日別アーカイブ: 2016年7月4日

神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形1

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年から。

場所は赤井寿徳庵山田紙店紀の善神楽小路琴富貴茶話会志満金神楽坂倶楽部温泉山浴場旧検靴屋と印判屋佐和屋軽子坂紀の善横町末よし田原屋

田原屋 金満津 赤井 寿徳庵 山田紙店 紀の善 神楽小路 紀の善横町 琴富貴 茶話会 志満金 神楽坂倶楽部 旧検 浴場 温泉山 佐和屋 靴屋と印判屋 軽子坂 末よし

古老の震災前1
牛垣雄矢氏の「東京の都心周辺地域における土地利用の変遷と建物の中高層化」(地理学評論。2006。79:527-41、https://www.jstage.jst.go.jp/article/grj2002/79/10/79_10_527/_pdf)では、「同資料の『震災前』の時期については、記載されている商店名と、東京市役所(1929)『東京市商工名鑑』に記載されている商店名と開業年を照らし合わせた結果、おおむね1922年頃であると考えられる」と書いています。1922年は大正11年です。

神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形2

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年から。
古老の大震災の前2

春月 ほていや 木村屋 尾沢薬局 相馬屋紙店 煙草屋 盛文堂書店 宮坂金物店 婦人洋装店 サムライ堂 味が評判 本多横丁 豊島理髪店 善国寺 うを徳 毘沙門横丁 裏つづき 草薙堂 田原 田原屋 東京貯蓄銀行 カフェー・オザワ 地蔵坂 光照寺 増田屋 浅井 路地奥 川鉄 八百文 恵比寿亭 文士 丸屋 機山閣 河合陶器店 尾張屋銀行 鶴亀亭 柳水亭 牛込館 神楽おでん 武田芳進堂 誰が袖 大久保通り 裏側一帯

木村屋 尾沢薬局 相馬屋紙店 煙草屋 盛文堂書店 宮坂金物店 婦人洋装店 サムライ堂 本多横丁 豊島理髪店 善国寺 草薙堂 うを徳 毘沙門横丁 裏つづき 田原屋 田原コメント 裏側一帯 東京貯蓄銀行 カフェー・オザワ 地蔵坂 光照寺 路地奥 川鉄 八百文 恵比寿亭 川鉄の解説 丸屋 機山閣 河合陶器店 尾張屋銀行 鶴亀亭 柳水亭 牛込館 神楽おでん 武田芳進堂 大久保通り

私のなかの東京|野口冨士男|1978年④

文学と神楽坂

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 牛込見附神楽坂下といったかつての市電停留所から神楽坂をのぼる右角には 赤井という足袋屋があって、ずんぐりした足袋の形をした白地の看板には黒い文字で山形の下に赤井と記されていた。そのため幼少期の私は赤い富士山とおぼえていたもので、足袋の専門店であったその店は、げんざい屋号も🏠アカイと改称してネクタイやワイシャツを商品とする洋品店に変更しているが、左角の土蔵造りの 寿徳庵という和菓子舗の跡は🏠パチンコ店になっている。土蔵造りに腰高のガラス戸がはまっていた店構えは昭和年代まで残っていたものだし、現在でも府中とか川越などへ行ってみるとそんな店舗を見かけるが、東京に生まれ育った私は、そんな小都市へ行って、少年として自身がすごした大正時代へのノスタルジーをおぼえさせられる。
パチンコ店 パチンコニューパリーでした。

なお、🏠は1978年で当時の建物か、1985年の「神楽坂マップ」で当時の建物、☞は新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)で関東震災前の建物や説明です。
 また下の『神楽坂まっぷ』(神楽坂青年会、1985)は文章と比較的に同じ時期に作成された地図です。🏠アカイと🏠パチンコ店はここに出ています。

坂下の地図(1985年神楽坂まっぷ)

アカイ パチンコ 山田紙店 地下鉄 紀の善 神楽小路 佳作座

 右側の三軒目にある🏠山田紙店は文房具屋になっていて、私はそこへ原稿用紙を買いに入ったとき、大学生の行列が出来ているのをみて何事かとおもったが、期末試験にちかい時期で、コピイサービスとよばれている複写のためにならんで順番を待っているのだとわかった。他人のノートを借りて自分で筆写もせずにコピイをとるところに現代学生気質があらわれているのかもしれないが、それを慨歎しない私も現代の風潮に染まってしまっているといわねばなるまい。二十名ほどの人数だったとおもうが、不思議なことに、女子学生は一人もいなかった。女子はマメなのか、ケチなのか、そういうことになると私にはわからない。
 山田紙店のむかって左側が🏠地下鉄有楽町線飯田橋駅への通路になっているが、その一軒おいた先隣りにあるしるこ屋の 🏠紀の善は、もと二階座敷まであった神楽坂では名代のすし屋であった。そして、その横丁はいま 🏠神楽小路と名づけられた飲食店街になっているが、突き当りは神楽坂と平行している軽子坂の登り口で、右角に特選名画の上映館🏠ギンレイがあって、横丁の側に入口のある地階の🏠シネマサロンくららではピンク映画が上映されている。映画館はそのほかにも至近距離にもう一軒外濠通りの🏠佳作座があって、日曜日に前を通ったら観客が行列していた。不振といわれる映画興行にも、フィルムによっては行列が出来る。
 神楽坂界隈の興行ものとしては、以上三館のほか毘沙門さまの本堂半地下で毎月二日間だけ催される定期寄席があるきりで、のちにのべる震災前後の神楽坂全盛期にあった一つの劇場と、五軒の寄席と、二つの映画館と、和菓子舗の寿徳庵のならび――外濠通りの市ケ谷寄りにあった娘義太夫の定席琴富貴などは、跡形もなく消え去ってしまった。ほかには、いまのところデパートもないので、神楽坂には他土地から客を吸引できる力があるわけはない。年に何回かはかならず出かける私のような人間は、恐らく例外中の例外だろう。そんな神楽坂がなぜ日曜日には歩行者天国になるのか、結果論としては不思議なほどである。

1985年「神楽坂まっぷ」の神楽小路

ギンレイ ギンレイホールは、1974年にスタートした名画座で、ロードショーが終わった映画の中から選択し2本立てで上映する映画館です。一階にあります。
くらら 地下の成人映画館「飯田橋くらら劇場」は2016年5月31日に閉館しました。劇場 横寺町の芸術倶楽部は関東大震災の時にはアパートになっていたので、これではなく、牛込会館でしょう。
寄席 牛込演芸館(神楽坂演芸場)牛込亭柳水亭(勝岡演芸場)がすぐにでてきますが、ほかの2軒はわかりません。わら店(和良店)は色ものですが、大正3年から映画館の牛込館になっていました。『風俗画報』の統計(明治35年)には寄席五軒となっていますが、普通は戦前で三軒と数えます。
映画館 文明館牛込館です。

神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

ギンレイホール くらら 軽子坂

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座
琴富貴 新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」では
 手前ども(赤井屋商店)の向い側に『琴富貴』という小さな貸席がございました。経営者は高原さんという人でタレギタ、即ち娘義太夫の常打ちの席でした。席は夜はじまりますので昼間あいておりますから、ここも近所の子供達の遊び場所になっていました。高座に御簾(ミス)が掛っていますので、面白がって上げ下げして留守番の人にえらく叱られたこともあります。ここではよく雨戸をしめて幻燈をやって遊びました。2階は貸席ですが1階は飯屋と甘酒屋になっていました。然しなんといっても子供達が集る中心は毘沙門様の境内でした。

なお、琴富貴は「ことぶき」と読むようです。タレギタとは噺家などが使う隠語で、女義太夫と同じ意味です。また、「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」にも出ています。