田原屋[昔]|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。場所はここです。2002年2月に閉店。

昔の田原屋、田原屋跡田原屋ロゴ

 夏目漱石菊池寛佐藤春夫永井荷風らが通いました。メニューにはなんとも懐かしい「田原屋」のレタリング。

 田原屋は最初はおいしかったと思います。しかし後半はこのメニューのように、新しいものも新鮮なものもなく、あるのは旧弊だけとなり、うーん、どうもなあ、でした。

 新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)の注として

毘沙門の隣の静岡という魚やが、土地付で家を売りたいというので4000円で30坪、家付で買って、これで今の田原屋のめばえとなったのです。開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には、 観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門、六代目、先々代歌右ヱ門、松永和風、水谷八重子サトー・ハチロー、加藤ムラオ、永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生は京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅田清吉氏の“手紙”から)

 加藤ムラオという名前はないので、野口冨士男氏は註として「加藤武雄と中村武羅夫?」と書いています(『私のなかの東京』 文藝春秋)。2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。

夏目純一氏は『父の横顔』でこう書いています。父は夏目漱石です。

やはり、小学一、二年の頃だったと思う。父は私達をつれてよく散歩に行った。当時新宿はまだ今のように発展してはいなかったが、神楽坂はとてもにぎやかで、夏の夜なぞ、夕方から団扇(うちわ)をもった浴衣がけの人達が、夜店をひやかしたり、往来の金魚屋をのぞいたりして仲々風情があったものだ。そんな通りをぶらつきながら、毘沙門さまのあたりまで来ると田原屋という料理屋があった。表は果実屋だが中に入ると洋食を食べられるようになっていて、それが仲々美昧かった。父は私達をよく、この田原屋へつれて行ってくれたのだが、前にすわっていて、いちいち、がちゃがちゃ音を立ててはいかん、他所(よそ)見をしないで前を向いて食べろとか、口にほうばってべちゃべちゃ喋るなと、そのやかましい事といったら、何々するな、何しちゃいかんの連続で、せっかくの御馳走もさっぱり食べたような気がしなかった。後で考えるといちいちもっともな事ばかりなのだが、その時はおいしい物もいいが、こういちいち何か言われたんでは、田原屋も願いさげにしたいなと思った。父は父で、せっかく連れて行ってやった小供達が自分の顔色を見たり、何か自分を敬遠したりする私達を感じて、淋しい気がした時もあったろうと思う。

現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。ふぐ

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