うを匠 鱻

文学と神楽坂

 現在、神楽坂5丁目3番地という地籍はありません。3番地に当たる地域はおそらく「うを匠 鱻」(現、1番地2)でした。なお、4番地は昭和12年でもなく、5番地は相馬屋でした。漢字の魚が3つ並んだ鱻は「せん」と読みます。うを匠の場所はここ。 うを匠は女性客で一杯。行った時は9割が女性でした。ちょっと上品で、ちょっと安くて美味しい。
 下に神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」を一部を掲げます。なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務です。
相川さん そのが「東京貯蔵銀行」がありまして、そこの行員さんが出人りするところが三尺ほど空いていましたよ。東京貯蔵銀行の社長は原クニゾウさんという方でしたよ。
馬場さん それが「東洋電動」になる。
相川さん 原クニゾウさんは茅場町の「田中貴金属」の社長さんとお友達で、親友には売ってくれるんだってことで田中さんに売ったんですよ。終戦後、長いこと空いていましたね。金融でなければいいだろうってことで、三井系の東洋電動っていうのがね。これは洋食屋さんのストーブやなんかをこしらえる、なんていうんですか、あれは?
馬場さん オーブン。
相川さん 東洋電動はそういったものをこしらえる会社なんです。あそこは本社機能で、事務を執っていたわけです。そこに(土地を)売りましてね。現在の入口のところ、大正七年清水組が工事により貯蔵銀行が出来たのです。「相馬屋」さんの地所が人口に引っかかってたんです。私も記憶がないんですけど、何坪かが引っかかっていた。それでハスマンに相馬屋さんの方に寄って、地所が入っているような形。それで「小林」つていう人が田中貴金属から譲り受けるときに、相馬屋さんの地所が入っているということがわかったんでしょう。原さんに聞いたら「そうなんだ、ずっと借りてるんだ」と。これはマズイってんで売ってもらえないかという相談が私のところにきました。当時相馬屋さんは椎名町に自宅があり、神楽坂の店は間引き疎開に指定され、椎名町に移り住んでいた訳です。そこへ私が(土地のことを)聞いたから、「実は東洋電助が、お宅の地所がかかっているから整備上一本にしたいので譲っていただけませんでしょうか」という交渉を、私と「小林」つていう人と二人で行って頼んだんです。
 ところが亡くなった先代が、今の旦那のお父さんですね、「私は番頭に任せている」と。黒田という番頭さんがいたんです。相馬屋さんには三人の番頭さんがいて不動産や何かを扱っている大番頭がいてね、その方が中野の野方のほうにいるから、それで相馬屋さんに教わって黒田さんとこに行ったんですよ。ところがあいにくいなくてね、旦那からのご紹介で相談してみてくれという話なんだけど」と言ったら、「それじゃ、二、三日のうちに店の方へ行きますから、それで旦那によく確かめてお話してみましょう」ということになって、トントンときまして。そんときに私は坪数を聞きやよかったんだけど、全然聞かなかったのね。銀行との地境についてはほとんどが相馬屋さんの土地であり、相馬屋さんが使用することがなかった関係で銀行に共同利用してよいという許可を与えていた訳です。結局、部分的に相馬屋さんが銀行に無償で貸していたのでね。昭和五年時分には相馬屋さんは横に内玄関があり、店から出入りしないようになっていたのです。

 5丁目3番地です。
ハスマン 「ハスマン社」だとすると、米国の業務用冷凍・冷蔵ショーケースのメーカー

震災以前 東京貯蔵銀行
昭和12年 東洋電動
昭和27年 建物
昭和30年 空きビル
昭和35年 空き地
昭和40年 倉庫
昭和42年 日本勧業信用組合
昭和59年 第一勧業信用組合
昭和60年 駐車場
スポンサーリンク

コメントを残す