泉鏡花は大正14(1925)年に「文藝春秋」で「神楽坂の唄」を書いています。すずと所帯を持った思い出深い神楽坂を唄ったものです。町名、坂の名、名所を織り込みながら大正時代の神楽坂情緒を唄いこんでいます。
さらに昭和38(1963)年には杵屋勝東治師がこの唄に曲をつけ、花柳輔三朗師の振付で、神楽坂の曲として使っています。『ひと里』という曲で、ふだんは最初の2行と最後の5行の歌詞を抜粋して踊ります。
春から冬まで季節が順次出てきます。意味が分かるように訳しましたが、わからないところがまだまだ沢山あります。変なところ、あればどうか教えて下さい。掛詞が出るところ、五七調、七五調もたくさんあるようです。
一里は、神樂に明けて、岩戸町。 玉も、甍も、朝霞、 柳の軒端、梅の門。 桃と櫻が名を並べ、 江戸川近き春の水、山吹の里遠からず。 築土の松に藤咲けば、 ゆかりの君を仰ぐぞぇ。 |
現代語訳を書いておきます。五七調などの名調子はなくなりました。
神楽を演奏していると、ここ一帯や岩戸町も夜は終わり、明るくなっている。 きれいな宝石も醜い甍も、朝霞にかすんでいる。 軒のはしには柳が見え、門では梅が見える。 春は桃や桜が並ぶ。神田川中流にも遠くない春に、水が流れる。山吹の里も近い。 筑土地域の松もいいし、藤の花は満開で、 つながりがあるあなたに仰ごう。 |
一里 約4km。この一里を見ると
神楽 かぐら。神をまつる舞楽。
明けて 神楽を演奏していると、神楽坂では夜も終わり、明るくなってくる。
岩戸町 いわとちょう。北部は神楽坂に接し、都営地下鉄大江戸線牛込神楽坂駅の出入りがあります
玉 たま。丸い形の美しい石。宝石や真珠など
甍 いらか。屋根の頂上の部分。屋根に葺いた棟瓦。きれいなもの(玉)もそうでないもの(甍)も
朝霞 あさがすみ 。朝立つ霞。 季語は春。
軒端 のきば。軒のはし。軒口。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。東京都文京区水道・関口の江戸川橋の辺り。
山吹の里 室町時代の武将、太田道灌は突然のにわか雨に遭い農家で蓑を借りようと立ち寄ります。その時、娘が出てきて一輪の山吹の花を差し出しました。後でこの話を家臣にしたところ、後拾遺和歌集の「七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき」の兼明親王の歌に掛けて、貧しく蓑(実の)ひとつも持ち合わせがないと教わりました。新宿区内には山吹町という地名があり、この伝説の地ではないかといいます。
築土 筑土八幡町は、東京都新宿区の町名。
藤 ふじ、東京で藤の見ごろは4月下旬から5月上旬にかけて。
ゆかり なんらかのかかわりあいや、つながりがある。因縁。血縁関係のある者。親族。縁者
君 ここでは敬慕・親愛の情をこめていう語
仰ぐ 尊敬する。敬う
ぞえ 終助詞「ぞ」終助詞と「え」が付いてできる。仰ぐぞ→仰ぐぞえ→仰ぐぜ。注意を促したり念を押したりする。
牡丹屋敷の紅は、袂に褄にほのめきて、 戀には心あやめ草、 ちまき參らす玉ずさも、 いつそ人目の關口なれど、 漲るばかり瀧津瀬の、思を誰か妨げむ。 蚊帳にも通へ、飛ぶ螢、 荵に濡れよ、青簾。 |
牡丹屋敷にある牡丹の紅は、袂や裾の両端でもほのかに、香のにおいをしている。恋をするときは物事の道筋を見失うぐらいの恋をしてみたい。 5月、ちまきをあげている使者も、かえって他人の目を気にしているようだ。 あふれるばかりにいっぱいの滝のような急流のように、この思いを妨げる人はいない。 夏、飛ぶ螢は蚊帳の中まで入ってくる。 青竹を細く割って編んだ新しいすだれは、夏、軒下などにつるす忍玉(しのぶだま)と同じで、涼しさがある。 |
牡丹屋敷 八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門も一緒に紀伊国(現和歌山県)から出てきたが、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領しました。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷。牡丹の開花は4-5月です。
紅 くれない。鮮やかな赤色。ほたんの色です
褄 着物の裾(すそ)の左右両端の部分。
ほのめき ほのかに見える。香る。
あやめ草 あやめ草はサトイモ科の草で、池や溝の周辺に群をなして繁茂する。季語は夏。「文目」(あやめ)は物事の道理、筋道。物の区別。
ちまき 笹の葉で巻き、蒸して作った餠(もち)。端午の節句に食べる。季語は初夏
参らす 献上する。差し上げる
玉ずさ 使者。使
いっそ 予想に反した事を述べるときに用いる。かえって。反対に。
人目 他人の目。世間の人の見る目
関口 東京都文京区の町名で、牛込区(現在は新宿区)と接する
みなぎる 力や感情などがあふれるばかりにいっぱいになる
滝津瀬 たきつせ。滝。滝のような急流。
蚊帳 蚊帳の季語は三夏。陰暦で、4・5・6の夏の3か月。初夏・仲夏・晩夏
蛍 季語は仲夏。夏のなかば。陰暦5月の異称。中夏
荵 荵はシダ植物。岩や木に着生する。根茎は太く、長く、淡褐色の鱗片を基部に密生する。葉は長柄で根茎につく。根茎を丸めて忍玉(しのぶだま)を作り、夏、軒下などにつるして、その下に風鈴を下げたりし、水をやり涼しさをたのしむ。忍ぶ草。事無草(ことなしぐさ)。
青簾 青竹を細く割って編んだ新しいすだれ
あはぬ瞼に見る夢は、 いつも逢坂、軽子坂、 重荷も嬉し肴町。 その芝肴、意氣張は、 たとひ火の中、水の底。 船で首尾よく揚場から、 霧の灯に道行の、互いの姿しのべども、 靡きもつるゝ萩薄、 色に露添ふ御縁日。 |
ここで見た夢はいつも逢坂や軽子坂が出てくる。 肴町だと重荷は新鮮な魚なので嬉しい。 芝浦の海でとれた小魚は意地を張っている。たとえ火の中でも、水の底でも。 小魚を船で揚場から首尾よく手に入れた。霧の灯に旅行し、お互いを思い出す。 秋になり、萩や薄は、なびいているが、まだその場にいる。露がある御縁日になった。 |
あはぬ あわない。合っていない。どうしても瞼が開いてしまうが
逢坂 市谷船河原町にある急坂で、下から上に向かう神楽坂では左側
軽子坂 新宿区揚場町と神楽坂二丁目との比較的に緩徐な坂。下から上に向かう神楽坂では右側。
肴町 神楽坂5丁目の以前の名称
芝肴 しばざかな。芝魚。芝肴。江戸の芝浦あたりの海でとれた小魚で、新鮮で美味とされた。
意気張 遊女が意気地を張り通すこと
揚場 船荷を陸揚げする場所。揚場町もある。
灯 「ともし」と読む。意味は「ともしび」
道行 旅すること
しのぶ つらいことをがまんする。じっとこらえる。耐える
靡き なびくこと。「靡く」とは「風や水の勢いに従って横にゆらめくように動く。他の意志や威力などに屈したり、引き寄せられたりして服従する。女性が男性に言い寄られて承知する。
つるる つるの連用形か。「吊る」は「物にかけて下げる。高くかけ渡す」。「釣る」は「釣り針で魚をとる。巧みに人を誘う」。 「攣る」は「筋肉がひきつって痛む」。
萩薄 萩(はぎ)と薄(すすき)。萩の季語は初秋、薄の季語は三秋(秋季の3か月で、初秋、仲秋、晩秋。陰暦の7、8、9月)
露 つゆ。空気中の水蒸気が放射冷却などの影響で植物の葉や建物の外壁などで水滴となったもの。季語は三秋。陰暦の7、8、9月
添う そう。そばを離れずにいる。ぴったりつく
御縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すれば特に御利益があると信じられている
毘沙門様は守り神。 毘沙門様は守り神。 結ぼる胸の霜とけて、 空も小春の若宮に、 雁の翼のかげひなた、 比翼の紋こそ嬉しけれ。 |
毘沙門様は守り神。毘沙門様は守り神。 冬になると結んだ胸にある霜もとけてくる。 空も11月頃の小春で、若宮町に広がる。 雁の翼は、うらおもて。 比翼の紋(相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋)になるのは本当に嬉しい。 |
毘沙門 びしゃもん。「神楽坂の毘沙門さま」で親しまれている。福や財をもたらす開運厄除けのお寺
霜 しも。0℃以下に冷えた物体の表面水蒸気が固体化し、氷の結晶として堆積したもの
小春 こはる。陰暦10月のこと。現在の太陽暦では11月頃に相当し、この頃の陽気が春に似ているため、こう呼ばれるようになった
若宮 地域北部は神楽坂地域に接し、若宮八幡神社があります
かげひなた 日の当たらない所と日の当たる所。2人の見ている所と見ていない所とで言動が変わること。人の見る、見ないによって言葉や態度の変わること。うらおもて。
比翼の紋 ひよくのもん。比翼紋。相愛の男女がそれぞれの紋所を組み合わせた紋。二つ紋。