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再開発と神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂の交差点「神楽坂上」周辺で再開発していますが、これで終わりでしょうか。それともまだあれこれと起こりうるのでしょうか。何も起こらない場合、どうして起こらなかったのでしょうか。地元の人は概略します。

  再開発と神楽坂

 東京は皇居を中心に同心円状の構造をしています。環状1号線内堀通り環状2号線外堀通り。環3と環4は、いまだ建設中。環5は明治通りといった具合です。
 神楽坂は環2の外に位置します。同じ環2の外の街をぐるりと見ていくと、神田日本橋銀座虎ノ門赤坂四谷神楽坂を経て文京区の後楽本郷湯島という感じです。いずれも有名ではありますが、街の「ブランド力」を比べると、神楽坂から湯島にかけては、他の街より落ちる感じがしませんか。土地の値段やオフィスビルの賃料を比べても、神楽坂は日本橋や銀座、赤坂などより、かなり安いのが現実です。後楽よりは高いかも知れませんが。
 これは、神楽坂一帯が都心の中でも「開発の遅れた地域」であることを意味します。昔の風情を残しているとも言えるし、再開発圧力にさらされているという見方も出来る。歴史と現代が融和する神楽坂の魅力は、この「開発の遅れ」という現実の上に成り立っています。

環状1号線 東京では「千代田区日比谷公園(日比谷交差点)を起終点とし、皇居外苑を周回する総延長約6.5kmの環状道路」
内堀通り 皇居のまわりを一周する4~10車線の幅員の広い延長7kmの道路。内堀通りと環状1号線はわずかに違う(https://ja.wikipedia.org/wiki/内堀通り
環状2号線 江東区有明から中央区、港区などを経て千代田区神田佐久間町の間を結ぶ、全長約14kmの幹線道路
外堀通り 外堀に沿って作られた環状道路。環状2号線と外堀通りは現在は別々の道路です。外堀通りと環状2号線で同じ場所は赤、環状2号線のみは紫。外堀通りのみは橙。

環状1号線と2号線と外堀通り

神田、日本橋、銀座、虎ノ門、赤坂、四谷、神楽坂、後楽、本郷、湯島 2020年で簡単にm2あたりの公示地価(https://tochidai.info/tokyo/shinjuku/)を見ると、本郷を除いて、神楽坂は低価でした。

地価

神田千代田区神田須田町一丁目26番2513万
日本橋中央区日本橋3-11-1817万
銀座中央区銀座4-5-65770万
虎ノ門港区虎ノ門1-15-161050万
赤坂港区赤坂4-1-30540万
四谷新宿区四谷1丁目9番2外554万
神楽坂新宿区神楽坂2丁目12番18287万
後楽文京区後楽1-4-18305万
本郷 文京区本郷3-39-4220万
湯島文京区湯島3-39-10413万

 ⚫ 再開発のパターン

 専門の方は先刻ご承知と思いますが、都市部の再開発には、ふたつのパターンがあります。ひとつは広い道に面していること。建築法制では前面道路の幅で建物の高さや容積率を決めています。広い道沿いほど大きな建物が建てられます。
 神楽坂の場合、「広い道沿い」の再開発の典型例が「アインスタワー」です。5丁目の寺内地区には低層の木造住宅が密集していました。それを大久保通りとつなげることで大きな利益が生み出せる。積極的な地上げで、たくさんの人が立ち退きました。他にも、昭和40年代の津久戸町熊谷組の本社ビル建設なども、広い道型の再開発です。
 都市部の再開発のもうひとつのパターンは、広い土地を持つ地権者がいることです。地上げの手間もコストもかからないので、再開発を軌道に乗せやすい。
 神楽坂の場合、「広い土地」型の再開発の典型例は、通称「軽子坂プロジェクト」で完成した一連のビル群です。外堀通り沿いの揚場町から、軽子坂を登って本多横丁の手前まで、いくつもの大きなビルが連続的に建てられました。軽子坂は決して広い道ではないので、あまり高いビルは建てられません。しかし沿道の土地の大半を升本酒店が持っていたことから、スムーズに再開発が進みました。これよりかなり前になりますが、昭和30年代の揚場町のセントラルコーポラス建設も、広大な邸の跡地を利用した「広い土地」型の再開発と言えます。
 他にも神楽坂周辺ではラムラという大型の再開発の事例があります。これは江戸城の外堀という公有水面を東京都が埋め立てて、その土地を外堀通りにつなげることで大きなビルを建てたわけです。「広い道」と「広い土地」の両方の特徴を持っています。

アインスタワー 神楽坂アインスタワー(Eins Tower)で、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションです。

アインスタワー。1967年。住宅地図。

地上げ 建築用地を確保するため、地主や借地・借家人と交渉して土地を買収すること
熊谷組 1974年3月、熊谷組の新本社完成。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

地権者 その土地を所有し、処分する権利をもつ者
軽子坂プロジェクト 1937年、1980年、1990年と今(2020年)。現在、小規模な住宅は極めて少ない。
セントラルコーポラス 上の中央の赤丸

 ⚫ 神楽坂の強さ

 ただ神楽坂の場合、街の中心である神楽坂通り沿いには再開発の波は及びませんでした。通りの幅が広くないことと、土地が細切れになっていることが理由です。
 神楽坂通りの商店は戦前、明治以来の地主が広い土地を持ち、店に貸していたそうです。みんな店子ですから、地主の都合や家賃によって場所を移すことが珍しくなかったようです。それを大きく変えたのが第2次大戦後の「財産税」です。財産税の効果は農地解放がよく知られますが、商店街でも地主が土地を手放しました。神楽坂の場合、多くは店子がそのまま自分の店の土地を買ったと言われます。
 こうして細切れの土地に「一国一城の主」が立ち並ぶ構造が出来ました。これが神楽坂の再開発を妨げ、昔の風情を残すことに大きな役割を果たしています。古い店がつぶれれば再開発になりやすい。けれど神楽坂では多くの場合、店主が自前の低層ビルを建てて、貸しビル業や貸しマンション業に転業するわけです。店はなくてもオーナーは同じで、小さなビルの上に住んでいる。
 それだけではありません。最近の新型コロナウイルス感染症で、商店街は全国的に大きな打撃を受けています。ただ神楽坂の古くからある店は比較的、被害が小さいようです。それは土地を自分で持っていて、家賃を払わないですむからです。これも神楽坂の強さのひとつでしょう。
 例外的に、神楽坂通りの再開発事例として「ポルタ神楽坂」があります。10数軒の店が立ち退いてビルが建ったのですが、あの店の多くは升本酒店が地主だったのだそうです。戦後の財産税をくぐり抜けて、それだけの土地を持っていたわけです。だから同じような再開発が今後、続くとは考えにくいです。

店子 家主,大屋に対する借家人、借り主。テナント
財産税 財産を所有しているという事実に対して課される租税。ここで言っているのは戦後1度だけ、占領軍総司令部が発令した臨時税
農地解放 農地改革。第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。

 ⚫ これからの再開発

 それでも、神楽坂に対する再開発圧力は次第に高まっているように感じます。とくに周辺部です。
 大久保通りの拡幅工事完成間近です。沿道のいくつもの店が取り壊され、神楽坂の出口のランドマークであった「昔も今も角のせとものや」こと河合陶器店がなくなりました。拡幅によって、大久保通り沿いには今まで以上に高いビルが建てられるようになります。地上げを企画する業者も出てくることでしょう。
 一時期、街作りの立場から大久保通りの拡幅を批判する人がいましたが、感情論だと思います。拡幅計画ははるか昔からあるし、退去する店には前もっての通知と補償金がある。店主は、それを前提に店をどうするかの腹を決めます。補償金がもらえるから「早く着工して欲しい」と思っている店主だって多いんです。
 大久保通りの逆側、神楽坂下の外堀通りにも拡幅計画があります。昔の神楽坂の入り口のランドマークである赤井さんのところは、坂上の河合さん同様に全部、道路になってしまう場所です。パチンコ「オアシス」も、みちくさ横丁の主であるトウホウビルも、外堀通りが広がれば半分は道路にとられる。地主はそれが分かっているから、古い建物のまま我慢している。拡幅が動き出せば、一気に再開発が進みます。その時には神楽坂の入り口は、昔の山田紙店の跡、今の地下鉄入口になるはずです。
 もうひとつ、忘れてならないのは神楽坂6丁目の再開発です。6丁目は現在の12メートルの道が20メートルに広がる計画です。そうなると、例えば角に近い五十番の店は半分は道路にとられる。道が広がれば、再開発が起きやすくなる。大きな変化があることでしょう。もっとも、さすがにそれには時間がかかりそうです。
 神楽坂1-5丁目の神楽坂通りには拡幅計画はありません。通り沿いの中小ビルの多くは自社ビルで、オーナーは簡単には手放さない。再開発がなければ路地も残るし、町並みも維持できる。神楽坂の中心部は、周辺部の高いビル群に囲まれたまま、ずっと残るのではないかと思っています。

完成間近 完成は不明です。
外堀通りにも拡幅計画 1967年の住宅地図を示します。もともとは黒い点線で書いているのですが、赤い実線に変えています。

1967年。住宅地図

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると、下図がでてきます。

都市計画道路

神楽坂通りには拡幅計画はありません 1967年の住宅地図にまた別の点線があります。実現しなかった神楽坂通りなのですね。

1967年。住宅地図。



酒問屋升本|揚場町

文学と神楽坂

 西村和夫氏の『雑学 神楽坂』第一章「神楽坂今昔」(17頁から)では

 神田川の船運が盛んだった時代、小石川橋から牛込橋までの土手上に、荷揚げ場が続き飯田河岸と呼ばれていた。(中略)
 濠端には船宿や旅館が並び、酒、油など問屋筋が店を構え、特に、幾棟もの酒問屋「升本」の蔵が目を引いた。(中略)
 特に酒問屋升本はその繁盛ぶりを「升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ」と明治に出版された『東京名所図会』に書かれている。
 松田幸次郎は幕末、「升本屋」を創業、千駄ケ谷大番町に店を出す。升本喜兵衛の代に揚場町に移転し酒類の販売から不動産業まで手広く事業を拡大して成功した。酒類の販売においても多くの使用人に暖簾分けをしたので 市内の酒屋には「升本」屋号を名乗るものが多い。

 初代升本ますもと喜兵衛は文政5年(1822)8月25日に生まれ、酒問屋になりました。明治維新を迎えると場所を牛込揚場町に移り、升本を創立します。喜兵衛は明治3年(1870年)、町年寄となり、のちに三大区(のちの牛込区)の役職を歴任し、明治12年(1879年)、牛込区会議員に当選。土地事業を手懸け、旧旗本地を買占め、不動産業も着手したことで巨万の富を得ました。明治40年(1907)死亡。

 二代目の升本ますもと喜兵衛は嘉永(かえい)2年1月5日生まれ。升本の養子となり、酒問屋をつぎます。中央貯蓄銀行取締役、東京府会議員などをつとめました。労働者に草鞋(わらじ)を、困窮者には金をあたえ、その額は毎月数百円にのぼったといいます。大正3年12月22日死去。66歳。江戸出身。旧姓は松本。

升本喜兵衛。酒造りの様子

 明治45年、喜兵衛氏は牛込神楽坂で37筆という多くの土地を所有していました。ただし、神楽坂よりは若宮町、揚場町のほうが多くの土地をもっています。神楽坂1丁目が多いようです。

 1984年、揚場町に巨大な土地を持っていました。

1984年、住宅地図

 さらに四代目の喜兵衛は明治30年1月1日生まれ。弁護士。母校中央大の教授となり、昭和36年学長。のち総長、理事長をつとめます。43年学園紛争で退任。酒問屋升本総本店社長。弟に民社党委員長佐々木良作。昭和55年11月28日死去。83歳。

 飯田濠の再開発は昭和47年に登場します。四代目喜兵衛の三男は、升本達夫氏でした。当時は国の都市局長で、再開発の本締めでした。利権もからみ、あれこれの末、昭和59年、遊歩公園ができました。

升本総本店

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。再開発前の飯田堀。