山下漆器店

文学と神楽坂

 昭和22年から神楽坂で漆器や和家具を売ってきた店です。場所はここ

山下漆器店

 「かぐらむら」87号(平成28年8・9月)にNPO法人粋なまちづくり倶楽部理事長(山下漆器店二男)山下馨氏が「大久保通り拡幅と山下漆器店レクイエム(鎮魂歌)」として書いています。

 神楽坂5丁目の老舗、多くの顧客に愛されてきた山下漆器店が大久保通り拡幅事業によって近々閉店する。
 この店は開業70年の老舗であり、最近では、ちょいちよいテレビや雑誌に取り上げられる神楽坂の人気店の一つである。特に話題は、大正14年生まれの91歳店主兼看板おばあちゃん、山下弘子のしゃんとした立ち振る舞いで見せる元気ぶりである。(中略)
 ところが、そんな折、突然戦後70年間話題にも出てこなかった都市計画道路大久保通り拡幅事業が決定。拡幅事業エリア内にある山下漆器店は、隣接商店ともども閉店する運命となったのだ。(中略)
 本来、道路づくりはまちづくりと一体的に計画されるべきものである。域内交通とは異なり、通過交通動線としての大久保通りは、コミュニティを壊し、地域を分断し、商店街にダメージを与えるという宿命を持っている。従って、この拡幅計画には、地域へのマイナス面を極力小さくすべき慎重さが必要とされるべきなのだ。
 無駄な都市計画道路計画が全国各地で廃止されている時代にあって、多くの都民の人生を台無しにする事業を進めようとするならば、都知事、行政マンを含めすべての為政者は、よく心してことに当たるべきである。さもなければ、弘子のこころを納得させ、失われる大きな大切なものに対しての償いは出来ない。

と書いています。神楽坂は沢山の都市計画の末に今の神楽坂になりました。しかし、この拡幅計画自体に限定すれば、はるか昔からあったものだと思います。(この計画はあると私も知っていました)。それにしても、黙祷を捧げます。

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には次の話が出ています。なお、会談が行われた昭和63年(1988年)の当時は、「馬場さん」は万長酒店の専務。「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京してきました。
 
馬場さん それでいよいよ山下さんのところへくるわけだ。
相川さん それで山下さんのところは「伊藤洋品店」ってのがあって、そのあと昭和の代になってからキクヒデさんの兄さんが(店を)出した。いま京都の方にいるのは弟さんでね。兄さんは子どもがないんで京都に帰っちゃった。それで弟さんにキクヒデってのを譲った。中河清一さん(注)と仲がよくってね。いまは弟さんが何年かに一度は中河さんを呼ぶそうですよ。こっちの天利さんの方はもう借りられない、ダメらしいって見切りつけて、神田の小川町へ「キクヒデ刃物店」を出したんですよ。
(注)元中河電気店の店主。現在「ゑーもん」の所で営業していた。
馬場さん 神田小川町に行ったがもうなかった。
相川さん そうですか。一度行ったけどね、その後、見ないからいなくなったかな。ところが霊友会に凝っちゃって、もうみんな差し上げちゃってね。娘さんをひとり亡くしたんですよ。それで、中河さんの亡くなったおじいちゃんが「よせとは言わないけど、ほどほどにしとけよ」って言ったんだから。
山下さん 四、五日あとにキクヒデさんが天利さんへやってきて「また貸してくれ」って言ってたって、私が神楽坂へきたあとにそんな話を聞きましたよ。
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