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升本総本店(写真)

文学と神楽坂

 升本ますもと総本店は、江戸時代から創業の酒類問屋です。かつて揚場町にありました。昭和47年(1972年)、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で、店舗の写真を撮っています。

05-14-39-2 飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」では(ただし写真の前方にあるゴミはトリミング しています。ここに正しい写真があります)

「神楽河岸」昭和46年4月。加藤嶺夫著「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

 昭和60年(1985年)、民間再開発があり、以前に揚場町だった場所は「飯田橋升本ビル」になります。やはり田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」です。

05-14-41-1 升本酒店ビル 1985-04-16

 昭和57年(1982年)、升本総本店は揚場町から津久戸町に移転します。

2009/11 津久戸町にあった升本総本店 Google

 平成24年(2012)、都道(放射第25号線)の建設のため、津久戸町から御殿坂に登る途中の、筑土八幡町5−10にまた移転します。

現在の筑土八幡町の升本総本店。Google

2020/02 現在。升本総本店だった場所

 なお、 昭和46年の升本総本店の地図と、平成22年の飯田橋升本ビルの地図を書いておきます。

昭和46年 升本総本店

2010年 飯田橋升本ビル

学校帰り、筑土八幡神社で遊ぶ。升本総本店は氏子の筆頭。新宿歴史博物館 ID7448の一部  昭和41年9月

神楽坂の中心

文学と神楽坂

 地元の方から「神楽坂の中心」というエッセイを頂きました。

 大正から昭和初期の神楽坂が最も栄えた時代、その中心は毘沙門さま周辺の3丁目から4丁目(旧・上宮比町)、5丁目(旧・肴町)にかけてだったそうです。表通りに石造りの立派な店が多く、裏にキメ細かな路地と賑やかな花町が広がっていました。

 当時の坂の中腹から下は、通り沿いこそ店が並んでいたものの、裏通りは住宅や倉庫、学校などが主だったようです。「古老の記憶による震災前の形」で1-2丁目の裏道の路地が描かれていないのも、坂下の「紀の善」が昔は職人相手の店だったのも、「田原屋」毘沙門天の隣で大いに栄え、兄弟店が少し離れた場所にあったのも、こうした表れのように感じます。


古老の記憶による震災前の形 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年に出ています。インターネットでみることも可。
職人相手の店 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号の冨田冨江氏の「神楽坂昔がたり」「紀の善と牡丹屋敷」では
 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは30人頼むとか、さようは雨だから5人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂では代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。

 江戸時代の商売は江戸城に薬草を届け、明治から戦前までは寿司、戦後は甘味処です。職人相手の店といえないと思います。
田原屋 毘沙門天の側は5丁目で長男、兄弟店は3丁目で3男がやっていました。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号「お便り投稿交差点」の奥田卯吉氏の「おれも江戸っ子、神楽坂」では
 神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた(中略)
 時代の先端をゆく父たちは、五丁目の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。次男は通寺町(現神楽坂6丁目)の成金横丁で小さな洋食屋を出した。特定の有名人等を相手にした凝った味で知られる店だった。
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。

 戦後も毘沙門さまが中心だという意識は残っていました。神楽坂の夜店は「5の日の縁日」として限定的に復活し、昭和50年頃まで続いたと記憶します。しかし露店が並んだのは藁店から見番ぐらいがせいぜいで、坂下に賑わいは及びませんでした。1丁目の商店会会員は、そのことが不満だったそうです。

 様相が変わったのはビルが建ち、多くの貸店舗ができはじめた頃でしょう。飯田橋駅に近い坂下と、地下鉄東西線の神楽坂駅に近い6丁目(旧・通寺町)の店や事務所の家賃が、毘沙門さま周辺より高くなる「逆転現象」がおきました。

「神楽坂上」の位置づけが戦前・戦後で変わったことも影響していると思います。現在の神楽坂上の交差点から牛込北町にかけては戦前、牛込区役所(現・箪笥町特別出張所)を中心としたビジネス街で、牛込の中心と目されていたそうです。しかし戦後、区役所が新宿に移り、さらに地域交通の大動脈だった大久保通りの都電が撤去されると、一転して「不便な場所」「陸の孤島」になってしまいました。相対的に、飯田橋駅に近い坂下の価値が上がったのです。

 毘沙門さまの場所は飯田橋駅と神楽坂駅の中間で、ある意味「中途半端」です。坂下に比べると人通りも少ない。中心とは言いにくくなってしまいました。

 とはいえ新たな変化も芽生えています。近年、神楽坂がメディア等で紹介されて人気が高まった結果として、昔より広い範囲が「神楽坂」と認識されるようになりました。都営大江戸線の牛込神楽坂駅が坂上に開業したことも、それを後押ししています。今日、神楽坂として括られる範囲には、矢来町筑土八幡町中町南町まで含まれることがあります。しかし、さすがに区が違う千代田区富士見町は入りません。

 新しい広域の神楽坂の中心は、やはり毘沙門さまになるのではないでしようか。

限定的に復活 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007年)では「戦後は、縁日の出店がままならずにしばらくその火が消えていたが、昭和33年7月に、商店街の尽力で毘沙門の境内と門前に縁日がめでたく復活し、毎月5の日に開かれている」
地下鉄東西線の神楽坂駅 現在、地下鉄の飯田橋駅、神楽坂駅、牛込神楽坂駅があります。

千代田区富士見町 千代田の北西部に位置し、富士見一丁目と二丁目になる。


小学唱歌発祥の地

文学と神楽坂

 国友温太氏が書いた『新宿回り舞台』(1977年)の中に、田村虎蔵氏について簡単にまとめた文章があります。
 この『新宿回り舞台』は、新宿区の職員報に、昭和46年6月号から毎号読切りで連載した新宿区の歴史を記録したものです。52年3月号で70話となり、そこで一冊にまとめています。

田村虎蔵

田村虎蔵

    小学唱歌発祥の地(46年11月)
 田村虎蔵、という人をあなたはご存知だろうか。しかし、“ムカシームカシーウラシマハー、タースケタカーメニーツーレラレテー“という歌は覚えておいでのはずだ。
 田村氏は亡くなるまでのおよそ40年間、新宿区に居住した小学唱歌の作曲家である。
 明治の頃、文部省編さんの教科書で子どもたちは「気はれて風新柳の髪を梳り、氷消えては浪舊苔の髭を洗ふとかや」といった時代離れしたものを歌っていた。さらに日露戦争による軍歌の流行で乱暴な歌い方がはやった。
 こうした歌の改革をと、氏は「モシモシカメヨ」の納所辨次郎、「夏は来ぬ」の小山作之助らの作曲家と、美しい声、美しい歌を主唱した言文一致体唱歌の創始者である。
 鳥取県出身。同地の師範学校を卒業後上野の音楽学校に学び、明治38年東京高師(現教育大)の助教授となり、翌39年から筑土八幡町31番地に住む。

唱歌 歌をうたうこと。その歌曲・歌詞。小学校で歌を教える授業の教科目名。
田村虎蔵 たむらとらぞう。作曲家、音楽教育家。1895年(明治28年)東京音楽学校を卒業。東京高等師範学校で教鞭。言文一致唱歌を提唱。『花咲爺』『金太郎』『一寸法師』『浦島太郎』を作曲。生年は明治6年5月24日、没年は昭和18年11月7日。享年は満71歳。
気はれて… 平安前期の漢詩人、みやこの良香よしかが羅城門を通った時「気霽れては風、新柳の髪を梳る」(天気がおだやかに晴れて、風は萌え出た柳の枝を、髪をくしけずるようだ)と漢詩を詠むと、「氷消えては波、旧苔の鬚を洗ふ」(池の氷が消えて、波は古びた苔を、髭を洗うように打ち寄せる)と楼上から詩の続きを詠む声がした。(『十訓抄』より)
時代離れしたものを歌っていた 本当にこの詩を使っていたのかは不明
納所辨次郎 納所弁次郎。のうしょ べんじろう。作曲家。音楽教育家。生年は慶応元年9月24日(1865年11月12日)。没年は昭和11年(1936年)5月11日。享年は満71歳。
小山作之助 こやま さくのすけ。教育者・作曲家。生年は文久3年12月11日(1864年1月19日)。没年は昭和2年(1927年)6月27日)。享年は満63歳。
言文一致体唱歌 言文一致唱歌。日常に用いられる話し言葉の口語体を用いて歌うこと。20世紀に入り、言文一致唱歌を作成する運動が、田村虎蔵、納所弁次郎、石原和三郎らによってすすめられた。
師範学校 小学校,国民学校の教員を養成した旧制の学校。
音楽学校 東京音楽学校。1887年、下谷区につくった唯一の官立の音楽専門学校。
筑土八幡町31番地 場所はここ。

筑土八幡町31番地

牛込区全図。昭和5年。筑土八幡町31番地


 当時緑濃い、近くの筑土八幡神社の高台を愛し、境内を散歩しながら曲想を練ったという。
 「金太郎」「浦島太郎」を始め、指に足りない、の「一寸法師」、大きな袋を肩にかけ、の「大黒様」、裏の畑でポチがなく、の「花咲爺」等、今でも愛唱される数多くの名曲がここで誕生したのである。
 氏は作曲活動と共に教育音楽界の指導にも尽力した大御所で、教え子は数千人にのぼるという。昭和18年11月7日、71歳でこの世を去った。昭和40年12月、教え子たちにより、ゆかりの筑土八幡神社の一隅に顕彰碑が建てられ、碑面には“まさかりかついできんたろう”と歌詞と楽譜が刻まれている。
 ところで、あまりにも著名な曲とは対照的に田村氏の名があまり知られないのは、小学唱歌作曲家の宿命なのであろうか。

顕彰碑 功績を記した碑。紀功碑。
まさかり… 金太郎の譜1部分

金太郎

金太郎

大久保通り(筑土八幡町ー神楽坂上ー牛込北町)|拡幅計画

文学と神楽坂

 令和1(2019)年度に、「筑土八幡町」から「神楽坂上」を通り「牛込北町」までの「大久保通り」について、路幅を拡張して終了する予定でした。この予定では、幅員は18メートルだったのが、30メートルになります。つまり、小さな小さな道路だったのを、巨大な巨大な都道に変えていく予定でした。いわばもう1本「外堀通り」ができるわけです。(実際の外堀通りは40メートルあります)。神楽坂も大久保通りの北と南、西と東で、かなり違っている可能性があるわけです。

 ただし、この東京都のWEBは現在なくなっています。以前はありました。(http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2013/11/20nbp500.htm) 予定通りにいかなかったのでしょうね。2020年8月になっても、相当の道路が残っています。

以前あった計画。現在は計画はない。

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると…

都市計画道路

 神楽坂上交差点から飯田橋交差点に行くところでは、店舗がなくなるものもあります。青線が新しい道路ができるはずのことろです。(ただし正確なものはありません。)まず遠くに半分見えるのが消防署です。

 遠くの角にあるフランス料理の「レ・グルモンディーズ FRENCH-DINING」はなくなり、途中の鉄板焼きの「円居-MADOy-神楽坂」やカフェ「ムギマル2」も確実に消滅します。

 神楽坂通りにある「河合陶器店」「山下漆器店」はすでに消滅し、ケーキ店の「チカリシャスニューヨークアマリージュ」もなくなりました。その1軒の東隣り「みんなの買い取りプラザ」はすでに更地になっています。

 また、「神楽坂アインスタワー」では大久保通りの拡幅について明確に出しています。

「ここは牛込、神楽坂」第18号「『寺内』に、超高層マンション計画」

 次は反対側で、牛込北町交差点にいくものです。
「牛込神楽坂駅」のすぐ前に大久保通りがやってきます。しかし、これぐらいです。

 神楽坂上交差点は2008年2月は

2008年02月

 2012年6月では新しい10階建ての「神楽坂5丁目ビル」ができています。はい、これがビルの名前です。

2021年06月

 問題は袖摺坂の反対側です。南蔵院の墓地はなくなりません。しかし、パン屋の「MAISON KAYSER 神楽坂店」はなくなります。

 最も不思議なS型に上がる道路(私の命名では新蛇段々)です。どうなるのでしょうか。全く改修はないことはありません。小規模、あるいは大規模な改修があるはずです。その場合にはどう変貌するのでしょうか。

新蛇段々坂

 この拡幅は数十年前からあったものです。それがようやくできる。感無量です。