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青木堂と木全信次郎氏

文学と神楽坂


 地元の方が主に青木堂と経営者の木全信次郎氏について書いてくれました。

 明治から大正期に通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった食料品商・青木堂の歴史を、経営者である木全信次郎氏とともに追っていきます。
 まず木全氏のプロファイルから。

木全信次郎 靑木堂、洋酒食料品商 東京府平民
 君は東京府平民木全善三郎の長男にして明治二年四月二十二日を以て生れ同十三年六月家督を相続す 洋酒食料品商を營み屋号を靑木堂と稱し直接國税五百八十餘圓を納む【家族は省略】【東京、牛込、通寺町五一 電話番町二七五】
『人事興信録』第3版(人事興信所、明44.4)

 青木堂の開業年は分かりません。ただ明治30-31年と続けて、高額納税者を掲載する日本紳士録(交詢社)に木全氏の名が出ます。この時の住所は通寺町25番地で、ここに青木堂があったと想像されます。
 明治33年ごろ、旧店舗向かい側の通寺町51番地の新店舗に移転し、商売を大きくしました。電話は番町電話局(番)275番を自前で備えました。電話を持つことがステータスだった時代です。
 紳士録に「青木堂」の名と電話が掲載されるのは明治35年です。納税額も増えました。
 データには欠落も多いのですが、以後の木全氏の納税額をグラフ化しました。明治41年からは営業税(現在の事業税)も大きな額です。青木堂は木全氏の個人事業なので、業績が伸びれば納税額も増えます。変動はあるものの、明治末期から大正初期にかけては事業が成功していたようです。

木全氏の納税額の推移

 この時期、木全氏の社会的地位を示す史料が選挙人名簿です。当時は制限選挙で、投票権のある高額納税者が尊敬されました。通寺町の名簿には選挙人として72人の氏名と職業、納税額が記載されています。51番地で「雑貨」を商う木全氏は371円21銭と、町のトップでした。令和初期の貨幣価値だと2,000万円くらいでしょうか 1)。ただ他の町には、もっと高額の納税者がいました。

東京市衆議院議員選挙人名簿(明治45年2月)財務協会

 状況が変わるのは大正5年。木全氏は青木堂を経営したまま「米山サイダ株式会社取締役」に就任しました。事業拡大を狙ったのか、別の目的があったのかは分かりません。大正9年には米山サイダー取締役と青木堂を兼務したまま、過去最高額の納税をしています。

①初掲載 通寺町25(明30) ②「青木堂」電話(▲)取得 通寺町51(明35) ③納税額急上昇(明41) ④順調だった頃(大1) ⑤米山サイダ取締役に(大5)⑥過去最多納税(大9) ⑦納税額大幅減 通寺町57 電話なくなる(大10) ⑧食料品商廃業 米山サイダー社長に 最後の掲載(大11)

 大正10年、状況が激変します。紳士録では莨(タバコ)食料品商は変わらないものの「青木堂」の屋号が消えます。所在地が通寺町57なのは誤植かも知れません。しかし納税額は10分の1に激減し、事業税も電話もなくなりました。事業継続が困難になったと想像されます。
 翌大正11年の紳士録では店が記載されなくなり、木全氏は米山サイダーの社長になっています。店舗ではないので営業税はありません。そして、これが木全氏が紳士録に掲載された最後になりました。
 青木堂の土地所有者を調べると、借店だったことが分かります。富裕だった頃の木全氏が自前の店にしていたら、危機への対処も違う結果になったかも知れません。
 また、大正12年は関東大震災の年としても有名です。青木堂の被害は、あっても、どれぐらいの規模になるのか不明です。すでに閉店になっていた可能性もあります。一般的にいえば、牛込区の被害はほとんどありませんでした。

      ◇

 木全氏が社長になった米山サイダー(株)は清涼飲料水のメーカーで、麹町区飯田町(現・千代田区飯田橋)4丁目1番地に本社がありました。大正13年版の東京市商工名鑑では代表者は「中村喜作」とあり、木全氏が社長だった期間は短かったと推察されます。
 青木堂の跡はどうなったのでしょうか。電話帳や紳士録には通寺町51番地に「小川食品・小川倉吉」の名があります。電話は青木堂とは別の番号です。

 
図・青木堂から小川商店へ。①東京特選電話名簿. 上巻(大正11)青木堂 ②職業別電話名簿. 東京・横浜(大正12)小川商店 ③人事興信録 第8版(昭和3年)小川倉吉

 紳士録や人事興信録によれば、小川倉吉氏は先代と当代の2人がいました。神田で食料品商を営む一方、菓子メーカーの取締役を兼ねていました。同業の青木堂を買収するなどして引き継いだのでしょう。昭和3年の時点では通寺町51に店があったことが分かります。小川氏は昭和16年に菓子メーカー監査役となり、居宅は杉並区に変わりました。戦時下で事業を閉じたように思われます。

      ◇

 青木堂があったのは、遅くとも大正11年(1922年)。廃業から1世紀が経ちました。しかし実は、今も法的には存在しています。法務局の登記情報を「青木堂」で検索すると、次の2つが出てきます。

青木堂 商号登記

青木堂 法人登記

 前者は商標権のみ、後者は会社法に基づく法人で、いずれも有効な登記です。類似商号を認めた最近の法改正まで、新宿区内で「青木堂」という同業の店や会社は設立できませんでした。木全氏が法人を設立したのは、通寺町の青木堂が消滅する2年ほど前。本店所在地も通寺町ではありません。迫り来る経営難を予期し、再起を図る準備をしていたのでしょうか。
 株式会社は一定の期間、登記に変更がないと行政権限で強制解散させられます。合資会社には、その制度がありません。木全氏の青木堂は今後も、ひそかに存続するでしょう。

I) 政府予算の税収を見ると、現在は約12万倍です。
・大正元年度 5億円   ・令和元年度 61兆円(国債含まず)
一方、大正期の物価を見ると、現在は1万倍程度と思われます。
コーヒーやドーナツ5銭   ・アイスクリーム8銭
両者の間を取って6万倍で推定しました。

青木堂(昔)超有名店 神楽坂6丁目

文学と神楽坂


 地元の方が主に青木堂について書いてくれました。

 青木堂は明治中期から大正にかけて、通寺町(現・神楽坂6丁目)にあった食料品商です。酒や洋菓子、タバコ、西洋雑貨を手広く扱いました。当時の表記はすべて旧字の「靑木堂」です。
 所在地は通寺町24番地から51番地。経営者は木全信次郎氏でした。

青木堂 日本之名勝(明治34年)

 写真は漆喰塗りの蔵造りを思わせる重厚な店でした。左の荷車は「牛込區通寺町/西洋酒/食料品」と読めます。は商標で、店の看板の左右にも描かれています。店内にはガラス瓶や缶詰らしきものが数多く見えます。

     ◇

「日本之名勝」は史伝編纂所の発行による明治時代の写真入り観光案内です。明治34年(1901)発行の第三版「地の部」に青木堂の紹介があります。なお、句読点は補ってあります。

  靑木堂食料品店(
 東京牛込通寺町に在り。和洋煙草、洋酒、罐詰の類いを鬻ぐ。店内甚だ広壮ならずと雖も其繁栄の一事に至つては實に區内第一なり(中略)
 他店に比して多きは二割少も一割の低價なるより客足自から同店に向ふ(中略)
 初め其對側に蕞爾たる小店を開きしより一二年にして其兩隣を併せ有し今は更に其前面に店舗を移して數倍大の擴張をなし終に宮内、陸軍、兩省の用達を務むる(以下略)

日本之名勝(1901)374コマ ⇒

 これから分かることは…
・良品を他店より1-2割安く売って繁盛した
・最初は小さな店を出し、短期間で両隣に広げた
・さらに向かい側に大きな店を開いて移転した
・宮内省と陸軍省を得意先にしていた
 経営者の木全信次郎氏が、高額納税者を掲載する紳士録に初めて掲載された明治30年①は「通寺町25」でした。明治32年②も同じでした。明治35年②「日本之名勝」に掲載されたのは拡張・移転した直後と思われます。

(左)日本紳士録 第4版(明30)交詢社 (中央)大日本商工名鑑(明32)商業興信所(右)日本紳士録 第8版(明治35年)交詢社

 大正時代、販売は順調に進んでいます。

(左)東京区分職業土地便覧 牛込区之部(大正4年)(右)帝国飲食料同業名鑑(大正5年)

 なお、大正5年の「東京ガイド」(写真通信会)は、おそらく広告を兼ねていて、青木堂は「和洋酒」「化粧品雑貨」等の2業種でエントリーしたと思われます。現代のNTTの職業別電話帳(タウンページ)では、費用を払えば複数業種での掲載や、別途の広告掲載ができます。

東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

      ◇

 大正時代の東京・大阪・京都の観光案内「三府及近郊名所名物案内」の上巻にも記事があります。同書は大正7年が初版で、何度か重版されました。なお、句読点を付け、ルビを省略しています。

三府及近郊名所名物案内(大正7年)54コマ

食料品と靑木堂商店 

 西洋酒、食料品、和洋煙草、雑品の販賣舗として多大の信用を博し山の手随一の評判となつてゐる。(中略)
 何れも確實な物品を選び安價を主眼として販賣してゐる。従って店頭は常に顧客雲集して大盛況を呈してゐる。(中略)
 御進物品は美麗で且體裁を飾り切手も調進し、市内各方面からも電話又は郵便はがきで注文すれば早速配達する(中略)
 宮内省の御用達として用命を蒙つている……

 内容はほぼ同じですが
・電話や郵便で贈答品として発送する
ことが加わっています。読者の注文を期待したのでしょう。

      ◇

 観光案内も宣伝の色彩が濃く、広告費を払って記事を掲載する「ペイド・パブ(記事風広告)」だった可能性が高いでしょう。「宮内省御用達」を前面に出すなど商売上手だったことがうかがえます。

生|田山花袋

田山花袋

文学と神楽坂

「生」は明治41年(1908年)田山花袋氏が読売新聞に連載した自伝三部作のうちの第一部です。明治時代に母の介護と死が起こり、家族が再生していく経過が書かれています。さらに妻を描く『妻』、自分を描く『縁』が出版されました。「生」では神楽坂6丁目がでています。

 丁度其頃此家の主人は神樂坂の通を歩いて居た。紺羅紗の薄い夏の脊廣の三四年も着古したのを着て、パナマ帽の黄くなつたのを冠つて、紫の唐縮緬の風呂敷包を小脇に抱へて居る。風呂敷包の中には今夜校合しようと思ふ歴史編纂の書籍が入れられてあつた。俄に暑くなつた路に、シヤツもズボン下もびつしより汗になつて歩を運ぶのも大儀らしく、汚れた手巾を隠袋から出しては、帽子を取つてをりをり額の汗を拭いた。街には織るやうに通つて、書生が行く、女學生が行く、商人が行く、番臺擔つた魚賣が行く。氷屋の硝子の暖簾がきら/\と日に光る。角の交番には白い服を着た巡査が疲れ切つたといふ風をして立つて居た。
 の精神も全く憊れ果て倦み果てゝ居た。役所の仕事も、嘱託された歴史編纂も厭で厭で為方が無い。新しく貰った細君に對しても別に樂しいといふ感も起らない。馴染の女を鳥度念頭に浮べて見ても、それも何の反映をも起さすにすぐ消えて了ふ。不圖懐の財布に金が五十錢あることを思出した。丁度其前が靑木堂、果物や魚肉類の缶詰が山のやうに積まれてあるのが眼に入ったので、母親を喜ばせようと思つて、づか/”\と入つて行つての罐詰を一箇買った。
紺羅紗 こんらしゃ。紺色(#223a70)の羅紗らしゃ。羅紗とは紡毛を密に織って起毛させた厚地の毛織物。
脊廣 脊広。せびろ。背広。主として男性用の上着。
パナマ帽 パナマ草の若葉を細く裂いて編んだひもで作った夏帽子。

唐縮緬 とうちりめん。薄く柔らかい毛織物。メリンス。モスリン。
校合 きょうごう。2種以上の写本や刊本などを比べ合わせて、本文の異同を確かめたり誤りを正したりすること。
隠袋 かくし。ポケット
 人力車のこと。
織る  おる。はたで縦糸と横糸を組み合わせて布地を作る。わらなど細いものを組み合わせてむしろ、ござなどを作る。いろいろなものを組み合わせて作り上げる。
番臺 番台。ばんだい。銭湯などで、入り口に設けられた、入浴料を受け取ったり見張りをしたりするための高い台。ここでは背負うカゴのこと
擔つた  担ぐ。かつぐ。になう。
暖簾 のれん。商家で屋号・店名などをしるし、軒先や店の出入り口にかけておく布。
 「かれ」。三人称の人代名詞
鳥度 ちょっと。一寸。些少
青木堂 新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」(64頁)では「洋酒の青木堂」「洋酒と煙草の青木堂」と2店がありました。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)では通寺町(現在は神楽坂)51番地で、朝日坂から北西に3番目の地域でした。現在、51番地はありません。

地籍台帳・地籍地図 東京

 ほ。商品を並べて売る所。店。
 あんず。果樹の名。アンズ。アプリコット。

文壇昔ばなし②|谷崎潤一郎

文学と神楽坂


             ○
紅葉の死んだ明治卅六年には、春に五代目菊五郎が死に、秋に九代目團十郎が死んでゐる。文壇で「紅露」が併稱された如く、梨園では「團菊」と云はれてゐたが.この方は舞臺の人であるから、幸ひにして私はこの二巨人の顏や聲音(こわね)を覺えてゐる。が、文壇の方では、僅かな年代の相違のために、會ひ損つてゐる人が随分多い。硯友社花やかなりし頃の作家では、巖谷小波山人にたつた一囘、大正時代に有樂座自由劇場の第何囘目かの試演の時に、小山内薰に紹介してもらつて、廊下で立ち話をしたことがあつた。山人は初對面の挨拶の後で、「君はもつと背の高い人かと思つた」と云つたが、並んでみると私よりは山人の方がずつと高かつた。「少年世界」の愛讀者であつた私は、小波山人と共に江見水蔭が好きであつたが、この人には遂に會ふ機會を逸した。小波山人が死ぬ時、「江見、己は先に行くよ」と云つたと云ふ話を聞いてゐるから、當時水蔭はまだ生きてゐた筈なので、會つて置けばよかつたと未だにさう思ふ。小栗風葉にもたつた一遍、中央公論社がまだ本郷西片町麻田氏のの二階にあつた時分、瀧田樗陰(ちよいん)に引き合はされてほんの二三十分談話を交した。露伴藤村鏡花秋聲等、昭和時代まで生存してゐた諸作家は別として、僅かに一二囘の面識があつた人々は、この外に鷗外魯庵天外泡鳴靑果武郎くらゐなものである。漱石一高の英語を敎へてゐた時分、英法科に籍を置いてゐた私は廊下や校庭で行き逢ふたびにお時儀をした覺えがあるが、漱石は私の級を受け持つてくれなかつたので、残念ながら聲咳に接する折がなかつた。私が帝大生であつた時分、電車は本鄕三丁目の角、「かねやす」の所までしか行かなかつたので、漱石はあすこからいつも人力車に乗つてゐたが、リュウとした(つゐ)大嶋の和服で、靑木堂の前で俥を止めて葉巻などを買つてゐた姿が、今も私の眼底にある。まだ漱石が朝日新聞に入社する前のことで、大學の先生にしては贅澤なものだと、よくさう思ひ/\した。

菊五郎 尾上(おのえ)菊五郎。明治時代の歌舞伎役者。市村座の座元。生年は1844年7月18日(天保15年6月4日)。没年は1903年(明治36年)2月18日。享年は満58歳。
團十郎 市川団十郞(だんじゅうろう)。明治時代の歌舞伎役者。屋号は成田屋。生年は1838年11月29日(天保9年10月13日)。没年は1903年(明治36年)9月13日。享年は満64歳。
紅露 コウロ。紅露時代。明治20年代の近代文学史上の一時期で、尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった。
梨園 俳優、特に、歌舞伎役者の世界。唐の玄宗皇帝が梨の木のある庭園で、みずから音楽・舞踊を教えたという「唐書」礼楽志の故事から。
團菊 普通は三人で、団菊左。だんぎくさ。明治を代表する歌舞伎俳優、九世市川団十郎・五世尾上菊五郎・初世市川左団次のこと
声音 声の調子。こわいろ。
有楽座 日本最初の全席椅子席の西洋式劇場。現在は有楽町のイトシアプラザ(ITOCiA)が建つ。1908年(明治41年)12月1日に開場。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で焼亡。
自由劇場 小山内薫と市川左團次(2代目)が明治時代に起こした新劇運動。「無形劇場」で劇場や専属の俳優を持たない。
試演 試験的に上演や演奏すること。
少年世界 少年読者を対象とした雑誌。博文館発行。1895年1月創刊、1933年10月終刊。
中央公論社 雑誌『中央公論』を中心とする総合出版社。1886年に創立された西本願寺の修養団体「反省会」がその前身。1912年西本願寺から離れ、14年中央公論社と改称。坪内逍遙訳「新修シェークスピヤ全集」 (1933) 、谷崎潤一郎訳『源氏物語』 (39~41) などを出版。
西片(にしかた) 東京都文京区の町名。右上図は現在の西片町。このほぼ90%が昔の駒込西片町。これに駒込東片町・田町・丸山福山町・森川町・柳町の1部が合併し、成立したもの。
 旧麻田駒之助邸は残っています。図を。
一高  昭和10(1935)年までは本郷向ヶ岡弥生町(現・東京大学農学部敷地)にありました。
聲咳に接する 正しいのは謦咳(けいがい)。尊敬する人に直接話を聞く。お目にかかる。
かねやす 東京都文京区本郷三丁目にある雑貨店。「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳で有名。
 つい。素材や模様・形などを同じに作って、そろえること。
大島 大島紬。おおしまつむぎ。鹿児島県奄美大島特産の伝統工芸品、紬織物の一種。高級着物地。
青木堂 文京区本郷5丁目24にありました。1階が小売店で洋酒、煙草、食料品を販売、2階は喫茶店。青木堂はここが本店。なお、牛込区通寺町(現、神楽坂六丁目)の青木堂とは関係はないといいます。

神楽坂今昔(1)|正宗白鳥

文学と神楽坂

 正宗白鳥正宗白鳥氏は小説家・劇作家・評論家。生年は明治12年(1879年)3月3日。没年は昭和37年(1962年)10月28日。「塵埃」で文壇に登場。「何処へ」「微光」「泥人形」を書き自然主義文学の代表的作家になりました。
 昭和27(1952)年、72歳の時に「神楽坂今昔」を書いています。

 ふとした縁で江戸川べりのアパートの一室を滞京中の住居と極めるやうになつてから、昔馴染みの神樂坂に久し振りに親むやうになつた。朝晩の散歩として、筑土の方からか飯田橋の方からか、坂を上り下りして、表通裏通を、あてもなくたゞ歩きながら見てゐると、人通りが疎らで、商店喫茶店なども賑つてゐないらしい感じがするのである。をりをりの上京に、何處へ行つても人口過剰の日本の眞相を見せつけられてゐるやうなのに、昔は山の手第一の盛り場であった神樂坂がこんなにひつそりしてゐるのは不思議である。昔榮えて今さびれた町は趣味深きものである。榮華にほこつた人の落魄した姿を見るのも興味がある。どちらにも文學的味ひがあると云へる。詩が感ぜられるのである。それで、この頃の神樂坂散歩も、一度から二度と、たび重なるにつれて、馴染みの深かつた過去の記憶がこんこんと湧き出て、現在の寂寥たる光景を、詩味豐かにさせるのである。
 坂の大通を、大勢の人が歩いてゐないから町が衰微してゐるといふのは輕率な判斷だ。兩側の商家は一通り復興して、店先は小綺麗になつてゐる。左右の裏通には、昔を今に待合茶屋が居を占めてゐるが、薄汚なかつた昔のそれ等とちがつて、瀟洒たる趣を見せてゐる。入口に骨董品見たいな手水鉢を置いて、秋草がそれを色取つたりしてゐるなんか、下宿屋然たる昔の神樂坂待合情調ではないのである。昔よりも待合の家数は多いやうだが、まだところ/”\に新築までもしかけてゐる。
 それ故、大通の人の往來が乏しかつたり、果物屋菓子屋荒物屋などの店先が賑つてゐないのを見て、土地の盛衰の判斷は出來ないので、案外この地の待合商賣なんかは繁昌してゐるのかも知れない。
 さういふ風に心得てゐながら、私は、夕方になつても、昔はぞろぞろと出盛つてゐた散歩客なんかの全くなささうなひつそり閑としてゐるのを、人間社會の榮枯盛衰の一例ででもあるやうに見倣して、空想の餌食とするのである。
江戸川 神田川の中流域。都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
滞京中の住居 この時期、氏の本宅は長野県軽井沢町でした。
筑土 神楽坂に筑土(津久戸、つくど)から来るというのは、神楽坂坂上から来る場合です。
飯田橋 1881(明治14)年にできた橋で、飯田橋は牛込区下宮比町と麹町区飯田町とを結ぶ橋でした。また目白通りと外堀通りの交差点は「飯田橋交差点」と呼んでいます。飯田橋を起点にすると神楽坂の坂下から坂上に行く場合です。
賑っていない 第二次世界大戦の直後に神楽坂は全く繁昌していませんでした。
昔は山の手第一の盛り場 昭和初期には流行っていました。
落魄 らくはく。らくばく。衰えて惨めになる。落ちぶれること。零落
寂寥 せきりょう。心が満ち足りず、もの寂しいこと。
昔を今に 昔を今に戻すような。
瀟洒 しょうしゃ。すっきりとあか抜けしている。
手水鉢 手水を入れておく鉢。参拝前の身を清めるために寺社の境内に置きました。
手水鉢
 五十餘年前、二月の下旬の或る晩、不眠の疲勞でぼんやり新橋を下りた私は、未知の同縣人の學生に迎へられて、目鏡橋まで鐵道馬車に乘り、其處から歩いて、牛込見附を通つて、神樂坂を上つて、横寺町下宿屋に辿りついた。朧ろ月に照らされた見附あたりの眺めは、江戸の名残りを繪の如く見てゐるやうであつた。坂の上に有つた盛文堂といふ雑誌店で、新刊の「國民之友」を買つたことも、今なほありありと記憶してゐる。 兔に角東京では、私は最初牛込區の住民となり、牛込の場末の學校に通つてゐたので、第二の故郷か第三の故郷か、故郷といふ言葉の持つてゐる感じを、神樂坂あたりを見るにつけ感ぜられるのである。五十年の昔は歴史的存在のやうで、私は今神樂坂についての遠い昔の歴史のページをひもといてゐるやうな氣持になつてゐる。
五十余年前 初めて早稲田に入学したのは明治29(1896)年です。この随筆が発表されたのは昭和27(1952)年です。したがって、56年の違いがあります。
目鏡橋 実際にここでは万世橋を指します。神田須田町一丁目にある駅を降り、歩いて神楽坂に行きました。なお、目鏡橋は橋の1種で、本来は石造2連アーチ橋を指し、橋自体と水面に映る橋とが合わさって眼鏡のように見えるためです。この時点では東京駅はまだなく、中央線もありませんでした。
鉄道馬車 鉄道上を走る乗り合い馬車。1882年(明治15年)に「東京馬車鉄道」が最初の馬車鉄道として走り始めました。しかし、馬には糞尿をだすことが問題で、電車の運行がはじまると、多くの馬車鉄道はなくなっていきます。東京馬車鉄道も1903年(明治36年)に電化。東京電車鉄道となりました。

目鏡橋鉄道馬車停車場

目鏡橋鉄道馬車停車場

牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。
横寺町 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。
下宿屋 何番地がわかればいいのですが、残念ながらこれ以上はわかりません。
朧ろ 現在は「朧」で「おぼろ」と読みます。ぼんやりとかすんでいること。はっきりしないさま。
国民之友 評論雑誌。徳富蘇峰の民友社が1887年(明治20)創刊しました。
学校 東京専門学校(現早稲田大学)です

 横寺町の私の下宿屋と目と鼻の間に紅葉山人が住んでゐた。誰に教へられたのでもなく、私は通り掛りに、尾崎德太郎といふ表札を見て知つたのだが、お粗末な家だなと、意外な感じに打たれただけであつた。紅葉の門下を牛門のなにがしと呼ぶ者もあつて、当時第一の流行作家であつた彼は、牛門の首領として仰がれてゐたのであらう。早稲田も牛込區内に屬してゐても、端つこにあつたので、私は、都會から田舎へ通學してゐるやうな氣持であつた。生れ故郷の地は溫かいためでもあつたが、私は體軀の鍛練を志して寒中足袋を穿かなかつたので、上京後もその習慣を守つてゐた。それで初春三月はじめの雪降る日にも裸足で學校通ひした。足はヒビが切れて、雪の染む痛さを覺えた。その頃の學校の教室には防寒設備はなかつたので、私などは身體を縮めて懷ろ手して講義を聽いてゐたのであつた。自分では無頓着であつたが、馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病状を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勧めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫師よりも信頼されさうな風貌を具へ、診察振りも威厳はあつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に(さかな)をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門です。
生れ故郷 正宗白鳥の出生地は岡山県でした。
曲り角 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち今昔史』によれば、横寺町53番地でした。
文明振り 仕方・あり方。「枝ぶり」「勉強ぶり」。これが「歩きっぷり」「男っぷり」「飲みっぷり」のように「っぷり」となることも
 浅田宗伯老の藥はあまり利かなかったやうだが、「米の飯に魚をくらへ。」と云った田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。下宿屋の飯は、米は米でも、子供の時から食べ馴れた米の飯ではなかつた。下宿屋の魚は、子供の時から、食べ馴れたうまい魚ではなかつた。自分の村の沖で捕れた清鮮な魚介。自家所有の田地で實つた滋味ゆたかな米殻。私は、下宿の食膳を前にして、「これではおれの身體は、學問に堪へられないかも知れないな。」と悲觀することもあつた。だが、一歩外へ出ると、神樂坂を中心としたあちらこちらの商店には、見るからうまさうな物、食慾をそゝられる物が、これ見よがしに並べられてあつた。寺町の表通の青木堂の西洋食料品は私などの伺ひ知らない贅澤至極の飮料品であり食品であると思はれた。坂際の四つ辻の一角に屹立してゐるのは、「いろは」と云ふ牛肉屋であり、坂へかゝると、左に日本菓子屋の「べに屋」があり、右に「都ずし」あり、それからパン屋の木村屋があり、うどん屋の「春月」があつた。どれもみなうまさうだ。都會は誘惑に富んでゐたが、學資は一ヶ月に八圓か十圓に極められてゐたのだから、歩行の途上に見られる誘惑物のどれへも手は出せなかつた。さういふ覺悟をして、神樂坂といふ、生れてはじめて接觸した人世の大都會を、毎日のやうに見ながら、たゞ見るだけにしてゐたつもりであつたが、いつとなしに、自分の机の中に、木村屋の餡パンとか、(べに)()の大福餅とか、何とか屋の蓬萊豆、花林糖のたぐひが入つてゐることがあつた。蓬萊豆や花林糖をかじりながら、英語の教科書をぼりぼり讀みかじつて行くことに、云ひやうのない興味を感じてゐた。
 あの頃――日清戰爭直後――の神樂坂は、山の手第一の繁華街であつた。晩食後の散歩にも最も適した町であつた。寅の日の、毘沙門樣の緣日には、露店の植木屋の並ぶのが呼びものとなつてゐて、それを目當ての散歩は、お手軽な風流であつた。私など、この神樂坂地區の住民になつても、年少の身の、さういふ風流にはちつとも心を寄せられなかつたし、散歩のための散歩はあまりしなかつた。だけど、この緣日の夜の賑ひ、さま/”\な東京人が面白さうに歩いてゐる光景は、自分が幼少時代に幾年も、小説や新聞雜誌の記事でまぼろしに描いてゐたものよりも、陽氣で華やかで、都會人といふほこりを持つてゐる人々の群集であるやうに、私の目には映つてゐた。
滋味 じみ。栄養豊富でおいしい食べ物
青木堂 新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では「洋酒の青木堂」「洋酒と煙草の青木堂」と出ています。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)では通寺町(現在は神楽坂)51番地で、朝日坂から北西に3番目の地域でした。現在、51番地はありません。青木堂(昔)超有名店 神楽坂6丁目を参照。

地籍台帳・地籍地図 東京

屹立 きつりつ。堂々とそそり立つこと。
都ずし 同じく「都ずし」もここで出てきます。しかし、昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」ではもうありません。つまり、「都ずし」は関東大震災前になくなっていました。都ずしから玩具店、昭和27年のパチンコ店、最後におそらく「くすりセイジョー」に変わりました。なお、屋台の都寿司もあったようです。
木村屋 残念ながら絵ではもっと左の方向、神楽坂が下がるはじめにあります。詳細は木村屋
春月 春月も以下の図に書いてあります。詳細は春月で。神楽坂4~6丁目
餡パン あんパン。あずきあんを詰めた菓子パン。本店の木村屋創業者達が考案し、1874(明治7)年に銀座の店で売り出したところ大好評でした。
蓬萊豆 ほうらいまめ。源氏げんじまめ。小麦粉と砂糖で作った衣を煎った落花生の周りにまぶした豆菓子です。源平豆とも。蓬莱豆

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