東京の路地を歩く|笹口幸男③

文学と神楽坂

さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめ、〈高藤〉〈金升〉〈さがみ〉〈なが峰〉〈和光〉などの料亭や旅館、酒房などが占拠する、いかにも「花街」らしい一画だ。さっき、京都の町並みのようであると言ったが、ここもまさに伝統に富む京都に一脈通ずる品のよい都市空間を保っている。よそで見たならば、なんの変哲のない、犬を連れた老人の散歩ですら、ここでは絵になる、といったあんばいである。
 町並みのよさに加えて、私にとっての神楽坂のもう一つの魅力といえば、食の名店が多いことである。JR飯田橋駅に近いほうから思いつくままに挙げれば、甘味どころの〈紀の善〉。戦前は寿司屋だったこの店、あんもミツもともに自家製という。その横丁を入った左側には、手打ち蕎麦の〈志な乃〉がある。昼飯どきには、店の外まで人があふれている。量の多い太打ちの田舎そばは、ややヘビーに感じる向きもあるようだ。坂の右手途中には、ジャンボ肉まんで有名な中華料理の〈五十番〉、毘沙門天の先にある洋食の〈田原屋〉、牛肉ステーキが自慢の酒場〈河庄〉などなど、店に事欠かない。
 なかでも〈田原屋〉は歴史を秘めた洋食屋である。一階が果物店で、レストランは二階。明治の中期、神楽坂のなかほどに牛鍋屋として創業されたこの店が、現在地に移ったのは大正三年だという。客のなかには、夏目漱石菊池寛佐藤春夫サトウハチローがいたようだ。さらに島村抱月松井須磨子も来たようだし、永井荷風の『断腸亭日乗』のなかにも、たびたび田原屋へ出かけたという記述が見られる。昼飯どきでも、この店には静かな落ち着きかあり、ゆったりと食事を楽しむ年配の客を多く見かける。
路地

現在、かくれんぼ横丁と呼んでいます。

神楽坂の地図

神楽坂の地図

天孝など かくれんぼ横丁天孝、高藤、金升、さがみ、なが峰、和光のうち天孝だけが同じ店として生き延びています。他は全て閉店しました。右は1985年の「神楽坂まっぷ」で、この頃は全部が開店しています。また2007年には「わかまつ」で出火し、右隣りの「志のだ」に延焼しました。
紀の善 紀の善ぜん」は文久・慶応年間(1861-1868年)に口入れ屋、つまり職業周旋業者として創業しました。建物は第二次世界大戦で焼失し、甘味処「紀の善」に変わりました。最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。
志な乃 現在も同じ場所の神楽小路で営業中。志な乃
五十番 五十番創業は昭和32年(1957年)。肉まんや中華料理が有名です。肉まんはほかのと比べて生地が厚くて、肉はちょっと少ない。2016年3月には本多横丁に向かって右側だったのが、左側になりました。
田原屋 田原屋19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。2002年2月に閉店。
河庄 場所は不明です。
断腸亭日乗 だんちょうていにちじょう。永井荷風の日記で、1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相と批判をつづったもの。

文学と神楽坂

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