袋町に非常に綺麗な料亭「一平荘」がたっていました。いいたいことはわかっています。倉本さんの「拝啓、父上様」の主人公は一平です。しかし、この一平荘と関係はありません(多分)。
『ここは牛込、神楽坂』第12号「お便り投稿交差点」に素晴らしい手紙があります。以下引用です。
坂の上のまちの思い出 船橋市 西 幸子 昭和19年7月、太平洋戦争は遂にサイパンが陥落し、負け戦を認めざる得ない事態に追い込まれた。東都空襲間近しと言われ、疎開が始まった。故郷のある人が羨ましかった。神楽坂は軒並み店を閉め、愛日小学校も月はじめから自宅待機となった。そして遂に、隣組を挙げてのお別れ会となったのである。お互い、光照寺の境内に銭湯ほどの防火用水槽を掘り、べたべたコンクリートを塗り付けた仲間である。お寺の庫裏の大釜でごはんを炊きあげ、たくさんのお握りを作った。お握りはプラチナのように光っていた。苦心して集めた白米であった。子供たちはうれしそうに周りをうろうろ。 隣組の一員でもある料亭一平荘の広間が提供され、十家族が顔を揃えた。配給のお酒を飲み交わし料亭心尽くしの肴をつついて、この日は國民服やもんぺの生活を忘れたのである。 一平荘は、もと旗本の水野十郎左衛門の屋敷跡といわれ、立派な歌舞伎門が光照寺前にあり、奥深く、さるすべりが美しかった。広い庭では、昼は山鳩が啼き、夜は梟の声も聞こえた。幡随院長兵衛が謀殺されたという風呂場は当時まで残してあったという。少し前までは、夕方、打水をした石畳を、神楽坂のきれいどころが、三味線箱を担いだ男衆を従えて出入りする絵のような光景が見られたが、その頃になると塀に軍馬が繋がれ、長剣を光らせた軍服姿が入っていくという状態に変わっていた。隣組の連中のほとんどが初めての料亭だったと思う。場所柄、花柳輔八さん、長唄の勝喜賀さんがおられ、お決まりの軍歌のあとは隠し芸ならぬ玄人の芸を堪能されてもらった。一平荘の綺麗なお内儀も、清元の「北州」を披露され、一同大いに盛り上がった。 そしてその翌日、皆は信州へ、秋田へ、新潟へと、散り散りに別れて行った。(略) 袋町は、翌20年の4月と5月、通りを挟んで2回にわたって焼失した。袋町から北町、中町、砂土原町、市ヶ谷にかけては、うっ蒼と樹木が茂る江戸時代からの屋敷町だったが、何とも惜しい焼失だった。 |
線画は昭和12年の「火災保険特殊地図」です。「割烹 一平荘」と大きく書いてあります。
また、絵は巴水の昭和東都著名料亭百景「神楽坂一平荘」です。
前面の踊り場は道路から1メートル以上離れて、視線を遮る門塀まわりがあり、しかし閉鎖感をやわらげ、床仕上げにはおそらく石。門構えを入ってもまだ大自然があります。いい感じに作っています。
また『ここは牛込、神楽坂』第7号の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」では座談会を行っています。司会は日本出版クラブの大橋祥宏氏、袋町・光照寺住職の糸山氏、袋町・山本犬猫病院の山本氏、袋町・三和商店の吉野氏です。
司会 出版クラブのところにあった一平荘というのは、そのとき焼けたわけですね。
糸山 ええ、戦災で焼けて、その後、税金が払えなくて物納したとか。その跡が市ヶ谷商業の運動場になったんです。
山本 私は一平荘で結婚式をしたんです。昭和18年だったと思いますが。
吉野 私もそうです。やはり18年にここで。
山本 私はそのまま出征したんです。あの一平荘は別のところにできた一平荘とは関係ないんですよ。
糸山 ここにあった一平荘は上野に移りましたが、税金が払えなくて、精養軒に売ったそうです。
司会 一平荘の中をのぞいたことはありますか。
糸山 この会館の前の銀杏の木の横に大きな酒樽があって、それが茶室になっていたんです。
吉野 ええ、そうでした。
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別のところにできた一平荘 昭和55年まで現在の若宮町「割烹加賀」の場所にありました。昭和59年までにはなくなっています。
日本橋に「一平」という料理店があります。昭和4年から神楽坂で日本料理の料亭「一平荘」をしていたようです。これが本当ならば創業は昭和4年でしょうか。