文学と神楽坂
昔、小栗利右衛門屋敷があったため小栗横町という名前がつきました(新宿近世文書研究会「町方書上」平成8年)
町内西北之方、市ヶ谷田町四丁目代地境横町ヲ里俗ニ小栗横町ト唱申候、右者已前小栗利右衛門様御屋敷、右横町地尻ニ有之候故申習候(牛込牡丹屋舗) |
左下では小栗仁右衛門になっています。この屋敷は若宮八幡のそばに建っていました。しかし、入口に建っていた場合もありますし、両方に建っていた場合もあります。
地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。
明治16年頃、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)では、まだはっきりした横丁にはなっていません。
明治20年の地図になると、ちゃんと載るようになっています。また、同じく下記の明治20年の地図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)でも同じです。
では、神楽坂通りから入ってみましょう。最初の路地は「鏡花横丁」という名前でも呼んでいたそうです。2つある田口屋生花店の真ん中の道が鏡花横丁です。
ほんの数メートルも行くと、2つに分かれます。右側は小栗横町です。路地は(私たちもそうですが)右に進んでいきます。 右側は「ポルタ神楽坂」です。ポルタ神楽坂も東京理科大学の土地になっています。
左は理科大学、右はポルタ
この左側は理科大です。
ここから先に「泉鏡花・北原白秋旧居跡」があります。
そこを通り過ぎると四つ角がでてきます。この右手に行くと、神楽坂通り、さらに神楽坂仲通りです。左手の方に上がる(下図)と、『ここは牛込、神楽坂』では「お堀が見下ろせた……で、『堀見坂』とした。」と書いています。残念ながら、今は反対側のほうをみても、建物が一杯で、お堀は見えません。
また500円のコーヒーがある画廊Pulse Galleryがあります。
もとにもどって小栗横町に帰り、またさらに西の奥に行きます。50年以上の昔、ノエル・ヌエット氏は絵画「若宮町」を書きました、その絵画は、その下の写真とよく似ていませんか?
若宮町。ノエル・ヌエット作。1946年。画集「東京」から
現在の神楽坂2丁目から若宮町に
さらに三差路がでてきます。ここを右に渡ると、熱海湯階段に行く小路になります。さらに熱海湯銭湯になり、すぐに左に曲がる三差路がでてきます。
この三差路を左に上がっていくと(下図)『ここは牛込、神楽坂』では「もともと蔵のようなものがあったところなんですよ」「じゃあ『お蔵坂』と」と書いています。なお、360°カメラで撮ったお蔵坂もあります。 また、この路地はアグネスホテルにつながっています。
小栗横町はなぜか飲み屋、日本料理、など沢山でてきます。昔はもっとそうで、芸妓屋や料亭が一倍あったところです。いまは割烹も普通の家も一緒に建っています。中には一見普通の家なのに本当は飲み屋をやっていたり、日本料理をだすところもあります。
あとは歩いてT字路に行くとこれでおしまい。このT字路の左は小栗利右衛門屋敷でした。ちょうど左の一帯が小栗屋敷でした。 また「出羽様下」とここには書いてあります。上に行く右側の通りを出羽様下というのでしょう。なお、この地図は明治20年の絵だそうです
神楽坂附近の地名。明治20年内務省地理局。新宿区立図書館『神楽坂界隈の変遷』(1970年)
明治の神楽坂の小栗横町。復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)