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『燈火頰杖』加賀町の家|浅見淵

文学と神楽坂

 浅見ふかし随筆集『燈火頰杖』から「加賀町の家」です。浅見淵氏は作家論、作品論、私小説風の作品などを執筆し、評論では「昭和文壇側面史」「昭和の作家たち」、小説では「目醒時計」「手風琴」などを発表しています。
 ここでは昭和39年3月、柳田国男の家について書いています。

 柳田国男氏の年譜を見ると、明治二十四年(一九〇一年)、数え年二十七歳の時、柳田家の養子になっておられるから、それから、昭和二年(一九二七年)、五十三歳の時、当時の砧村(現在の世田谷区成城町)に移居されるまで、足かけ二十七年の長きに亘って、牛込区(現在の新宿区)市ヶ谷加賀町二丁目に住んでおられた訳だ。

砧村 きぬたむら。東京都世田谷区の西部で、狛江市に近い場所
市ヶ谷加賀町二丁目 下図を。

 柳田さんの養父司法官あがりで、柳田さんは前年東京帝大を卒業して農商務省官吏となってから柳田家に入っていられるが、柳田家は当時すでにその加賀町二丁目附近の地所持ちであり家作持ちだったので、そこに邸宅を構えていたからだ。
 ところで、ぽくは偶々この柳田邸の隣りの、しかも柳田家の家作に住んでいたことがあるのだ。明治四十四年から四十五年(七月に大正と改元)に掛けての小学生時代である。当時、ぼくの父は或る水力電気会社の技師をしていて、日光の近くの今市の奥にダムづくりに行っていたが、その留守宅を東京に置いていた。はじめはいま法政大学の敷地になっている当時の麹町区富士見町に住んでいたのだが、急に柳田家の借家へ引越すことになったのだ。
 ぼくの母の妹に当る叔母が、その頃、柳田さんの播州の郷里の村の村長の長男である工学士と結婚したので、その方面から話が出て、柳田家の借家のほうが富士見町の借家より広かったので、引越して行ったようである。
 柳田家の在った通りは、当時の府立四中の黒板塀が長くつづいたはずれの閑静な屋敷町であった。やはり黒塗りの太い四角の門柱が立っていて、これも黒塗りの大きな頑丈な開閉扉が附いていたが、日中はそれが大きく開かれていた。また門柱の脇には耳門くぐりもあった。そして、右の門柱には柳田国男と書いただけの標札が出ていた。門を入ったところはちょっとした植込みがあって、直ぐ玄関の式台になっていた。
 ぼくの家はこの柳田邸と植木垣つづきになっていて、植木垣の裾には竜の髯が植え込まれており、秋になると青玉のような実が一杯になった。式台、内玄関などもあり、なんだか御家人でも住んでいたような家だった。柳田邸と反対側の家との境は竹藪になっていた。七室ばかりあり、南に日当りのよい長い縁側があって、広い庭に臨んでいた。庭には一本大きなの樹が植わっていて、冬など座敷の障子に影を映していたが、他は全部であった。柳田邸の庭とは二重に編まれた竹垣で隔てられていたが、柳田邸の庭もほとんどが楓のように見受けられた。楓の新緑の美しさといったものを、子供ごころに初めて知った。

養父 直平。大審院判事。
司法官 司法権を行使する公務員。普通は裁判官。
農商務省 農林・商工業の行政を司る中央官庁。明治14年、設立。大正14年、農林省と商工省に分離。
家作 かさく。人に貸して収入を得る家。貸し家。
偶々 たまたま。時おり。時たま。たまに。
柳田邸の隣りの、しかも柳田家の家作 上の柳田邸の図で、おそらく右下側の家でしょう”。

今市 今市いまいちで、現在は日光市の一部
法政大学の敷地 図で法政大学があったところ

麹町区富士見町 図では黄色で囲んだ範囲。
播州 ばんしゅう。播磨はりま国の別名。現在は兵庫県西南部にあたる。
柳田家の在った通り 新たに「銀杏坂通り」と命名しました。
府立四中 現在の牛込第三中学校(上図)。
耳門 じもん。耳の穴の口。くぐり戸。「くぐり戸」とはくぐってはいる戸や門。
式台 しきだい。玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの部分。客を送り迎えする所。
竜の髯 リュウノヒゲ。キジカクシ科ジャノヒゲ属の常緑多年草。よく植え込みに使う

内玄関 家人など内輪の人が日常出入りする玄関。
御家人 ごけにん。江戸時代、将軍直属の家臣団を旗本と御家人に区別した。御家人は一万石以下の家臣。
 かしわ。ブナ目ブナ科の落葉中高木。
 かえで。ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属(Acer)の落葉高木。

 柳田さんは年譜を見ると、その頃、農商務省の役人と宮内省書記官を兼ねていられたようである。この宮内省書記官という関係からだったろうか、よく西洋人が柳田邸を訪問していたのを記憶している。というのは、楓の庭を逍遙しているその談笑の声が屢々聞こえて来たからである。西洋人の女の賑やかな笑い声もし、それに混って、柳田さんらしい流暢な英会話も洩れて来たからだ。
 しかしながら、へいぜいは柳田邸はいつも森閑としていた。物音は全くしなかった。ぼくはこの家で腸チフスに罹り三月ばかり病臥した。そのせいで、ぼくの家では柳田さんの家の電話をしょっちゅう借りていたようだったが、一度だって厭な顔を家の人は見せなかったと、ずっと後になって、母が感心して述懐していたことがある。また、柳田家の女中がよく電話を取次いでくれたが、この女中が躾けが行届いていで、じつに物静かな女中だった。
 加賀町のこの柳田邸へは、田山花袋国木田独歩をはじめ、そもそも竜土会は最初この家で始まっており、当時の新しい文学者たちがかず多く訪問しているばかりでなく、柳田さんの前期から中期にかけての劃期的な民俗学の研究は、ほとんどがこの家で成し遂げられている。その意味において、歴史的な家である。だが、今にして考えてみると、ずいぶん不便なところだったと思う。ぼくの家が住んでいた時分には、飯田橋から新宿に通じている今の都電が通じておらず、電車に乗ろうと思えば、秀英舎(現在の日本印刷)の前を通って左内坂を降り、市ケ谷見附まで出なけれぱならなかった。また、界隈の盛り場だった神楽坂へ行くにも、歩かねばならなかった。
 その代り、静かなことも静かだった。隔世の感がある。物音といえば、納豆売りの声か豆腐屋のチリンチリン、季節によって、竿竹売りや金魚売りの触れ声が聞こえてくるばかりだった。そのほかには、夕方になると、遙か市ケ谷見附のほうの士官学校から、号令の掛け声練習と、物哀しい喇叭の音が聞こえてくるだけである。従って、この屋敷町には店屋が少なく、洗濯屋が一軒と、洋食屋が一軒あるきりだった。病気になると、この洋食屋からオムレツと肉汁を取って貰うのが楽しみになっていた。
 いっぽう、至るところに大きな樹が陰森と茂っていて、夏になると蝉やトンボが多かった。ぼくの家の庭でも、蝉が抜け変るのを屢々瞥見した。柳田邸でも同様であったろう。ところが、戦後、といっても数年前だが、偶々加賀町へ足を踏みいれて吃驚してしまった。五十年前の閑静な屋敷町は、すっかりゴミゴミした印刷関係の会社町になりさがってしまっていたのである。昔の面影など、もうどこにも残っていなかった。どっしり落着いていた柳田邸も影も形もなくなって、その跡は或る女子短大の洋風の寮に変り果てていた。しかも、車の往来がはげしく、うっかり佇んでさえもおられなくなっていた。
(「定本柳田国男集月報」昭和三十九年三月)

宮内省 1885年、皇室関係の事務を取扱う機構。1947年,新憲法発布とともに宮内府、49年に宮内庁と改称。
逍遙 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。散歩。
屡々 しばしば。同じ事が何度も重なって行われるさま。たびたび。
森閑 しんかん。深閑。物音が聞こえずひっそりとしている様子
竜土会 明治後期の文学者の集まり。1900年代初頭、東京牛込加賀町の柳田国男邸に田山花袋、国木田独歩らが寄って文学談を交わしたのが始まり。柳田国男氏の年譜では1905年7月から、麻布竜土町のフランス料理店竜土軒が月例会場となったという。近松秋江氏によれば「自然主義は龍土軒の灰皿から生まれた」という。
都電 チンチン電車です。都営地下鉄は押上と人形町間の1路線しかなく、営団地下鉄はまだ全くありません。定期的なバスもなく、「都電」(つまり、チンチン電車)だけがありました。系統13の都電は「山伏町」や「牛込柳町」と「新宿駅」を結んでいました。

電車 これもチンチン電車を指しています
秀英舎 明治9年(1876年)9月、今日の大日本印刷の前身、秀英舎を設立。世界でも1位の印刷会社。
左内坂 さないざか。JR市ヶ谷駅の市谷見附交差点の北から北西に入り、防衛庁の裏側を市谷加賀町方向に向かう坂。
市ケ谷見附 これもチンチン電車の停留場です。
竿竹 竿にして使う竹。たけざお。洗濯した衣服を乾す目的で使う。
士官学佼 現在は防衛省
喇叭 ラッパ。特に無弁のナチュラルトランペットのこと
陰森 樹木が茂り日をさえぎって暗い。うすぐらく、静かでさびしい様子。
瞥見 ちらっと見ること。短い時間でざっと見ること。
或る女子短大 大妻女子大学加賀寮です。
佇む たたずむ。彳む。しばらくの間ある場所に立ったまま動かないでいる。