたが、後に「勝岡演芸場」という席になり、その後映画館になりました。私はここで長谷川一夫の「伊那の勘太郎」を見た記憶があります。
この場所は戦後六十年たっていますが、大きな普請をしておりませんので、寄席の入口のタイトルの名残が現在でも残っております。ちなみにこの場所から二十メートル先に、柳家金語楼のプロダクションがありました。そして愛車のジープが時々止まっておりました。

 下は現代の地図です。つくば3号館は神楽坂5丁目10番地なので、勝岡演芸場はつくば3号館と違っていると思います。もっと道路に近くあったようです。

 そこで大胆にも下で書くと、赤色で囲った場所(神楽坂五丁目13番地)が柳水亭や勝岡演芸場などでしょうか。

柳水亭の推定図

柳水亭の推定図。1990年の航空地図

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座
神楽坂の通りと坂に戻る場合


神楽坂|大東京案内(4/7)

文学と神楽坂


 蕎麦屋(そばや)でうまいのは春月、麻布支店の更科、といふところ。おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたんお披露目の芸者もこゝへは顔を出す。肴町停留場附近の神楽おでん。そこから半丁ほど先きにお座敷てんぷらやが二軒。芝居趣味のがくや、食味を自慢の勇幸。以前に幇間(ほうかん)をしてゐたとかいふ勇幸の主人は、尾崎紅葉の俳句の弟子とか。高いが、いゝ華客(とくゐ)のある一寸通りから()っ込んだ店。
 なんといっても夜の神楽坂はまだまだ花柳界(くわりうかい)に主体をおく。その全盛期(ぜんせいき)は震災直後で大小の美妓六百数十を数へたものだが、今は旧検(きうけん)の二百余、新検の百五十どころ、二派に分離して対峙(たいぢ)してゐるが、早晩旧通りに合併するとのこと。なにしろ有名な待合では(まつ)()(しげ)()もみぢ、等々。百軒あまりも軒をならべてゐる。

 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば、昭和5年頃、肴町(現神楽坂5丁目)の田原屋(現「玄品ふぐ神楽坂の関」)の反対側に(やぶ)そば(現「ampm」から「ゆであげパスタ&ピザLaPausaラパウザ」からまた変わって「とんかつさくら」)がありました。
また神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には

相川さん 店は小さいんです。店があって、後ろに調理場があって、離れに住まいがあるんです。三つの家が建っていました。すぐ隣の「大和屋」さんという漆器屋には蔵があった家なんですが、「大和屋」さんと薮蕎麦さんの間に路地をこしらえまして、それで住まいの方へ薮蕎麦さんは入っていった。もちろん、調理場からも行かれますけどね。表から来たお客さんはその横から入っていく。
藪そば

新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」

赤びょうたん これは神楽坂仲通りで、神楽坂3丁目にあったようです。詳しくはここで
お披露目 芸者などがその土地で初めて出ること。あいさつ回り
がくや 芝居趣味なので「楽屋」なのでしょう。それ以外はわかりません。
勇幸 鏑木清方の随筆「こしかたの記」では

この明進軒の忰だったのが、勇幸という座敷天ぷらの店を旧地の近くに開いて居る

と書いています。詳しくはここで。また、『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」でこう描いています。勇幸
幇間 ほうかん。太鼓持ち、末社で、男芸者のこと。酒席で遊客に座興を見せ遊興のとりもちをします。
華客 かかく。花客とも書く。ひいきの客。得意客。とくい。
花柳界 芸者・遊女などの社会。遊里。花柳の(ちまた)
旧検新検 検番(見番)は芸者衆の手配、玉代の計算などを行う花柳界の事務所です。昭和初期は神楽坂の検番は民政党、政友会の2派に分かれ、党員たちが集まり、豪遊し、戦術を練ったといわれています。旧検は民政党の一派が作る検番で、仲通りに店を開き、昭和初期には芸妓置屋121軒、芸妓446名、料亭11軒、待合96軒を有していました。政友会が作るのは新検で、本多横丁に店を開き、芸妓置屋45軒、芸妓173名、料亭4軒、待合32軒でした。現在の見番は見番横丁にあります。

対峙 対立する者どうしが、にらみ合ったままじっと動かずにいること
旧通り 元通りのことでしょう。もとどおり。以前の状態と同じ形や状態。
待合 待合茶屋とも。待ち合わせや男女の密会、客と芸妓の遊興などのための席を貸し、酒食を供する店。
重の井 新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)によれば場所は5丁目。現在は巨大なマンション、神楽坂アインスタワーで完全に覆われてしまいました。重の井
もみぢ 待合「もみぢ」が「紅葉」だとすると、紅葉は「火災保険特殊地図」(昭和12年)で上宮比町にありました。現在は「Ristorante LASTRICATO」(ラストリカート)と同じ場所でしょうか。ちなみに、旅館和可菜の場所を書くと水色のここになると思います。

もみぢ

もみぢ

日本歓楽郷案内(3/5)

文学と神楽坂

 獨りこの街で肩で風を切つて歩いてゐるのは、早稲田法政の學生たちである。
 撞球場でも、マージヤン・クラブでも、いたる所で學生が幅を利かしてゐる。
 肴町の角にある紅谷(ベニヤ)のコーヒーと云べば、トロリとしたクリームを浮べて抒情派の詩人や女學生の巣窟のやうになつてゐたが、詩人なんてものがすつかり俗悪化した今日では、詩人のお顔拜見と出かける文学少女も尠くなつたやうだ。それよりも、絵葉書屋の前でスポーツマンのプロマイドでも見る方がいゝらしい。
 只、一坪の土間と、一貫の屋臺店に頑張つて凌々たる氣骨を見せてゐる神樂おでんの爺さんだけが昔も今も變らず繁昌してゐる。陪審裁判の陪審に選ばれたといつて「區役所は得手勝手だ」と怒鳴り時間が五分間早いと云つて煮ゑたおでんも喰はして呉れぬ變り者の爺、時代の後端を歩む彼の氣慨こそ神樂坂唯一の名物であらう。

肩で風を切る 肩をそびやかして、得意そうに歩く
早稲田 1882(明治15)年、早稲田に「東京専門学校」が発足。1902年9月2日付で「早稲田大学」と改称撞球場。
法政 1880(明治13)年東京駿河台に発足。1921(大正10)年 麹町区富士見町4丁目(現在の市ケ谷キャンパス) に校舎を新築し移転。
撞球場 どうきゅうじょう。ビリヤード場
幅を利かす はばをきかせる。勢力をふるう。
抒情派 作者の感情や情緒を表現したもの
巣窟 居住する場所。すみか
俗悪化 低級で下品なこと
屋台店 屋根のある台を設け、やきとりやおでんなど簡単な飲食物を供する大衆的な店
凌々 リョウリョウ。澄みきっているさま
気骨 自分の信念を守って、どんな障害にも屈服しない強い意気
得手勝手 他人に構わず自分の都合ばかりを考えて、わがまま放題にする様子
後端 こうたん。うしろのはし
氣慨 きがい。困難にくじけない強い意志・気性

絵葉書屋 私製絵葉書は1900年(明治33年)から。風景や美人絵葉書などあらゆる絵葉書がでてきて、1905年(明治38年)には日露戦争に勝った絵葉書が大ブーム。全国に絵葉書専門店が次々と開店し庶民に浸透しました。手彩色絵葉書、木版デザイン、透かし絵葉書、夜光塗料絵葉書、子供向け絵葉書などなど。
プロマイド プロマイドとは、俳優やアイドルなどのスターの写真を販売目的で撮影したもの。ちなみにブロマイドは本来、印画紙を指す言葉。これはプロマイドと書いてあります。
神楽おでん

『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」では

岡崎 寺内の入口には、「かぐらおでん」もあってね。
河合 「かぐらおでん」は、すごくおいしかったから、お鍋持って買いに行きましたよ。

と出ています。場所は左図では『ここは牛込、神楽坂』第18号の「遊び場だった『寺内』」。右図では昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」からの「古老の記憶による関東大震災前の形」。上下ちょうど180°方角が変わっています。

神楽おでん1

陪審裁判 刑事事件で市民から選ばれた12人の陪審員が有罪・無罪を裁判官に答申する仕組み。1928年から15年間実施、対象は484件。陪審員は30歳以上で一定額以上の納税をし、読み書きができる男性。無罪率は約17%。1943年、戦争時に陪審法は停止された