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あぢさゐ供養頌

文学と神楽坂

 村松定孝氏の「あぢさゐ供養頌 わが泉鏡花」(新潮社、1988年)からです。これは泉鏡花氏は尾崎紅葉氏から叱咤を受けた明治36年の1年前の出来事で、これも叱咤の様子です。村松氏は寺木定芳氏から話を聞きました。

 それは明治三十五年の夏のことで、寺木定芳が牛込南榎町に鏡花を訪ね、入門してから二年ほどが経っていた。定芳は毎日のように学校の帰りには師の家に上りこんで、夕刻までの一と時を過すのだが、格別、小説を書いて見て貰うわけでもなかった。そんなかれを鏡花は気楽にあしらって、漫然と雑談の聞き役になってくれ、弟子のほうは、ただ師と対面し文字どおり謦咳に接していれば満足であった。先生が原稿執筆に余念ないときは、二階の書斎へ行くのを遠慮して、弟の斜汀(本名豊春、やはり作家志望だったので、紅葉が鏡花の舎弟なるを洒落れて、こういう雅号をさずけた)と将棋をさしたり、八十余歳の祖母きて、、の肩を揉んであげたりした。そんな風で三人暮しの泉家に一枚加わった家族同然の日が続いていた。さて、その年の暑いさかりだけ、逗子で一軒を借りて、当時一般に流行はやり出した避暑なるものをきめこもうという鏡花の計画に、一も二もなく定芳は賛同した。
 鏡花が逗子の地を選んだのは、紅葉に入門する前に、鎌倉のみだれ、、、妙長寺に下宿したこともあって、あの辺は思い出深いし、一夏を空気の佳い場所で、新鮮な野菜を喰べたりすれば、持病の慢性胃腸疾患も快癒するかもしれないという一縷の望みもあってのことだった。
 幸い七、八月は学校が休みだし、海にちかい涼しい場所で一夏を師匠と起居を倶にすることができるとなれば快適この上ない。避暑の一行は、七月のなかばを過ぎてから逗子へ乗り込むこととなった。これを耳にした神田の或る商店の娘さんで、服部てる、、子というのが、ぜひ自分も、参加さして下さい、台所のご用一切はひきうけますとの健気けなげ申し出があり、女手ができて好都合ということになった。彼女は不幸な二十四、五歳の出もどりだが、大の鏡花ファンで、ときどき泉家に出入りしていたから定芳も知らぬ仲ではなかった。合宿のメンバーは、鏡花と弟の斜汀、定芳ともう一人鼻下に泥鰌どじょうひげをはやした古くからの門下生の橋本花涙、これに、てる、、子の、同勢すぐって五人だった。お年寄りを連れだすのは却ってお気の毒だときて、、お婆さまだけはお留守居をおねがいした。
供養頌 くようしょう。供養は仏、菩薩、諸天などに香、華、燈明、飲食などの供物を真心から捧げること。死者への弔い。しょうは功徳をほめる。ほめことば。
寺木定芳 てらきていほう。泉鏡花の勧めで歯科医になり、渡米してアングルスクールで歯科矯正を学ぶ。雑誌「歯科評論」を発刊し、日本麻雀連盟を設立した。出生は1883年。没年は1972年。
謦咳に接する けいがいにせっする。尊敬する人の話を身近に聞く、お目にかかる。謦は「軽いせき」。咳は「重いせき」
みだれ橋 乱橋。鎌倉市材木座3-15-7付近。鎌倉へと攻め込んだ新田義貞と幕府軍が激しく攻防した。
妙長寺 鎌倉市材木座の日蓮宗の寺。
健気な 力の弱いものが勇ましく気丈な。
泥鰌髭 まばらな薄い口ひげ。
同勢 どうぜい。一緒に連れ立って行く人々。行動をともにする仲間。
すぐる 多くの中からすぐれたものを選び出す。えりぬく。

 ところで、そんな或る日、突如として紅葉山人の襲撃をうける恐怖のときがおとずれたのだった。
 その不意のアクシデントのあった当日は、おり悪しく、すゞ、、が来ていた。
 最初に山人の姿を見つけたのは斜汀であった。岡の上にあるこの家の縁先からは一望のもとに、遥か停留場まで延びている畔道の通路が見おろされる。その道をこちらに向って、鋭いまなこの紅葉先生がいそぎ足でやってくるのを咄嵯に確認した斜汀は、
「先生が、先生が……」
 八畳の間ですゞ、、とさしむかいで、お八ツ西瓜を喘り合う、しんねこぶりを発揮していたところへ、あわてて駈け込んでくると、兄の腕をつかんで、はげしくゆすぶった。
「なに‼ 本当か。ひと違いじゃないのか」
 いきなり、西瓜を投げ出した鏡花は、それでも未だ信じられない表情で、縁先に立って行ったが、一瞬、うっと息をのんだのは、もう麓のあたりまで、その人の近づいているのが、はっきり目に映じたからだった。
 一同、蒼白となって、まず、すゞ、、を家主の農家へ避難させ、彼女のものと勘づかれそうな品物を、あわてて押入にかくし、山人の御入来を待ちうけた。
 間取りは、さきにも記したように、八畳と玄関を上ってすぐの四畳半の二間きりだから、先生を奥にお通しして、鏡花は次の間のほうへひきさがって平伏し、花涙と定芳は、そのうしろに小さくちぢこまっていた。
 そのとき、紅葉の視線が、じろりと庭の物干竿に向うと、その眼は目ざとく、干してあったみず浅葱あさぎの腰巻を見つけ、いきなり、
「あれは誰のだ」
 鏡花は、(しまった)と、狼狽のあまり、肩をぶるぶるとふるわせながら、その場の気転で、
「は、はい、あれは手伝いに来ております服部のでございます」
 と、とりつくろったつもりが、
「服部のだと? おい、素人の女が紐のない腰巻をしめるか。あれが商売女のものだくらい、解らぬ俺だと思ってるのか。貴様、いつから師匠に嘘をつくことを覚えたんだ。俺は、てめえたちに嘘をつけと、いつ教えた。弟子の分際で、よくも師匠をコケにしやがったな。そこに居るのは、泉の身うちの者か。おめえらも、いい親分を持ったもんだな。今日かぎり、俺は泉とは縁を切るから、そう心得ろ」
 大喝一声どころか、百雷一時に落ちる凄まじさに、鏡花は、ただもう、おろおろと、平蜘蛛のように、畳に頭をこすりつけたまま。定芳たちも青くなって、とりつく島もない有様だったという。
 さながら大波乱の一場面だったに違いない。
すゞ 将来の鏡花の妻。桃太郎は芸者時代の名前。旧姓は伊藤。生年は明治14年9月28日、没年は昭和25年1月20日。享年は68歳。
停留場 路面電車の停留場。バスの停留所。鉄道では場内信号機・出発信号機を設けていない停車場。
畔道 あぜみち。田と田の間の細い道。
お八ツ おやつ。午後の間食のこと。八つ時(やつどき)で、現代の午後3時ごろに食べた
西瓜 スイカ
しんねこ 男女が差し向かいで、むつまじく語り合うこと
水浅葱 灰みの青緑系の色。 #7faba9 
大喝一声 だいかついっせい。大声で怒鳴りつけたり、叱りつけたりすること。
百雷 ひゃくらい。多くのかみなり。声や音の大きなこと。百連の雷。万雷。
平蜘蛛のように ひらぐも。ぺしゃんこになる。平身低頭する様子。

若宮神社(写真)昭和52年 田口重久氏

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の若宮神社(昭和52年、1977年8月27日)の写真を上げておきます。
 昭和44年の歴史博物館のID 8247-8248とよく似た画角ですが、いろいろ違いがあります。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」若宮神社入口遠景

 一枚目を新宿歴史博物館のID 8247と比較すると、交通標識「自転車及び歩行者専用」と下に「歩行者用通路」の表示。道路には「車両通行止め」のスタンド看板が立っています。この道は昭和44年は「軽自動車以外通行できません」(ID 8252)でした。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」若宮神社 鳥居と社殿遠景

 二枚目とID 8248を比較すると、木製の鳥居ができています。よく見ると一枚目にも見えます。この鳥居は長持ちしなかったと思われ、『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年3月発行)の写真(下図)では四角い土台だけになっています。

「牛込神楽坂若宮町小史」から

 また拝殿の裏側の丸紅(株)若宮寮は建て直し中で、これは地図によると1980年に丸紅若宮荘になりました。

若宮神社 住宅地図 1980年

 三枚目は新宿歴史博物館にはない写真です。昭和27年3月の新宿区の木札で「現在仮殿のままであり」とあります。『牛込神楽坂若宮町小史』には「昭和24年(1949年)に拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築」(13ページ)と「昭和25年(中略)に、社務所が建てられ、拝殿は昭和34年(1959年)6月に出来上がりました」(93ページ)と異なる記述があり、区の木札に従うなら後者の記録が正しいかも知れません。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」若宮神社案内板

 新宿区文化財資料
    若宮神社
 文治五年(1189)の秋に源頼朝が奥州藤原泰衡征伐の戦勝祝いに鎌倉の鶴岡八幡宮の若宮八幡を勧請して建てたものであるという。若宮とは仁徳天皇のことである。
 のちに太田道灌が文明年間(1469~86)に江戸城鎮護のため再興して社殿を江戸城に向くようにした。
 戦災を受けて現在仮殿のままであり境内は児童遊園地になっている。
  昭和27年3月           新宿区

神楽坂1丁目(写真)昭和6年 牛込橋 ID2

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 2は、昭和6年(1931年)頃、飯田橋駅西口付近より坂上方向を撮った写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 2 飯田橋駅付近より坂上方向

 街灯は中央やや左に一個あります。解像度が悪いので識別しにくいですが、「神楽坂通り 街灯の研究(戦前編)」とは違うもののようです。外堀通りの左側には「均一」という大きな文字と、その上に丸い屋号らしき看板があり、昔の「100円ショップ」である「10銭ストア」等でしょうか。右側でも大きな横文字の看板が見えます。
 牛込橋に向かって男性3人が同じ学生帽をかぶって歩いています。3人の他に多くの人も車道を歩いていて、歩道を歩く人は少数です。歩道には桜の木が何本も大きくなっています。歩道と車道を区切る縁石もあります。
 これは明治・大正名所 探訪記絵はがきの写真とよく似ています。特に外堀通りにある2店ではまず同じですが、ただ牛込橋の左側の桜の木は1本しか写っていないように見えます。絵はがきの方が時代が新しく、何らかの理由で失われたのかもしれません。

牛込神楽坂通

 早乙女勝元氏の『東京空襲写真集』を見ると左端の大きな木は葉が茂っていますが、神楽坂寄りの木は折れたようになっています。手前の木は戦後も生き残り、ID 55-56では太くなった特徴的な三股が確認できます。

 写真のキャプションでは……。なお、旧仮名づかいはすべて現代仮名づかいに代えています。

神楽坂 新宿が今日の繁昌をいたす以前は神楽坂は山の手の銀座として繁栄をうたわれたものである。しかし今日といえども早稲田という背景をもつがために決して衰微はしない。夜の神楽坂は露店と早稲田学生とそしてその中を彩る神楽坂芸者の艷しい姿でにぎやかだ。

 新宿歴史博物館によると、この本は仲摩照久編『日本地理風俗大系 第二巻 大東京篇』(新光社、昭和6年)だそうです。さっそく国立国会図書館からコピーをとってもらいました。

神楽坂と市ケ谷
 主要交通路は早稲田から飯田橋に至る路並に新宿から同じく飯田橋に行く線は、他の区でも同様であるが、都会の商業、事務の中心から放射状に出ているもので最も重要である。これに交わる電車の通されていない多少広い道路が次に重要な交通線である。尤も矢来町には途中まで電車が敷設された。それ等の中で殊に神楽坂附近はその最も盛な場所であって、関東大震災直後には大商店の分店がここに集って山の手銀座の名があったが、災害地の復興と新宿の繁栄などのために、一時程ではなくなった。
 この区は一般に住宅地で、大工場や大商店はあまりない。牛込区が東京市の一部分としての形態を備へ始めたのは極めて最近のことである。元禄の頃には現在の江戸川橋より西方は全く田であり、明治に入っても明治十七年参諜本部陸軍部測量局の測量の東京五千分一の地形図によって見ても、早稲田附近は全く田であり、当時の小日向新古川町附近までは今日の郊外のやうな人家の配列をなし、矢来町附近にも畑や竹藪が多かった。早稲田大学で人家が立並んだのは大正に入ってからのことである。
 その住宅地の間に陸軍関係の学校、その他が割合に広い面積を占めている。南部の市ヶ谷本村町には陸軍士官学校があり、河田町には陸軍経済学校戸山町陸軍幼年学校戸山学校近衛騎兵連隊がある。
 市ケ谷には市ケ谷刑務所があって、未決被告及び被疑者を収容している。
 病院の大きなものに済生会病院衛戌病院至誠病院などがある。
 市ケ谷八幡宮は士官学校の東隣にあって、文明年間太田道灌が築城の際に鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものである。台地上にあって眺望がよい。

主要交通路 2つだそうです、一つ目は飯田橋から早稲田に行く道路、2つ目は新宿に行く道路です。

大正8年 東京市電。東京都交通局「かが街 わが都電」平成3年、東京都交通局

電車が敷設 矢来町から新橋までの都電の線路は敷設されていた。

昭和15年 東京市電。東京都交通局「かが街 わが都電」平成3年、東京都交通局

関東大震災 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に起きた。
大商店の分店 今 和次郎編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)では「三越の分店、松屋の臨時賣場、銀座の村松時計店と資生堂の出店さてはカフエ・プランタン等々一夜に失はれた下町の繁華が一手に押し寄せた観があった」。なお、松屋といっても銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。
江戸川橋 飯田橋付近から関口大洗堰までの神田川はかつては「江戸川」でした。 この江戸川にかかった、東京都文京区関口一丁目を渡る橋は「江戸川橋」と呼びました。
明治十七年参諜本部陸軍部測量局 参諜本部の業務は「機務密謀に参画し地図政誌を編輯し並に間諜通報等の事を掌る」です(明治4年、兵部省陸軍部内条例)。
全く田であり 明治17年の参諜本部陸軍部測量局では小日向西古川町から早稲田大学までは本当に田んぼでした。

明治17年参諜本部陸軍部測量局

小日向新古川町 小日向区東古川町と西古川町。現在の文京区関口1丁目の東の半分。

東京都文京区教育委員会編「ぶんきょうの町名由来」文京区教育委員会。1981年

矢来町附近 やはり矢来町附近は田んぼや畑が多かったといいます。

明治17年参諜本部陸軍部測量局 矢来町

陸軍士官学校 旧日本陸軍の現役将校養成学校。明治7年(1874)東京市ケ谷に設置。
陸軍経済学校 陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育や経理官への上級教育を行った。現在は東京女子医科大学の一部。
陸軍幼年学校 陸軍将校志願の少年に士官学校の予備的教育を施した学校。東京陸軍地方幼年学校の生徒数は約50名で、13歳から16歳で入校し3年間の教育が行われた

昭和5年。牛込区全図。新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年。335頁

戸山学校 陸軍戸山学校。旧日本陸軍で、学生に体操、剣術、喇叭らっぱ譜などの訓練を施した学校。
近衛騎兵連隊 宮城の守護や儀仗ぎじょうを任務とした旧日本陸軍の師団のうち、主に騎兵の連隊。現在は学習院女子大学、戸塚第一中学校、戸山高校など
市ケ谷刑務所 刑務所で、大正11年から昭和12年まで東京市牛込区市谷富久町にあった
済生会病院 戸山3丁目にあり、牛込恩賜財団済生会病院(済生会病院麹町分院が改称)が移転した病院。
衛戌病院 えいじゅびょういん。旧日本陸軍の衛戍地(軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域)に設置された病院。陸軍病院の旧称。陸軍本病院は陸軍省の管轄であり、昭和4年(1929年)3月 新宿区戸山町(現在地)に移転。その後、国立東京第一病院から現在は国立国際医療研究センターに。
至誠病院 東京女医学校(現在の東京女子医科大学)の学長、吉岡弥生氏は関東大震災の後に下宮比町の至誠病院を入手し、繁栄したが、昭和20年4月、空襲で全焼した。今は東京厚生年金病院から東京新宿メディカルセンターとして発展中。
市ケ谷八幡宮 正しくは市谷亀岡八幡宮。新宿区市谷八幡町にある神社。鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったもの。「鶴岡」に対して「亀岡」八幡宮としている。
太田道灌 おおたどうかん。室町時代後期の武将。1432~1486。江戸城を築城した。