ついになくなってしまいました。山下漆器店と同様に、河合陶器店もなくなってしまいました。大久保通りを変更し、18メートルだった道路を総計30メートルに拡幅し、道路になるという流れは変えられず、閉店しました。詳しくは山下漆器店の項に。
これは以前の話ですが……、河合陶器店は、昔も今も「角のせともの屋」だったのです。陶磁器食器、金魚鉢、園芸用土、植木鉢、香取線香のぶた、招き猫、福助、狸の置物などを販売していました。下は昔の写真です。
将来は大久保通りの拡張があり、ここは道路になります。それでなくなったわけです。
神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では……。なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。
相川さん それから河合(陶器店)さんですね。
馬場さん あれはまったく変わらないね。
山下さん 大きな樽かなんかを飾ってあったのを思い出すね。角のところへね。
相川さん 二階のベランダにずっと瀬戸物を飾ってあった。
山下さん そのときは天利さんが長屋を建てていたんだね。
相川さん そうそう。
山下さん だから、うちで家を建てるときに、河合さんが、あれは三階だったんかね、うちの上まで使っていたらしい。そのことをちょっと言われたことがあったんですよ。
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神楽坂通りは
神楽坂の通りと坂は
うわ〜、この写真、懐かしいです。
この角地、実は我が家系にとって曰く因縁のある土地なんです。
私の曽祖父に当たる岡田三百三(みおぞう)と云う人物は、幕末期から東京で口中医(現在の歯科医)をやってまして、本店が九段下の俎橋手前の角地(現在は九段北一丁目のスターバックス)、支店が、この神楽坂上角地だったんです。
で、明治20年頃、その九段下の本店に辿り着いて岡田三百三に弟子入りしたのが、長野から出て来てきた青年、中原市五郎。
その中原市五郎さんは、神楽坂上角地の支店を任され、その後新制となった歯科医試験に合格し、三百三の九段下の本店を買い取り、そこで日本初の「歯科医」を名乗り、その後、日本歯科大学の創始者となる訳です。
日本歯科大学とその関連施設が、九段下から飯田橋の間に点在している理由は、そんな経緯があるようです。
そんな事実を知ったのは、ここ5年ほどの事。
30年前、サラリーマン時代の私は、そんな経緯なんて全く知らずに、飯田橋から神楽坂上まで上り、左に曲がってモスバーガー本部を度々訪れていたのです。
帰り道の信号待ちで、河井陶器店を正面に見ながら「風情のある店だな〜」なんて思っていたのです。